Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

僕らが何者でもなくなるように その10

 

 れから週が変わって、仕事も落ち着いたので、約束通り僕はアヤカに連絡を入れる。けれども、アヤカは少し待って欲しいと返事をよこしてきた。普段のアヤカの人懐っこさはなくて、手短かでそっけないくらいの態度だった。何か妙だなと気にはなったが、とりあえず急かすような用事でもないので、僕は待つしかない。

 アヤカに会おうと思っていたのに、見込みが外れたので、僕は特にやることが思いつかず手持ち無沙汰になる。何かやるにしても金もないしなあ、などと考えるが、いや、金がないからやることがないというのは、金に毒された考えだと思い直す。自分がもし都会に住んでいるミュージシャンワナビーとかなら、金のない仲間同士で寄り集まってマリファナでも吸いながら楽器を弾いて幸せな気持ちになったりするのだろうかと勝手な想像をしてみるが、しかし自分はそんな派手好みな人種でもないので、健康的に外へ出歩いて、近所の図書館で本などを数冊借りてくる。家に帰って、借りてきた本をパラパラとめくってはみるが、あまり読書へのモチベーションが湧いて来ず、どうにも集中できない。部屋の隅っこにあるサイズの小さなテレビを点けてみる。政治や社会の問題について議論している番組が映った、僕はすぐに嫌な気分になって電源を落とす。一生懸命自説を述べるのは結構だが、皆が躊躇なく「許せない」とか「嫌い」とかいう言葉に乗せて感情を表出させているのが苦手だった。その感情の表出のカタルシスこそがテレビでの議論をエンターテイメントにしているのだとは分かるが、その感情の強さは人のバイアスの強さに比例していて、僕から見ればテレビはバイアスやステレオタイプで溢れすぎていて疲れてしまう。僕はたぶんそういう理由で、文字にされたものの方を好んでいた。文字にされたものが感情から自由だとは思わないが、少なくとも、人は文字にする段階で感情から一定の距離を取っている。

 何か手作業でもするのが一番良いと思い、昼御飯でも作ることにする。ふらふらとスーパーへ出かけ、バジルや松の実などもろもろの材料を買ってくると、ジェノベーゼのパスタを、ソースからだらだらと時間をかけて作った。自分で食べるものをたっぷりと時間をかけて作っていく作業に、やわらかい充足を覚える。こういう日常的で陳腐なことに充足できる側面を持っていることが、僕をある種の無思想に近い人間にしているのであり、良くも悪くも、それが僕の限界でもある。タカユキやノリマサのような人間は、こういうことに興味を抱かないだろう、タカユキはたぶんこれを生活のコストとしかとらえないし、ノリマサはそもそも無関心だろう。彼らは日常の限界の外に立つことを求めている、それが彼らに、極端な思想を抱かせているのだと思う。言ってみれば、それは日常への態度の産物だ。どんなに特異で壮大な思想であれ、全ては日常への態度に端を発している。日常に充足できなかったり、あるいはそれを単純におろそかにしていたりすれば、人の思想は攻撃的になるだろう。それが、僕と、彼ら二人との違いを作っている。ならば、タカユキとノリマサの違いはどこから来るのだろう。タカユキの考えというのは、昔から基本的には変わっていない。彼は個人というものの価値を信じていて、だから年齢や性別や人種や国籍によって無条件に優劣が存在するということを一切認めない。そして彼は、常に未来においてそういうものが実現されることを目指してきた。過去から現在までどこにもなかったものを、未来に求めていた。それが普遍的に認められないならば、せめて金の力で自分一人だけでもというのは、彼なりの、現実とのすり合わせによる妥協なのだろう。一方のノリマサは、人生の不遇に対する怒りを抱えているように見える。中学時代に持っていた彼の権勢は、大人になるほどに崩れて消えていった。彼を魅力的にしていた自信過剰さは、彼の人生を切り開く力を与えなかったらしい。彼がどういう人生を送ってきたのかは知らないが、もしかしたら少年時代の栄光が、後の慢心になったのかもしれない。ノリマサは、権威を求めていた。中学時代に上級生の威光を借りながら、自らのカリスマ性で同級生を支配しアヤカを自分のものにしていた頃への回帰を、求めているのかもしれない。自分が権威に近づけば、過去の力を取り戻せると思っているのだろうか。ノリマサは、過去の状態の復活を、心の奥底で求めている。権威を求める以上、彼は集団がもたらす根拠を必要とする。だから彼にはタカユキのように、自分で自分を救う道はない。タカユキの求める、あらゆる枠を超える個人主義は、ノリマサの根拠を蝕む害悪なのだ。ただ、これはあくまで僕の見方にすぎない、アヤカならまた別の見方をするだろうし、それにタカユキとノリマサにはそれぞれの言い分があるだろう。

 そんなことを考えながら、僕はやはりだらだらと時間をかけてパスタを食べ終える。やわらかい充足。しかし、僕はそこに、危機感を覚えないわけでもなかった。そうした充足は、賢く日常をやり過ごしているようでいて、僕という人間の生を、ゆっくりと侵食しているように思える。未来には、抜け殻のような僕の人格が、老いて、この六畳一間の片隅に横たわっていることだろう、外からの日の光に舞う、細かいホコリを堆積させて。僕は大学時代から似たような生活をおくっている。本を読み、英語を学んで、身につけた能力で翻訳を仕事にしながらも、結局本を読み、日常に充足し、仕事をする、その単調さ。そんな中で、たまに小説を書いたりする。そう考えると、タカユキやノリマサのあの焦燥というか、極端さがうらやましい気もする。今夜は小説でも書こうか。いや、それすらも、僕にとってはただのガス抜きなのか。僕はそれらの行いの全体によって、結局自らの生を痩せ細らせているだけなのか。ならば濃密さとは何なのか。だからタカユキもノリマサも日常を超越するものを求めているのか。しかし現代において、そんな超越は存在しうるのか。超越を見失った世界で、全ては干上がっていくだけなのか。システムの外部という超越と、内部の権威という超越は、どちらが滑稽なのか、そしてどちらがマシな可能性なのか。

 暇が高じてそんなことをぐるぐると考えていると、僕のすぐ横でいきなり電話が鳴った。画面に映っていたのは見知らぬ番号で、僕は首をかしげる。普段わざわざ電話してくるような人間はいない。知り合いだろうと友達だろうと、だいたいがメールなりアプリなりを使って連絡を取るのが日常だ。変だな、とは思った。何よりも、嫌な予感がした。けれども、電話は鳴り続けている、まるで僕が警戒して出ないだけなのを知っているかのように。

 「もしもし」

 そのまま無視してもよかったのに、なんだか気になって、僕は結局電話に出た。

 「ああ。ーーさんですか?」

 電話の向こうで、男が僕の名字を口にした。四十がらみだろうか、声にはどこか人懐っこい感じだが、妙に沈んだ暗さがあって、僕の耳に冷たくどろりと響く。欠陥を隠しながら粗悪品を売りつけようとするセールスマンのような、と言えば分かりやすいだろうか、僕は直感的に嫌なものを感じ取った。愛想よく下手に出ながら、人の懐に土足で忍び込むような、そういう話し方だ。

 「そうですが……」

 僕は電話を握りしめ、身構えるような気持ちで話を始める。

 「いや、突然電話して申し訳ない。私、フジオカというんですが。実はね、ノリマサさんから、この番号を聞いてねえ」

 「ノリマサ?」

 なぜノリマサが見知らぬ男に僕の連絡先を教えるのか。なんだか、嫌な予感がさらに大きくなる。

 「そうなんですよ、ちょっと訳あって、ノリマサさんにいろいろ聞いてましてねえ。それで、ソウスケさんにも、ちょっとお話をうかがいたいなあ、と思ってるんですよ。あ、ソウスケさんとお呼びしても、よろしいですかねえ」

 「話? いったい何の?」

 妙な馴れ馴れしさに、僕は不快感を抱いた。僕を下の名前で呼んでいいかという質問には、あえて答えないことにする。

 「いや、実はね、タカユキさんのことなんですがね」

 「……タカユキが、何か」

 このフジオカという男は、どうやらノリマサにタカユキのことを聞いていたらしい。よりによってノリマサに? いったい何を?

 「ソウスケさんは、あの人がどういう仕事をしているか、ご存じでしょうかね」

 フジオカは僕の許可を得ずに僕を下の名前で呼んでいた。ささいなことのようだが、僕はその瞬間にこの男と喋るのが本当に嫌になってきた。それは少なからず、フジオカが僕のことを本心では見下していることの証だった。他人の自尊心あるいは他人への敬意ということを本質的に理解しない人間と話すというのは、本当に不快な体験だ。

 「いや、詳しいことはあまり。何かアプリの開発を会社でやっているとか」

 「ふむ、ああ、そうですか」フジオカは一瞬の間を入れる。意図的なのかどうか分からないが、妙な含みをもたせているような感じがあった。「じゃあね、ソウスケさん。タカユキさんが、会社でどんなものを作っているか、ご存じですかねえ」

 「あまりその辺のことを細かく聞いたことはないですが」

 「やはりそうなんですねえ」

 「やはり、とは? 何か、ご存じなんでしょうか」

 「いえいえ。私から特に言うようなことはないんです。もし気になるようなら、ソウスケさん、ご自分でお聞きになってはいかかですかねえ」

 「僕はそういう分野については詳しくないし、聞いてもよく分からない。それに、タカユキが何か言いたければ、自分から話すでしょう」

 「ふんふん、そうですか」

 「そうですか、とは?」

 「特に、深い意味はありませんよ」

 「何か意味、というか意図があってタカユキのことを聞いているような感じがするんですが。少なくとも僕には」

 「私が聞きたかったのはね、タカユキさんの仕事について、あなたが何かご存じか否かっていうことだけですよ、ソウスケさん」

 まるで僕の質問が馬鹿げているとでもいうような言い方でフジオカは答える。

 「それだけ?」

 「ええ、それだけです」

 「タカユキに、何か用事でもあるんですか」

 「いや、ありませんよ」

 「ない?」

 「ええ、今のところはね」

 フジオカは、「今のところは」という言葉に妙な含みをもたせながら言った。

 「じゃあ、そのうち何かあるんですか」

 「おそらくね」

 鼻で笑うような、勝ち誇ったような言い方をすると、フジオカはそのまま電話を切ってしまう。後には、フジオカの不快な声の響きと、嫌な予感だけが残った。いったい、何の電話だったのかさっぱり分からない。タカユキの仕事に、何か問題でもあるのだろうか。タカユキのことを思い返してみると、そういえば仕事について語るのを避けていたような感じがしてくる。けれども、それはそういう心配を抱いているからこそ、そういう感じがしてくるだけと言えなくもない。タカユキにこのことを言うべきだろうか。あるいは、世の中で成功していると、怪しい連中が群がってくるものなのかもしれない。だとすれば、僕が喋ってもタカユキに煩わしい思いをさせるだけだろう。正直どうすればいいのかよく分からない。タカユキに、仕事のことについて詳しく尋ねてみるべきだろうか。ぐるぐるとそんなことを考えて、僕は結局、結論を出さないままにしてしまった。

 

 

 

僕らが何者でもなくなるように その11へつづく__