Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

誘惑の炎、存在の淵 その3

 日の間、炫士は街に立った、だが、道行く女たちを見ながら、誰一人に対しても声をかけられず、更けていく夜を見送るばかりになってしまっている。怖気付いたのではない、母と兄ともめたことで内省的になりすぎていた、意識が自分に向きすぎて、他人との間の壁となっている。街を行く女たちが皆、街の風景に溶けこんでしまう。そんな状態でいくらそこへ手を伸ばそうとしても、男も女もビルも車も光も影も、見えているのは何もかも、炫士の意識を鏡に写した幻のようなもので、実体を失いぼやけてしまっているのだ。

 このままではだめだ、と炫士は確信して、とうとう普段は足を踏み入れることのないクラブへ行くことにする。それが解決策になるとは思えないが、このまま路上に立っていても埒が明く見通しはゼロで、せめて何かの気分転換になるかもしれなかった。

 入り口で金を払い、地下へ続く階段を抜けて、開けた空間へ出た、低音が床を鳴らし、原色の光が入り乱れる、フロアの客が、祈りを忘れた信者のようにステージを向いて、体を揺らしていた。特に長居するつもりもない炫士は、上着も脱がずにポケットに手を突っ込んだまま、クラブの中をゆっくり歩きながらそこにいる人々を観察し、やはり無意味だったとため息をつく。炫士はクラブが嫌いだった、似たような種類の人間が、似たような種類の欲望を抱えて集っている様が、どうしようもなく味気ない、居心地が悪い。それに比べると、路上での出会いの方がはるかに色気があった。クラブには孤独がない。安っぽい音と光と人々のいきれが、懶惰な一体感を与え、孤独を覆い隠してしまう。路上でのほうがずっと孤独になれる、孤独は鋭ければ鋭いほど街の風景を深く切り裂いて、その裂け目から甘い果汁のような他人の存在感がどろりとあふれ出る、その液を、闇夜を飛ぶ蟲のように、炫士はすすりたがっていた。体を揺らし浅い陶酔に身をゆだねる人々の間を抜けながら、無駄だと知りつつ、炫士は孤独を求める。思いつきに、隣にいた女に声などかけてみる、女は炫士の容姿に一瞬笑顔を見せたものの、しょせんは気のない態度で話しかけられているにすぎないことを感じ取ると、徐々に不機嫌そうな様子になり、そのうちぷいと顔をそむけてどこかへ行ってしまう。

 また気分は内省的になってきて、ふと、なぜ自分は母と兄をこれほど嫌うのだろうかと考える。一般的に見れば、産まれてすぐ自分を放ってどこかへ行った那美を恨み、そしてその母とより強く根源的な絆で結ばれている速彦に嫉妬しているのだとように解釈するのが収まりがよいと思えるのだが、少なくとも炫士自身は、それは自分に当てはまらないし、自分の感情を説明できるものではない、と考えている。それよりも、自分は那美とは無関係の存在だと思いたいのに、何かどうしても抗えない繋がりがある、さらに速彦がいることで、その繋がりがあることの実体感を無理矢理鼻先につきつけられている、それが、どうしようもない嫌悪感を呼び起こし、自分はそのいら立ちを抑えられないのだ、という説明のほうが炫士にはしっくりきた。両方とも当てはまるのか、両方ともそうではないのか、いずれにせよ、炫士は自分を充分に納得させることはできていなかった。あるいは、自分を納得させられないことにいら立っているのだろうか。

 炫士は踊る人々を眺めていた、所在なく、水っぽい酒をすすりながら、酔うこともできず、空間を満たす音と光によって我を忘れることも叶わない。もはや完全にほうけてしまいそうだったが、炫士は、さっきからある一人の女に目を止めていた。バーカウンターの前に遠慮がちに立って、こちらに背を向けている、着ている服装はどこか場違いで、まるで初めてこういう所へ来たかのように緊張し、身を縮こまらせて、こもった巣穴からのぞくように、恐る恐る人々の様子を観察している。その慣れない様子を見た男達が二、三人、こいつはカモれると思ったみたいで揚々として声をかけたが、女は必死で目をそらし、男達を無視することで身を守っていた。女は、明らかに場違いだった、抱えているのは欲望というより、戸惑いと、そして孤独の影だった、それが女の羽織った地味なコートのすそから尻尾のようにはみだして、原色の光線を受けてちらちらと現れては隠れてを繰り返している。炫士はさっきからずっと、その女に違和感を持っていた。俺は、この女を知っている、そういう直感が、炫士の目を女に釘付けにしていた。何時かどこか街の中で、声をかけた女の一人だろうかと思ったが、そうではなかった、もっと深く、炫士はこの女のことを知っていた。まさか、いや、間違いない、そう考えて意を決し、炫士はゆっくりと、背後から、その女に近づく。

 「奇遇なもんだな」

 横から女の視界に入りざま、炫士は声をかける、相手をおどかさないように、おびえさせないように、柔らかく、落ち着いた口調で。それでも、女はずいぶん驚いた顔をして、びくっと体を反応させ、カウンターに置いたコップを倒しそうになる。ただ、逃げようとはしなかった、その表情は驚きに満ちてはいるものの、次第にいくらかの安堵を含んでゆっくりとゆるみはじめる。

 「誰? 何か用?」

 炫士は顔をしかめる、どうやら、目の前の女――秋姫であるはずのその女は、よく知っているはずの炫士を見止めても、知らんぷりを決め込んだようだ。だが、顔だけでなく、背格好も仕草も秋姫のもので、どうしたって間違えようがない。

 「何って、秋姫じゃないのか」

 「……私、秋姫なんていう名前じゃない」

 ヘタな演技だったが、どうやら本当にごまかすつもりらしい。秋姫はうつむいて視線を外しながらも、半身になって炫士の言葉に耳をかたむけている。後ろめたさを感じると同時に、むしろこの遭遇を期待していたかのようにも見える。炫士は首をかしげながら、しかたなく、秋姫の茶番に付き合うことにする。

 「ごめん、知ってるコに、めちゃくちゃ似てたから」

 「そうなの? でも、違うから」

 薄暗い空間の陰がベールのように顔を覆って、秋姫の細かな表情は読み取れない。

 「でも、そのコ俺が知ってる中で一番かわいいんだけど」

 炫士がわざと軽薄なことを言ってみせると、秋姫は媚態を込めて、ふふ、と笑う。どこか空っぽな笑みだった、秋姫はときどき、そういう笑い方をする、心を失って、声だけが笑っているのだ。

 「ねえ」

 わざと、甘い声で、もったいぶった話しかけ方をする、鷹揚な笑みを浮かべ、自然な動作で、いつのまにか炫士は秋姫の手に触れていた。一瞬、秋姫は身をすくませるが、炫士はまるでそうするのが自然なことだとでもいうように、柔らかく、秋姫の手を包み込むようにして、その動きを制止する。そして、いつも女を口説くときにそうするように、相手の緊張を解きながら気分を盛り上げていくような会話を始めていた、もはや目の前にいるのが秋姫だということは頭の外へ放り出し、合目的性によって設計された機械のように、炫士は女の心をゆっくりと確実に侵食していく。秋姫の真意は分からなかった、いったいなぜこんな所に来ているのか分からない、だが、ゆっくりと紐解かれる織物のように、炫士の誘惑とたわむれている。

 「踊らないの?」

 炫士に聞かれ、秋姫がはぐらかすように首をかしげた。秋姫はすでに戸惑いを忘れつつあり、状況を受け入れている様子だった、炫士のほうを向いて、顔を上げる、その瞬間に、二人の目が始めて合った。炫士はじっと秋姫の目を見つめる、秋姫は目をそらそうとはしていなかった。その目には、意思のようなものは感じられない、むしろそれが抜け落ちている、そうであるがゆえに、よどみがなく、真っ直ぐで、炫士の直視にもひるむことがない。そそのかされるように、炫士の腹に邪悪な思いが湧いてくる、当人が何を考えていようと、秋姫を、兄の腕の中にいるこの女を奪い取り、原色の空間にポッカリと空いた穴の底へ、突き落としてしまいたい、残酷になることの快感を予期して、炫士の指先が、かすかなしびれとともに震えた。

 「おいで」

 炫士は秋姫の手を取り、バーカウンターからフロアのほうへ誘い出す、秋姫はよろめくようなステップで、ふらふらと原色の中の穴へと引きずられて行く。秋姫は炫士を見上げ、ただなすがままだった。秋姫の体は妙に軽い、その場から浮き上がって遊離してしまいそうなくらいに。どこにいても場違いに見える女だった、いつもいつも、どこか別の場所へといざなわれている。炫士は秋姫のことをよく知っている、いつも強い感受性でそれを求めていた、遠い目で、はるか天高い所を見つめている、そして、足元はいつも落下の衝動でぐらついている、目の前の現実を現実だと信じていないかのように、現実の何もかもが砕け散った、その破片とともに奈落へ崩れ落ちていきたがっているかのように。秋姫は、そういう女だった。中学時代の炫士はそれゆえに秋姫に惹かれていたし、おそらく、秋姫もそれゆえに炫士に惹かれていた。

 炫士は安い音楽にあえて降伏するように、自我を放り投げ、周囲の人間と同じような浅い陶酔へ自らの身体をうずめていく。再会した二人は、五年ぶりに手を取り合っていた、浅い陶酔に満たされ、景色がぐるぐると回る、炫士の邪悪と、秋姫の空虚が、原色の光の中で陰陽のように混ざり合っていく。炫士が秋姫に笑いかけると、秋姫は笑みを返した、その、空っぽな笑み、炫士自身はっきりと気づいていなかったが、那美もまた同じように笑うことがあった、こちらを抱き寄せるようでいて、しかし同時に突き放してしまうような、そういう母親と同じ空っぽな笑みに、炫士は途方にくれるような気分にさせられる、その孤絶の中で、あるいは速彦は必死にそれをたぐりよせ、自分は嫌悪してそれを突き放すのだろうか、と炫士は思ってみる。

 「出ようか」

 炫士が尋ねると、それまで浮かれていたようですらあった秋姫の表情が急に曇った。自分はただ期待の中でだけ遊んでいたかったのだというように、現実にそれが迫ると、秋姫はとたんにいまにも逃げ出しそうな雰囲気になったのだった。炫士は少し強めに力を込めて秋姫の手を引こうとするが、秋姫はぐっと身を固くして、それを拒むようにそこから動こうとはしない。秋姫が何を考えているのか分からなかったが、炫士はそこに秋姫の貞操観念を読み取った、速彦のことが頭にあるのだろうか、と思う、すると、たちまちに腹が立ってくる。

 「行こうよ」

 さっきより強い力で、炫士はぐいと秋姫の手を引いた、秋姫はバランスを崩し、炫士の体にもたれかかるような格好になる。はっきりとした拒否ではなかった、秋姫は、ただただその両方の感情に挟まれて、硬直状態になったままだった。炫士は秋姫の二の腕の辺りをわしづかみにして、そのまま秋姫をクラブの外へと引っ張っていく。秋姫はどちらとも決められないまま、ただ体だけがそうなっているのだというように、感情も意思も抜け落ちたような状態で、炫士のなすがままになっていた。

 

 

 半ば強引に秋姫を連れて帰ると、そのまま部屋に入るなり、炫士はキスで秋姫の唇を覆った、中学時代に恐る恐る触れるようにしていたのとは違う、奪うようなやり方だった、冷えた空気で白い肌がこわばっていたが、鎖骨の下の辺りに熱い唇を押し当てると、ゆっくりと溶けていくように柔らかくなる。炫士が服を脱がそうと胸元に手をあてる、だがその瞬間、秋姫はその手をつかんで抵抗する。

 「どうした?」

 炫士が尋ねると、秋姫は黙ったまま首を横に振った。

 「何だよ」

 秋姫は何も答えない、そしてそのまま、炫士の手をゆっくり胸元から押し離す。

 「嫌なのか?」

 秋姫は首を横にも縦にも振らない、じっと、うつむいて、床の一点を見つめたまま動かない。 

 「何でついて来た?」

 まるで自問するかのような口調で、炫士は秋姫に問いを投げかける。秋姫はそんなことを聞かれたくないと示すかのように、いっさい視線を上げようとしない。

 「秋姫」

 名前を呼ぶ、反応はない。薄明かりに、秋姫の長いまつげが揺れていた。一度、唇を噛む、そしてしばらくすると、その唇がほどけ、ゆっくりと、ほんの舌先がのぞいた、ようやく、秋姫は喋りだそうとしていた。

 「……私は、秋姫じゃない」

 「そうか」

 炫士はため息をつく。もう名前を呼ぶのは止めておこうと思った、自分が秋姫だと認めさせたところで、何になるというのか。

 「彼氏は?」

 今度は、会ったばかりの女に対するような態度で聞いてみる。その態度の違いを感じ取ったようで、秋姫は一息つくような動きで、視線を少し上げる、それは炫士の首もとまで来ていた。

 「いるよ。もうすぐ結婚するの」

 「結婚する前に、他の男と遊んでおきたかったのか」

 その質問をしながら、秋姫は自分を求めていたのだろうか、それとも誰でも良かったのだろうか、と炫士は考えていた。秋姫は出てくる見込みのない答えを探そうとするかのように、炫士の首もとを見つめている。

 「……私ね、この前、その人のお母さんに会ったの」

 期待した答えとは違っていたが、ようやく自分の意志で喋ろうとする秋姫をうながそうと、炫士は相手を安心させるようなゆっくりとした相槌を打ってやる。

 「それでね」

 「うん」

 「何か、恐くなっちゃった」

 「どうして」

 「何だか、その人の感情が見えなくて」

 「感情?」

 「何ていうか、自分が今ここでこうしているってことについて、どう感じているのかっていうことが、見えなかったの」

 「感情が見えなくて、恐ろしかったってことか」

 「そうじゃなくて、何だかその人を見てると、自分がこれから私っていうものを失って、透明な記号になっていくような気がしたの。この住所に住んでいる、こういう名前の、奥さん。旦那の職業はこれで稼ぎはこれくらい、子供はこの学校に通ってて成績はこれくらい、私はこれから、そういうものの寄せ集めでできた存在になる。その人は、自分がそういうものの寄せ集めだってことにまるで何も感じなくなったかのように、感情が見えてこない」

 「自分も、その母親のようになると思った?」

 「それは分からない、その人が、本当にそういう人なのかどうかも分からない。感情が見えないっていうのも、私の思い込みが強いせいかもしれないし、それに、その人がどういう気持でいるかっていうのは、結局表面的なことだけじゃ理解できないだろうし」

 「さっきから結局何が言いたいのか、よく分からないな」

 炫士が分からないのは、秋姫が言っていることの内容そのものではなかった、秋姫の言葉のひとつひとつには、どこか感情が抜け落ちたような空疎な響きがある。だから、秋姫の話している内容を、本当に秋姫がそう思って言っているという感覚が、まるでないのだ。秋姫が本当は何を思っていて、何を言いたがっているのか、それが分からない。秋姫の言葉は、秋姫の感情や思考からはどこか遠いところにあって、まるで水面の朧月のようにつかみようがない。今話していることも、録音された一般的な女性の悩みを口から再生しているだけで、本人の悩みは全く別の所にあるような気がしてくる。あるいは、自分自身のことを、那美に投影しているようにも聞こえるが、秋姫にはそういう分かりやすさを拒絶するようなあいまいさがあった。

 「私は、自分が分からないことを、いつも分からないまま放っておくの」

 「とんだ迷子だな。答えが欲しいと思わないのか」

 「答えなんて、持ちたくもない、持ってしまえば、どこにも逃げられなくなる」

 「逃げ出したいのか」

 「でもきっと、逃げ場なんてない」

 「逃げるなんて、簡単だろ」

 「逃げてしまえば、逃げ場を失うだけ、逃げ場がなかったってことに気付くだけ」

 「話を聞いてると混乱しそうだ」

 「混乱? そうね、私はきっと、混乱したいの。もっともっと、どんなふうにすれば私が私を失うのか、分からなくなるくらいに、混乱したい」

 「それで、あんな所へでかけたのか」

 「でも、こうなったのは成り行き。何もかも、始めから意図したわけじゃない」

 「それで済むのか?」

 「何度も言うけど、私はあなたの知ってる誰かじゃない」

 秋姫は、その場に立ったまま、抜け殻のように喋っている。恐れのあまり起こってしまったことを否認する態度にも見えたし、異常な鈍感さで起こったことを理解してない様にも見えた。まるで他の誰かになってしまったかのようだった、自分が邪心から突き落としたはずの秋姫が、その穴の底から自分を引きずり込もうとしている感じがして、炫士はその女に触れることの怖さを思った。だが、そこには何か抗えない魅惑が存在し、炫士はもっと深いところまで秋姫を突き落とし、引きずり込まれたい欲動にかられる。そうなれば、二人の間にいる速彦もまた、その穴の中に引きずり込まれるだろう。

 「また、会える?」

 このまま強引にベッドに組み伏せてしまおうかとも思ったが、炫士は踏みとどまった、秋姫だけではなく、炫士もまた、何もかもをめちゃくちゃにすることには及び腰になる。

 「さあ、成り行き次第ね」

 「もう一度、俺はあのクラブに行くつもりだ」

 「そう」

 約束は交わされなかった、炫士の目の前には秋姫の姿がある、秋姫はゆっくりと炫士から顔を背け、部屋の奥のガラス窓の方を向いた。炫士はもう一度キスをしようかとためらう、この女は、速彦ではなく、自分のものなのだという意識が湧いてくる、自分のほうがこの女のことを先に知っていたし、本当ならこの女の貞操は、自分のものになるはずだったのだ。たぶん、自分はこの女のことなど愛してはいない、だが、この女を好きなようにするのは、速彦であってはならない、自分でなければならないのだ。炫士はそう考えながら、視線をガラス窓へと移していく、そこに映った秋姫の顔、暗い陰に隠れて、どんな目をしているのか分からない、薄明かりに浮かぶのは、口元だけだった。どういう感情なのか、秋姫は笑みを浮かべていた、背中からは怯えや戸惑いがうかがえるのに、その口元に浮かぶのは、空っぽなほほ笑みなのだ、唇がすうっと裂けて、奥から口腔が現れる、窓ガラスの向こうのそれは、深い闇でしかない。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その4へつづくーー