Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

雨滴に浮かぶ

 

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 ――り道で会うなんて、びっくりしました。すごい偶然ですね。

 

 仕事帰りにばったり会った小夜子さんから、メールが来ていた。僕はそのメールを眺めて、すぐには返信をしなかった。何となしの、居心地悪さ。

 この人は、僕のことが好きなのだ。僕はそのことに気づいていた。僕に相対した時の、彼女の喋り方、しぐさ、目線、そういったものが、全てを物語ってしまう。ただ、その感情はとても微妙なものだった。小夜子さん自身にしても、それをどうしようかということについて、はっきりとした意思など持っていない。

 小夜子さんは、僕より十歳年上で、旦那もいる、子どもは二人、上の子はもう中学生。けっこう美人で、すでに女性でいることが面倒になってしまっている同年代の多数派とは違い、落ち着いた茶色に髪を染め、化粧も怠らず、身奇麗にしている。

 仕事で関わりのある会社の、事務のバイトをしていた小夜子さんとは、あいさつ程度に言葉を交わす仲だった。どういう経緯で連絡先を交換したかも覚えていない、たぶん、何か仕事でそうする必要があったのだろう。

 「私、静かにしてるのが好きなんです。例えば食事の時、夫も子供もみんなテレビをつけて賑やかにしたがるのがちょっと嫌で。私は落ち着いて食べるほうがいいなって思ってるんですけど」

 小夜子さんが、いつかの会話の中でそんなことを言っていた。やや派手にしている見た目とは裏腹に、彼女は繊細な人だった。僕と喋るとき、いつも、控えめに、戸惑うように、ぽつりぽつりと言葉を話す。

 

 ――ホントですね。いつもあの時間帯なんですか? 僕は普段より早かったんですけど。

 

 当たり障りなく、僕はメールに返事をする。僕としても、小夜子さんとどうこうなりたいとは思ってない。ただ、つっぱねることもできなかった。彼女は、自分の感情に戸惑っていて、それをはっきりと僕に向けてこようとはしない。その戸惑いと曖昧さのせいで、僕もきっぱりとした態度を示せないのだ。僕に期待をかけている、でも、不倫をしたりする度胸など彼女には微塵もない。

 

 ――そうです。いつも、あそこを通ってスーパーに寄ってから帰るんです。献立を何にするかって考えながら。

 

 その言葉で、急に陳腐極まりない日常に引き戻される、彼女の間に感じていた色恋の危うさが退いてしまい、単なる知り合いの奥さんと喋っているような気分になった。

 

 ――大変ですよね。

 

 僕は逃げるために距離をとるようにして、短い返事をよこす。

 

 ――それじゃあ、また。見かけたら声かけてくださいね。

 

 僕のその感じを察したのか、なんとなく冷静になったのか、彼女のほうからやりとりを打ち切るメールが来た。

 

 ――それじゃあ。

 

 できるだけ短い言葉で、僕もそのやりとりを打ち切る。

 あるいは、僕も優柔不断なのだろうか。不倫なんていうややこしいことは全くごめんこうむりたいのだが、十歳も年上の女性に好意を向けられていることと、そしてこの危うい距離感には、妙に魅力的なところがあるのは否定できなかった。その言葉のやりとりの後の、口の中に残る甘さとざらつきを、繰り返して味わいたくなってしまうのだ。僕が本当に小夜子さんとの関係性を嫌がれば、距離を取ることなど難しくないはずだが、僕は、それをぐずぐずと手の届くところに置いておいたままでいる。

 

 

 僕は仕事に出かける、ほとんどルーチンとなった仕事を、そつなくこなす。事務はおろか、対人折衝ですらルーチンだ。それは、労働が僕を非人間的にするという皮肉で言っているのではなく、ルーチンにするほうが上手くいってしまうということにすぎない。仕事がルーチン化するというのは、ほとんどの職業においてそうだろう。円滑に交渉をするにも安定的に利益を出すにも、物事はルーチンであるほうがいい、リスクもコストも、そのほうがはるかに小さくなる。会社もそうだし、学校も家庭もそうなっている。ルーチンが行き届いていれば、我々の生活は豊かになり安定していく。社会の隅々にまで浸透したこのルーチンの陳腐さは、我々の社会の繁栄の証なのである。

 そして帰り道、まるで起き抜けのように鈍磨した感覚で、ふらふらと歩く。睡眠にしろ、仕事にしろ、僕はとにかく寝覚めが悪い、意識の状態の切り替えのスピードが遅くて、しばらくは大麻でも吸ったように夢うつつだ。あるいはたいてい、帰りの電車でも僕はうとうとしている。僕が本当に目覚めている瞬間など、果たして存在するのだろうか。なんだかうなだれた人のように頭を下げて、僕は歩道の敷石の模様をなぞるように視線を向けて歩いて行く。その日はポツポツと雨が降っていた、傘を持っていない僕は、落ちてくる雫を浴びて思わず目を閉じる。通い慣れた道、このままずっと目を開けなくてもたどり着けそうだ。

 目を閉じていたのは、ほんの一瞬だった、でも僕は、その一瞬の間に夢を見たような気がする。ほんのりと湿った温かい桜色の霧の中で、空から、真っ白い衣に包まれた女性が落ちてくる、ゆっくりと、まるで浮遊しているかのように見えるくらい、ふわふわと、しかし確実に、重力に引っ張られていた。はじめ女性の表情はこわばっていたが、その奥からはじわじわと恍惚が滲み出てくる。僕は何もしない、つっ立ったままで、それを見上げている。やがて、僕は崖のような所にいることに気づく、女性を受け止める地面はない、このままもっと下まで落ちて行くことだろう。そう思ったとおりに、女性が目の前を落下していく、僕と女性の目が合う瞬間、僕はそこに恍惚の絶頂にいる女性の表情を見た。僕は身震いする、それは、この上なく魅力的でありながら、おぞましい表情だった。

 

 

 目を開けた僕は、驚いて立ち止まる。そこには小夜子さんが立っていた、僕とは対照的に、驚いた様子もなく、それどころか僕が来るのをお見通しだったとでもいうように、恬然として、僕を見つめている。

 「また、偶然ですね」

 「――そうですね」

 僕はうなずいた、小夜子さんは笑みを浮かべている、僕はうなずいて考える、なぜ、小夜子さんは笑っているのだろう。

 「今日も早いんですね」

 「閑散期なので」

 「このまま、帰るんですか?」

 「ええ、まあ……」

 別に普通に帰るのかどうか聞かれているはずなのだが、本当に帰ってしまうんですか、と問い詰められているような気がする。今日の小夜子さんは、いつもの、臆病でさえある控えめさから、一歩前に出て話しているような感じだった。

 「今日も、スーパーへ行くんですか?」

 妙な沈黙が挟まったのを忌避して、僕の方から質問をきりだす。

 「ううん」

 小夜子さんは首を横に振る、その仕草はいたずらっぽい少女のようだった。

 「今日は、夫が子供たちを連れて、実家に帰ってるんです」

 「小夜子さんは行かなかったんですか?」

 「私は仕事があったし、ほら、夫の実家に行っても、ね」

 小夜子さんはそう言って、困惑するような笑みを作ってみせた。

 「まあ、そうですよね」

 未婚の僕にはそこまでのリアリティのない話だが、そういう気苦労は想像できなくない。

 「夫はときどき休日出勤があるから、今日は代休なんです」

 「なるほど」

 「急に決めるんです、夫は。昨日の夜に、思いつきみたいに、明日は子供を連れて実家に帰るって言い出して。子供も私のことなんてお構いなしに、夫に付いて行くし」

 小夜子さんはグチっぽくなったのを取り繕って笑みを作るが、口元がかたくなってぎこちない。

 「勝手なもんですね」

 僕は小夜子さんを安心させようと、同意を示す。それを聞いて、小夜子さんの笑みはいくらか自然になった。

 「ほんと、勝手なんだから」

 その言葉は、どこか寂しげに響く。雨脚が徐々に強まっている、その雨の一筋が、僕の頬をかすめて落ちた。

 「あっ」

 小夜子さんが短く声をあげる、そしておもむろに、僕の頭の上に傘を差し出した。

 「ごめんなさい、気付かなくて」

 ぽつ、ぽつ、と、僕の頭の上で小夜子さんの傘が雨滴を受け止めている音が聞こえる。

 「大丈夫ですよ」

 「でも……」

 「いや、本当に。気にしないでください」

 僕は少し強情な体で、小夜子さんの傘を押し戻す。その瞬間、小夜子さんと手が触れ合ってしまい、僕は慌てて手を引っ込める。少し大げさで、不自然な動作になった、それはたぶん、僕が小夜子さんの気持ちについて何かしら意識してしまっていることを伝えるには充分だった。

 目があってしまい、二人とも無言になる。さっさとその場から逃げたほうが良かったのだろうが、その気まずさには、抗えない魅力がある。

 「あの」

 小夜子さんが切り出す。僕はもう、その瞬間にはすでに観念していたような気がする。

 「雨宿りして、行きません?」

 「……そうですね」

 僕は空を見上げる、ぱらぱらと顔を濡らす雨に、目を細めた。

 「どこかで、晩ご飯でも」

 僕はうなずいた。灰色の空は、まだ明るく輝いていて、僕は何だかくらくらしてしまう。

 

 

 僕は小夜子さんと、イタリアンレストランに入り、カウンター席の一番奥を選んで座った。正面を向いて座るのは少し耐えられないような気がして、僕は横並びの席を選んだ。

 「何か、ごめんなさい。私となんかより、もっと若い子と来たほうがいいよね、こういう店」

 小夜子さんは、恥ずかしそうにうつむいていた。本来の繊細さと、僕を誘うような大胆さの間で感情が揺れ動いているのがありありと見て取れた。僕は妙な優越感と、同情にも似た優しさを感じ、彼女の肩を抱きたい衝動にかられる。

 「いえ、そんなことないですよ」

 そう言って、僕は自らを抑制するように、彼女の目を見ずにメニューに視線を落とし、素早くオーダーを決める。

 「でも、彼女とかに悪いかな……」

 「彼女いないですし、別に」

 小夜子さんの表情が少し明るくなる、本人は隠そうとしているようだったが、あまりそういう演技は上手くなさそうだ。

 「どうして?」

 「どうしてって、ただ単にいないだけですよ」

 「慎重に候補を選んでるのね、モテるから」

 「そんなこと、ないですけど」

 運ばれてくる料理に手をつけながら、僕は答える。

 「でも、いいよね。まだ、いろいろ恋愛楽しめるから」

 「楽しむ余裕なんて、ありませんけど」

 探るような質問に、やや辟易して、淡白な言い方になる。

 「私なんて、旦那しか知らないんですよ。恥ずかしいけど」

 急にそんなことを言い出して、ごまかすように小夜子さんは、あはは、と笑う。本当に恥ずかしいのだろう、声がだいぶ上ずっていた。

 「意外ですね、小夜子さん、美人なのに」

 「美人だなんて。私、すごく奥手だったから……」

 小夜子さんはずっと笑っていたが、顔はますます赤くなる。パスタをすくうフォークを握る手に、妙に力が入っていた。僕はその指先を見る、爪は磨かれているのか、つやつやとして健康的だ。僕の視線に気づいたのか、小夜子さんはその手をかばうように、テーブルの下へ引っ込める。

 「もっといろいろ恋愛しておけばよかった、なんて思うもんなんですか」

 「ええと、何ていうか……」

 本心ではそう思っていても、はっきりと答えにくい質問だった。染められた髪、きれいに整えられた化粧、それは小夜子さんの控えめな性格と、ややアンバランスなものだ。そこに、自分が女性として若さを失っていくことへの戸惑いが表れているのかもしれない、と僕は想像する。誇張ではなく、彼女は本当に夫としか付き合ったことがないのだろう。どんな恋愛だったかは分からない、もしかしたら、たまたま適齢期にそばにいた男性に迫られ、自然のなりゆきのように結婚してしまっただけなのかもしれない。全ては僕の想像の域を出ないことでしかないのだが。

 「じゃあ、質問を変えます」

 うん、とうなずいて、小夜子さんは気持ち少し身構える。

 「もし、今、結婚してなかったら、誰かと恋愛したいって思いますか」

 自分で質問しておいて、何でこんなことを言いだすのだろうと僕は思う。小夜子さんは言葉につまり、ますます恥ずかしそうにテーブルの上の料理を見つめている。僕は、その姿に魅了されていた。小夜子さんの美しさというより、何か、ほんのわずかな衝撃で崩れ落ちそうな危うさに。僕は、自分のずるさを自覚していなかった。この安全な場所から、落下の誘惑にかられている小夜子さんを見ている。一歩先へ踏み込む気もないのに、僕に好意を寄せる彼女を、その自覚もなしに、弄ぼうとしてしまっている。

 「……そんな憧れも、あるのかもね」

 口を開いた小夜子さんと、一瞬目が合う。その瞳には、深海のように不可視の青い影がさしていた。深さの誘惑、もちろん、小夜子さんが堕ちていくときは、僕も道連れなのだ。

 「でも」小夜子さんは、慌てたように言葉をつなぐ。「それは結構多くの人が一度は考えることじゃないかな。やっぱり、夫婦って常に円満なわけじゃないし」

 じゃあ今は夫とうまくいってないんですね、と思わず質問しそうになる。あまりに立ち入りすぎだった。だけど、僕は徐々に、どうしても小夜子さんを突き落としたくなる欲動と、その非合理な行為を抑制する理性の間で揺れ始めていた。

 僕も小夜子さんも、途切れがちな会話の中で、食事を進めていた。でも、危うい距離感を、指先でいじくるようにするほどに、二人は、何処か遠くへと、押し流されていく。波に揺られ、気付かないうちに陸から遠いところへ運ばれてしまう、一艘の船に乗っているように。僕と小夜子さんの目が合う時間と頻度は、確実に増えていた、もはや、二人ともそれを恐れなくなり始めていたのだ。

 「さっきの話なんですけど」

 「うん」

 「もし、戻れるなら、何歳に戻って、恋愛したいですか」

 「……結婚する前くらいかな、やっぱり。だから、二十六歳くらい?」

 「相手は? どんな人?」

 「さあ、そこまで具体的に思い描いたことなんて、ないけど。でも、年上で、三十歳くらいが、いいかな」

 その時、僕はあまりに不用意に、遠くへ来すぎてしまったことに気付く。三十歳といえば、僕の年齢なのだ。そして、小夜子さんは今、二十六歳になってしまっている。こんな火遊びは、僕の領分じゃない。火遊びに不慣れな子供たちには、加減が分からない。気がついたときには、とっくに燃え広がっている。

 再び、小夜子さんと目が合う。その目には、とうに、過剰な期待が、本人も自覚せざるを得ないような欲望の火をたぎらせつつあった。小夜子さんを包んでいた清楚さや臆病さが、あられもないほどにはがれ落ちていく。僕はめまいがしそうだった、小夜子さんという人ではなく、淫乱で蠱惑的な妖怪を、目の前にしているような錯覚がまぶたをくすぐる。息が詰まる、そのまま、悲鳴にも似た声をあげてしまいそうだった。

 「そろそろ、出ましょうか」

 平静を装い、やや突然ともとれるタイミングで僕は帰る準備を始めた。

 「そうしましょうか」

 小夜子さんがうなずく。その目が、ずっと僕を見つめていた。僕の意図を探り、問いかけるような視線。期待は、さっきまでより爛々と輝いている。たまらず、僕は目をそらした、それが、小夜子さんに対する一つの裏切りのような行為になると知りながら。

 

 

 雨脚はさらに強まっていた、そのまま外へ出れば服がびしょびしょになってしまうくらいで、傘なしで歩くのははばかられた。

 「ずいぶん、降ってますね」

 店の入口で、僕と肩を並べた小夜子さんがつぶやく。薄暮れの雨は、夕日の名残を留めるようにちらちらと輝き、物憂げな小夜子さんの美しさを際立たせている。

 「でも、ここで待っていても止みそうにないです」

 僕は、このまま逃げおおせるつもりだった。完全に潮時だ、どうせなにもしてやれないのだから、彼女に期待を抱かせるようなことをしてはいけなかったのだ。

 そして僕は、小夜子さんをわざと突き放すかのように、雨の降る通りへと足を踏み出した。

 「あっ」

 慌てて、小夜子さんが追いかけてくる、それと同時に、僕の頭上に傘を差し出した。その時、僕はまた、自分の行動が裏目に出ていることを悟らざるを得なかった。思わず立ち止まった僕と、身を乗り出した小夜子さんは、互いの距離感をつかめず、僕が彼女の体を受け止めるような格好でぴったりとくっついてしまう。

 「ごめんなさい」

 うろたえてそう言った小夜子さんだが、僕から身を離そうとはせず、じっと上目遣いになったままだった。

 「行きましょう」

 妙な沈黙に耐えられそうもなく、僕は再び逃げるように、小夜子さんから距離を取る。それでも、小夜子さんは僕の横にぴったりくっついて歩き出した。細い指で握りしめた傘が二人の体を覆うよう、そっと、僕の肩のあたりにその手を掲げている。

 僕は無言だった、何か間違いが起こらないように、駅まで足を速めた。僕が何も言おうとしないので、小夜子さんは不満そうだった、口を固く結んで、体の奥底の痛みを我慢するかのように、瞳を震わせて、僕の方を、見るともなく見ている。僕も、痛みを感じていた、それが小夜子さんのと同じものなのかどうなのか、全く分からずに。駅が見えてくる、建物から漏れる光が、細かい雨筋に反射する、だが、僕の目には、むしろその間隙の闇が映っていた。その闇に、引っ張りこまれそうになると同時に、雨の輝きが、僕を突き放す、その感覚に、まるで酔っ払ったように、次第に頭がぼうっとしてきている。少しでも、その酔いを覚ましたくて、僕は暗くなった空を見上げた、暗さのせいで、空の高さは全く測れない、だから、この場から逃れるように、自分の意識をずっとずっと高いところへ運ぼうと試みる。駅は明るい、とてもとても。こんな暗い雨の夜でも、正確に電車は動き、その動きに合わせて、人々も正確に動く、ひとつのルーチン、ひとつの永遠のように。なんと我々の社会は繁栄していることだろう。人は、その繁栄の絶頂で、崩壊の夢を見るだろう。堕ちていく人は美しい、我々は堕ちていく人から目を離せない、もっともっと高いところへ、高ければ高いほど、堕ちていく時間は長くなる、その喜悦の時間が長くなる。凍りつくような、冷たい喜悦。

 駅の手前まで来ていた、暗闇はそこで終り、もう少しで、駅の光の中へ、僕は避難できる所だった。そのタイミングで、小夜子さんが突然立ち止まる。僕は、一歩だけ先へと進み、同じように立ち止まる。どうしたのかと、どうしたのか分かっているくせに、僕はしらじらしい怪訝な顔を、小夜子さんに見せてしまう。

 「どうして――」

 急に小夜子さんが口を開いた。その声は、まるで怒りに震えているようだった。

 「えっ……」

 「どうして、何も言ってくれないんですか」

 そのまま、僕と小夜子さんはずいぶん長いこと見つめ合っていた。小夜子さんの眼の奥で、炎がたぎっていた。あらゆる感情を無秩序に、見境なく突き動かしてしまう欲望の炎。その目を向けられた僕は、麻痺してしまう、あとは、観念するだけ。何も言えない、何も出来ない、主導権は、完全に小夜子さんのものだった。

 信号が変わり、動き出した車が通りすぎていく、何台も何台も、不定形のリズムで。過ぎていく車の音と光が、何度も何度も、そのリズムを形成しそうになるが、結局、何度も何度も崩れ落ちていく。裸の小夜子さんが、僕の目の前にいる、炎に包まれ、身を焦がし、もはや何も恐れてはいない。おとなしく、控えめで、自分の生に戸惑い、惚れてしまった十歳も年下の男に弄ばれてしまうような、弱々しく貞淑な女性は、どこかへ消えてしまった。

 小夜子さんが傘を落とす、一度だけ、傘はアスファルトの上で弾み、二人の足元を転がった。僕は小夜子さんのほうを見てはいなかった、だけど、そうすることによって、彼女が何をしようと、僕はただ受け入れるがままになる、そのことを、僕は理解していた。駆け寄るように、小夜子さんは僕に抱きつく、僕は従順に、小夜子さんのほうへ頭をかがめる、小夜子さんは僕のえりをつかんで手繰り寄せ、そのまま僕の唇にキスをした。

 二人とも、そのまま動こうとしない、僕は身をすくませ、えりをつかんだ小夜子さんの手の震えを感じていた。周囲の静寂はひどく重い、その重さに耐えられず、何もかもが崩れ落ちていく。じっと動かない二人の、唇だけが、確かな欲望の炎にもだえるように、ゆっくりと、互いの存在を探るように、密着したままうごめいていた。明るさも暗さも、もはや感じられない。その静寂の重さの中で、僕は、そしてきっと小夜子さんも、どこまでも高く浮き上がっていく、体の軽さに恍惚としていたのだった。