誘惑の炎、存在の淵 その5
炫士は病室を出て、談話室のソファに腰かける。岐史の命に別状はなかった、だが、結局そのまま入院ということになり、家族で岐史の病室に集まりこれからのことなどを話していたのだった。炫士にも死にゆく人間に対するいくらかの同情心はあって、だから速彦と那美と同じ部屋にいても、つまらないぶつかり合いをして岐史の心労を増やすようなことを避けるために、あえて刺のある言い方をするようなことを控えていたのだが、やはりその二人といると先のいさかいのこともあり、ねばつくような嫌な緊張感と否定しがたい嫌悪感に胸がむかつき、とうとう耐えられなくなって、トイレに行くと嘘をついて病室の外へ出てきてしまったのだった。
「そんなに一人がいいか」
しばらく談話室で座っていると、後ろから声がする、振り返ると、いつものように不愉快そうにこちらを見る速彦の姿があった。
「そうだな。やっぱりお前らと一緒にいると疲れる」
「こんなときでも憎まれ口か」
「こんなときだけ仲良くして、それが何になる。少なくとも親父の前では我慢してただろうが。それで充分だ」
互いに口を開けば、という具合に、言葉の数だけ雰囲気は険悪になる。二人の敵対心は大人になるほど深まってきていた、小さい頃は普通の兄弟に近く一緒に遊ぶこともあるくらいだったが、那美が返ってきてから次第に距離ができはじめ、炫士が中学生になるころには、二人の間の亀裂はもはや決定的なものになっていた。
「親父と、何話したんだ」
これ以上やってもいらぬいさかいの繰り返しだというように一度ため息を挟んでから、速彦は質問する。
「気になるんか」
炫士にとってはどうでもいい質問だった。だが、速彦は表面上の何気ない様子よりはずっと、その答えを知りたそうに見える。自分の方が岐史と近いと思っているだけに、倒れる寸前の体を押してまで炫士に話したかったことが何なのかが気になるのだ、炫士はそれと知っていたからこそ、わざと必要以上に煽るような言い方をする。
「何だ偉そうに。もったいぶるな」
「別にもったいぶってないだろ。そんなに気になるのかどうか聞いてるだけだ」
「言いたくないなら言わんでもいい。つまらんことで優位に立った気になるな」
「いちいちイライラするなよ」
速彦は炫士の言葉をふんと鼻で笑うようにして、自分が兄であるということの優位を示そうとする。
「まあいい。お前のつまらんもったいぶりには付き合ってられん」
「最初から俺のことなんかほっときゃいいんだよ」
炫士の態度にいらつきを隠そうともせず、速彦は音を立てて舌打ちを返す。
「それはそうとな、お前、母さんにしっかり謝っとけ」
耐えられなくなったのか、速彦は唐突にそのことを蒸し返して、口調は徐々に荒くなる。
「何を謝ることがある」
「言わないと分からんのか」
「俺はあの時本当のことを言っただけだろ」
「本当のことだったら何言っても良いんか。もう昔のことだ。もう終わったことだ」
「お前にとってはそこで終わったことかもしれん、でも、俺にとってはそこから始まったことだ」
「何を言ってる?」
「お前や親父にしたら無くなったものを取り返してハッピーエンドってことになるんだろうが、俺にしたら得体の知れない女がいきなり家にあがり込んできただけだ」
「得体の知れない女だと? 何て言い方をするんだ」
「事実俺にとってはそうだからな」
「お前の産みの母親だぞ」
「だから何だ。どちらにしろ得体が知れない」
むしろ、だからこそ得体が知れない、と炫士は思う。突きつけられている事実――自分があの女から産まれたという不気味さを、いったいどうやって処理できるというのだろう。
あきれたような顔をして、速彦は談話室の自販機に手をつきながら、じっと考えるようなそぶりをしている。炫士は不機嫌な態度でソファにふんぞり返っていた。談話室には二人だけで、沈黙の度に自販機の耳ざわりなモーター音が低く重く響く。
「……しかしお前は何でもかんでも拒んでばかりだな、そういうところが子どもじみてるんだよ。少しは境遇を受け入れてから物を考えろ」
「俺にとってそれは、受け入れるとか受け入れないとか、そういう問題じゃないんだよ。お前がそれを受け入れるべきものだと考えていることがすでにおかしいんだ」
二人はにらみ合う、重なりあって増幅しうねる波のように、感情が昂ぶっていく。まごうことなく、二人は兄弟だった、その血縁の肉迫が、ほんのわずかなずれさえも、敵意として炸裂する危うさへと転化させていく。
「いったい何なんだお前は、家族をめちゃくちゃにしたいのか? 母さんも俺も、そして誰より父さんが十年以上かけて、バラバラになったものを修復しようと努力してきたのに、お前は自分のくだらないふてくされた感情なんかのために、それを台無しにするのか」
あるいはそうだった、別に三人の努力を踏みにじろうという意図が炫士にあるわけではない、だが、その努力が必然的に自分を巻き込んで、自分の望まない、悪寒のするような、家族というシロップ漬けの沼のようなものへ、そのまま引きずっていこうとしているようで、炫士はその一部になることをかたくなに拒みたかった。そのまま飲み込まれれば、抜け出せなくなり、どろどろと溶けていき、ついには自分と言い得るものが、何もかも消えてしまうように思えるのだ。炫士は速彦をにらむ、何と答えて良いのか分からなかった、勝手にやってくれとも言えない、自分がどんなにそれと関係ないという態度を取ろうとも、あるいは同様に速彦や岐史が炫士を抜きにして三人の家族の絆を作り上げたとしても、何も変わらないのだ、自分はすでにそこに産まれ落ちてしまった、そのことだけで、その繋がりは消しようがないのだ。
「どうなんだ」
もう一度、速彦が聞く。炫士は答えない、答えを用意できない、自分の考えを的確に表す言葉を、どうしても見つけることができない。
「……そうだな」
「そうだなっていうのは、どういうことだ」
「そんなもの、めちゃくちゃになればいい」
思考よりも、感情が先走りして、取り返しの付かない所まで炫士を突き飛ばす。答えだけがはっきりしていた、ただ、理由がまったく自覚できない。炫士は常に炸裂するような正体のない怒りを持っていた、その感情の力は理性などものともしない、そもそも理性にできるのは感情をなだめることであって、コントロールすることではないとばかりに、後先考えないような言い方をする。
聞き取れないような言葉で先に怒りを発したのは速彦だった、感情の昂りを炫士に向けながら、拳で自販機を叩く。
「クズだなお前は、何でお前なんかが俺の弟なんだ、何でお前なんかが父さんと母さんの子どもなんだ」
その言葉に、炫士はほとんど発作的に立ち上がる、そして、速彦の怒りに触発されたように、自らの怒りもたぎらせ、強い憎悪の視線を向けた。速彦の言葉に、自分でも意外なほど頭に血が上っていた、むしろ普段から自分で考えているようなことなのに、いざ他人から言われると、この上なく心外な言葉に聞こえる。
「お前はお前でベタベタしすぎなんだよ。母さん母さんうるせえな、このマザコン野郎が」
「俺のどこがマザコンだ」
「マザコンそのものじゃねえか。お前の頭の中心に母親が居座ってるのが見え見えなんだよ」
「この野郎!」
速彦が炫士に跳びかかった、不意を突かれ、炫士はバランスを崩して思い切り壁に背中から叩きつけられる。速彦は炫士の胸ぐらをつかみ、息を荒らげ、歯をむいていた。家族に背を向け、決して兄である自分の思い通りになろうとしない炫士を、やっきになって抑え込もうとしている。幼い頃は、年長の速彦の方が頭も体も優れ、無知薄弱な弟を支配することができていたが、今は炫士の方が体も大きく、何を考えているのかも分からない。そのことが、速彦を必要以上に必死にさせる。
「放せ」
炫士は胸ぐらをつかむ速彦の手をつかみ返し、そのままねじり上げようとする、二人の力は拮抗するが、しかし大人になった今、腕っぷしが強いのは炫士の方だった、速彦の指がゆっくりと解け、そのまま持ち上げられていく。一見冷静だが、暴力衝動は炫士の奥底で軋むような音を立てている、炫士の頭の中では、殴り飛ばした速彦の返り血で視界が真っ赤に染まるイメージが猛烈なスピードで点滅を繰り返していた。
「俺は、お前を許さんぞ。自分を育ててくれた家族にここまで仇をなすお前は、絶対にろくなもんにはならん。地獄というものがあるなら、さぞかしお前にふさわしい行き場だろうよ」
腕をつかみ上げられ、息を喘がせながら、速彦が呪詛を吐く。炫士は速彦をにらみ返す、その瞬間、まずはこいつだ、という考えが脳裏をよぎった。自分が家族から切り離されるためには、まずはこの歩兵のような、番犬のように吠えている、こいつからだ、そういう直感が、電光のように炫士を撃った。
「俺は地獄も天国にも行かん、そんなものは俺には無関係だ、けどな、俺はお前を蹴落としてやる、餓鬼のようにまとわりつくお前を、奈落へでもどこでも、蹴落としてやるぞ」
こいつをめちゃくちゃにしてやる、理不尽なほどの悪意が炫士の中でみるみるうちに膨れ上がった、那美の顔が浮かんだ、そこにたどり着くには、まずこいつからなのだ、こいつが目の前で吠えている限り、自分はそこにはたどり着けない――悪意は、暴力をともなって、皮膚の下を這い回る。
「何を――」
速彦の言葉を遮るように、炫士が勢い良く速彦の腕をねじり上げ、体勢を崩したところを突き飛ばした、そして速彦はそのまま自販機へと叩きつけられる。側頭部を打って、速彦はこめかみの少し上を押さえて動きを止める。
「どうしたって、俺とお前は合わない。お前の求めてるものは、俺の求めてるものを邪魔する」
「意味が分からん――」
速彦は独り言のように呟いて、炫士の方へ向き直る。
「お前の言うことは意味が分からん!」
怒鳴るように言い直し、速彦は衝動に任せて炫士の顔面に向かって拳を振り回す。それに反応して炫士は身をのけ反らせたものの、突然の攻撃を上手くかわしきれず、速彦の拳が唇をかすめるようにぶつかった。犬歯で唇の端が切れて、炫士の舌先を生臭い血の味が濡らしていく、同じ那美の膣から溢れ出た血の中から産まれた二人に、同じように流れる血の味だった。炫士もまた拳を握る、爪が手のひらを傷つけるほどに固く、炫士は自らに与える痛みを求めた、目の前の、似ても似つかぬ鏡像のような兄を、徹底的に破壊するために、今手のひらを傷つける痛みなど遠く及ばぬ自らの存在感を消すほどに強い痛みを、炫士は欲しいと感じていた。速彦は肩で息をしながら、たった今振り下ろした拳を再び上げようともせず、じっと炫士をにらんでいる。痛みが鼓動していた、炫士はもっともっと深く爪を手のひらへ突き刺す、炫士は待っていた、その痛みが充分な程度に達するのを――その瞬間には、速彦は病院の床に叩きつけられ、眼球を裂傷し、頭蓋を砕かれ、噴出す血にあえいで床を舐めるように舌を突き出していることだろう。
「ちょっと、君たち!」
張り詰めた緊張が極限に達して二人を硬直させていたところに、突然横から声が飛んできた。同時に反応して速彦と炫士がそちらを見ると、フロアの入院患者らしき男が立っている。
「こんなところで止めないか。いったいどうしたんだ」
入院患者にしては心身ともに健康そうな男は、スリッパの音をぺたぺたとさせながら近寄ってきて仲裁に入ろうとする。おせっかいで人の良さそうな男の登場にすっかり拍子が抜けて、炫士と速彦は互いに緊張を解く。速彦がちょっとしたケンカで騒がせて悪かったと男に軽く頭を下げる、男は笑いながら炫士と速彦の肩を同時にぽんと叩き、腹が立ったときはいったん深呼吸をするんだ、とどうでも良いアドバイスをしながら自販機で缶コーヒーを買い、満足そうな様子で自分の部屋へと戻って行った。
男が去った後、炫士と速彦は全く目を合わせようとしなかった。速彦は無言で、炫士に声もかけずに岐史の病室へと戻って行く。炫士は唇からにじむ血を舌先で何度も何度も繰り返し味わいながら、秋姫のことを思い出す。速彦を徹底的に破壊してやろうと思った、二度と這い上がれないほど深い奈落へ、その存在が二度と問題にならなくなるくらいに深い奈落へ、蹴り落としてやろうと思った。