Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 その9

 

 響きを聞いていた、骨の髄そのものが微かに震えているような感覚と同時に、はるか地の底から、大蛇の蠢きのような、苦悶する男の絶唱のような、音が聞こえていた。夜半闇の深い時刻にそれが身体を縛り震わせるとき、精神もまた囚われて悪夢に飲まれてしまう。地響きの都度に決まって見る夢は、いきなり現れた頑強な体躯の老人に首根っこを押さえつけられて、睾丸を握りつぶされるという不快でおぞましいものだった。もがくように身をよじって目を覚ますと、汗で寝具は湿り、口の中は渇いて、反面ひどい尿意に襲われる。10代の頃からずっと見ている夢だった、地響きにこの地域が震える度に繰り返され、結婚して子どもを儲けた今もなお苛まれる。ただ、10代の頃には恐怖を感じていたその夢に対して、25歳になった今では羞恥を感じている。まるで自分が思春期とひと続きの心理の中にいるような、ひどく未熟な人間のように思える。さらに言えば、その夢の老人が自分を殴っていた父親の像を反映しているものだとすれば、所詮自分の心理は幼少期とひと続きなのかもしれない。安物の薄い布団の上で起き上がり、日々繰り返す肉体労働のせいで太くなった腕を見つめる。すでに消えかけている記憶を頼りに、幼少期に見ていた父親の腕と比べて自分の太さが勝っているかどうか考えている。父親はこの太さの腕の力で、自分を殴っていたのだろうか。今、自分が息子に対してやっているのと同じように。彼のそばには、妻と息子が寝息を立てている。そばに居たいからではなく、ただ部屋が狭いからというだけの理由で、彼と妻子はそばで寝ている。子供の腕には父親に鷲掴みにされてできた痣が浮かんでいるが、暗闇の中では見えない。

 あの時自分は、もっと重い罪に問われているべきだったのかもしれない。殴った男は思ったより軽症で、連日理不尽な言葉を浴びせられていた事実も考慮され、少女を連れて逃亡したことについても、そこに同意があったことを少女が認めていたので、悠葦は保護観察処分にしかならなかった。自分は男を殺し、少女を殴って拉致し、強姦しているべきだったのかもしれない。低俗な罪を犯し、超俗な法によって厳罰を与えられ、孤独の縄で縛られているべきだったのかもしれない。見捨てられ、世界の片隅の溝に落ちて見向きもされない、それで良い、むしろそうなりたい、と思っているくらいなのに、なぜ、自分は俗世間のありふれた生活に甘んじようとしたのか。

 「……どうかしたの?」

 とっさに目が合った妻が尋ねてくる。目を覚まして物思いにふけっていた彼を、彼女は見ていたのだ、彼は彼女が起きていることを知らないのに、彼女は彼が起きていることを知っていた、その事実を悟られまいとするかのように、彼女は目が合った瞬間、さもたった今起きたかのような調子で尋ねた。

 「どうかしてるように見えたか?」

 「別に、ただ急に目を覚ましたみたいだったから」

 「急に目を覚ましたくらいで、何かおかしなことがあるように見えたのか?」

 悠葦は妻の肩を掴み、暗闇の奥から彼女の顔を覗き込むようにする。

 「やめてよ」

 彼女は身をよじって逃れようとしたが、肩を掴む悠葦の力はそれを許さない。

 「言い方が気にくわないんだよ」

 「何も、おかしなこと聞いてない」

 「俺の心理を先回りするような、言い方をやめろって意味だよ」

 「そんなこと言っても、気を遣わないなら遣わないで、腹立てるくせに」

 次の言葉より先に手が出た、頰を張られた妻は、虚ろな目でうつむく。睨み返したりはしない、子どもの頃から暴力を受けて来た彼女は、それに慣れすぎている。言葉では言い返すのに、肉体が傷つけられた瞬間に、彼女は反抗する姿勢を崩す。それはまるで、抵抗よりも誘発のための行為に見える。その従順さに性欲を掻き立てられ、彼は妻の体をまさぐり始める。妻がまだ少女だったころに、海辺の車の中でそうしたのと同じように。妻は喜んでいるようには見えなかったが、無抵抗のままでいる。とはいえ、それは彼の関心事ではない。隣に息子が寝ているのもおかまいなしに、彼は妻に覆いかぶさる。二人は暗闇の底に横たわっている、重い呻きの声のような喘ぎが、蛇のように床を這い回る。横たわる息子は起きているのか寝ているのか、腕に浮かんでいる痣を手で押さえながら、まぐわいをする両親のそばで身を固くするかのようにじっとしている。

 

 銀色の玉が、繰り返し繰り返し上がっては落ちて上がっては落ちて行くのを見ている。パチンコ台の真ん中でスロットの数字がくるくると回って、表示されているアニメキャラの派手な演出が期待を煽り、そして萎ませていく。悠葦はカラカラと音を立てて落ちて行く玉に、人々の人生を重ねてみたりする。いくつもの玉がチャッカーに入ることすらできずに無駄死にしていく中で、ほんのわずかな玉だけが、大当たりを引き当てる。ただ、人の世には、チャンスを狙うために打ち上がることすらない人生もまた無数にある。そう、ここで無駄な時間を浪費し続けているだけの、自分のように__悠葦はそんなことを考えながら、まるで自傷行為のようにパチンコを続けている。

 「お前全然ダメだな」

 背後から、男の声がする。背中合わせでパチンコを打っていたその男の足元には、パチンコ玉のケースがいくつか積み上げられている。

 「調子いいな」

 お愛想程度に、悠葦は答える__少し歳を取って、悠葦は少しくらい他人に合わせた言葉が使えるようにはなっていた。といっても別に他人と仲良くしたいからではなく、そうする方が面倒なことを避けられると学んだからに過ぎない。

 「釘をな、読むんだよ」

 「釘?」

 「何にも知らねえな、お前。そんなことも知らねえから、パチンコ屋にカモにされるんだよ」

 男は笑って、悠葦の肩を叩く。悠葦はその手を振り払いたい衝動に駆られたが、パチンコ台の画面を見てごまかす。

 「お前といるときくらいしかやらねえから、パチンコ」

 「やっぱりよく分かんねえやつだな、普段いったい何やってんだ? 仕事ぶりもとにかくクソ真面目だし」

 「別に、何でもいいだろ」

 「俺は、心配してやってんだよ。先輩として」

 男は、再び悠葦の方に手を置く。

 「筋合いねえよ」

 その手をどかすように、悠葦が立ち上がる。男は同じ職場の同僚で二つ先輩だったが、悠葦はそういう口の利き方をする。そもそも悠葦には、先輩を敬うという慣習ががなんのためにあるのか分からない。本音ではどう思っているか知らないが、男は別に怒ることもなく悠葦と会話をしている。

 「もう行くのかよ」

 そのまま背を向けて店の外へ出て行こうとする悠葦に男が声をかけるが、悠葦は応えない。

 

 「なんだよ、いるんじゃねえか」

 パチンコ店の外でタバコを吸ってぼうっと立っていた悠葦を、換金を終えた男が見つけて近づいて来た。

 「探したのかよ」

 「バカ言え、店出たらお前がいたんじゃねえか」

 「そうかよ」

 車に乗せてくれという男を助手席に座らせ、悠葦はハンドルを握った。男は饒舌で、さっきのパチンコの話から始まって、アプリで出会った女と遊びに行ったが二回目にはつながらず、だから女がなびくような車が欲しいとか、そんな話を一方的にし続け、悠葦は終始苦笑しながら聞いている。こんな退屈な話でも退屈しのぎになってしまうくらい、彼は人生に倦んでいた、18歳の頃に疑問を感じていた、ギャンブルと女と車の話しかしない大人たちの一員になりかけている。ただ、自分自身そのことを自覚していて、だからそんな話を聴くときの彼の胸中は、いつもぞっとするほど冷たいもので濡れている。

 「よう、お前ん家、行ってもいいか」

 言いたいことが尽きると、男は出し抜けに言った。その要求に厚かましさを感じ、悠葦は思わず聞こえないくらいの音で舌打ちをする。

 「別に独り暮らしじゃねえぞ俺は」

 「分かってるよ。家族がいるから何だよ」

 ほとんど無視するように悠葦は黙って車を運転する。それでも男はあれこれ述べたてて悠葦の家に来ようとする。結局、悠葦はそれを断らなかった。はっきり言って、悠葦は男のことを友達だとは思っていない。ただ二人は共に日常に倦みきっていた、男はそれをごまかすために道化のように生きていて、一方で悠葦はそうなれないし、なろうとはしていない。だから、悠葦にとって男といることには、いくらか気を紛らわせるものがある。

 

 結局男は悠葦の家に上がりこむことになった。かつて悠葦が幼い頃住んでいた薄汚いアパートによく似て、夫婦二人と息子が暮らす部屋はせいぜい六畳程度の広さで、狭苦しくて当然来客をもてなすスペースもない。

 「俺の実家はもっと狭くてボロかったぜ」

 男はそう言って気にする様子もなかった、親が貧乏で中学を卒業して家を出るまで実家暮らしで、いい歳こいて家族四人肩を寄せあうようにして寝ないといけなかったと笑いながら話す。それでもいい歳こいても一緒に暮らせるような家族が居たのなら、悠葦にしてみれば随分幸せな話だと思う。

 「腹減った」

 男は遠慮なくそう言う。悠葦も妻も人をもてなすような料理を作ることはできなかったし、そもそも家に客が来たのも初めてだった。もちろん男の方も別にもてなしなど期待もしておらず、結局ただピザの出前を注文して息子も入れて四人で食べることにする。男は食卓でもずっと話していた、悠葦は男を連れてきたことを後悔しながら、ろくに相槌も打たずにピザを機械的に口に運び続けた。一方で、息子は初めは緊張していた様子だったが珍しい来客が嬉しいようで、徐々に慣れてくるにつれ男の話す内容などほとんど分からないはずなのによく笑っていた。妻も言葉こそ発しなかったが、息子につられるように時々くすりと笑いを漏らしている。男の話は決して面白くはなかったが、妻と息子は、少なくとも来客がいる間は父親から暴力を受ける可能性が低いので、緊張感から解放されたことで些細なことにも笑い声を出すようになっていた。その二人の笑い声に、悠葦は理由も分からず、腹の中に苛立ちが湧いてくるのを感じ、それを流し込むようにビールをあおる。

 「もうそろそろ帰れよ」

 二時間くらい経った頃、話を断ち切るような不躾さで悠葦は男に言い放つ。楽しげですらあった空気が突如張り詰め、妻と息子は怯えたように表情をこわばらせて下を向く。

 「なんだよ急に、俺の話つまんねえか?」

 「疲れてるし、もう寝てえんだよ」

 なんとか少し笑みを作り、なだめるような言い方をした男に対し、悠葦は単にめんどくさそうな顔をしながら、にべもなく言い捨てる。その様子に、上機嫌だった男もさすがに嫌そうな顔をして悠葦を見たが、特に争う姿勢は見せない。静かに席を立つと、「帰るわ」とだけ言って、部屋を出て行く。息子は機嫌の悪くなった父親に怯えて表情を固くし、うつむいている。

 「あ、忘れ物」

 机の上に置きっぱなしになっていた男のスマホに気づいて、妻がそれを手にとる。

 「届けてくる」

 悠葦と目を合わさずに妻は言って、男の後を追う。玄関を出て行く妻の背後で閉じるドアを見ながら、悠葦はじっと動かなかった。

 単にスマホを渡すには少し長い時間が経った。悠葦は横目でドアを見ていたが、様子を見に行こうとはしない。不自然と言うには少し短い時間が経ってから、妻は部屋に戻って来た。

 「遅かったな」

 「少しだけ話したから」

 「何を?」

 「別に……特には」

 「答えになってないな」

 「なんだって良いじゃん」

 適当なことを一つ二つ言えば良いだけのことなのに、妻は不器用でそんなことができない。まるで挑発のような言い方になってしまい、それを聞いた悠葦が反射的に妻の手首を掴み上げる。「痛い」と悲鳴をあげるが、それは悠葦の嗜虐性を刺激するだけで、手首はもっと強い力で捩じ上げられる。そして彼はそのまま妻を浴室まで連れて行き押し込めると、性行為におよぶ。男性器を勃起させて性的興奮に呑まれている間、彼の頭の中はいつも二つの記憶__父親に殴られている子供の自分と、失踪した姉の影を追いかける子供の自分__に支配されていた。ひたすら責め立て膨れ上がる記憶に感情を揉みくちゃにされ、苦しみにもがきのたうち回るように男性器を振り回し、毒素のような精液を吐き出す。妻の存在などまるで見ていない、感情の交歓など何もないような虚しいセックスだったが、彼にとって重要なのは征服感だけだった。その征服感が与える万能感をもってすれば、彼は父親に同一化し、姉を繋ぎとめられるかのような幻想の中に遊ぶことができる。

 

 

最後の物語 その10へ続くーー