Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

僕らが何者でもなくなるように 最終回

 

 れから何がどうなったのか、僕はその全体像を知らないし、そもそも、うまく整理することすらできていない。だから、僕にできるのは淡々として事実を述べるくらいだ。ノリマサは救急車で運ばれたが、とっくに手遅れだったらしい、病院に着くまでには、命を落としてしまっていた。救急車の後には警察が来た。タカユキはおとなしく手錠を受け入れ、パトカーで連れて行かれた。僕は混乱状態のまま、泣き叫ぶアヤカを必死でなだめながら、警察に聞かれたことに答えていた。後日、どうにか留置所で面会したタカユキが語ったところによれば、怒り狂ったノリマサがアヤカを本当に殺そうとしたのを、止めようともみ合っているうちに、とっさにノリマサが落としたナイフを拾って刺してしまったということだった。興奮状態のせいで、衝動的になっていた、本当に恐ろしいことをしてしまった、タカユキは、インタビューに答えるかのように、冷静に説明していた。まるで、何もかもをあきらめて受け入れ、観念し、人生の全ての望みを捨てたような顔をしたタカユキだったが、たったひとつだけ僕に、「アヤカを頼む」と願いを託してくれた。けれども、僕はそれ以来、アヤカに全く顔を合わせる機会を持たないままだった。ときどき、彼女を気遣うようなメッセージを送ったりしたのだが、アヤカは、自分は大丈夫だというような内容を、ごく短く返信するだけだった。だが、しばらくそんな日々が過ぎて、ある日、僕はアヤカのほうから連絡を受けた。知人のつてを頼って、カナダで働くことにした、アヤカは、やはり手短な文章で、僕にそう伝えてきた。カナダに行く前に一度だけ会わないか、と僕は彼女に提案してみた。その日、彼女からの返事はなかった。数日の後に、ようやくアヤカが僕に返信してきた。「わかった」、それだけが彼女の返事だった。例えば返事が遅れたことの言い訳や心境の説明など、余計なものは何も付け加えられていなかった。

 

 僕は車を持っていないので、そこに行くまでには、歩いて三十分ほどかかった。中学校を横切り、丘の公園を抜けて、階段を登っていく。いつか、タカユキと僕とアヤカの三人で来た場所だ。頂上まで着いて、時間を確認する。二時ちょうど、約束の時間だったが、アヤカはまだ来ていない。アヤカを待つ間、僕は、ただ街を見下ろしていた、立ち並ぶ家々を、スーパーや図書館を、学校を、僕らが使っていた通学路を。

 「やっぱり、変わらないね」

 背後から声がして振り向くと、そこにアヤカが立っていた。約束の時間からは、十五分が過ぎていた。僕はうなずく。街の風景のことかと思ったが、本当は、何が変わらないと言っているのかは分かっていなかった。

 「カナダへ行くんだね」

 「うん」

 アヤカは首を縦に振る。少しやつれたように見えるが、憔悴してるとか思いつめているといったほどでもない。もしかしたら、そういう状態から立ち直りつつある、その過程なのだろうか。

 「どうして急に?」

 「わかるでしょ。あんなことがあった後で、私はここにいて、どうしていいのか分からない。ブライアンもいない、私は独り。いっそ、新しい場所で、一から始めるのがいいんだろうなと思って」

 吹いている風が、アヤカの髪の毛を、彼女の顔にまとわりつかせる。アヤカはそれをうっとうしそうに指先で払いのける。

 「いつから考えてたの?」

 「あのことがあってから、一週間くらい後。正直、それまでショックと抑鬱で、ずっと何もする気がしなかった。ご飯すら、まともに食べられなかった。だから、何でもいい、何かしなきゃって、そう思ったけど、でも、何ひとつ思い描くことができなかった。だから、こことは全く違う環境へ行こうと思った。ここにいると、今までの私の人生の全てが、まるで急にとてつもない重力になったかのように襲ってくる。悪い思い出や事実だけじゃなくて、良い思い出や事実までもが、全て、ひどく重苦しいの。だから、一から何かを始めるしか、私に残された道はなかったの」

 「……タカユキには、会っていかないのか」

 無神経で不用意な質問だったかもしれない、けれど、僕は聞かずにはいられなかった、いや、聞かないわけにはいかなかった。アヤカは、じっと黙って、僕から顔を背ける。風が吹いて、アヤカはまた、指先で髪の毛を払おうとする。けれども、もう一つ強い風が吹いて、アヤカの長い髪が、彼女の顔を覆うように舞い上がる。もう一度その髪の毛の先を指先で払うと、彼女はそれを押さえるように、手のひらの中へ握りしめる。アヤカはうつむき、唇を噛む。じっと考え、僕に返す言葉を探しているのかと思ったが、そうではなかった。アヤカはただひたすら、自分の感情を抑えることに集中していたのだ。けれども、その懸命の努力は、溢れてくる涙を抑えることはできなかった。僕の目の前で、アヤカはぽろぽろと、大粒の涙をこぼし始める。

 「アヤカ?」

 僕はとまどい、アヤカの背中に手を置いて、ゆっくりとさすってやる。しかしアヤカの感情の波は引く様子を見せず、嗚咽が始まり、涙はとめどなく流れる。どうしてこんなに泣いているのか、僕にはよく分からなかった。

 アヤカが泣き止むまで、ずいぶん長い時間がかかった。泣きはらした目元をぬぐいながら、それでもなんどかしゃくりあげていたが、やがて意を決したかのように、深呼吸をひとつして、アヤカはようやく口を開く。

 「ソウスケ」

 「うん」

 「ソウスケだけには、本当のことを話しておく」

 「本当のこと?」

 アヤカの瞳が、僕の顔をのぞきこんでいる。涙で濡れていたが、まるでショックを受けたかのように瞳孔が開き、震えている。そこにあるのは、ただ、恐れの感情のみだった。他人を目の前にして、こんなにも恐怖を感じている瞳は、相対する僕をも戸惑わせる。

 「そう、本当のこと」

 「あの日のことについて?」

 うなずいたアヤカは、恐怖に耐えながら、それでも僕から視線を外さない。彼女は、浅い呼吸を繰り返していた、深呼吸をしようとしているのに、動揺のせいで、うまくいかないのだ。僕は、もう一度、ゆっくりアヤカの背中をさすった。またしばらく時間をかけて、ようやく落ち着いたアヤカは、なんとかもう一度、話を始める。

 「そう、あの日、何があったのかを、ソウスケだけに、言っておきたいの」

 「というと、何か、僕が思っているのとは違うことが、あそこで起きていたっていうことなのか」

 「その通り」

 「ノリマサが、アヤカを襲って、それを止めようとしたタカユキが、思わずノリマサを刺してしまった。でも、そうじゃないっていうのか?」

 「そうじゃない」

 「じゃあ、いったい何が?」

 「私よ」

 「私? 何が?」

 「私が、ノリマサを刺したの」

 「え?」

 僕は、アヤカを見つめる。今度は僕の目が、ショックと恐怖で見開かれる。対照的に、まるでそれが僕に乗り移ったとでもいうように、アヤカの瞳からは恐怖の感情が引いていき、そこには安堵と覚悟が表れ始める。

 「ノリマサが私を殺そうとして、それをタカユキが止めたところまでは本当よ。タカユキに体当たりをされたノリマサは、ナイフを落としたけど、それを押さえようとしたタカユキを殴りつけて、その上に馬乗りになったの。そして抵抗するタカユキを、ノリマサは何度も殴り続けた。私は夢中でナイフを拾い上げて、体ごとぶつかるように、ノリマサの脇腹に、ナイフを突き刺したーー」

 アヤカの告白を聞きながら、僕はくらくらする頭を抱えていた。アヤカの目を見ることが、できなくなっていた、いったい、どういう表情で、こんな話を聞いていいのか、全く分からない。

 「でも、どうして? どうして、アヤカがノリマサを刺すなんていうことまで、しなければいけなかったんだ」

 「憎しみよ。途方もない、私の存在の全体すら飲み込んでしまうくらい、圧倒的な憎しみ」

 「憎しみ?」

 「タカユキに馬乗りになったノリマサは、笑いながら唾を吐きかけ、ありとあらゆる侮辱を浴びせてた。今の彼の持っている考え方に対してだけじゃなくて、中学時代の彼の情けなさに至るまで。けれど、それで終わりじゃなかった、ノリマサはさらに、とうてい聞くに耐えないような言葉で、私のことを侮辱し始めた。私の父親の出自のこと、その父親と結婚した母親のこと、私自身のこと。私が中学生のとき、どんなふうにあいつとセックスしていたかとか、私のその出自のせいで、ただの性欲のはけ口にするにはちょうど良かったとか、とてもおぞましい、考えうる限りで最低最悪の侮辱で、私の自尊心を破壊し続けた。抵抗できなくなったタカユキをそれでも殴り続けながら、あいつは、ありったけの憎しみを私にぶつけていたーー」

 アヤカの語るその光景を、僕はうまく想像できない。聞きながら、僕の目には涙がにじんで来さえする。僕はそれを必死で押しとどめながら、アヤカの告白を聞いていた。

 「そのとき、私の中に、今まで感じたことのないような、恐ろしく大きくて強い憎しみが湧き上がってきた。私はもはや、私を自制することはできなかった。こんなやつに、生きる資格はない。私は、あいつの死を望んだ。他のことは、何も考えなかった。ただ、爆発するような憎しみの感情とともに、ナイフを握りしめると、そのまま、あいつの脇腹めがけて、思い切り突き立てるだけだった」

 語れば語るほど、アヤカは落ち着いていくようだった。僕は、ますます動揺して、もはや、目の前にいるのがアヤカだとは信じられなくなりそうだった。

 「それで、タカユキは、アヤカをかばって逮捕されたのか」

 「そうよ。悲鳴をあげてのたうちまわり、だんだん動けなくなていくノリマサを見て、自分がしたことに気づいて恐ろしくなってナイフを落とした私に、タカユキが体を起こして、這いずるように近づいてきて、言ったの。『これは、俺がやったんだ。俺が刺した。お前がやらなかったら、俺がやってた。お前は、俺を救けるためにあいつを刺したんだ。だから、何も悪くない。これは、俺がやるはずだった。いいか、だから、誰に聞かれても、警察に聞かれても、ソウスケに聞かれても、自分が刺したとは絶対に言うな。俺はどの道、全てを失う運命だ。だから、俺が捕まればいい。犯人は俺だ、俺が、あいつを刺したんだ』 タカユキは、泣きわめくだけの私に、何度も繰り返した。俺だ、俺があいつを刺したんだってーー」

 深い、奈落のような沈黙が続いた。僕に、いったい何が言えただろう? 僕にできるのは、ただ、アヤカの言葉を待つことだけだった。

 「私、本当にカナダへ行くのか、もう少し考えてみる」

 「どうして?」

 「本当は、自首すべきだって思ってるから」

 「でも、それはタカユキの望みじゃないだろ」

 「これは、私の問題よ。目を背けるわけにはいかない」

 「確かに、刺したのはアヤカだけど……」

 「そうじゃない。つまり、これは私の、実存的な問題。私をあのとき動かしたのは、憎しみよ。私はあの瞬間、あいつと変わらないくらい、おぞましい憎しみに満ちた存在だった。そして、まるであいつが私の鏡像だったかのように、私がその鏡を割ってしまったかのように、私は私の姿を見失った。私が私であることを保障していたものが、突然消えてしまった。あいつの肉体に死をもたらしたことが、私の精神に死をもたらしたかのように。今の私には、あいつを否定することができない。だから、逃げるわけにはいかないの」

 「それで、自首をして、罪を償おうってのか? 罪を償うことで、自分と、あいつを、赦せるようになろうとするってことなのか?」

 「……分からない。自分が、いったいどうするべきなのか。そんなに簡単に答えは出せない。だから、もう少し考えてみる」

 僕は、ただ、アヤカを見つめていた。そのとき僕の目の前にいた女性ほど、孤独で、美しいものを、僕は見たことはない。

 別れを告げ、アヤカはこの場を去っていった。彼女の立ち姿は、まるで幻のようで、胸が締め付けられる。僕はもう二度と、同じ人間としてのアヤカに出会うことはないだろう。アヤカは、途方もなく遠いところへ行こうとしている。

 

 アヤカが去った後も、僕はその場を離れることができなかった、呆然と、眼下に広がる街を見つめている。日は暮れかけ、西からの光が差している。僕はひとり、取り残されているような気がした、僕ひとりが、どういうわけか、無傷で、安全な場所にいる。ノリマサも、タカユキも、アヤカも、あんなふうに、ひどく傷ついて、ぼろぼろになり、全てを失っていったというのに。僕ひとりだけが、自分の闘いを持たずに、生きてきたのだと思う。ノリマサも、タカユキも、アヤカも、僕の知らないところで、己の中に、人知れず、闘いを抱えていたのだ。どうして僕だけが、闘いから遠ざけられ、生きていられたのだろう。安全な所にいる僕こそが、もっとも自由から遠かったのではないのか。もっとも惨めなのは、この僕なのだ。僕だけが、自分が生きる場所を保障されている、僕だけが、それに満足しきっていたのではないのか。

 そのとき、突然、僕の中に、怒りが湧き上がってくる。僕は、眼下に広がっている、この街に、急に激しい怒りを感じ始めていた。僕は、僕の中に、今までになかった、僕の闘いを探し出そうとする。そうすればするほど、正体の分からない怒りが、僕の体を熱くしていく。こんな街など消えて無くなってしまえばいい。そんな言葉が、僕の頭の、体の、全体を満たす。僕は上着を脱ぎ捨て、胸を、太陽の光へと開く。赤い光は、まっすぐ僕を射抜いた。赤く燃える空が、街に向かって、轟音を立てて落ちてくる。僕は目を閉じた、光が、まぶたの裏を焼く。ずっとずっと、僕はそこを動かずにいた。

 

 僕はふたたび目を開ける。世界は、すでに闇に包まれていた。けれどもその闇は、白く白く、輝いている。

僕らが何者でもなくなるように その15

 

 び、僕は夜の中へ転がり出る。アヤカとノリマサとタカユキを探して、必死で走り回った、なかなか三人を見つけられずに、もがくように手足を動かす。息は上がり、呼吸のたびに、暗闇が肺に沈殿していくようだった、何か、取り返しのつかない酷いことが起こってしまうかもしれない、その焦燥感が、僕をさらに息苦しくさせる。

 「アヤカ!」

 僕は声を張り上げて名前を呼ぶ。応えるものは何もない。道を往く人々の好奇の視線だけがこちらに向けられ、僕を突き放し、孤独にする。走り続ける僕を、恐怖の感覚が捕らえる、足元に裂け目が現れ、奈落へと体を飲み込むのではないかという気がして、何度も足を止めてうずくまりたい衝動に駆られる。全てが起こってしまった後で、うずくまっている僕に、誰かが事実を告げてくれるのが、傷ついたりショックを受けずに済む、一番の方法なのだから。それでも僕は探し続けた、そしてようやく三人を見つけた時、僕は、最悪の事態を目撃することになる。恐怖映画の画面を突き破って、悪霊が僕の眼前に現れるかのように、それは、僕の人生の平坦な日常を突き破って、僕の眼前に現れたのだ。記憶は必ずしもはっきりとはしていない、思い出すたび何度でも、心身が興奮状態にとらわれ、脈拍が急上昇し、心臓の鼓動が激しくなり、冷や汗をかき、体は反対に熱くなる。

 

 目の前の店のネオンの、赤い赤い光が、僕の目に飛び込んでくる。そこに、ひとりの男が立っている。こちらから見える横顔は、その光で赤く輝いている。手にはナイフを持ち、その場で石化したかのように動かない。その横では、ひとりの女が、地面に座り込んでいる。顔を覆ってうずくまり、聞いたこともないほど悲痛な声で、泣き叫んでいる。そして、もう一人、男が地面に横たわっている。男もまた、そこでじっとしたまま動かない。一面の赤い光の影になった、腹が真っ黒に染まっている。

 「タカユキ!」

 僕は、そこに立っている男の名前を呼ぶ。男はこちらへ振り向く。その両手とナイフは、やはり真っ黒に染まっている。男の顔を、僕はよく知っているが、少し違う、頰が腫れ、唇が切れている、誰かに何度も殴られたのだろう。男は僕を見て、安堵したような笑みを、口元に浮かべ、ゆっくりとうなずく。

 「どうした、ノリマサ?」

 そこに横たわっている男が誰なのかを理解して、僕は声をかける。けれども、腹を真っ黒に染めた男は、目を見開いたまま、何も言葉を発しない。

 「いったいどうなってるんだ。アヤカ、何があったっていうんだ」

 親から置き去りにされた幼子のように泣き叫んでいる女にも、僕は尋ねてみる。制御できない感情のままに涙を流し続ける幼子にそうするのが無駄であるのと同じように、女はやはり、僕に何も答えてはくれない。

 「ソウスケ」

 立っている男が、僕の名前を呼ぶ。僕が少年のころに知っていたのと全く変わらない、その男の声としぐさ。

 「タカユキ、いったいこれは、どうなってるんだ」

 「見てのとおりさ」

 男は、最悪の意味で、悟りきったような顔をして、僕にそう言う。

 「分からない。見ても何も分からないから、聞いてるんだ」

 男の目が、まっすぐに僕を見ている。何もかもが赤い光に沈んだ中で、その瞳だけが、浮かび上がってくる。

 「刺したんだ」

 男が言う。僕は、何も言えなくなる。

 「俺が、あいつを、刺したんだ」

 ナイフの先で、男が、もう一人の横たわって動かない男を指す。やはり、僕は何も言えない。その瞬間、赤い光が、一気に視界から引いていく。本当にそんなことが起こったのかどうかは分からない、でも、僕の目の前の、赤い光が消えて、周囲にある色彩が回復する。でもそこは、やはり同じように、一面が真っ赤だ。立っている男の両手とナイフ、寝ている男の腹が、おびただしい血液で、赤く赤く染まっている。

 「ソウスケ」

 もう一度、動けずにいる僕の名前を呼ぶ声が聞こえる。

 「救急車を呼んでくれ」

 僕は、その場に崩れ落ちないように、必死で耐えているだけ。

 「早く救急車を呼べ! ノリマサが、ノリマサが死んでしまう!」

 どんなにそうしようとしても、僕の身体は全く動こうとしない。そうすればするほど、身体は力を失っていき、とうとう、僕は地面に崩れ落ちる。救急車を呼ぶことなどできそうもない。結局、そこで遠巻きに見ていた人が、電話をかけ、救急車を呼んだらしい、気の遠くなるような時間の後に、夜の向こうから、サイレンが聞こえて来る。まぶたが、信じられないくらいに重たくなる。でも、僕はそれに必死で抵抗する。絶対に、目を閉じたくはない。動けない体で、せめて目の前の三人の姿を見失うまいと、僕は意識を絞り上げるように保つ。どんなに意識がぼやけていっても、僕は、目の前の三人のことを、自分の視界に収め続ける。

 

 

僕らが何者でもなくなるように 最終回へつづく__

僕らが何者でもなくなるように その14

 

 「何の用だ。いきなり」

 最初に鋭い口調で言葉を投げつけたのは、タカユキのほうだった。ノリマサのあまりにぶしつけな登場に、あきらかに怒りを感じているようだった。僕とアヤカは、何が起こっているのか状況がつかめず、横でじっと見ていることしかできない。

 「何の用? 大事な用さ」

 「誰に?」

 「お前だよ、もちろん」

 「俺のほうは、もうお前に会う必要なんかないと思っていたが。だいたい、何でここにいることが分かったんだ」

 ノリマサは動じず、むしろ余裕すら感じさせるくらいに、大きな声を出して笑う。

 「ソウスケの後をつけさせてもらっただけだ。残念だが、こっちは用があるんだよ。お前もそんなに冷静にかまえていられないぞ、きっと」

 「何が言いたいんだ。用があるなら早くしろよ」

 「まあ待てよ。まずは、紹介だけさせてくれ」

 そう言って、ノリマサはフジオカのほうを向く。フジオカは、すでにノリマサの横に立って、頭を垂れたまま、下から舐めるようにタカユキの顔を見つめていた。

 「いやいや、どうも、タカユキさん。私に、心当たりとかはありますかね」

 タカユキはじっとフジオカを観察してから、怪訝な顔をして、首をかしげる

 「失礼ですが、お会いしたことが?」

 その反応が予想通りだとでもいうように、フジオカが含み笑いとともにうなずく。

 「直接はありません。たぶん、私のフジオカという名前にも、ピンとは来ないでしょう」

 「直接はない、とは?」

 「言葉のとおりです」

 「もっとはっきり、言ってもらえないか」

 「仕事上の付き合い、ってことですよ。ビジネスをやったことがあるんです、あなたの会社と私の会社の間で」

 「うちの会社で、アプリの制作をさせていただいたことが?」

 「そうです」

 タカユキは相手の正体がつかめず、フジオカに合わせるように、妙にかしこまった口調になっていた。しかしそれでも、互いの間には、異様な緊張感がはりつめている。

 「つまり、そのことで、何か?」

 「そうです。その通り」

 「よく分からないな。私どもとビジネスをしたことのある方が、どうしてノリマサと一緒に、私に会いに来るんでしょうか」

 「そうでしょうね。それならまずーー」喋りながらフジオカは、空いていた椅子を持ってきたかと思うと、僕とタカユキの間に割り込ませるようにそれを置いて、そこに座ってしまう。「いったい、何の仕事をお願いしたか、それを分かっていただくところから始めましょう」

 「仕事……」

 そこでバーのスタッフが注文を取りに来たが、フジオカは「すぐに出るつもりなので結構です」と断る。さほど長居をするつもりはない、ということなのか。けれども、僕には、そんなにさっさと終わる用件にも思えない。

 「あまりやきもきさせてもしょうがない、単刀直入に言いましょう。つまり、タカユキさん、あなたのやっている会社には、表のビジネスと、裏のビジネスがあるでしょう」

 フジオカは、急に目を見開いて、タカユキの顔をのぞきむ。狡猾で冷酷な、恐ろしい目だった。タカユキは平静を保とうとしていたが、その唇の端がぴくりと動いたのを、僕は見逃すことができなかった。

 「裏、というと?」

 落ち着いた口調だった、けれども、タカユキは、その表情から苦々しさを隠しきれていない。

 「裏、ですよ。まさか、はっきりと申し上げた方がよろしいとでも? お友達もいる前で?」

 「いったい、私どもの会社の仕事の何を知っているというんでしょうか」

 「ははあ、なるほど。ばれているわけはない、というお考えですね。それもそうかもしれません、だって、あの仕事の依頼を受けるとき、実際の会社名を出すことは決してありませんでしたからね。たとえ仕事を発注した側とはいえ、どこのどんな会社が、それを請け負っているか、知ることはない」

 「どこか、よその会社のことを言っているのではないでしょうかね? 心当たりが、ないんですが」

 「いいでしょう。それならば、マツヤマ、という男をご存じでしょう」

 「マツヤマ? 私の知り合いの中にはいるのかもしれませんが、誰のことなのか」

 タカユキの態度は変わらなかった、それは、会社を経営する中で必然的に身につけたポーカーフェイスなのかもしれない。だが、その落ち着きが、かえって妙な感じがした。会話が進めば進むほど、僕は嫌な予感を募らせていく。たぶん、全く無駄な抵抗だった、ノリマサとフジオカが僕に言ったことを思い返してみれば、この二人が、何かタカユキを決定的に追い詰めるネタを持っていることは、疑いようもない。

 「マツヤタツロウです。営業のマツヤマ、あなたの会社で、つい先月まで働いていた男でしょう」

 「……ああ、弊社のマツヤマですか。ご存じで?」

 「ええ。だって、仕事の依頼をするとき、直接やり取りしましたから」

 聞きながら、タカユキは目を閉じていた。そこには、静かなあきらめと観念あった。

 「マツヤマから、何か聞いた、ということですか?」

 「そのとおりです。マツヤマが退職するという話を聞いて、私は彼に接触し、そして、彼がいったい誰のために働いていたのかを聞き出したんですよ」

 「それが、私だということですか」

 「そうです。もはや隠してもしょうがないでしょう、タカユキさん。マツヤマは遠慮なく喋りましたよ。彼も、仕事を失っていろいろ入り用だったんでしょう。だって、私は彼に情報料をたっぷりとはずんであげたんですから」

 タカユキはうつむいて、長く弱々しいため息をつく。その姿は、タカユキがフジオカに屈してしまったのだということを、僕とアヤカに知らしめるには十分なものだった。

 「それで、今度は俺から、口止め料をふんだくろうっていう寸法か」

 そのとき、ずっと立ったまま話の成り行きを見守っていたノリマサが、タカユキの真正面に立って、身を乗り出してきた。

 「口止め料! 違うぞタカユキ、俺たちは脅迫に来たんじゃない、交渉に来たんだ」

 ずいぶん高揚した様子で言葉を発したノリマサを、タカユキは迎え撃とうとするかのように、椅子に座ったまま睨みつけている。

 「交渉、とは何だ」

 「タカユキ、お前には、いくらか出資をしてもらいたいんだ」

 「出資?」

 「そう、このフジオカさんは、お前のところにいたマツヤマという男がやっていたことを、もっと巧妙で儲かる事業としてやろうとしてるんだ。だから、そのための資金を、お前に提供してもらいたい」

 「お前も一緒にやるつもりなのか?」

 「いや、俺は俺で、別のことをやろうと思ってる」

 「別のこと、とは?」

 「俺は、政治団体を立ち上げるんだ。今、この国のほとんどの人間たちは、大義を見失って生きている。そして俺と同年代か、さらに若い世代の人間たちは、不遇に苦しんでいる。そういうやつらを結集して、国のため、天皇陛下のために尽くす団体を設立する。私利私欲を超えた、公への奉仕の道を開いてやるんだ。お前には、そのための資金を提供してほしい」

 タカユキは何も答えなかった。ただ、あきれたように首を振る。

 「ねえ、ちょっと待ってよ」

 すっかり置き去りにされたまま、タカユキが追い詰められていることに耐えかねたのか、二人の間にアヤカが割って入る。

 「どうした」

 いらだつように、ノリマサがアヤカを見下ろした。目が合った瞬間、アヤカの顔に緊張が浮かんだ。僕には、どこか彼女がおびえているようにすら見える。

 「説明して。いったい、タカユキが何をやったっていうの?」

 「アヤカが説明してほしいそうだ、タカユキ」

 言葉とともに、ノリマサが嘲笑を投げつける。

 「タカユキ?」

 黙っているタカユキをうながすように、アヤカが尋ねる。けれども、タカユキは何も言わない。その沈黙が長くなるほど、アヤカの目にはひどい恐れが浮かび上がってくる。

 「説明してやらないのか?」

 ノリマサが、意地悪くタカユキを追い詰める。それでも、タカユキはじっとテーブルの上に視線を落としたまま、唇をかんでいた。

 「ねえ、何か、そんな脅しを受けるような、まずいことをやったの?」

 アヤカは、半ば哀願するような口調になっていた。僕もアヤカも、タカユキの態度から、いちいちそれを確認するまでもないことは分かっていた。だから、アヤカの姿には、どこか悲痛な感じすら呼び起すものがある。

 「ふん。まあ、お前は言いたくないだろうな。けど、この二人は別に知る必要もないことだ。俺も、お前が交渉に応じてくれれば、あれこれ喋るつもりもない」

 「それは、交渉じゃない。脅迫だ」

 耐えかねて、僕も割って入る。タカユキが何をやっていたとしても、ノリマサの要求に応じる必要はない、僕はそう考えていた。

 「黙ってろ、ソウスケ。どんなふうに受け取ろうが、関係ない。結局、金を出すか出さないか、それだけの話だ」

 全員の視線を受けながら、タカユキは黙っていた。動じた様子はなかった、むしろそれは、腹をくくるために、ほんの二つか三つ、呼吸を必要としているだけのような感じだった。

 「断る。金は、出さない」

 「何?」

 「はっきりと言っただろ。お前らの脅しに、屈するつもりはない」

 それを聞いたフジオカは、全くの予想外だったとでもいうように、目を泳がせる。ノリマサの表情はこわばり、紅潮して、熱い憎悪を浮かび上がらせる。

 「お前がやっていたことを、世の中にばらされてもかまわないってことか? いや、お前、警察に逮捕されるぞ。何もかも失う、それでもいいのか」

 「それでもかまわない。正直、俺はもう、やめようと思ってたんだ。今まで意地を張ってやってきたことを、もう、終わらせるつもりだ。この道の先には、行き止まりしかない」

 「馬鹿な!」

 ノリマサの顔に、見たこともない動揺が表れたことに、僕は驚いた。まるで、今まで拮抗する力によって自分を支えていたものが、それを失って崩落するように、ノリマサは勢いを失う。

 「お前がどんなにあがいても、もはや、俺から何も奪うことなんかできやしない」

 「ーーふざけるな! お前が俺に、何かを偉そうに言うことなんかできやしない。お前はな、そのマツヤマを間にはさんで素性がばれないようにしつつ、怪しいアダルトサイトを経営する男と知り合いのフジオカさんに接触し、架空請求を行うためのアプリを提供したんだ。それをダウンロードしたやつのスマホに、名前と電話番号を表示させて脅迫し、金を振り込ませることのできるアプリをな。マツヤマは、決して少なくはない数の業者とその種のアプリやウイルスのやりとりがあったことを証言してる。昔は正義感を振りかざしてたお前が、今はこの有様だ!」

 僕もアヤカも、言葉も出ないほど驚いてしまい、タカユキを見た。けれどもタカユキは、僕らに向かって肯定のしぐさも否定のしぐさも示さず、ただ、真正面からノリマサの言葉を受け止めている。

 「だから、俺はもう、それを終わらせると言っている。馬鹿なことをしたと思ってるよ。俺はただ盲目に、ありとあらゆる手段を使って、稼げるだけの金を稼いでいた。俺はひたすらに、金を求め、金が与えてくれる力を求めてきた。けれど、俺は今、急にそれを止めようという気になったところさ。俺の救われなさと、お前の救われなさは、ひどく似ているような気がする」

 「何なのそれ。タカユキ、ノリマサが言ってることは、本当なの?」

 か細い悲鳴のような声で、アヤカが尋ねる。

 「ああ」

 無表情であしらうように、タカユキが肯く。それを聞いたアヤカは「何てことなの!」と叫び、顔を両手で覆う。

 「どうしても金を出さないつもりか?」

 「何度も言わせるな。お前の馬鹿げた計画には、いっさい協力しない」

 それを聞いた瞬間、ノリマサの顔に強烈な憎悪が浮かび、激昂して声を荒げはじめる。タカユキの言葉が、追い詰められたノリマサの逆鱗に触れてしまったのだ。

 「馬鹿げた、だと? 俺の考えをまともに受け止めて考えようともせず、偏見で見下しているだけのお前に、いったい何が分かる! お前は結局、自分のことしか考えていない拝金主義者にすぎない。中国人と一緒だ! 日本という共同体に帰属することを受け入れたくないんだろう? 嫌なら出ていけばいい、お前が本当に日本人かどうかすら、怪しく思えてくる。姑息な手段で商売をやって、金を稼ぎやがって。まっとうな日本人なら、絶対に手を染めないことだ。お前の商売のやりかたは、まるで在日と一緒だ。お前のような奴に、日本人の資格はない。本当の国籍があるならさっさと白状しろ! それ嫌なら、さっさとお前と相性のいい国へ出て行ってしまえ! 俺の前から消えろこのゴミクズが!」

 「いいかげんにして!」

 突然、大声とともにアヤカが立ち上がり、ノリマサを睨みつける。アヤカの表情には、僕が見たことのないような、勇ましく、怒りに満ちた感情が表れている。明るいように見えて、いつもノリマサが象徴するような暴力や権威に怯えてきたアヤカが、まるで己の激情に支配されて、恐怖を忘れてしまったかのようだった。

 「口をはさむんじゃねえよ」

 ノリマサが凄んだが、アヤカはまるで退く様子を見せない。

 「ここにいるわよ」

 「はあ?」

 「だから、ここにいるって言ってんだよ!」

 アヤカが叫ぶ。ノリマサは意味がわからず、苛立った顔を向けているだけだ。

 「何なんだよ」

 「あんたがそれだけ憎んでる、「在日」とやらが、ここにいるんだよ」

 「どういう意味だ?」

 「言葉の通り。私は、在日の血を引く人間なの。私の母親は日本人だけど、父親は在日の三世だから」

 ノリマサは絶句して、アヤカを見つめた。アヤカは氷のように冷たい目で、その視線をはねつける。その瞬間、僕はようやく、アヤカが本当に抱えていたものを理解した。彼女の、アイデンティティというものについての、普通の日本人が持っていないような独特の感覚が、どういうところから来ていたのか、僕はやっと分かったのだ。みんなと馴染んでいるように見えて、いつもどこか孤独にとらわれていた彼女の姿を、僕は記憶の中に思い返す。

 「別に、秘密にしてたわけじゃないけど、別にあえて言うことでもないって思ってた。それが支障なく受け入れられるような社会でもないからね」

 「お前、中学のときに、それを隠して俺と付き合ってたのか」

 「そうね。あんたにそれが受け入れられるなんて、思ってなかったから。私があんたと付き合ってたのは、愛情からじゃなく、恐れから。ふん、笑えるわね。あんたがもしあのまま私と付き合って、子供でも作ってたら、今頃、あんたは自分がそんなに憎んでいる、在日の血を引く子供の父親になってたんだから」

 「黙れ!」

 ノリマサは怒声を飛ばしたかと思うと、ポケットからナイフを取り出し、刃の先をテーブルに突き立てる。全く予想していなかった事実に混乱し、目は見開き、唇は震えている。だが、やはり激しい怒りをむきだしにしたアヤカも、それに怯える様子を見せない。

 「何よそれは? 私のことを殺そうっての? あんたが排除したがってる、在日の私の血を、この場で奪い取ろうってこと? 馬鹿ね、あんたは救いようのない馬鹿だよ! ひとつ言ってやるけど、この日本のどこにも、あんたが信じてる「純粋」な日本人の血なんて存在してない。はるか起源から今に至るまで、この日本には様々なところから海を渡ってきた人たちの、いろんな血が混じり続けているんだ。殺すなら殺せばいい、あんたが憎んでる在日も、混血の人たちも、「純粋」でない日本人たちを探し出して、殺し続ければいい。だけど、それは終わりのない作業になるだろう、なぜなら、この日本にいる全ての人の血の中に、「純粋」でない血が混じっているから。あんたは最後の一人になったとき、ようやくそれを悟るんだ。その「純粋」さを守るためには、自分自身をも殺さなければならないってことをね!」

 ありったけの力を振り絞るように叫びながら、アヤカはテーブルの上のグラスをつかみ、中身をノリマサに向かってぶちまける。そしてグラスを置くと同時に、店から走って出ていってしまう。その場にいる全員と同じように、呆然としていたノリマサだったが、すぐにナイフを握りしめたかと思うと、アヤカの後を追って走りだす。

 「待て!」

 僕は叫んだが、ノリマサがそれを聞くはずもなかった。

 「やばいぞ」

 その言葉を残して、タカユキも店を出て行く。一瞬遅れて、僕も動こうとしたが、目の前に店のスタッフが立ちはだかる。

 「通してください、緊急事態なんです」

 「いや、お客さん、お金はちゃんと払ってくださいよ」

 スタッフはにべもなく、僕の頼みを突っぱねる。もっともなことではあるが、今はそんなときではない。フジオカに頼もうかと思ったが、彼は肩をすくめてみせたかと思うと、こそこそと現場から逃げていく。

 「それなら払う、これでいいだろ!」

 僕は苛立ち、そう叫ぶや否や、一万円札を叩きつけ、釣りももらわずに店を飛び出していく。

 

 

僕らが何者でもなくなるように その15へつづく__

僕らが何者でもなくなるように その13

 

 は、僕の行く手を塞いでいる。僕の身体と呼吸を蠕動する闇の襞が飲み込んでいく。それはひとつの眩暈で、夜は無を掻き立て人から存在の衣を剥ぎ取る。無の中で、人は両翼のように時間と空間を捉えようと想像力を広げるだろう。そこでは光が、むしろつまづきとなる。目を閉じるかのように、目を開ける。夜の街で、光が連なっていた。そのあまりの明るさに、僕は迷うことができない。まっすぐに、何ひとつ遅らせることはできず、目的地まで歩くのだ。

 呼び出されたバーに着くと、そこにはすでに、タカユキとアヤカが座っていた。

 「ずいぶん、急な話だよな」

 イスに座るなり、僕はタカユキに向かってそう言った。ノリマサの件について連絡をためらっていた僕に、タカユキのほうからいきなり連絡があり、明日、東京に戻るから今夜会おうと呼び出されたのだ。

 「ちょっと本社のほうで、対応しないといけない問題がでたもんでな」

 「しばらくこっちには帰ってこないのか」

 「さあ。いつになるか分からないな。特別、もうこっちにいないといけない用事があるわけでもないんだ、正直」

 「そうか」

 相槌を打つと、いったん会話を止めて、僕はカクテルを注文した。

 「まあでも、久しぶりに会えてよかったよ」

 「冗談抜きで、だいぶ久しぶりだったけどな」

 僕の言葉に、タカユキは苦笑いを返す。

 「あまり、帰ろうという感覚がなかったからな。故郷という観念が、俺にはほとんどないんだ」

 「それでも、今、一度は帰ってきた」

 「そうだな。自分でもよく分からない。どういう了見で、自分はここに戻ったのか。都合に合う候補地の一つだったとはいえ、なんでわざわざ、自分の育った場所に支社なんて開設してしまったのか」

 「やっぱり、懐かしかったんじゃないの」

 アヤカが、会話に割って入る。

 「俺も最初はそれを疑ったよ。年月が経って、ある程度成功して、自分の出発点みたいなものを省みたくなったのかって。でも、今はそうじゃないって思ってる。この街の風景を見ても、俺には結局何の感慨もなかった」

 「じゃあ、私たちのことが懐かしくなったのね」

 「さあどうだろうな」

 アヤカのからかいに、タカユキはもう一度苦笑いを浮かべる。ただ、その苦笑いのあとで、なんだか遠い目をして、つぶやくように唇を動かしながら、独り何かを考えるような様子になった。

 「場所は懐かしく思えなくても、人は懐かしく思えるものなんだろうか」

 僕の問いかけに、タカユキは一瞬こっちへ視線を向けた。

 「正直に言うと、俺は、最近よく想像してしまうんだ。今自分が手に入れて持っているもの、そして手に入れようと努力しているもの、つまり今の自分を形成しているものがすべて、消え去ってしまったら、俺はそのとき、何を考えるだろう、世界をどんなふうに見るだろうって。あるいは、俺は権威に金で抵抗しようとしているけど、でも、その二つは所詮、人間の妄想の産物でしかない。ならば、権威を相殺するくらいの金を手にしたら、もしくは、いっそそのすべてが消えてしまったなら、果たして俺は自由というものを感じられるだろうか、とか。場所や物は、その手がかりにはならない。結局、人間を通して、俺は何かを知るしかない。もしかすると、だからこそソウスケやアヤカに会ってみようと思ったのかもしれない。まだ、こんなふうにあれやこれやを手に入れる前の自分を知っている他人と話すことが、何かのヒントになるかと思ったのかもしれない」

 「それで、何か見出せた?」

 「さあ、どうかな。でもまあ、人は結局、権威とか金とかに限らず、あらゆるレベルで何かに絡め取られてる。どこで生まれ育ったかとかはもちろん、どういうものに属してどういう人間とつながっているかとか、さらには今ここで話している言葉でさえも、俺を絡め取っている」

 「その全てから、逃れたいとさえ思う?」

 「常に、新しい場所へ移動し続けるしかないかもしれない。既存のものは全て、自分を絡め取る桎梏に変わるから」

 「その考えすら、ひとつの桎梏じゃないのか。人間が新しい領域を求め続けるのは、フロンティアやイノベーションを求め続けるように駆り立てる、資本主義の圧力によるものじゃないのか」

 僕の指摘に、タカユキはしばらく考え込む、カクテルを飲みながら、眉間にしわを寄せていた。

 「そこまで言ってしまうのなら、俺は全てを投げ捨てるかのように、全てから切り離されなければいけないんだろうな。まるで、自分が何者でもなくなってしまうかのように」

 「そんな自由が、果たして実現し得る?」

 「ーーいや、無理だな」

 タカユキはそう言って、笑いとため息を同時に漏らす。あきらめと安堵が、その表情から読み取れるように、僕には思えた。昔から、タカユキにはいつも、絶望の中で、希望も抱かずに歩き続けているような感じがあった。今のタカユキは、もっと速いペースで、それは歩いているというより、走っている状態だった。もしかすると、彼はもっと速度を上げてしまうだろう。そしてもはやそれ以上走れないところまで来たとき、彼は拘束されるのだろうか、解放されるのだろうか。

 「まあ、またそのうち帰ってくるんだろうし」

 会話の切れ目を弥縫するように、あるいは念を押すように、僕は呟いた。僕にはタカユキが、何だか遠い所へ吸い込まれて消えていこうとしているような感じがした。

 「まあ、仕事の用事で来ることもあるかもしれないけど、でも、個人的な感情から、ここに赴くことは、二度とないような気がする」

 また会話が途切れた。次にその沈黙を破ったのは、アヤカだった。

 「ちょっといい? 私も話があるんだけど」

 愛嬌のあるしぐさで、小さく手をあげて、僕とタカユキにそれを示す。

 「何だよ」

 タカユキが、アヤカを見つめる。

 「わたくし、この度、正式に離婚いたしました」

 「ええ?」

 タカユキは大きな声を出して驚いていた、一方の僕は、事情を知っていたので「ああ」と小さく漏らしたくらいだった。

 「それでは、わたくしの離婚に乾杯!」

 アヤカが飲みかけのグラスを掲げ、僕とタカユキに向けて差し出す。

 「いやいや、いきなり過ぎるし、それになんだよ乾杯って」

 タカユキはのけぞってアヤカの乾杯から逃げる。

 「いやほら、だって嫌じゃん、離婚とか言って深刻な雰囲気になるの」

 「ちょっとくらいそうなるのが普通だろ。なんだよその軽すぎるノリは」

 「いいでしょ。私は軽く流してくれるくらいがありがたいんだから」

 「流せねえよ。ついこのあいだ旦那と会ったばかりで、もう離婚とか聞かされたほうの身にもなれ」

 「たまたまそういう時期に出会ってしまっただけじゃない」

 「それはそうだけどよ、なんでいきなり別れることになったんだ」

 「簡単なことよ。殴られたの。といっても一発だけなんだけど。でも、その一発が決定的なことだから」

 「……そうか」

 急にトーンを下げて、タカユキはアヤカを心配そうな目で見つめる。それは、僕がタカユキに再会してから見た中で、もっとも優しげで人間的とでも言えるような、そういう目だった。

 「いいんだって。むしろめでたいというか、解放感? みたいな。もう夫婦関係も上手くいかなくなってたし、ブライアンは日本での生活に苛立って、うんざりしてたし。ちょうど止め時と言えば止め時だったから。それに、私はちゃんと闘ったっていう気分だし」

 「闘った?」

 「もちろん殴り返してやったとかそういうことじゃなくて、私はちゃんと意志を持って、そこから逃げ出してやったってこと。暴力でかなわない相手なんだから、私にできる手段は、躊躇なく逃げ出してやることくらいだった。だから、それを実行してやったの。速やかに、毅然として」

 その言葉に、僕はうなずく。アヤカはアヤカなりに、自分を縛るものから抜け出そうとしながら生きてきたのだろうと思った。

 「でも、これからどうするんだ?」

 タカユキがアヤカに質問する。

 「さすがにそこまでは何も、決めてない。だけど、今までとは、違う姿勢で生きていくんだろうなって思う」

 「今までとは違う姿勢?」

 アヤカは、僕らのほうを見ていなかった、テーブルの上のグラスを見つめてから手に取ると、逡巡するように、おしぼりでグラスの底の水滴を、ゆっくりと拭き取ってから、またテーブルの上に置く。そして、また、意を決したかのように、口を開く。

 「実を言うとね、私は、ずっと、自分のアイデンティティの檻みたいなものから、逃れようと思ってきた」

 「どういう意味だ?」

 タカユキも僕も、どちらも首をかしげた。アヤカの言う意味が、あまりよくとらえられない。

 「妙に昔から、外国に憧れてたのも、そういう理由だと思う。それでブライアンと結婚して、全く別の世界とつながりを持つことで、私は自分がどういう所から生まれて、どういう所で生きてるかってことに、とらわれないような人生が、手に入るような気がしてたんじゃないかと思う」

 「よく分からないな。日本人としてのアイデンティティが嫌だったってことか?」

 「日本という磁場が強制のように意識させる、私自身のアイデンティティについて」

 「日本なんていうのは、むしろ普段みんながアイデンティティなんてものについて考えることをせずにすむ場所じゃないかと思うんだが」

 「それは、あなたが「普通の」日本人だから。だけど、むしろマイノリティなのよ、私は。アイデンティティに対する問いが希薄な場所で、マイノリティになると、それが反対に、とてつもない重圧のように襲いかかってくる」

 「アヤカ?」

 この時まで、タカユキも僕も、アヤカが何を言っているのか、全くピンと来てはいなかった。アヤカが抱えている、あるいは抱えさせられている問題のことなど、これっぽっちも想像して生きてはこなかった。

 その時、いきなり乱暴に入り口のドアを開けて、バーに二人組が入ってくる。照明を落とした室内で、初め、僕はその二人の顔がよくわからなかった、けれども、その二人は何かを探すように店内をうろついたかと思うと、急に動きを止めて、今度はまっすぐこちらへ向かってくる。

 「タカユキ!」

 二人組のうちの片方が、店内の静寂を粗雑になぎ倒すような大声を出す。その正体に、僕ら三人はほぼ同時に気づいて、はっと息を呑んだ。薄暗い照明に浮かび上がったのは、ノリマサの姿だった。勝ち誇るような笑みを浮かべて、僕ら三人を見下ろしている。そして、僕はもう一人の人物の姿を見て、ぞっとしてしまう。声しか聞いたことはなかったのに、僕には一目でそれが誰か分かった、あまりにも想像通りの姿、四十がらみの、腹黒そうな、猫背の男、それがフジオカだった。心臓がひとつ、大きく拍動して、僕は同時に、冷たいものを感じた。これから確実に、悪いことが起こるのが分かった。可能ならば、タカユキとアヤカを覆い隠して、どこかへ避難してしまえればよかったが、もちろん、僕にそんなことはできやしない。タカユキもまた、ただならぬ空気を感じ取ったのだろう、不気味な笑みを浮かべる二人と対峙して、鋭い視線を向けながら身構えている。全てがここに集まり、終わりへ向かっていた、転がり落ちるように、僕には手に負えないような速さで。ノリマサは、ポケットに手を突っ込んで仁王立ちしている。そのポケットのふくらみの形から、僕はそこにナイフが入っていることに気づいた、ノリマサの暴力と悪意が、そこに凝集している。タカユキとノリマサはにらみ合っていた。互いの不穏な敵意が、真正面からぶつかり合って拮抗している。

 

 

僕らが何者でもなくなるように その14へつづく__

僕らが何者でもなくなるように その12

 らった本をバッグにつめて、僕はアヤカの部屋を出た。何か助けてあげられることはないかとか、タカユキに連絡すればしばらく逃げられる場所くらい確保してくれるんじゃないかとか提案してみたのだが、アヤカは何度も「大丈夫」だと繰り返すだけだった。心配だとは思いつつ、埒が明かないので困ったらすぐに連絡をしてくれとだけ言い残して、結局帰ることにした。しかし、僕の知っているあのアヤカが年月を経て結婚し、そして今は離婚かと思うと、その生々しいくらいのリアリティにかえってリアリティを感じにくかった。

 

 家の前までたどり着いたとき、僕はそこに人影を認めた。人影は自分もまた僕の姿を認めると、煙のように不規則にゆらゆらと揺れて、僕の方へと迫ってくる。そのたたずまいと口元に浮かんだ笑みがかもしたす不穏さに、思わず身を固くする。

 「待ってたぜ」

 暗い目つきの男が、僕に上目遣いで視線を向ける。かつての覇気を失い、不遜さだけが残った姿は、何度見ても嫌な感じしか残さない。

 「ノリマサ? どうしたんだ」

 僕はその男、ノリマサを見つめ返す。なんだか気圧されるような感じがして、あえて目をそらさず、じっとその姿を見つめた。

 「話があってな。まあ、頼みごとがひとつ」

 「頼みごと」

 「ああ」

 しばらくここで待っていたのだろう、足元に、タバコの吸殻が二、三本落ちていた。

 「部屋の中で話す?」

 正直ノリマサを家に上げたい気分ではなかったが、いちおう僕はそう言って、住んでいるマンションの入り口を示す。

 「いや、ここでいい」

 足元のタバコの吸殻を踏みつけながら、ノリマサは首を上げて背筋を伸ばす。

 「急ぎの頼みごと?」

 「まあ、早い方がありがたい」

 「どうしたんだ」

 たぶんあまり良い用件ではないだろうが、目の前に来られた以上、聞くだけ聞いてみるしかない。

 「簡単なことさ。前にも頼んだ」

 「前にも?」

 思い返して、首をかしげる。ノリマサに頼まれたことなんかあっただろうか。金の無心は僕にはしなかったし、タカユキにはもう会わせたはずだ。全くピンと来てない僕を見て、ノリマサはまた笑いを浮かべていた。

 「そう、前にも頼んだ。つまり、タカユキに会わせてくれないかってことさ」

 「タカユキに? いやでも、だって……。ということはつまり、もう一度会いたいってことか?」

 「その通り」

 完全にあきれてしまった、前回の散々なやり取りの後なのに、この期におよんでまだ会おうなんて、どうやったら思えるのか。

 「ちょっと待ってくれよ、さすがにそれは無理だろ」

 「どうして無理なんだ」

 「だってこの前、あんなにタカユキの気分を害するようなことを言いまくってたじゃないか」

 「そうか?」

 「そうかって……、自覚ないのかよ」

 「俺は面白かったけどな。俺の言うことに、まともに反論してくるやつなんてめったにいないからな」

 「タカユキが面白がってるようには見えなかった」

 「まあ、そうかもな」

 ノリマサがのどの奥で笑う。その態度には、以前に比べるとなんとなく妙な余裕というか自信めいたものがあった。

 「タカユキに会うとしたって、いったいどういう話をするんだ。前みたいな話をしようっていうんなら、僕はもう頼まれてやらないぞ」

 「前とはちょっと違う話さ」

 「ちょっと?」

 「あいつに金を出してもらいたいっていう目的は一緒だ。けどな、今度は単に、俺の窮乏を救ってもらおうっていうだけの話じゃないし、もう一つ言うなら、今度は頼みごとじゃない」

 「金の無心をするのに、それが頼みごとじゃないっていうのはどういうことだ」

 「頼みごとじゃあない。交渉をやるんだ、今度は」

 「交渉?」

 「そう、交渉さ。俺だって、一方的に金を貸してくれっていう俺の頼みをあいつが聞きそうにないってことくらいは分かる。それに、今度はもっと大きな金額をあいつから出してもらいたいって思ってる」

 「ますます良く分からないな。何か、タカユキにメリットのある話でも持っていくのか?」

 「メリット……というか、あいつのデメリットを消すという話を持っていくんだ」

 「デメリット?」

 「そうさ。デメリット。タカユキも、若くして成功するために、いろいろと探られたくないことを抱え込んでるようだしな」

 再び、ノリマサがのどの奥で笑う。勝ち誇った、嘲笑的な、醜悪さのこもった声で笑う。

 「どういう意味だ?」

 「どういう意味? 俺が言った通りの意味さ」

 「タカユキが、何かまずいことをやってるっていうのか」

 思いもかけないノリマサの言葉に、僕はとっさに感情的な声を出してしまう。タカユキが妙なことをするなんていうのはとても信じられなかった、だから当然、これはノリマサの狂言なんだと思った。他人を陥れようという悪意から出ているとしか、僕には見えない。

 「まあ、ここでそれ以上は言えないな。でも、これはあいつも聞いておいたほうがいい話だ」

 「僕には、そうは思えない」

 「どうしてだ?」

 「お前には何か、悪意を感じるんだ。なあ、ノリマサ、お前に少しでも、あいつを思いやる気持ちがあるなら、あんまり妙なことはしないでくれ。日本人だとか、同級生だとか、そういうつながりが大事だと思うんなら、それを実践してくれ」

 「誤解するなよ、俺はそれが大事だと思うから、あいつに会おうとしてるんだ。そしてあいつにも、それが大事だと思って欲しい」

 「よく分からない。僕にはひどく矛盾して聞こえる」

 「まあ待てよ。お前、最近変な電話がかかってこなかったか?」

 ぎくりとして、僕はノリマサを見る。ノリマサは僕の態度を予想していたかのように、満足げにしている。あのフジオカという男に、いきなりタカユキの会社のことについて聞かれたことと、ノリマサがほのめかしたことがつながると想像して、嫌な冷たい感触が僕の首筋を走る。

 「何か知ってるのか?」

 「ああ。俺がタカユキについて知っていることは、あのフジオカに聞いたんだ」

 「ちょっと待てよ。いったい何をしようとしてるんだ。まさか、タカユキの弱みでも、握ってるっていうのか」

 冷たい感触が刃のように僕の首筋を裂いて、だんだんそれが熱い感触に変わり、僕の心臓の鼓動を速める。何か悪いことが、起きようとしていた。ノリマサの、暗い目が僕を見ている。

 「お前は賢いな。まあ、さっきも言ったように、交渉をしにいくんだ」

 「交渉? 脅迫にしか聞こえない」

 「はは! 心配するなよ。少なくとも俺は、そこまで無茶な要求はしない。俺が欲しいのは、俺のピンチを脱するためのわずかな援助と、俺がこれからやろうと思ってる計画のための、いくらかの資金だ」

 「計画?」

 「団体をひとつ、起ち上げようと思ってるんだ。愛国のための団体さ」

 「そんな団体、世の中に結構あるだろ」

 「俺は、俺の問題意識によって団体を作ろうと思ってるのさ。俺と似たような境遇の、若い、むくわれない人間たちを集めて、ひとつの政治的活動を行う団体にするんだ。自分たちの孤独感や不全感を、表現する言葉をもたない連中に、その言葉を与えてやるんだ。自分たちの孤独感や不全感を打破するための方法を、共に手に入れるんだ」

 それを聞いて、僕の頭はくらくらした。別に自分の思想信条に従って団体を作るくらいは自由にしたらいいが、ただそのために、曲がりなりにもかつて一度は友達だった人間を脅迫しようなんていうのは、明らかに度を超している。ノリマサの精神の歪みが、取り返しのつかないところまで来つつあるように思えた。

 「利用するつもりなのか、タカユキを」

 「利用じゃない、交渉だ」

 「どういう言葉をあてがおうと、それは倫理的にアウトだ」

 「俺の目的は公的なものだぞ、それは私的なものを超えている。それに、タカユキもまた、倫理に反することをやっている」

 「いったい、タカユキが何をやってるっていうんだ」

 「それは、ここでは言えない。ただ、あいつも早めに知っておいたほうがいい。遅かれ早かれ。まあ、そういう話だ」

 「僕は嫌だ」

 「俺は別に、こっちに協力してくれっていうんじゃないぞ。いちいちタカユキに会おうとする手間を省くために、ちょっと取次だけしてくれたらいい。俺がここでしているのは、それだけの話さ」

 ノリマサは、暗い目で僕を見ている。僕も、まるで深淵を覗き込むように、その暗い目を見返した。暗さをはじくための、強い意志を得るために、一呼吸おく必要があった。

 「嫌だ」

 「待てよ」

 「僕は断る。いいから帰ってくれ」

 怒りの感情を表に出すのは苦手だったが、僕は懸命にそれを、ノリマサに向かって矛のように突き出して見せた。ノリマサはその姿を見て、僕が本気だということを感じ取ったのだろう、ため息をつき、首を傾げて上を向く。

 「……そうか。でも、お前が断ったからといって、問題が解決するわけじゃないぞ」

 「ただ単に、ほんのわずかであっても協力したくないだけだ」

 「それならそれで、かまわない、俺は、自分であいつを探して、話をするだけさ」

 足元に落ちていた吸殻を、話の間ずっとノリマサは踏みにじっていた、巻紙は破れてぼろぼろになり、茶色いタバコの葉がアスファルトの凹凸に埋め込まれるように散っていた。

 

 ノリマサが帰った後、僕はすぐに部屋に入り、鍵を閉めた。アヤカからもらった本の入ったバッグを床に置き、うなだれる。ノリマサは、どうして自分を守るために周囲のものを壊さずにいられないのだろうか。そこには、彼自身の表面的な意識から来るものではなくて、もっと奥底の、衝動に近いものがあるような感じがした。タカユキは、いったい何をやったというのか。フジオカは、何を知っているというのか。床に座り、バッグから、アヤカが大切に保管していた二冊の本を取り出してながめる。嫌な予感は、いや増していた、決して止まらず、僕の背中を何度も突き飛ばしてくる。僕はタカユキを、あるいはせっかく戻りかけたアヤカと僕ら三人の関係性を、どうにか守らなければならないと思った。でも、そのために何をしていいのか分からない、そもそも、これから何が起ころうとしているのかさえ分からない。僕は無力だった。僕は仰向けに寝転んで、じっとしていた。誰もいない静かな部屋を占める鉄のような空気は、ひどく冷たく、僕はひとつ、身震いをする。

 

 

 

僕らが何者でもなくなるように その13へつづく__

僕らが何者でもなくなるように その11

 

 うとう週も明けて、人の生活のもう一サイクルが始まったころになって、ようやくアヤカから連絡が来た。特に自分の今までの状況についての説明とかそういうものはなかった、ただ、明日の昼過ぎにでも家まで来て欲しいのだという。あまり元気はなさそうだ。フジオカのこともあったせいで、なんだか僕の周囲で、物事が悪い方向に動いているような気がした。でもまあ、だいたい人間というのは、ネガティヴな気分のときは、ちょっとしたことでも悪いことの兆候のようにとらえて、余計な心配をしてしまう、そういう滑稽な生き物なのだ。僕の場合はいざとなったらパスタでも作ればいい、なんでもないことに充足していれば、なんにも変わらないような気がしてくる。別に悪いことなど、起きはしないのだと。

 

 「いらっしゃい」

 玄関のドアを開けて、アヤカが僕を出迎える。口元には笑みを浮かべているが、どこかうつむき加減で、僕から顔を背けるようにしながら、部屋の中へと案内する。

 「ブライアンは仕事?」

 部屋の中にはアヤカだけしかいなかった。隅にあったマホガニーの机の上には、ブライアンのものらしきメガネと、アルミの灰皿が置かれている。何かで慌てていたのだろうか、灰皿のまわりには、タバコの灰が散らばっていた。

 「そうね。ついさっき出て行ったとこ」

 「そっか。そういえば、先週は忙しかったの?」

 何気なく、予定が延びたことについて質問する。別に会話の糸口としてはごく自然はものだったと思うのだが、アヤカは僕の方に視線を向けることすらせずに「まあね」とだけ短く答えて、部屋の机と対になって立っていた本棚のそばへと移動する。

 「そこにある本、全部処分するつもりなの?」

 「うん。なんか、気分転換でもしたくなってね。そういうとき、私は自分の蔵書をごっそり入れ替えるの。新しいことを考えたりするには、それが一番効果的で手っ取り早い方法だと思うから」

 「何か新しいことをやってみようってことか」

 「そういう気分ね。具体的には何も考えてないけど」

 「まあ確かに、ゼロから本を読んでいって、また新たに本棚を埋めていくっていうのは、新しいことを探したり考えたりするには面白い方法かもしれない」

 「何年かに一回、私はそういうことをするの。特に、生活環境が変わるときに。留学したときとか、日本に帰ってきたときとか、結婚したときとかに、今まではやってきたかなあ」

 「今はアヤカにとって、何かの節目なのか」

 アヤカはかすかに首をかしげるようなあいまいな仕草で僕の言葉に応える。

 「とりあえず、ゆっくりでもいいから見てみて。そんで気に入ったのがあれば、いくらでも持って行っていいから。もちろんなければそれでもいい」

 「うん。そうさせてもらうよ」

 僕はアヤカの横に立って、本棚を眺める。主に英米の作家や有名人による、小説やエッセイが多かったが、心理学や旅行についての本もあった。棚の上のほうから順に、僕はタイトルと作家名を見て、気になったものを手にとって目次と最初のほうのページをぱらぱらとめくってみながら、持って帰る本を選んでいく。下のほうの段にさしかかるころには、僕は手元に数冊の本を抱えていた。それらはアヤカの好みで選ばれた本で、僕には僕の嗜好があるから、実際に全部読むかどうかは分からない。でも、アヤカの本を僕の手もとに置いておくというのは、自分とは異なる視点を自分の懐に入れているような感覚があった。僕とは違ったアヤカの視点が、それらの本に宿って、僕のそばにあるような、そういう感覚だ。

 「あれ?」

 本棚の一番下の段に視線をやったとき、僕はその隅にひっそりと置かれていた二冊の本に気づいた。

 「ああ」

 それを見たアヤカが、相槌を打つように小さく声を出す。

 「買い直してたの?」

 「うん」

 その二冊は、僕らが中学生のころに一緒に読もうかと相談していた、『ハリー・ポッターと賢者の石』と『グレート・ギャッツビー』だった。ノリマサと上級生たちに盗まれてしまった後、アヤカはもう一度その二冊の本を買っていたのだ。古いペーパーバック特有の黄味を帯びて、表紙は時間をかけて読まれたせいで、外へ反って曲がっていた。僕は捨て犬でも拾うように大事に二冊を手にとって、ぱらぱらとめくってみる。

 「結局、一緒に読まなかったね」

 「そうだね」

 あの一件以来、僕らとアヤカの間にはなんとなく溝ができて、親しげなやりとりをすることがなくなってしまい、一緒に洋書を読む相談もふいになってしまった。僕はその二冊を十年越しに手にとって、アヤカがあのとき、本当にこの二冊を買っていたんだということに甘いような苦いような気持ちになり、胸がかすかにうずく。

 「ホントに読んでたんだ」

 「ギャツビーは当時の私には難しすぎてだめだったけど、ハリポタはなんとかがんばって読んだ」

 「そっか」

 「けなげだったのね、私」

 アヤカは笑いを漏らす。なんとも愛しくなるような、それでいて淋しい、そういう笑いだった。

 「この二冊はずっと処分しなかったんだ」

 「うん。私の出発点っていう感じだったから。特別な意味をもたせてたわけでもないけど、なんとなく」

 「じゃあ、今回も処分せずに残しておくんだね」

 「正直迷ってる。なんか、いつまでも残しておいてもなあって、思わなくもないから」

 僕は手に持った二冊を、まるで重さを確かめようとするかのように、手のひらの上に乗せてじっと眺める。

 「それならさ、僕がもらっておいていいかな?」

 「え、欲しいの?」

 「なんか、あのとき約束しただろ。一緒に読もうって」

 「今さら、な話ね」

 「今さら、な話だけどさ」

 「まあ、別にいいよ」

 「とりあえず預かっておくよ。やっぱり手元に置いておきたいって思ったら、すぐに返すから」

 僕は二冊をアヤカの前に掲げてから、他の本と一緒に脇に抱えた。

 「ソウスケらしいね」

 「そうかな」

 何が「僕らしい」のかよく分からなかったが、とにかくアヤカはそう思ったらしい。ふいに僕はアヤカのほうを向いて微笑みかける、アヤカも顔を上げて僕を見る。笑顔だった。笑顔だったが、僕はアヤカの顔の、様子がおかしいことに、そこで初めて気づいた。

 「ーーアヤカ、それは?」

 「えっ」

 一瞬驚いた顔で僕を見たアヤカは、僕が何に気づいたのかをすぐに察して、慌てたように顔を背ける。背けたまま、僕のほうを見ない。

 「アヤカ、それはどうしたんだ。こっちを向いてくれ」

 僕はアヤカの横顔をじっと見る。アヤカは僕から隠したほうの頰を、そっと手のひらで覆ったまま動かない。

 「アヤカ」

 名前を呼ぶ僕に、アヤカは無言で、ただ首を横に振って答える。

 「なんでもないから」

 「なんでもなくないだろ。そんなアザができてるのに」

 アヤカの左の頰には、青くなったアザができていた。ここへ来てからのアヤカの様子とか、先週連絡した時の態度とかを思い出して、僕はなんだか嫌な予感がしていた。

 「まあ、転んだ、みたいなことだよ」

 「転んで、そんなところにアザができるのかよ」

 言い訳がベタでヘタすぎて、嘘がバレバレだった。僕の指摘に、アヤカはうつむいて唇を噛む。そして、ゆっくりと、ひとつ、ため息をつく。

 「……殴られたの」

 「ーー誰に?」

 嫌な予感が的中して、思わず僕は大きな声を出してしまう。アヤカは何度もためらうように、唇を開いたり閉じたりする。

 「……ブライアン」

 「ブライアンが? 何でそんなことを」

 僕はブライアンのことを思い出す。一度しか会ったことがないとはいえ、僕の中で彼は理性的な人間というイメージで、そんなことをするのは意外だという感想しか抱けない。

 「きっかけなんてささいなことよ。ただ、もうずっと、夫婦仲が悪くなってきてたの。ちょっとしたことでブライアンは腹を立てるし、私も理不尽な彼の態度が許せなくて口ごたえを繰り返してた」

 「それで?」

 「それで、今日も朝からケンカして、さっき、とうとう殴られたの」

 「……そんな」

 アヤカがもう一度、ため息をつく。さっきより深いため息だった。

 「私たち、もうだめね」

 「だめって、別れるってこと?」

 「そうよ」

 アヤカは短く、断定的に言う。

 「もう、修復できないのか」

 「口ゲンカくらいならしょうがないけど、手を出すっていうのは、もうだめ。それは、人と人との関係において、ひとつの線を越えてしまってる。暴力は、言葉の空隙に入ってくるものだから。言葉は無力だけど、言葉による努力を放棄した瞬間に、すべての対等な人間関係は崩れ去る。あとは暴力による支配と服従の世界があるだけ」

 僕は何か気の利いた言葉を探そうとした、けれども、何も見つけられない。僕の頭には、なぜか中学時代のアヤカの姿がよぎった。暴力の影をにじませた支配力を持つ、ノリマサのそばにいるアヤカの姿。それがよけいに、僕を複雑な気分にさせ、彼女にかける言葉を見つけることを妨げる。

 「あーあ、まさか、こんなことになるなんてねえ」

 深刻になっていく空気から逃れようとするかのように、アヤカが指先で髪の毛をかき上げながら言う。

 「うん」

 「なんか、いろいろ思い出しちゃった。今までずっと、がんばってきたこととか、楽しかったこととか」

 「そっか」

 「どんなものでも、いくらがんばって積み上げても、壊れる時は一瞬ね」

 「……そうかもしれない」

 「あーあ」

 もう一度、アヤカはため息をつく、今度は小さくて、弱々しくて、震えていた。僕はとうとう本当に何も言えなくなった。何も言えずに、少しでも気丈に振舞おうとするアヤカの、目元をかすかに潤ませている涙を見つめていた。この場にタカユキがいれば、と僕は思う。あのとき、僕とタカユキは、もっと勇気を振り絞って戦うべきだったのではないかという思いが湧き上がってくる。それはもちろんそうではないのだけれど、僕はそう思わずにはいられない。僕はタカユキに言いたかった、あのとき、僕とタカユキもっと力を持っていて、僕らを恐れさせたものと戦えたなら、今ここで、こんなふうなことにはなっていなかったのではないか。そんな、甲斐のないことを僕は考えてしまう。僕はうつむいた。うつむいた視線の先には、脇に抱えた、あの二冊の本があった。どういうわけだか、僕もなんだかもらい泣きしそうになる。ペーパーバックの黄味と、表紙の反りが、僕の胸を、さっきより強く締め付けていた。ただ、僕の目の前でうつむくアヤカが、僕がそこで思っていたよりも、もっと複雑な思いを抱えていたことを、僕はそのとき全く思ってもいなかったのだ。

 

 

 

僕らが何者でもなくなるように その12へつづく__

僕らが何者でもなくなるように その10

 

 れから週が変わって、仕事も落ち着いたので、約束通り僕はアヤカに連絡を入れる。けれども、アヤカは少し待って欲しいと返事をよこしてきた。普段のアヤカの人懐っこさはなくて、手短かでそっけないくらいの態度だった。何か妙だなと気にはなったが、とりあえず急かすような用事でもないので、僕は待つしかない。

 アヤカに会おうと思っていたのに、見込みが外れたので、僕は特にやることが思いつかず手持ち無沙汰になる。何かやるにしても金もないしなあ、などと考えるが、いや、金がないからやることがないというのは、金に毒された考えだと思い直す。自分がもし都会に住んでいるミュージシャンワナビーとかなら、金のない仲間同士で寄り集まってマリファナでも吸いながら楽器を弾いて幸せな気持ちになったりするのだろうかと勝手な想像をしてみるが、しかし自分はそんな派手好みな人種でもないので、健康的に外へ出歩いて、近所の図書館で本などを数冊借りてくる。家に帰って、借りてきた本をパラパラとめくってはみるが、あまり読書へのモチベーションが湧いて来ず、どうにも集中できない。部屋の隅っこにあるサイズの小さなテレビを点けてみる。政治や社会の問題について議論している番組が映った、僕はすぐに嫌な気分になって電源を落とす。一生懸命自説を述べるのは結構だが、皆が躊躇なく「許せない」とか「嫌い」とかいう言葉に乗せて感情を表出させているのが苦手だった。その感情の表出のカタルシスこそがテレビでの議論をエンターテイメントにしているのだとは分かるが、その感情の強さは人のバイアスの強さに比例していて、僕から見ればテレビはバイアスやステレオタイプで溢れすぎていて疲れてしまう。僕はたぶんそういう理由で、文字にされたものの方を好んでいた。文字にされたものが感情から自由だとは思わないが、少なくとも、人は文字にする段階で感情から一定の距離を取っている。

 何か手作業でもするのが一番良いと思い、昼御飯でも作ることにする。ふらふらとスーパーへ出かけ、バジルや松の実などもろもろの材料を買ってくると、ジェノベーゼのパスタを、ソースからだらだらと時間をかけて作った。自分で食べるものをたっぷりと時間をかけて作っていく作業に、やわらかい充足を覚える。こういう日常的で陳腐なことに充足できる側面を持っていることが、僕をある種の無思想に近い人間にしているのであり、良くも悪くも、それが僕の限界でもある。タカユキやノリマサのような人間は、こういうことに興味を抱かないだろう、タカユキはたぶんこれを生活のコストとしかとらえないし、ノリマサはそもそも無関心だろう。彼らは日常の限界の外に立つことを求めている、それが彼らに、極端な思想を抱かせているのだと思う。言ってみれば、それは日常への態度の産物だ。どんなに特異で壮大な思想であれ、全ては日常への態度に端を発している。日常に充足できなかったり、あるいはそれを単純におろそかにしていたりすれば、人の思想は攻撃的になるだろう。それが、僕と、彼ら二人との違いを作っている。ならば、タカユキとノリマサの違いはどこから来るのだろう。タカユキの考えというのは、昔から基本的には変わっていない。彼は個人というものの価値を信じていて、だから年齢や性別や人種や国籍によって無条件に優劣が存在するということを一切認めない。そして彼は、常に未来においてそういうものが実現されることを目指してきた。過去から現在までどこにもなかったものを、未来に求めていた。それが普遍的に認められないならば、せめて金の力で自分一人だけでもというのは、彼なりの、現実とのすり合わせによる妥協なのだろう。一方のノリマサは、人生の不遇に対する怒りを抱えているように見える。中学時代に持っていた彼の権勢は、大人になるほどに崩れて消えていった。彼を魅力的にしていた自信過剰さは、彼の人生を切り開く力を与えなかったらしい。彼がどういう人生を送ってきたのかは知らないが、もしかしたら少年時代の栄光が、後の慢心になったのかもしれない。ノリマサは、権威を求めていた。中学時代に上級生の威光を借りながら、自らのカリスマ性で同級生を支配しアヤカを自分のものにしていた頃への回帰を、求めているのかもしれない。自分が権威に近づけば、過去の力を取り戻せると思っているのだろうか。ノリマサは、過去の状態の復活を、心の奥底で求めている。権威を求める以上、彼は集団がもたらす根拠を必要とする。だから彼にはタカユキのように、自分で自分を救う道はない。タカユキの求める、あらゆる枠を超える個人主義は、ノリマサの根拠を蝕む害悪なのだ。ただ、これはあくまで僕の見方にすぎない、アヤカならまた別の見方をするだろうし、それにタカユキとノリマサにはそれぞれの言い分があるだろう。

 そんなことを考えながら、僕はやはりだらだらと時間をかけてパスタを食べ終える。やわらかい充足。しかし、僕はそこに、危機感を覚えないわけでもなかった。そうした充足は、賢く日常をやり過ごしているようでいて、僕という人間の生を、ゆっくりと侵食しているように思える。未来には、抜け殻のような僕の人格が、老いて、この六畳一間の片隅に横たわっていることだろう、外からの日の光に舞う、細かいホコリを堆積させて。僕は大学時代から似たような生活をおくっている。本を読み、英語を学んで、身につけた能力で翻訳を仕事にしながらも、結局本を読み、日常に充足し、仕事をする、その単調さ。そんな中で、たまに小説を書いたりする。そう考えると、タカユキやノリマサのあの焦燥というか、極端さがうらやましい気もする。今夜は小説でも書こうか。いや、それすらも、僕にとってはただのガス抜きなのか。僕はそれらの行いの全体によって、結局自らの生を痩せ細らせているだけなのか。ならば濃密さとは何なのか。だからタカユキもノリマサも日常を超越するものを求めているのか。しかし現代において、そんな超越は存在しうるのか。超越を見失った世界で、全ては干上がっていくだけなのか。システムの外部という超越と、内部の権威という超越は、どちらが滑稽なのか、そしてどちらがマシな可能性なのか。

 暇が高じてそんなことをぐるぐると考えていると、僕のすぐ横でいきなり電話が鳴った。画面に映っていたのは見知らぬ番号で、僕は首をかしげる。普段わざわざ電話してくるような人間はいない。知り合いだろうと友達だろうと、だいたいがメールなりアプリなりを使って連絡を取るのが日常だ。変だな、とは思った。何よりも、嫌な予感がした。けれども、電話は鳴り続けている、まるで僕が警戒して出ないだけなのを知っているかのように。

 「もしもし」

 そのまま無視してもよかったのに、なんだか気になって、僕は結局電話に出た。

 「ああ。ーーさんですか?」

 電話の向こうで、男が僕の名字を口にした。四十がらみだろうか、声にはどこか人懐っこい感じだが、妙に沈んだ暗さがあって、僕の耳に冷たくどろりと響く。欠陥を隠しながら粗悪品を売りつけようとするセールスマンのような、と言えば分かりやすいだろうか、僕は直感的に嫌なものを感じ取った。愛想よく下手に出ながら、人の懐に土足で忍び込むような、そういう話し方だ。

 「そうですが……」

 僕は電話を握りしめ、身構えるような気持ちで話を始める。

 「いや、突然電話して申し訳ない。私、フジオカというんですが。実はね、ノリマサさんから、この番号を聞いてねえ」

 「ノリマサ?」

 なぜノリマサが見知らぬ男に僕の連絡先を教えるのか。なんだか、嫌な予感がさらに大きくなる。

 「そうなんですよ、ちょっと訳あって、ノリマサさんにいろいろ聞いてましてねえ。それで、ソウスケさんにも、ちょっとお話をうかがいたいなあ、と思ってるんですよ。あ、ソウスケさんとお呼びしても、よろしいですかねえ」

 「話? いったい何の?」

 妙な馴れ馴れしさに、僕は不快感を抱いた。僕を下の名前で呼んでいいかという質問には、あえて答えないことにする。

 「いや、実はね、タカユキさんのことなんですがね」

 「……タカユキが、何か」

 このフジオカという男は、どうやらノリマサにタカユキのことを聞いていたらしい。よりによってノリマサに? いったい何を?

 「ソウスケさんは、あの人がどういう仕事をしているか、ご存じでしょうかね」

 フジオカは僕の許可を得ずに僕を下の名前で呼んでいた。ささいなことのようだが、僕はその瞬間にこの男と喋るのが本当に嫌になってきた。それは少なからず、フジオカが僕のことを本心では見下していることの証だった。他人の自尊心あるいは他人への敬意ということを本質的に理解しない人間と話すというのは、本当に不快な体験だ。

 「いや、詳しいことはあまり。何かアプリの開発を会社でやっているとか」

 「ふむ、ああ、そうですか」フジオカは一瞬の間を入れる。意図的なのかどうか分からないが、妙な含みをもたせているような感じがあった。「じゃあね、ソウスケさん。タカユキさんが、会社でどんなものを作っているか、ご存じですかねえ」

 「あまりその辺のことを細かく聞いたことはないですが」

 「やはりそうなんですねえ」

 「やはり、とは? 何か、ご存じなんでしょうか」

 「いえいえ。私から特に言うようなことはないんです。もし気になるようなら、ソウスケさん、ご自分でお聞きになってはいかかですかねえ」

 「僕はそういう分野については詳しくないし、聞いてもよく分からない。それに、タカユキが何か言いたければ、自分から話すでしょう」

 「ふんふん、そうですか」

 「そうですか、とは?」

 「特に、深い意味はありませんよ」

 「何か意味、というか意図があってタカユキのことを聞いているような感じがするんですが。少なくとも僕には」

 「私が聞きたかったのはね、タカユキさんの仕事について、あなたが何かご存じか否かっていうことだけですよ、ソウスケさん」

 まるで僕の質問が馬鹿げているとでもいうような言い方でフジオカは答える。

 「それだけ?」

 「ええ、それだけです」

 「タカユキに、何か用事でもあるんですか」

 「いや、ありませんよ」

 「ない?」

 「ええ、今のところはね」

 フジオカは、「今のところは」という言葉に妙な含みをもたせながら言った。

 「じゃあ、そのうち何かあるんですか」

 「おそらくね」

 鼻で笑うような、勝ち誇ったような言い方をすると、フジオカはそのまま電話を切ってしまう。後には、フジオカの不快な声の響きと、嫌な予感だけが残った。いったい、何の電話だったのかさっぱり分からない。タカユキの仕事に、何か問題でもあるのだろうか。タカユキのことを思い返してみると、そういえば仕事について語るのを避けていたような感じがしてくる。けれども、それはそういう心配を抱いているからこそ、そういう感じがしてくるだけと言えなくもない。タカユキにこのことを言うべきだろうか。あるいは、世の中で成功していると、怪しい連中が群がってくるものなのかもしれない。だとすれば、僕が喋ってもタカユキに煩わしい思いをさせるだけだろう。正直どうすればいいのかよく分からない。タカユキに、仕事のことについて詳しく尋ねてみるべきだろうか。ぐるぐるとそんなことを考えて、僕は結局、結論を出さないままにしてしまった。

 

 

 

僕らが何者でもなくなるように その11へつづく__