Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

僕らが何者でもなくなるように その9

 

 

 の家の前でタカユキは、出口のちょうど正面に助手席が来るように車を停めていた。けれども、僕は後部座席のドアを開け、猫のように何食わぬ顔で乗り込む。「前に座らないのか」と言うタカユキに、「後ろの方が広々としていていいんだ」と僕は答えた。車を発進させながら首をかしげるタカユキだったが、僕の意図にはなんとなく気づいていただろう。僕らはこれからアヤカを迎えに行くところだった、つまり僕は、タカユキの隣にアヤカを座らせてやろうと思っていたのだ。

 待ち合わせの場所に着いた時も、僕はぬかりないように助手席のドアを開けてアヤカをそこへ導き入れる。

 「ずいぶん紳士的じゃない」

 ドアに手を添えたまま肩をすくめてみせた僕に、アヤカは戸惑った視線を向けながらも、嫌がることまではせずに助手席に座った。なんだかやけにおせっかい焼きのような感じだったが、こうしたほうがいい。この二人の間には妙な遠慮というか、距離感があった。あのころも互いにいくらか惹かれ合う部分があったはずなのに、どちらも相手の領域に踏み込もうとはしないのだ。だからうっかり僕が間に入ってしまえば、二人はずっと僕を媒介するようにしてしか、喋ろうとはしなくなるだろう。

 案の定、バタンとドアが閉まった瞬間から、ほとんど二人は無言のままだった。タカユキは口を真一文字に結んでハンドルを握りながら、アヤカは所在なさげに髪の毛を指先でいじくりながら、どちらもずっと真正面を向いている。なんだか熟年夫婦かケンカしたカップルにでも挟まれたような感じだな、と僕は思う。だんだんそれが可笑しくなってきて、僕はあえて何も喋らずに、二人をそのままにしておく。

 「ーーねえ、どこに行くの?」

 ようやく、アヤカが口を開いた。タカユキにでも僕にでもなく、その間に向かって、声をぽんと放り投げるような感じで。

 「さあ、何も考えてなかったな」

 ようやく、といったタイミングでタカユキが応じたが、やはり前を向いたまま、独り言のように喋っていた。二人はそれとなく僕に助け舟を求めている雰囲気を出していたが、僕はそれを分かった上で黙ったままでいる。少し意地が悪いかなとも思ったが、だんだん可笑しさが増してきて、僕は笑いを噛み殺しながら、それでも何食わぬ顔で窓の外をずっと見ている。できるだけ、二人に喋らせたかった。そしてできれば、二人の間で喋らせたかった。

 「それなら、中学校行かない?」

 「中学校?」

 アヤカの提案に、タカユキが聞き返す。二人は遠慮がちに視線を互いの方に向ける。そして、落ち着かないそれをどうにかしてもらおうとするかのように、同時に僕の方へ顔を向けた。

 「二人で決めたらいいよ。僕はそれに従う」

 まぜ返すかのように、僕は決定権を二人へと投げる。二人は一瞬だけ苦笑いをして、前へと向き直り、観念したように会話を始める。

 「せっかく久しぶりに三人そろったんだし、昔を懐かしむのもいいんじゃない?」

 「まあ、いいけど」

 「あれ、あんまり乗り気でない?」

 「いや、俺は昔を懐かしむとか、そういう発想がない人間だし」

 「かっこつけてんの?」

 アヤカが笑う。タカユキも困ったような笑いを漏らして、首をかしげてみせる。

 「そういうんじゃない。本当に俺はそうなんだ。普段は過去のことなんて思い出したりしない」

 「過去にとらわれたくないってこと」

 「ある意味では。人間は思い出すたびに、過去を自分の都合のいいように作り変えてしまうからな。中毒性のある行為さ。そんなことやってると、そのうち過去の栄光を自慢する年寄りになってしまいそうだし」

 「未来に意欲を持ち続けられる人間もそんなにいないだろうけど。それに、過去は慰撫されるだけのものじゃない。常に、浮かびあがろうとする深層意識みたいに、過去は現在に呼びかけてくる。置き忘れてきたものにもう一度手を触れたいというのは、衝動なのか誘惑なのか分からない。けれど、そこにはきっと必然性もあるのよ、タカユキ。そういう意味で、人は過去からそんなふうに自由になれるかのかな」

 「まあ、そうだな。そんなこと言いつつ、俺はなんだかここに立ち戻ってしまったんだし」

 「何か、理由があって戻ってきたんじゃないの?」

 「……分からないな、自分でも。どうしてなんだろうな」

 「そんなに無自覚に、思い出すことのなかった過去を思い出したってこと? それはやっぱり、過去に呼ばれたんだね」

 「何かあるとは分かってるんだけど、うまく言葉にならないんだ」

 「気をつけることね。過去を変に餌付けしようとすれば、いつの間にか自分が頭から飲み込まれてるものなんだから」

 「それは謎かけか? 脅しか? それとも、たんにからかってるのか?」

 「お好きなやつを選んだら?」

 「なるほど、これはからかわれているに違いない」

 タカユキとアヤカは、二人同時に、くすりと笑いを漏らした。

 「それでーー」タカユキが、思い出したように、顔を少しだけ僕の方へ向ける。「中学校に行くってことでオーケーか?」

 「異議はないよ」

 僕の答えにうなずき、タカユキは前を見てハンドルを握りなおす。車内は再び静かになった、タカユキの出したウインカーの音のリズムに刺激されるように、僕はタカユキが何かを置き忘れたとすればそれは何だろうかと考えをめぐらしてみる。アヤカがどこまで本気で言っているのか分からないが、過去には常に、何かがある「かのように」見えるだけじゃないのだろうか。『記憶とは、過ぎ去ることを止めない現在のことである』ならば、僕らは絶えず喪失感の奔流の中にある。現在の確信が揺らいだ時、僕らは、その流れに引き寄せられてしまうことだろう。タカユキはもしかしたら、何か問題を抱えているのだろうか。その揺らぎにもたらされた空洞に、僕らと一緒にいたその過去が、残響したのだろうか。そして、あるいは愚かにも、その過去に手を触れるという誘惑に、心を惹かれたのだろうか。タカユキの記憶の、暗い影のように沈んだノリマサと、明るい光のように輝くアヤカに、もう一度会うことが、彼に何かをもたらすと、期待を抱いてしまったのだろうか。

 

 中学校まで来た僕らは、校舎へは入らずに、衛星のようにその周囲をぐるっと回った。

 「さすがに、いい大人の姿で入っていくのは憚られるよなあ」

 「そうねえ。思いつきで学校に行こうとはいったけど、そりゃ入っちゃだめよねえ」

 校舎は僕らが通っていた頃と変わりない感じだったが、入り口の側にはその当時にはなかったスペースが設けられ、常駐の守衛がいた。

 「まるで検閲官だな、潜在意識まで沈んだ記憶がこちら側の意識の領域まで上がってこないようにするための」

 守衛を見ながら、タカユキが冗談を言う。

 「これはさしずめ、精神分析的な比喩を演じてるわけね。『子供時代はもうないのだ』っていう」

 「さて、中に入るのをあきらめるなら、俺たちはこれからどうしよう」

 「あそこは? あそこからなら、学校を見下ろせる」

 「公園の上のとこか」

 「そう」

 「物事との距離を持って、高いところから見下ろす。それこそが成熟した精神の視点だな」

 「比喩のゲームは、まだまだ続くのかしら」

 タカユキはそれに笑いで答え、ハンドルを切って学校から離れる。車が向かったのは住宅の並ぶ丘の中にある公園で、そこからさらに階段で登ると、この辺り一帯を見下ろすことができる場所に行ける。

 

 「変わってないねえ」

 頂上からの眺望に、アヤカが率直な感想を漏らす。

 「正直、前がどんなだったか、はっきりとは憶えてないな」

 「そうだな。でもまあ、やっぱりそれほど変わってないよ」

 タカユキの言葉に相槌を打ちながら、僕は街の景色を見渡していた。おおまかな街の姿は何も変わっていない、住宅の並び方や、スーパーとか図書館とか学校の位置。ただ僕が感じていたそれは懐かしいという感覚ではなかった、同じことがズレた形で再現されたものを見ているような違和感があった。まるで古いオリジナルの写真の、劣化してぼやけてしまった部分を、曖昧な記憶でつぎはぎ上に復元したものを見ているような、そんな感覚だった。懐かしいという感覚は、過去を美化する心性によって湧き上がってくる。してみれば、たぶんタカユキの中にそれはないだろう、僕のような違和感すらないだろう。アヤカには懐かしさがいくらかあるかもしれない。されば、ノリマサについてはどうだろうか。その感覚のバラバラさに、僕らそれぞれの来し方と、互いを隔てる距離を思う。

 「少なくとも、中学校は変わってないねえ」

 「そうだな」

 タカユキが肯く。

 「やっと同意したわね」

 「ああ」

 「こうやって離れた所から見てると、よけいにずいぶん遠くまで来ちゃったような、感じがするねえ」

 「そうだな。俺は地元を離れて、全く違う世界観で生きてきたから、よけいにそう思える」

 「私も同じような感覚、あるかも。自分が留学して、外国人と結婚して暮らしてるなんて、あの頃は想像もしてなかった」

 「そういう夢は持ってただろ」

 「ただの夢よ。漠然としていて、実現するなんて思ってもいなかった。実現させようという意志すら持ってなかった」

 「数奇なもんだな。俺はこんな風になろうという発想すらなかった」

 「そうだよ。タカユキはなんだか厭世的な感じの子供だったのに、まさか起業して、社会とがっぷり四つに組み合うようなマネをするなんて。いったい何があったのって感じ」

 「別に。単純だよ、金が欲しかったから」

 「厭世主義と拝金主義が結びつくなんてことがあるのね」

 「俺に言わせれば、当然の話だ。金があればあるほど、どうでもいいやつとは関わらなくてよくなる。そして、誰かに服従しなくてよくなる」

 「金で厭世的自由を買おうとしたのね」

 「むしろ金こそが自由そのものだ。買う力を手にすることで、自分を売り渡さなくて済むようになる。『全ての労働は売春である』というのは、紛れもない真実だ」

 「そうかなあ。本来は、働くことにはある種の尊さがあると思うけど。それが現代の経済システムの中では、不当に貶められているんじゃないかな。労働が尊さを奪われているせいで、人は「働く意味」を求めるなんていうことをしてしまう」

 「人が「働く意味」を求めるのは、現代人がポスト消費社会の、あるいは情報化社会の労働力商品だからさ。そこでは意味が価値と不可分に結びつく。意味を持つ労働が価値につながる。アヤカの言うとおりだったとしても、その尊さを取り戻すことはできない。尊さは、意味でも価値でも作り出せないからな」

 「ちょっと否定しすぎじゃない? そこまで絶望的でもないと思うけど」

 「たとえ可能だったとしても、あまりに困難で、漠然としてる。だから、俺にとっては買う力こそが全てだ。少なくとも、そう思った方がずっと実践的だ。金があれば、望まない場所に所属しなくていい。例えばもしあの時俺に大金があれば、勝手に不登校にでもなんでもなって中学生という集団に属さなくても良かったし、その中の権力関係に服従する必要もなかった。無用なくやしさを味わう必要もなかった」

 学校の方を憎々しげに見ながらタカユキが呟く。それを聞いたアヤカは、はっとした様子になって、彼を見つめていた。

 「それは、本当にそれでいいの? 利己的というかニヒリズムというか……うまく言えない、よく分からない。でも、なんだか、どこか間違った考えに思える。あの時、あんなことがあったくやしさは分かるけど、過去の挫折に、そんなに囚われなくてもいいのに」

 「俺は、別にそのことだけが原因でそう考えてるわけじゃない。あのときの俺にはとても悔しい出来事だったけど、今となっては本当に小さなことでしかない。そうじゃなくて、俺はもともと、何かに属したり権威にひざまずくというようなことから、自由になりたいと思い続けてきた。それだけのことだ」

 アヤカはタカユキから目を離さず、しばらく考えていた。考えて、首を横に振る。

 「やっぱりうまく言えない。けど、私は、あの時あそこにタカユキがいてくれて良かったと思ってる。正直ずっと心残りだったの、あなたに「ありがとう」って言えなかったことが。私は私なりに、過去に恥を残してきてる。優柔不断で、意志の弱い人間だったことを後悔してる。あのとき私はただただ、強い力を持ってたノリマサに、引きずられているだけの人間だった。あそこで、タカユキは無力だったかもしれないけど、少なくとも、最も強い、最も善き意志を持った人間だった。今この日まで、少なからず、私にはその善き意志に導かれているような感覚があった。でも、今のあなたは、力を得たことで、かえって利己的になり、その善き意志から遠ざかろうとしているように見える」

 一方のタカユキは、アヤカに目を合わそうとはしなかった。ただ、唇を軽く噛みながら、その言葉を聞いている。

 「良い意味でも悪い意味でも、俺は大人になったのさ。弱さを抱えるがゆえに善良であるよりは、力を持つがゆえの冷淡さを選んで生きている」

 「それが自分の方向性だっていうんならしょうがないけど、その自由は、解放感を欠いていて、どこか窮屈な感じがする」

 「確かに、そういう感じのするものかもしれない。けど、俺はとにかく、それを求めてる。俺はそこまでたどり着かないと、それ以上のことは考えられない」

 「ある種の人々はそれぞれ、どうしても求めずにいられないものを持ってしまうから、仕方がないことなんだろうね。でも、やっぱり、タカユキは、どこか遠くに行ってしまったような気がする……」

 「俺はとにかく、「ここ」から離れようとして生きてきたような気がする」

 タカユキは少し緊張の抜けた顔になり、アヤカの方を見る。そこで初めて、二人の目が合った。

 「でも、本質的には昔も今も、タカユキは変わってないんだろうね。周囲のことなんか気にせずに、自分の考えで、マイペースに進んでいく感じ。そういう感じ、ああ、タカユキだなって思う」

 「変わってない、のかな」

 「そうよ」

 「そうかな」

 タカユキとアヤカは、ようやく和らいだ表情になっていた。僕は一瞬、昔の二人がそこにいるような錯覚にとらわれる。お互いが覚えているお互いの感触を、感情のつながりを、まるで手探りで見つけ出したかのように、二人は昔のままの表情で見つめ合っていた。

 「あの時は、私たちみんな、あんなに近くにいたのにね」

 その言葉は、まるで魔法のように響いた。僕らの誰も、その後に言葉を続けない。タカユキは目を細めて、街の景色を見つめていた。僕はたぶん、タカユキと同じ気持ちを共有していたと思う。自分の心が、何か急に、遠くに運び去られるような感覚。これは、懐かしさと呼ばれているものだろうか? 僕はそこにうまく、一つの言葉を当てはめることができなかった。人の感情と概念は、常に不釣り合いで、ずれていて、もどかしい。もっと何か、強い力で引っ張られ、小さくて明るい空間の中へ入っていくような、そういう感覚を、僕は何と名付けたらよいのか。

 

 「あ、ソウスケ、今日時間ある?」

 帰り道、アヤカが突然僕に聞いた。

 「いや、今日はちょっと。今やってる翻訳の締め切りが近いんだ。何かあるの?」

 「ちょっとさ、本棚にある洋書をまとめて処分しようと思ってるんだけど、もしソウスケが欲しいやつがあったら持って帰ってもらえないかなって思って」

 「ああ、そういうこと。でも、何でわざわざ処分なんて」

 「まあ、何ていうか……」アヤカは一瞬、視線を宙に泳がせる。「単純に蔵書が増えただけ。一回まとめてきれいにしよっかな、ていう」

 「じゃあ、来週には仕事が落ち着くから、それからならいつでも行くよ」

 それからアヤカを送り届けるまで、車内に会話はなかった。タカユキはずっと物思いにふけっていて、まあそれは彼の性格からするといつものことだったが、アヤカもまた、何やら思うところがあるのか、深刻そうな顔で、ずっと窓の外を見ていた。僕はふと、一人一人が互いには分からないそれぞれの事情の中にふさぎ込んでいるこの沈黙が、どうしようもない隔たりに見えてきて、これから先、皆が一堂に会するようなことはもうなくなるのではないかと思った。タカユキが本格的に自分の仕事に戻れば、僕らは繋がる理由を失って、まるで他人になったかのように、それぞれの生活の中に、溶けて消えていくような気がした。

 

 

 

僕らが何者でもなくなるように その10へつづく_