Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最も純粋な子供達のために その17

 

 原玲がいなくなった後も白澤明歩はしばらくピアノを弾き続けていた。もの悲しい曲ばかり演奏していたがやがてとても疲れた表情になり指先を止める。次に何を弾くのか考えているかのようにじっと宙を眺めてからもう一度カンタータ第百四十七番を弾こうとするが上手く集中できずに何度も演奏に失敗して音を外す。とうとうため息をついて首を横に振り演奏をやめてしまった。

 何も手に付かなくなった白澤明歩はコートを羽織って外へ出かけた。特に行くあても無いままぶらぶらと散歩しながら途中でレコード店に立ち寄ってたくさんの曲を試聴した後で適当に何枚かCDを買う。通りに出るとたくさんの車が往来する音とすれ違う人々の話し声が聞こえて来た。その近くの公園へ続く並木道に入るとそこには紅葉が木から落ちて舗道一面に敷き詰められていた。そこを白澤明歩が歩く度に靴の下で赤や黄色の木の葉がかさかさと音を立てる。たくさんの鳩が群れた広場では鳩の鳴き声が聞こえて来た。母親に連れられた小さな子供が走り回っている。子供におどかされた鳩の群れが飛び立ち羽音が広がった。

 白澤明歩は周囲の音に耳をすましながらそれに反応してコートのポケットに入れた手の指先をピアノを弾いているかのように動かしていた。一瞬だけ頭の中に何かの曲が浮かんで来る。静寂の中から繊細で美しい旋律が次々に現れては重なり揺らいで消えて行くような音楽で雨粒のような小さな水晶の玉が澄んだ泉の水面に落ちて彩り豊かな音を立てているようなイメージが一緒に頭をよぎった。白澤明歩は何の曲だろうかと考えてみたが結局分からずそのまま広場を横切って歩いて行く。

 あ。

 公園を後にしたとき白澤明歩は小さく声を漏らす。そこで初めてさっき頭の中に浮かんだ曲が今まで一度も聴いたことがない音楽なのだと気付いた。それがどんな曲だったのか一生懸命に思い出そうとしたがそれはすでに頭の中から消えてしまっていてどうしても再現することができなかった。白澤明歩は足を速めて自宅へ向かう。早くピアノに触れたかった。そうすれば消えてしまった曲の片鱗だけでも思い出せるかもしれなかった。

 

 

 家の前まで戻って来た白澤明歩はそこに見覚えのある男性が立っていることに気付いた。慎重に近づいた白澤明歩はそれが桐原和弘だと分かった。桐原和弘はどこか後ろめたそうな雰囲気で伏し目がちにしている。

 どうしてここにいるの?

 警戒した様子の白澤明歩が妙な沈黙を嫌がるかのように訊いた。

 ごめん。どうしても訊かないといけないことがあったから。住所を調べさせてもらったんだ。

 桐原和弘は本当に申し訳なさそうな顔をして頭を下げる。

 訊きたいこと?

 つまり何ていうか……。ごめん。やっぱり手短に言うよ。息子は今どこにいるんだい?

 息子……ね。

 そう。玲はどこにいるのか知りたいんだ。

 どうして?警察に連れて行くつもり?

 桐原和弘は違うと即答して首を横に振る。

 あいつが警察にいくなら自分の意志でそうして欲しい。それよりも僕はこれからのことを心配してるんだ。

 これから?

 そう。これからだよ。あいつはきっと何か恐ろしいことをすると思うんだ。

 残念だけど。玲がどこにいるかは知らない。

 白澤明歩は何も知らないふりをしようとしたがかすかな動揺は隠せていなかった。

 何でも良い。手かがりになるようなことでもいいんだ。僕は息子のすることを体を張ってでも止めたいと思ってる。父親としてできる限りのことをしたいんだ。

 白澤明歩はしばらく黙ったまま何かを考え込んでいたがやがて意を決したように顔を上げて桐原和弘の顔を見る。

 私は本当に玲がどこにいるかは知らない。でもたぶん近いうちに玲が現れそうな場所なら見当がつく。

 それはいったいどこなんだい?

 ちょっといいかげんな答えしかできないけど。それはきっと人がたくさん集まる所。たぶん遠くへは行かない。この辺で人がたくさん集まる所は限られてる。だから後はそれがいつなのかが問題ね。

 桐原和弘はそうかと呟きながら何度かうなずいていた。

 ありがとう。

 礼を言われても白澤明歩は何も答えなかった。

 そしてもう一つ。すまなかった。僕は大変な軽蔑に値するようなことを君にしていた。

 突然そんなことを言い出した桐原和弘に白澤明歩は驚いた様子を見せた。

 別に。私は気にしてない。確かに数年前は自分の客のことをどこかで気持ち悪いと思ってたけど今はそういう感覚を持ってもしょうがないと思ってる。私は自分の体を売り物として提供してあなたはそれにお金を出しただけ。後悔はしてない。それをしなくてすむならその方がきっと良かったんだろうとは思うけど。

 ……そうか。僕はとにかく自分のことをとても恥じるばかりだ。

 白澤明歩は何も答えずそれを無視するかのように顔を背けていた。桐原和弘は再び頭を下げてそこを後にしようとしたが白澤明歩はそれを呼び止めた。

 一つ言っておくけど。

 何だい?何でも言ってくれ。

 もしあなたが玲を止めるために何か語りかけようとするならあなたは父親という立場からそれをするべきではない。

 どういうことだい?

 玲は家族というものを根本的に信じてないの。玲の中にそれは存在してないってこと。だからあなたが父親として何かを語ろうとすればそれは玲の耳には届かない。

 桐原和弘はその言葉を理解しようと務めている様子だったが上手くその意味をつかめずに首を傾げていた。

 私に言えるのはそれだけ。私も玲に取り返しのつかないことはして欲しくないと思ってる。

 その場から逃げるように白澤明歩はじゃあねと言ってオートロックのマンションの中に入って行った。桐原和弘は白澤明歩の言葉を何とか理解しようと反芻するかのように家族は存在しないという言葉を何度も呟きながら近くに停めてあった車に乗り込んだ。

 

 

最も純粋な子供達のために その18へつづく――