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Teoreamachineの小説ブログ

『君を想う、死神降る荒野で』 その31

 

 キの妊娠が分かったのは、私が外国へ行ってしまったすぐ後だった。ある日突然気分が悪くなり、母親に病院に連れて行かれ、そして検査の結果それが判明した。赤ん坊の父親が誰なのか、ユキはなかなか喋ろうとはしなかった、言えば私に迷惑がかかると思っていたのだ。だが、母親はなんとなく勘づいていた、なぜならユキが一緒に過ごすことができた男性は、私を除いて他にはいなかったからだ。そして問い詰められたあげく、とうとうユキは私との関係を認めざるを得なかった。しかしユキは、どうか私には知らせないで欲しいと嘆願したらしい、若い研究者として大事な時期にあった私を、動揺させたくなかったのだ。

 私とユキの母親は、決して強い人間ではなかった。優柔不断で、問題を自分の中だけに抱えておくことのできない性格で、いつも誰か頼れる相手を求めるようなところがあった。だから、母親はまっさきに父親に相談してしまった。これが不幸の引き鉄となってしまうことは明らかだったのに、母親はそういう判断をつけられない人間だったのだ。自分の娘と自分の息子が、近親相姦の末、子供を作ってしまったということを聞かされ、父親はとにかく取り乱し、激怒した。父親は経済界の超大物で、いくつかの大企業からなるグループ会社を経営しており、金持ちばかりが住む東京ヘブンズゲイトの中でも、最高の財力を有していた。父親はとにかく偏執的なところがあった。他人から認められたいという感情が異様に強く、見栄っ張りで、金持ちになったのもそういう動機によってであり、そんな性格だからこそ、東京ヘブンズゲイトの中心、一等地の中でも最高の場所に、最大の邸宅を築いていたのだ。プライドの塊で、常に尊大な態度で周囲を見下していたが、私に言わせれば、他人からの侮蔑を極度に恐れる臆病者だった。そんな父親が、自分の娘についてそんな話を聞かされたのだから、冷静でいられるはずもない。そのとき父親の頭の中にあったのは、娘の幸せや感情などといったものではなく、どうすればそれを隠蔽し、もみ消し、他人からの侮辱を受けずに済むかということだけだった。だから、まず、父親は娘を家の中に軟禁してしまった。妊娠してお腹の大きくなる娘を、誰にも見られないように。世話は全て母親にさせていた、家の中にいるメイドなどには、いっさい関わらないようにさせたのだ。ユキは怯えていた、自分はこれからどうなるのか、そして、お腹の中の子供を無事産むことができるのか、それを心配し続けながら、その生活に耐えていたのだ。当然、私に連絡することなどかなわなかった、父親が、外部との接触をいっさい禁じていたからだ。孤独の中で、最後には全てが無事に終わるように、目も見えず、身重で、無力な体を抱えたまま、必死で祈っていた。

 そんな娘の思いなど、父親が理解できるはずもなかった。父親は何の躊躇もなく、中絶を命じたのだ。自分のメンツが傷つくことだけを恐れ、それ以外のことなど意にも介さないクズだった。意志薄弱な母親は、それに黙って従うだけだった。娘を救えるのは母親だけだったし、娘の気持ちを理解することができるはずだったのに、全て父親の言いなりになるだけで、そういう感覚が麻痺していたのだ。

 父親の命令で、母親は残酷な行動に出ることになる。ある日、突然に、母親は娘を外へと誘い出した。行き先は告げなかった、ただ、気晴らしに買い物にでも行こう、お父さんが今日だけはそれを許してくれたと、しらじらしい嘘をついただけだ。もちろん、ユキはこれから何が起こるのかを察知していた。だからその道中で、トイレに行きたくなったと嘘をついたユキは、そのままこっそりと逃げ出したのだ。ろくに目も見えないのに、お腹の中の子供を守るために勇気を振り絞り、たった一人で、周囲の音だけを頼りに走った。どれだけ恐ろしかっただろう、どれだけ心細かっただろう、ひどく無力だったのに、ユキはそれでも自分の全てをかけて、私との間にできた子供を殺させないように、命がけの行動に出たのだ。

 そして、音だけを頼りにどうにかタクシーを拾ったユキは、病院へと一人で向かった。医師や看護婦は、妊娠した弱視の少女がたった一人で現れたことに当然驚いてしまった。だが、幸いユキが持っていたクレジットカードで充分な金を用意できたことと、必死で頼み込んだこともあり、そのまま出産まで病院にいられることになった。自分の素性を周囲に明かそうとはしない少女に、医師や看護婦たちは怪訝な様子ではあったものの、礼儀正しく気品を備え、どこか現実離れした雰囲気を持ったユキに対して、必要以上には踏み込まないようにしていた。

 やがて、ユキは無事出産を終えることになる。しかし、それからユキは途方に暮れざるを得なかった。自分で金を稼ぐことはおろか、まともに生活していくことすら難しい状態で、しかも生まれたばかりのハルミを抱えたまま、いったいユキに何ができただろう。結局、ユキは自分の家に戻らざるを得なかった。そして赤ん坊を連れて現れたユキを見て、父親は気も狂わんばかりに怒鳴り散らし、母親はどうすることもできずにおいおい泣くだけだった。ユキは必死だった、泣きながら父親に嘆願し、理解を求めたのだ。しかし父親は聞く耳など持たなかった。自分の子供が近親相姦の末、出産までしたなどということが世間に漏れれば、間違いなく自分は笑い者になる、そのことに対する恐れ以外に、父親が気にかけていることなどなかったのだ。父親は、ひたすらにユキをなじった、自分に恥をかかせておきながら金をせびりに来るとはどういうことだ、どこへなりと消えてしまえ、金輪際この家の人間であることを口に出すな、といった調子だ。そして、父親は、私についても外国から呼び戻し、そして親子の縁を切って外へ放り出すと言い出した。

 もはや父親を説得することは不可能だった。ユキは絶望した。いったい何ができただろう、不自由な体で、孤独のまま、赤ん坊を抱えて。今まで裕福な家で周囲に守られながら育ったユキに、ゼロから生き抜く術を身につけるための方法などなかった。そして、ユキはさらに追い詰められることになる。人間の社会というのは他人の醜聞に対する嗅覚が異様に鋭いもので、どこからどう漏れたのか、そのスキャンダルは徐々に人々に知られるようになっていった。誰もが、ユキを汚らわしい妖怪を見るような目つきで観察し、あざ笑ったのだ。人々は面白がってうわさを垂れ流し、ユキを忌み嫌い排除したのだ。もはや、家の中にも外にも、ユキがいられる場所はなくなってしまった。それなのに、父親は有無も言わさずユキを家から追い出す準備を進めていた。追いつめられ、私に連絡する手段もなく、孤独の中で辱めに耐え続けたユキは、とうとう限界に達することになる。そして、せめて赤ん坊だったハルミだけでも救うために、最後の手段に出なければならなかった。

 父親が追放を宣告した日の朝がとうとうやって来て、ユキは自殺した。せめてハルミだけは救ってくれという遺書を残して。遺書の中で、ユキは全てを自分のせいにしていた。私についても、ユキが自分から誘惑してこんなことになってしまったので全ては自分の罪なのだということまで書いていた。兄は悪くない、だから兄の将来を奪わないで欲しい、ユキは必死でそう訴えていたのだ。父親はやっかいな娘が死んでくれてせいせいしたことだろう、ハルミを施設に押し付け、後は何事もなかったかのように振る舞った。自分の力が健在であることを確認するために、わざわざ盛大なパーティーまで開いて、その権威を世にアピールしてみせたのだ。それはまるで、娘の死を祝う祭りのようだった。

 私が全てを知ったのは、ユキと連絡がつかないことを不審に思い帰国した後だった。ひどい絶望に打ちのめされ、私は何をして良いのか分からなかった。醜悪な虚栄心に取りつかれ娘を追いつめた父親、意志薄弱で我が身が可愛いだけの母親を、私は心の底から憎んだ。そして世間の連中も許せなかった。苦しんでいるユキのことを、面白おかしくうわさ話に仕立て上げ、蔑み、そして陰湿なやりかたで排除した連中だ。東京ヘブンズゲイトのような所に住み、選民意識を持っていて、自分たちは一般人と違って洗練されていると思い込んでいるような連中だが、しょせん卑しい人間でしかなかった。結局、他人のスキャンダルをハイエナのようにむさぼり、規範から外れた人間を追いだそうとする、そういうムラ社会の住人どもでしかない。いったいユキが何をしたというのだ? たまたま兄妹で愛し合い、そして子供を産んだだけだ。恥じるべきことは何もなかった、むしろユキは、清廉な人間として、まっすぐに行動しただけなのだ。私は激しく噴き上がり燃え立つ憎悪に焼かれながら、全てを憎んでいた。父親も、母親も、東京ヘブンズゲイトの住人たちも。そして、彼らの中に巣食う、人間という生き物の本性を憎んでいた。父親のようにチンケな虚栄心に狂い、あるいは母親のように権威に盲従し、あるいは東京ヘブンズゲイトの住人たちのようにくだらない規範を作り出し、そこに囚われていることを恥とも思わず、そこから外れた人間がどんなに純粋で誠実でも、容赦なく、見境なく、辱め、排除してしまう。そういう人間どもを、私は絶対に許すことはできなかった。

 

 もちろん、私は自分の憎悪があまりに大きいことを感じていた、だから、どうにかそれを押さえようともがいていた。施設からハルミを取り返し、ユキの純粋さや優しさを何度も思い返しながら、復讐の悪魔に魅入られることを拒もうとしていたのだ。しかし、私の憎悪はあまりに強かった、私には、そういう人間というものを許す理由が、もはや何もなかったのだ。いくら消そうとしても、憎悪はその度にますます激しく燃え上がり、私を飲み込んでいった。そして、とうとう、私は復讐以外になすべきことはないと悟ったのだ。

 

『君を想う、死神降る荒野で』 その32へつづく――