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Teoreamachineの小説ブログ

マルコムX 『投票か闘争か(The Ballot or The Bullet)』 その3

 

 

のくらいの領域になってくれば、我々には新たな友人、新たな連帯が必要になる。公民権運動をもっと高い水準、人権という水準まで広げる必要がある。公民権運動ということでもってやっている限り、あなたが自覚していようがいまいが、あなたはアメリカ司法の手のひらの上に収まってしまう。その闘争が公民権運動である限りは、外部からどんな人間がやって来てもあなたの声を代弁することはできない。公民権は、この国の内部の問題でしかないのだ。アフリカの兄弟、アジアの兄弟、ラテンアメリカの兄弟のみんなが我々の問題について意見を述べ、関わりを持とうとしても、それがアメリカの国内問題だというならどうしようもない。それを公民権だとする限り、この問題はアメリカ司法の手のひらの上に収まってしまう。

 

おかしなことだが、アメリカは独立宣言の中で基本的人権について定めているということが知られている。しかも人権問題を扱う委員会まで備えている。アフリカ、ハンガリー、アジア、ラテンアメリカなどで行われたあらゆる残虐行為が国連で議案に上っているというのに、なぜ黒人の問題が国連で議案に上らないのかとお思いではないだろうか。我々を欺く手管の一端である。こういった年寄りの、ずるがしこい青い目の自由主義者は、あなたの友達のようになって、我々の側についているように見え、我々の闘争を支援しているようで、助言をくれる立場にあるようにしているが、決して人権については口にしない。あなたは公民権の木の皮を剥がすことにやっきになっているが、同じ敷地に人権の木があるなどとは思いもしていない。

 

公民権というものを人権の水準まで拡大していこうとするならば、この国の黒人問題を国連加盟諸国の眼前まで持っていくということが一つの方法になる。国連総会参加者の眼前に持っていくこともできる。アメリカ政府を世界法廷へと連行することができる。だが、それが可能になるのは人権という水準であればこそだ。それが公民権である限りは、あなたはアメリカ司法の傘下にあり、アメリカの懐に収まってしまう。公民権の意味するところは、あなたがアメリカ政府に対してあなたを適切に扱って欲しいと乞うているということだ。だが人権とは、あなたが生まれつき持っているものだ。人権とは、神に与えられた権利なのだ。人権とは、この地球上にある全ての国々において認められているものなのだ。誰かがあなたの人権を侵害するなら、いかなる場合においてもそれは世界法廷において裁かれるはずなのだ。

 

アンクル・サムの手からは血が滴っている、この国の黒人の血が滴っている。彼こそはこの地球で一番の偽善者だ。忌憚なく言うが、厚かましくも自由な世界の指導者として振舞おうと考えている。自由な世界だと! そしてここにいるあなた方は「勝利を我らに」を歌っている。公民権運動を人権の水準まで拡大しよう。それを国連まで持ち込もう、そこではアフリカの兄弟たちが我々に肩入れしてくれる、そこではアジアの兄弟たちが我々に肩入れしてくれる、そこではラテンアメリカの兄弟たちが我々に肩入れしてくれる、そこでは8億人の中国人たちが座っており、我々に肩入れしようと待ち構えてくれている。

 

アンクル・サムの手がいかに血で汚れているのかを世界に知らしめよう。ここで行われている偽善について世界に知らしめよう。投票か闘争か、そこに運命を委ねよう。投票か闘争か、それは避けられない運命なのだとアンクル・サムに知らしめよう。

 

あなたが自分の問題をワシントンDCへ持って行くということはつまり、あなたがそれを犯罪者の所へ持って行くということだ、そこではその犯罪者こそが責任者だというのに。狼から逃げて狐のところへ走っていくようなものだ。どいつもこいつもグルになっている。連中の誰もが政治的詭弁を弄し、世界の人々の目からはあなたがマヌケのように見えてしまう。ここアメリカであなたが街をうろついていれば、いずれ引き抜かれて外国へ送られることになる、まるでブリキの兵隊のように。そして戦場に着いたなら、いったい何のために戦っているのかと尋ねられ、あなたは返答に窮し、言葉を作り出せない舌は頬の内側をつつくだけだ。冗談じゃない、アンクル・サムを法廷に引っ張り出せ、世界の前に引っ張り出せ。

 

私に言わせれば、投票権とはすなわち自由のことである。この点について私はロマックスと意見を異にしているのだが、投票券が金よりも重要だということをあなた方には理解してほしい。それは証明可能なことだろうか? 答えはイエスだ。国連に目を向けてみよう。国連には貧しい国々も参加しているが、投票において力を合わせれば、豊かな国々の行動を抑止することができる。そういった人々は一つの国を持ち、一つの票を持ち、それは誰にとっても平等な票である。アジア、アフリカ、あるいは地球上の有色人種の住む所からやって来た兄弟たちが集まれば、その票の力によってアンクル・サムに王手をかけることが充分可能だ。投票券がもっとも重要だということがお分かりいただけるだろう。

 

今この国において、我々は2200万人のアフリカン・アメリカンである。それが我々なのだ、我々はアメリカにいるアフリカ人である。あなたはアフリカ人以外の何者でもない。アフリカ人以外の何者でも。自らを黒人ではなくアフリカ人と呼ぶことで前進することは確かだろう。アフリカ人は責めを負わない。責めを負うているのはあなただけなのだ。アフリカ人は自分たちのために公民権法を制定させる必要などない。アフリカ人は思い立った時に好きなところへ行ける。だからやることといったら髪型を整えることくらいだ。もう黒人でいるのはやめよう。フーガガグーバとでも名乗りたまえ。そうなれば、どれだけ白人が馬鹿か明らかになるだろう。あなたは馬鹿に付き合わされているのだ。頭にターバンを巻いた濃い褐色の肌を持つ友人たちがアトランタのレストランに行って以来、その友人は自らを人種差別から解放された人間だと称している。白人たちが通うレストランに行って、席に座ると、店員が食事を運んでくる。そこで友人は、「ここに黒人が来たらどうする?」と訊いてみた。するとウエイトレスは友人を見返して、「どうして? ここに来ようなんていう黒人連中はいないけど」と答えたのだ。そこに座っている友人は夜闇のように黒い肌をしているというのに。それは頭にターバンを巻いているおかげらしい。

 

あなたが相手にしているのは、思い込みと偏見によって正気と知性を日に日に失っている人間だ。連中は恐れを抱いている。周囲を見回し、この地上に存在するものを目にして、時の振り子があなたの方へと振れているのを目にする。今、どこで繰り広げている戦いにおいても、連中は勝利をつかめずにいる。どの戦場においても、我々と同じ肌の色を持つ人間と戦っている。だが連中は黒い肌の人間に打ち負かされている。連中はもはや勝利を手にすることはできない。連中はこの前の戦争には勝っただろう。だが朝鮮戦争では勝利を逃した。勝てなかったのだ。連中は休戦協定に署名をするはめになった。それはつまり敗北である。

 

アメリカが自らの持てる全兵器を持ち出して戦争をしても、いつも米を食べている人々から引き分けに持ち込まれ、戦いをものにできずにいる。休戦協定に署名をしなければならなかったアメリカは、そんなことになるとは思っていなかっただろう。アメリカの状態は悪化しているが、これ以上は悪くなりようがない。水爆を使用可能であるというひどい状態にあるものの、ロシアもそれを使うかもしれないという恐怖のために結局使えずにいる。ロシアも同じように、アメリカがそれを使うかもしれないという恐怖を抱いている。両方とも兵器を持っていないようなものなのだ。互いの兵器が互いのそれを無力にしているために、どちらも使用を阻まれている。だから実際に実力行使ができるのは白兵戦だけなのだ。白人はもうこれ以上白兵戦を行っても勝利を手にすることはできない。白人の栄光の日々は終わってしまった。そのことを黒人は知っている、褐色の肌の人々は知っている、赤い肌をしたネイティブ・アメリカンの人々は知っている、黄色人種の人々は知っている。だから白人と戦う人々は、アメリカが不得手であるゲリラ戦に持ち込むようにする。そしてあなた方にはゲリラ戦士になる度胸があり、白人たちにはそれがない。そのことをここで申し上げておく。

 

ごく手短にゲリラ戦について説明させてほしい。あっさりと、あっさりと済ましてしまうので傾聴いただきたい。ゲリラ戦士になるというのは、あなたが自分の道を自分で切り開くということで、力を与えてくれることなのだ。今までの戦争ではいつも戦車を使い、人垣を築いて戦っていた。戦闘機が頭上を飛び交い、他にもごちゃごちゃとしたものがあふれていた。しかしゲリラは自分の身ひとつで戦う。ライフルとスニーカー、飯盒一杯のご飯、そして志、それだけがあればいい。太平洋の島々にいた日本人は、アメリカ軍が上陸してきたとき、たった一人でそれを撃退することもあった。日中はただただ日が暮れるのを待ち、いよいよ日が沈むと暗闇によって誰が誰なのか判別ができなくなる。そして彼は短剣を取り出して藪から藪へと滑り込み、一人また一人とアメリカ人を仕留めていった。白人にはそんなことはできない。太平洋で戦う白人は死を恐れるが故に、どいつもこいつも身を震わせ、緊張状態に陥っている。

 

同じことがフランスにも起こった。フランス領インドシナにおいてだ。もんの数年前まではコメ農家だった人々が団結して、重武装したフランス軍をインドシナから追い出した。もうそんなものは必要ないのだ、近代的な武装形式はもはや機能していない。ゲリラこそが今日の支配者である。ゲリラたちは同じことをアルジェリアでやってのけた。アルジェリア人とは、そもそもベドウィン以外の何者でもなかったのだが、隊列を編成し、丘へと忍びこんだ。そしてド・ゴールと彼の大仰な兵器はそのゲリラを打ち破ることに失敗する。この地上のどこで戦っても、白人はゲリラ戦を制することができないのだ。連中のペースでは追いつけない。ゲリラ戦はアジア、アフリカとラテンアメリカの一部で広がっている。力だけの馬鹿になるがいい、黒人をぞんざいに扱うがいい。いつか黒人が目を覚まし、投票か闘争かという手段を見つけ出すという可能性が、その頭でイメージできないならばの話だが。

 

そして締めくくりに、最近ニューヨークで設立された法人団体ムスリムモスクについてほんの少しだけ述べておきたい。私とその仲間がイスラム教徒であり、その宗教がイスラム教だということは間違いないが、自分たちの宗教と政治、経済、社会、市民活動をこれ以上混同することはしない。自分たちの宗教は自分たちのモスクのなかにとどめておく。宗教上の勤めを終えれば、イスラム教である私とその仲間たちは政治活動、経済活動、社会活動、市民活動へと関わっていく。誰であれ、どこであれ、いつであれ、悪魔を、政治、経済、社会に巣食い我々の共同体の人々を苦しませる悪魔を祓うために、ありとあらゆる手を尽くしている。

 

黒人民族主義の哲学とは、黒人が自分たちのコミュニティの政治と政治家について自由にできるということで、ただそれだけのことなのだ。黒人コミュニティにいる黒人は政治の科学を学習し直さなければならない。そうすれば、政治とは見返りを求めてやるものだということが理解できるだろう。投票券を放棄してはならない。票とは弾丸のようなものだ。標的を目にするまではひき鉄を引くことはないし、標的が射程距離内にいないなら、弾丸はポケットにしまっておかなければならない。

 

黒人民族主義の哲学はキリスト教の教会で教えられている。全米黒人地位向上協会で教えられている。人種平等会議で教えられている。学生非暴力調整委員会で教えられている。イスラム教の集会で教えれられている。他でもない無神論者と不可知論者が集まった機会に教えられている。それはどこででも教えられていることなのだ。ぐずぐず、こそこそ、へこへこ、自由を獲得するためにそんなやり方をすることに黒人はもはやうんざりしている。今自由になりたいのだ、「勝利を我らに」などと言っていてもしょうがない、勝利が我らのものになるまで戦わなければならない。

 

黒人民族主義の経済哲学は純粋で分かりやすい。ただ単に、自分たちのコミュニティの経済活動を自由に行うということだ。なぜ我々のコミュニティにある商店の全てを白人が経営する必要があるのだろうか? なぜ我々のコミュニティにある銀行の全てを白人が経営する必要があるのだろうか? なぜ我々のコミュニティにおける経済活動を白人が掌握する必要があるのだろうか? なぜだ? 黒人の商店が白人のコミュニティに進出できないというのなら、白人の商店が黒人のコミュニティに当然のように進出していることについて説明を求めるべきだろう。黒人民族主義の哲学は経済面での黒人コミュニティのための再教育プログラムに取り組むことだ。自分たちのコミュニティから金を持ち出して生活の場ではない他のコミュニティで使うとき、自分たちの生活の場であるコミュニティはどんどん貧しくなり、金を使ったコミュニティはどんどん豊かになるということを、我々の仲間たちは目の前に突きつけられなければならないのだ。

 

なぜ自分たちがいつも貧民窟やスラムに住まなければならないのか疑問に思うだろう。そして、コミュニティの外で金を使うときにそれを失うというだけでなく、コミュニティ内にある我々の商店を全てに、白人が縄を括りつけてしまっているということも気がかりだ。そのことによって、我々がコミュニティ内で金を使っても、日が暮れる頃には経営者がどこか街の向こうへと持って行ってしまう。彼は我々を万力へと放り込むのだ。あらゆる教会において、あらゆる市民団体において、あらゆる共済組合において、黒人民族主義の経済哲学が示しているのは、今こそ我々の仲間たちが自分たちのコミュニティでの経済活動を自由に行うということの重要さを意識するときだということだ。自分たちの商店を持ち、ビジネスを行い、コミュニティ内で起業することで、仲間の雇用を創出するという状態にまで発展していくのだ。コミュニティ内での経済活動を自由にできるようになれば、ピケを張ったりボイコットをしたり、ダウンタウンで貧乏白人たちに仕事を恵んでもらえるように乞う必要などなくなる。

 

黒人民族主義の社会哲学はただ単に悪魔、悪徳、アルコール依存、薬物中毒、その他コミュニティの道徳心を壊すような悪魔を祓うことだ。我々自身もコミュニティの水準を高めよう。コミュニティで標準とされる水準を高いところへ持って行き、社交の輪に満足できるように、また我々を求めていない社交の輪に入れてもらおうと走りまわることがないように、我々の社会を美しいものにしなければならない。黒人民族主義のような福音の拡大において、それは黒人を白人に再進化させようという意図によるものではない。白人のことなどよく分かっているだろう。そうではなくて、黒人を己自身へと再進化させるためのものなのだ。白人の考えを変えようとしてもしょうがない。白人の考え方など変えようもないし、アメリカの道徳心に訴えるような全ての物事を変えることもできない。アメリカの良心は崩壊している。もうだいぶ前からの話だ。アンクル・サムには良心などない。

 

連中は道徳の何たるかを知らない。自身が悪魔で、違法者で、不道徳であるために悪魔を祓おうとはしないのだ。悪魔を祓うとすれば、自分たちの存在を脅かされるときだけだ。だからアンクル・サムのように道徳心の崩壊した人間に訴えるのは時間の無駄でしかない。良心があれば、何の圧力を感じることもなく物事を正そうとするはずだ。白人の考えを変える必要はない。我々自身の考えを変えよう。連中が我々に対して抱いている考えを変えることはできない。我々は互いについて抱いている考えを変えなければならない。新しい目線で、互いのことを見るのだ。互いを兄弟姉妹のように見るのだ。自分たちでこの問題を解決するのに必要な団結と調和を育むために、暖かい心を持って寄り集まらなければならない。どうすればいいだろうか? どうすれば怨嗟に囚われないようにできるだろう? どうすればコミュニティに存在する疑心暗鬼と分裂を避けられるだろう? これからそれをお話ししようかと思う。

 

ビリー・グラハムが街にやって来て、彼がキリストの福音と呼ぶものを説いて回っているのを目にしたが、あれはただの白人民族主義だ。彼はそいういう人物だ。ビリー・グラハムは白人民族主義者だ。一方の私は黒人民族主義者だ。しかし指導者たちにとってグラハムのような有力者に疑いと羨望をともなう嫉妬を抱くことは自然な傾向である。いったい彼はどうやって教会の指導者たちの全面的な協力を得ることができているのだろうか? 教会の指導者たちが羨望や嫉妬を抱かせる弱さを持たないからだと考えてはいけない、誰しもがその弱さを持っている。海の向こうローマにおいて、一人の枢機卿を教皇として選出しようというとき、彼らは密室にこもるので悪態や喧嘩などがあってもそれは聞こえないようになっている。

 

ビリー・グラハムはキリストの福音を説教するためにやって来る。彼は福音を説くのだ。みんなを扇動して、しかし自分の教会を持とうとはしない。もし教会をつくろうとして来たというなら、既存のどの教会の人間も彼と敵対するだろう。彼はただ単にそこに現れ、キリストについて語り、キリストのいるどんな教会にも行くためにキリストの教えを理解するどんな人々にも語りかけるのだ。こういったやり方であれば、教会は彼に協力をしてくれる。さあ、我々もこのやり方を学ぼう。

 

我々の福音は黒人民族主義だ。どんな団体の存在も脅かそうとは思わないが、黒人民族主義の福音を説いて回っている。黒人民族主義を説教し実践している教会があればどこであれ、その教会に参加しよう。全米黒人地位向上教会が黒人民族主義の福音について説教し実践しているのなら、全米黒人地位向上協会に参加しよう。人種平等会議が黒人民族主義の福音について説教し実践しているのなら、人種平等会議に参加しよう。黒人の地位向上の福音を持つならどんな団体にも参加しよう。あなたがそこへ入ったとき、こそこそ、へこへこといった態度を目にしたなら、それを引き抜いて取り除いてやろう。それは黒人民族主義ではないからだ。そうすれば、もっと別の可能性が見えてくる。

 

 

この方法に従えば、団体はその人数と規模と質を増大させていくだろう。そして8月までに、黒人民族主義の政治、経済、社会の哲学に関心を持つ使節が全国から集まる黒人民族主義集会を開催しよう。その集会を開催した後で、セミナーを開くのだ。議論を交わし、みんなの意見を聴こう。新しいアイデアと新しい解決策と新しい答えを聞かせてもらおう。その上で、そこに黒人民族主義政党を設立する見通しが立つようなら、それを実現しよう。黒人民族主義の軍隊の編成が必要ならば、それを実現しよう。それは投票か闘争かの問題になっていくだろう。それは生か死かの問題になっていくだろう。

 

 

マルコムX 『投票か闘争か(The Ballot or The Bullet)』 その4へつづく――