Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

誘惑の炎、存在の淵 その6

 れからほとんど毎日、炫士はクラブへ通った。安っぽい音が不快で、ウォッカベースの水っぽいカクテルをあおりながら、酔いでその輪郭がぼやけていくのを待って、ふらふらとフロアを歩きまわり、秋姫の姿を探した。たぶん来ないだろうと思いながらも、炫士はどうしてもそれを待たずにはいられない。秋姫は矛盾した存在だった、どこかへ逃れようとしているくせに、そこから出ると怯えたように自分の中へと退避して閉じこもり、嵐が過ぎるのを待つように身を固くしているばかりなのだ。秋姫は逃げ場を失っている、あらゆる逃げ場は逃げ場ではない、だから崩れ落ちてしまうこと以外に、秋姫が逃れる場所はないように見える。もうこういう所へ逃げ場を求めては来ないかもしれない、それでも炫士はずっとここへ来ている、わずかとはいえ可能性はあった、秋姫はあり得ない逃げ場として、自分を求めるかも知れない、炫士はそう思っていた。

 毎夜三十分ほどフロアを歩き回る、秋姫の姿をそこに見つけることはできなかった。感情がざわついていた、何をやろうとも、とうてい治まりそうにはない。無駄と知りつつ、秋姫の代わりというでもなく、ささくれ立ちいきり立つような感情を少しでもなだめようと、炫士はフロアにいる適当な女に声をかけて連れ出すことを繰り返す。美人で自分の値段を高く見積もっているような女ではなく、とにかく手軽に抱けそうな女ばかりを選んでいた、感情の交流も色気もなかった、ただ単にお互いをオナニーの道具にするような、どうでもいいセックスを毎日毎日繰り返す。暴れる虫のように下腹部を引っ掻き回す感情はそれでも炫士をきりきりとさいなんだが、中途半端な人間味を相手に求めるよりも、無機質で機械的なくらいの性器の擦り合いのほうがずっとましだった、寄ると触ると炸裂しそうな感情のうねりは、一人で膝を抱えるようにぐっと耐えているほうが気が紛れる、だからいっさいそこに立ち入らない人間が相手になることで、炫士はより深い孤独へと入っていくことができた。自己肯定感が低く沈んだ顔で男に抱かれる女や、人懐こいがどうしようもないほど頭が悪い女たちとセックスをしながら、炫士は秋姫のことを思い浮かべた、速彦に抱かれている秋姫のことを思い浮かべた、痛みと快感にゆがむ秋姫の顔、絶頂にむせぶような速彦の声、薄闇で体温にいきれ汗に湿りナメクジのように絡みあう二人の肉体、速彦のことも秋姫のこともどうでも良いと思っているはずなのに、炫士は赤く光る溶岩のような感情が隆起するのに突き動かされながら、女たちに暴言を吐き、柔肌に爪をくいこませ、頬を張り、髪をひっぱり、獣のように呻きながら、毎夜毎夜と精を放つ。

 そしてそのまま空が白み始め朝を迎えると、まるで空気や幻を抱いていたような気分で夜の昂りから醒めていく。炫士はベッドで横になりだらだらとする女たちを置き去りにして、人のいない、青みがかった冷気に満たされた夜とも朝ともつかない街へ出て行き、瞑想するかのようにゆっくりと歩いた。街は、あらゆる意味付けを漂白されているかのようだった、炫士の意識もまた漂白され、夜の夢とは違う、夜と朝の境目で自分だけに見ることを許された世界を歩いているのだとばかりに、憑かれたような表情になっていく。周囲から、空から、螺旋を描くようにカラスの声が降りてくる、争いに敗れたのか、一匹のカラスが地ベタに落ちて、血にまみれて命を失い、風が黒い羽根をまき散らしていた。炫士は何者でもなかった、夜と朝の境目で、炫士は孤児たちの中の孤児だった、両手を広げる、そのまま翼で滑空するようにまっすぐ歩いて行く、天と地の境目で、炫士は鳥たちの王だった、ふらふらと、炫士は一台の車も走っていない道路へと踊り出る、炫士は威風堂々と、断続的な白線が無限に連なるかのような道のど真ん中を飛ぶ、右の翼で生を、左の翼で死を統べるのだというように、炫士はそこに君臨していた、まるで神話の王のように。無人の、夜と朝の境目にある街は、国ケ崎の海を思い出させる、時間と空間の純粋な広がりの中で、炫士は、孤児になる夢を見ていた。

 

 

  炫士が秋姫を見つけたのは、とうとうまるまる一ヶ月が経った時だった。以前と同じように、秋姫は身を固くして、カウンターの側でプラスチックのカップに入ったカクテルを飲んでいた。ぎこちなく、伏し目がちに周囲をうかがい、たまに声をかけてくる男たちに心を閉ざす。何度見ても、その場違いな様は際立っている。炫士はすぐには声をかけなかった、原色の光の中に浮かぶ、秋姫という女の得体の知れなさを、遠くから観察してみる。秋姫は、誰かに心を開いたりしない、たとえ自分の話を饒舌にしていても、巧妙に本心を隠してしまう、それは本人すら自覚せずに身についてしまっているもので、まるで言葉と感情が完全に切断されてしまったかのように、秋姫は本心と言えるようなものを表に出さない、というより、本人にすらその本心がどんな姿をしているのかは見えなくなっている。深い霧に覆われ、幽玄の遠火のように、その本心はのぞく。中学時代に一番近くにいた炫士にもその本心を見せることはなかったし、今速彦にそうしているということもまず考えられない、あるいは、人間の本心というのはそもそも虚構でしかないということを、あまりに誇張した形で、秋姫という女は示しているようにも思える。結局、どこにいても、どんなふうにしていても、秋姫は常に場違いな存在だった。

 しばらく見ていると、炫士の視線の向こうに、ホスト風のファッションに身を包んだ男が現れ、秋姫に声をかけた。おとなしい女は強引に攻めれば落とせるということをバカの一つ覚えのように実践している体の男で、露骨に嫌がるそぶりをする秋姫にしつこく話しかけ、秋姫が視線をそらすと、その肩をつかんで無理矢理に自分のほうを向かせたりする。秋姫がどんなに身を固くしようとも、男はそれだけいっそうしつこく、己の男性性を誇示するようにしつこく秋姫に迫っていた。その様子を、炫士は遠くから見ているだけで、別に助けようとはしない、無遠慮に迫ってくる男をどうにか振り払おうとする秋姫の姿を、残酷で無関心な観客の視線で観察する。炫士はその姿に、不思議な魅惑を感じた、可憐な秋姫が、下卑た欲望を丸出しにして触れてくる男に汚されていく様を、もっと見たいような気がしてくる。秋姫には不思議な影があった、それは被害者の影、抵抗する力を持たず、暴力的な何かの侵食を呼び寄せてしまう人間の影だった。だから秋姫が拒んでみせるほど、それは男の嗜虐性をあおってしまう。それを知りながら、炫士は手を差し伸べない、秋姫がこのまま男に強姦されてしまえばいいとすら思う。だが、とうとう耐えかねた秋姫は、カウンターのスタッフに視線で助けを求める、スタッフは面倒を嫌がる雰囲気を隠そうとはしなかったが、やれやれといった態度で男に声をかけ、秋姫から引き離そうとした。しかし男は引き下がらない、スタッフに何か文句をたれ、アルコールの入ったカップをカウンターの上に勢い良く置く、カップは変形し、アルコールが飛び散った。スタッフが二言三言何かを言い返すと、今度は男がスタッフの胸ぐらをつかみだす。

 「マヌケが」

 炫士は独りごちて、つかつかと男の方へ向かう。始めから余裕のない小物だと思っていたが、仲裁に入られたくらいでこんなに取り乱すような人間も珍しかった、男の周囲にいた数人の客が、事態に気づいて注視する。その中のおせっかいな客が一人、男を押さえにかかった、だが、そのことがよけい男を煽り、今にも暴れだしそうな勢いでそれを振りほどく。醜態でしかなかった、収まりどころのない男根を振り回しているかのような幼稚で情けない男に、秋姫から何かを奪うことなどできようはずもなかった。一歩、二歩、炫士は勢いを早めながら近づき、男の間合いに入る、男は炫士に気づかなかった、炫士は取り乱した家畜を罰する主人のように、容赦なくその拳を男の頬に叩きつける、声すら上げずに、男が床へと崩れ落ちる、炫士は間髪入れずに、かかとを尖らせた蹴りを男の口の中へ叩き込む、分厚い皮を貼った打楽器のようなくぐもった音がして、血が飛び散り、前歯が一本転がった。闖入者のもたらした一瞬の出来事にスタッフも客も唖然として動かなかった、それを意にも介さず、炫士は覆いかぶさるような勢いで秋姫の前に立ち、秋姫が何かを言うのも待たずに手を引くと、そのままフロアを立ち去っていく。男は気を失って原色の光の海の底のような闇へ沈んでしまった、周囲の客以外、その出来事に気づいた者はいない、誰も男を助け起こそうとはしなかった、他の大多数の客たちは何事も無かったように――彼らにとっては実際に何事もなかったのだが――音楽に合わせて体を揺さぶり、降りてこない神を待つ信者のように、原色の光を崇める。炫士は秋姫の手を引いて、落ち着いた態度で歩く、だが、たったいま行使した暴力のおかげで神経は昂りきっていた、目を覚ました禍々しさは、絶えない感情の炸裂を待望する。暴発する力が、噴出する孔を求めて皮膚の下を這いずり回る。炫士の感覚は安定を失調する、原色の光は渦を巻いて音を飲み込んでいった、渦は巨大化し、音は光に閉ざされ、この場にはありえない静寂が訪れたようにさえなる。こんなものは、何かを傷つけなければ治まりようがないのだ、炫士は取り返しの付かない形で、秋姫を傷つけようとしていた。

 

 

  「いつから見てたの?」

 落ち着きを取り戻した秋姫が、炫士を見上げて尋ねる。夜も更けて、道には人もまばら、街の喧騒は遠ざかる波のように薄れ、振りまかれた香水の残り香のような静寂が漂う、安い音楽と原色の光との対比が強いせいで、その闇と静寂が豊潤なものにすら感じられる。

 「あいつが、声をかけたあたりから」

 外気に冷やされ、昂った炫士の体温は下がっていった、だが、感情の昂りそのものは、凝縮され、外気から遮断された体内で尖り、まだ煌々と燃えている。

 「もっと早く、助けてくれたらよかったのに」

 「どうするのか、見てようと思った」

 「私が?」

 「君と、あいつが」

 「そんな面白いことに見えた?」

 「そうじゃない。予想通りだったとしても、それを見たかったのさ。何かが起こる瞬間を、見たかった」

 「予想通りだったでしょ」

 「でも、それは起こった」

 「それの何が、面白いのか分からない」

 「それは起こった、男は悔しがり、君は恐怖し、俺は怒りをあらわにした」

 「彼は傷ついて、私は辱められ、あなたは傷つけた」

 「そして、俺たちはここでこうしている」

 「そこで起こったことの結果として?」

 「そこで起こったことを原因として」

 「あなたの意志じゃなくて」

 「君の意志でもない」

 「運命?」

 「そんなたいそうなものじゃない」

 「じゃあ何なの」

 「なりゆき」

 「気に入らない答えね」

 「欲望」

 「もっと嫌な響き」

 「期待」

 「そのほうが良い」

 「予感」

 「そうなのかもしれない」

 「君にとってはそうだろう」

 「どういうこと?」

 「君は一ヶ月もの間、そこに現れなかった。つまり積極的な何かでそうしたのではなくて、あくまで受動的な何かによりそうなってしまった」

 「どちらでもあるっていうほうが、正解ね。私はむしろ、そこにもう一度迷い込んだの。どこかへ行こうとして、でも目指す場所はなくて、さまよった結果、気がついたらそこにいた」

 「そこにたどり着く、そういう感じはしてたってことじゃないのか」

 「そうかもしれない、だから私は、あえて行動しようという考えを持とうとしなかった」

 「俺はそうなるって思ってた」

 「私を待ってたのね」

 「そう、君を待ってた」

 「どうして?」

 「会いたかったから」

 そう言って、炫士は秋姫の髪をなでる。自分が言っていることが本当だとは思わなかったが、嘘をついているという感覚もなかった、だからその言葉は、まるでしらじらしさのないように響いた。

 会話は途絶え、沈黙したまま、二人はタクシーへ乗り込んだ。炫士が行き先を告げ、タクシーは動き出す。それは、二人が後戻りできないものに主導権を明け渡した瞬間だった、分岐する道はなく、結末へ向けて、一直線に進んでいく。秋姫は窓の外を見ていた、だが、その視線はおそらく、外の風景をとらえてはいなかっただろう、秋姫が見つめているのは、そこで何かが、不可逆の方向へ流れているということだけだった。炫士は運転手の肩越しに、正面を向いている。対向車のライトに、自分の意識が飲み込まれていくのを、まるで心地良いことのように目を細めていた。後部座席に座った二人の間には、実質的に距離はなかった、そのことを確認するように、炫士は秋姫の手に触れ、そっと握る。秋姫は抵抗はおろか、身動きすらしない、じっとしたまま、手のひらから伝わる炫士の体温を受け入れていた。夢の中へ落ちて行くような気分で、いったい自分の横にいるのは誰なのだろう、と炫士は考える。秋姫と呼ばれる誰か、横に速彦がいれば、自分の中学時代に戻れば、那美のような他人の視線の中にいれば、それは秋姫と呼ばれる、だが、今ここにいる誰かを、秋姫と呼ぶ必然性はない、これは、秋姫と呼ばれていた誰か、閉ざされた場所から、原色の光の中へ浮かび上がり、静寂を散りばめる夜景を浮遊する、誰でもない誰かなのだ。

 

 

 部屋の中へ入る、炫士は秋姫の髪をゆっくりと撫で、冷たくなった頬に触れる、炫士の体温に導かれるように、その頬の奥から柔らかさと暖かさがほんのり溢れ始める。

 「――」

 名前を呼ぼうかと思った、だが、その瞬間には炫士の頭の中から秋姫という名前が消え去ってしまっていた。もはや、誰でもない、お互いに、誰でもない。何かが完全に抜け落ちてしまった、お互いをしっかりつかんでいないと、どこかへ消えてしまうだろう。炫士は

秋姫の頬に触れていた手を、撫でるように耳から頭の後ろへ回して抱くようにすると、ゆっくりと秋姫にキスをする。今度は奪うようなやり方ではなかった、すでに、お互いがお互いのものになっていた。あとは、お互いをしっかりつかんでいるだけでいい、力も駆け引きも誘惑も必要ない、そこには、ただ奪われ魅了された体があるだけだった。

 下着を取り、秋姫の上半身を裸にすると、炫士は乱暴な手つきで小さな乳房をつかみ上げる、秋姫はか細い悲鳴のような息を漏らした。少年だった自分が見ることのできなかった裸体が、目の前に差し出されている、その興奮に突き動かされ、炫士はむしゃぶりつくようにして秋姫をまさぐり、そのままベッドまで連れて行った。裸で向かい合いながら、炫士も秋姫も、まるで互いを見ていないかのようだった、そこには、他人の影が忍び込んでいる、二人の間で、速彦と呼ばれていた誰かの、影のようなものがベッドの中に忍び込んでいる、それが情欲を湿らせて、くすぶるように明滅し、胸のあたりから伝うように沈み込む。いったい誰の手で、いったい誰の体に触れているのだろうかと思いながら、暗い森をかき分けるように、炫士は秋姫と体をこすり合わせていく。速彦の一番大事なものを本人のプライドごと取り上げて、粉々になるまで踏みにじることの快感が突きあげる、もはや炫士の意識の中に速彦の実体はなかったが、その勝利の昂揚感だけは肉体の奥底に宿り、激しい興奮で炫士は火花に打たれたように震え、視界は真っ赤に染まった。秋姫の柔らかい肌に爪を食い込ませ、尻をわしづかみにして引き寄せ、脈打つ性器で何度も突き上げる、秋姫は悲鳴をあげていた、炫士は獣のように低くうなり、入り込めるだけ奥深くへ入り込み、放てるだけの精液を放とうと、むき出しの性器を膣壁にこすりつける。肉体は、お互いを消滅させようとするかのように侵食し合う、やがて激しい快感が背筋を走り、奥歯を震わせ、頭を突き抜ける、炸裂する絶頂が虚空のようになった体を満たし、外へあふれ出て、消えない余韻として、錯乱した知覚を反響する。後は、ベッドの上で、誰でもない肉体が、溶けて崩れているだけ。

 

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その7へつづくーー