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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

君の代わりに その15

 

 の上にひっそりと建っていた精神病院は、しかし、陰鬱だとか、不気味だとか、そういう雰囲気ではなく、こぎれいで清潔な印象すらあった。ただし、隔離された場所、という性質のせいなのか、中に入ると、妙なよそよそしさと、独特の緊張感に固まった静けさがあって、僕は身をこわばらせる、そこに立った瞬間、言いようのない孤独感が僕の体を突き刺して、いたたまれなくなった。これは、ここにいる患者たちの持っていた孤独なのだろうか、あるいは、社会が、そこに入る人間たちを隔離するために作り出した孤独なのだろうか。

 僕は、「彼女」の代わりに面会の申し込みをする。「彼女」は言葉を失ってしまっていて喋ることができません、などと口走れば、ややもすればミイラ取りがミイラに、つまり「彼女」が入院させられてしまいそうなので、ポリープの手術をしたばかりで喋っていはいけないんだとか、適当にごまかして、僕があれこれと説明する。始めは異父兄妹ということにしようかとも思ったのだが、変に突っ込まれるとボロを出しそうなので、僕は「彼女」のフィアンセだという設定にしておいた。入院患者の、もう何年も縁のなかった娘が突然会いに来たことに初めは驚いていた様子の担当医は、どうも彼本来の性格らしい無表情で淡々とした態度に戻り、僕の話を聞き始める。

 残念ながら、面会はごく近い親族に限られるという話だった、母親の精神状態はやや不安定で、あまり多くの人間に会わせることはできないということらしい。「彼女」は、一人で母親に会うことに恐れを抱いていた、だから僕は、そのことを切に訴え、どうにか一緒に面会をさせて欲しいということを申し入れる。担当医は、クセなのか眼鏡の縁に何度も手をやりながら首を横に振り、結局、許されたのは、オープンなスペースで「彼女」と母親を面会させ、僕は少し離れた、観葉植物の陰になる席に座って、その二人の様子をのぞいていても良いということだった。

 面会の場所に通され、そこに、まず、「彼女」がぽつんと座らされる。ウッド調の、カフェとオフィスの中間のようなデザインのスペースは、人をリラックスさせる充分な雰囲気を備えていたものの、「彼女」は当然落ち着けるはずもなく、じっとしているのにそわそわとした感じが伝わってきた。僕は、「彼女」から離れた席に座らされることになる、視界は観葉植物の鉢に遮られ、僕の姿は「彼女」の位置からはほとんど見えなくなっていた。

 「浮かない表情だね、当然かもしれないけど」

 その席につく前、すがるような、怯えた表情をしていた「彼女」に、僕は話しかけた。

 「正直、帰りたいわ、やめておけば良かった」

 「やめる、っていう選択肢は、ないっていう話だっただろ?」

 「そうだけど、実際に来てみると、想像以上に恐いんだから。そういう感覚、あなただって理解できるでしょ」

 僕は、無言でうなずく、目の前の「彼女」は、普段の余裕めいた雰囲気を失って、うつむいたまま、白い指で、黒いスカートの布地を、つまんで、せわしなくいじくっている。しわの寄ったその布地の黒色は深く、ゆっくりと渦を巻いているようで、このまま、怯えた「彼女」がそこに吸い込まれて消えてしまいそうだった。

 「まあ、僕もそばにいるし」

 「頼りないけど。いないよりマシね」

 「まだそういう悪態をつけるんなら、きっと大丈夫だろ」

 「だといいけど。私、どうなっちゃうんだろう」

 「それは、会ってみないと何も分からない」

 「彼女」はじっと考え込む、次の言葉は出てこない、そして、そのまま時間が来てしまい、僕は「彼女」に手を振って、「彼女」からは視界の遮られた席に座る。一瞬、「彼女」が、すがるような目をしていた。その目に、確信や決意のようなものはなくて、きっと、今の「彼女」には、逃げ出したいという気持ちしかないのだと、僕は思わざるを得なかった。

 

 

 やがて、準備は整い、「彼女」の目の前に母親が現れる。白髪混じりの、バサバサとした長髪を垂らした中年の女性が、焦点の合っていない目をして、病院のスタッフに誘導されながら、「彼女」に近づいてくる。その女性、つまり「彼女」の母親は、まるで酔っ払っているかのように、ゆら、ゆら、とゆっくりとした動きで左右に体を揺らしている。その姿は、海中で漂うウミユリのようだ。たぶん、まだ五十代くらいなのだろうが、かすかに見えるその横顔には、年不相応な深いシワがたくさん刻まれ、まるで、特殊メイクで顔を覆って作られた老女のように見える。

 観葉植物の葉の間から、僕に見えているのは、「彼女」の表情だけ、戸惑い、微かに唇を震わせ、今にも逃げ出しそうに、怯えている。会うことで、何か変化が起きるのだろうかと思っていたが、今の「彼女」は、母親に会う前の不安や怯えを、そのまま極度に強めただけのような感じで、じっと、その場に座って耐えているだけだった。

 二人が座るイスの間に置かれたテーブル、その上に、筆談用の紙と太めのマーカーが置かれている。鉛筆やボールペンのような、尖ったものは、患者が暴れだすと危険なので使えないらしい。もっとも、「彼女」は喋れないだけでなく、そもそも言葉が出てこないので、筆談すらできないのだ、あんなものを置いても、結局、「彼女」は母親と会話ができるわけじゃない。

 「彼女」は、何も言わない、そして、母親も、何も言わない。じっと、身を固くして震えている「彼女」と、ただ呆けたようにゆらゆら揺れている母親、目の前にいるのが自分の娘だと、おそらく全く認識していない。その精神の荒廃は、想像以上のようだった。もはや、この社会に何の未練もなく、置いてこられるものは全て置いてきてしまい、あとは、その肉体が朽ちるのを待つだけとでもいうように、その母親には、意思や人格といったものが、まるで感じられない。僕はもちろん、この母親がどういう人だったのかは知らない、「彼女」の言うように、「彼女」を含めたいろんなことから逃げてきたのだとしたら、それは自分の思うがままに生きてきたというよりも、たぶん、何か恐れのようなものを抱いて、ずっと逃げまわり、とうとう追い詰められてしまい、超えてはいけない一線を超えて、何か別の領域へ飛び込んでしまったという感じだった。気ままに生きる強さなどは持たず、何も引き受けたり背負ったりすることができない弱さに追いたてられた人、とでも言えばいいんだろうか。ただ、僕の推測は、全て無責任な臆断でしかない。

 向かい合う、「彼女」と母親、その光景は、ひどくおぞましいようでいて、滑稽でもある。恥や怒りや恐怖といった感情を、無表情の仮面の下に抑えこみ、必死で葛藤する「彼女」だったが、一方の母親は、中身が空っぽな笑みをシワだらけの顔の下に浮かべて、「彼女」をコケにするかのように、視線も合わさず、ずっと、体を揺さぶって、やけに響く、ひゅうひゅうという呼吸音を、口と鼻から漏らし続けている。これは、いったい何なんだろう、と僕は思う。こんなのは、「彼女」にとって全く期待はずれの面会だった。「彼女」が期待していたのは、寂しさや欲におぼれて、どうしようもなさを抱えながら、しかしそういう所に、わずかであれ人間臭さを残した母親だっただろう。そうであれば、「彼女」は、自分の中に残った、どうにもできなかった思いを、ここでぶつけることもできたし、あるいは、それを見つめ直すこともできたはずだ。しかし、「彼女」の目の前には、そういうものに耐えもせず、全部、ゴミ箱にでも投げ捨てて、後はただの腑抜けとして、食事と排泄のみを繰り返し、生命と呼ばれるものを維持する、名付けようのない物体が、ごろんと転がっているだけだった。

 「彼女」は、一生懸命何かを考えようとしていた、そして、何かを言おうとしていた、何でもいい、たったひと言だけでも、何かを言う必要があったのだ。きっと、僕には想像もつかないような複雑な感情のうねりと、「彼女」は格闘している、それなのに、目の前にいるのは、どんな言葉も、投げかけるに値しない、ただの木偶のような、母親の残骸でしかない。ひどい絶望感で、「彼女」は青ざめていた、それでも、まだ、何か言葉を発しようとしていたのだろうか、机の上のマーカーを拾い上げると、それを握りしめ、そして白い紙を見つめる。だけど、「彼女」は、それ以上動けない。「彼女」の、必死の葛藤と努力を受け止めるものが、そこにはないのだ、「彼女」の母親は、単なる空洞だった、屈辱と悲しみで揺れる「彼女」の瞳が見つめているのは、単なる虚空でしかない。マーカーを握りしめる手は、ずっと震えていた、「彼女」は唇を噛み締める、「彼女」は悟るしかなかった、もう、この相手には、ほんのわずかな期待すら、持つことを許されていないのだと。左右に揺れる母親の体の、律動に合わせて、水分のない、藁のような白髪が蠢いている、そのシワだらけの顔に空いた二つの目は、どんなおぞましい光を放って、「彼女」を呪縛しているのだろうか。

 面会の時間が終わってしまう、「彼女」は、結局、ひと言も発することはできなかった。

 

 

君の代わりに その16へつづく――