Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

誘惑の炎、存在の淵 その9

 欲は、いつまでも湿り気を帯びたままだった、行為が終わって、うつぶせになって休んでいる秋姫の裸の尻をつかんで引き寄せ、炫士は何度でも勃起する性器をもう一度挿入する。秋姫もまた、何度でもそれに応じて、快感とも苦痛ともつかない声を漏らして、炫士の動くリズムに体を合わせてくる。絶頂の度に、勝利の快感が炫士の背筋をしびれさせ、同時に、粘つくような敗北感が胸を塞ぐ。いくらこれを続けたところで、自分が速彦や那美から切り離されるわけではない、速彦と秋姫が結びつこうとする絆をこうやって汚したとして、それが決定的なものをもたらすこともない。ただ、炫士にはそれを止めることはできなかった、こうしていなければ自分が那美と速彦と秋姫に囲い込まれてしまうような気がして、それを振り払うように何度も何度も秋姫と交わった。一度関係を持って以来、二人はもはや当たり前のように例のクラブで会い、そのままベッドに向かうようになっていた、言葉もほどんど交わさず、暗黙の了解のように裸になり、避妊もせずに、繰り返し繰り返しセックスをして、朝が来るとそのままさよならも言わずに別れていく。相変わらず他人のままだった、お互いが誰なのか知っているのに、他人のまま出会い、他人のまま交わり、他人のまま別れる。

 何度か交わって、体力が尽きると、二人は裸の体を横たえて、じっと黙っている、闇と静寂に隠れて、二人の秘密を暴いて罰する怪物から、身を守ろうとするかのように。何度となく、秋姫がどうしてこんなことをしているのだろう、と炫士は思ってみる。炫士自身は壊そうとしていた、速彦と秋姫の結びつきを、そこから発展して家族を形成する結びつきを、内側から浸食するウイルスを植えつけようとするかのように、秋姫の体の中へ射精することを繰り返していた。だが秋姫は、炫士と違って、自ら壊れてしまおうとしているように見えた、炫士に愛というようなものはなかったが、たぶん秋姫にもなかった、だが少なくとも、炫士にとっては交わる相手が秋姫でなければいけなかったのに対して、秋姫にとっては、別にそれが炫士ではなくてもいいような気がした。炫士は、速彦と秋姫と自分という三人の関係性を見ていたが、秋姫の目には、自分自身しか映っていないように思える、自分自身の世界にこもって、それを内側から引きこんで崩壊させようとするかのように、その目は虚ろで、外からの光を飲み込んで静まり返っている。だが、秋姫は今、炫士を選んでいた、何かそこに、決定的な戸惑いがあって、秋姫は恐れを抱き、そこで踏みとどまろうとしているようにも見えた。

 「結婚、いつするんだ?」

 いったいどこまでこの関係を続けるのか、どこまで続けることに意味を見出せば良いのか、何とか探ろうとして、炫士は唐突に質問してみる。この明らかに普通でない関係は、多かれ少なかれ互いを蝕んでいく、だから、いつまでも際限なくずるずると続けるようなものではないはずだった。

 「……急に、どうしたの」

 秋姫は質問から身を守るようにして、炫士に裸の背を向ける、いつまでもかたくなに、自分のことを話すのを避けていた。

 「ずっとこんなことしてるわけにも、いかないだろ。だから、いつまでなんだろうって」

 「私が結婚したら、終わりってこと?」

 「君がそのつもりでそうしてるんだと思ってた」

 「そんなこと、話した覚えはないけど」

 「ないよ。俺の一方的な解釈さ。いわゆるマリッジブルーで、俺とこんなことをしてるんだって思ってたから」

 秋姫は、ずっと背を向けていた、身を横たえて、瞑想をするように目を閉じる、考えているというよりも、自分の頭から考えを追いだそうとするかのように。

 「理由なんて、考えたこともなかった」

 「それは、嘘だろ。理由もないのに、俺と会うのをためらったりするわけがない」

 「理屈がなくても、人は悩むことができる。私とは違ってあなたは賢いから、理屈で悩もうとするのよ」

 私とは違ってあなたは賢いから、という言葉を聞いて、炫士は中学生のころを思い出す、炫士と秋姫は別々の高校へ進んだが、それは、炫士がより偏差値の高い学校へ進学したからで、勉強の得意でなかった秋姫は、そのことについて全く同じ恨み言を漏らしたのだった。だからその言葉は、まるで今も秋姫がその別れに恨みを持っているかのように響く。

 「じゃあ、ここでこうしているのは、感情の赴くままにってことか」

 「私が単なる気分屋みたいな言い方しないで。私は、感情と身体で考えてるの、あなたみたいに、考えることで答えを見つけようとしているわけじゃない」

 「それは、頭で考えてるってことと一緒だ。頭だけで考えることができる人間がいないように、感情と身体だけで考えることができる人間はいない、それは全部、同じものだ、無理矢理分けるようなものじゃない」

 「人の言葉を取り込んで、上手く自分のものにするのが得意なのね」

 「そんなつもりじゃない、正直な考えさ」

 「それがあなたの欠点」

 「どういう意味だ」

 「考えを柔軟にして、他人からの言葉を上手くいなしながら、結局自分の頭の中から言葉を見つけてくるのが上手いから、他人の言葉を聞かずに済むの」

 「俺は聞いてる、でも、俺は他人より良い答えを持ってるから」

 「そうだとしても、きっと別のやり方を試みることだって必要よ。私はあなたみたいに、上手く言葉を取り出してくることはできない、だけど、その代わり、他人に触れて、その皮膚の下から答えを探すことだってできるんじゃないかと思う」

 「……それで、俺に触れて、何か感じたのか?」

 秋姫は何か言おうとして言葉をつまらせ、自信なさ気に身を固くする。

 「確信が持てないんだな。教えてやろうか? 君が確信を持てないのは、頭が悪いからじゃない、自分の感情を肯定できないからさ。自分が求めているものを、君自身の理性が気に食わないから拒んでる」

 そう言った炫士の声には、いくらか嘲りが混じる。

 「……分かったようなこと、言わないで」

 「確かに俺は自分の賢さを盾にしてるかもしれないが、それでもそのおかげで冷静に観察できる。でも、君はそうじゃない、感情と身体で何かを感じようとしていても、実は理性に邪魔されてる、我が身を守ることに必死で、結果的には自分の中に閉じこもることしかできない。感情と理性に板挟みにされて、硬直しているだけのことだ」

 炫士には、秋姫が今までずっとそうして生きてきているのがよく分かった、秋姫は、中学生のころから変わっていない。

 「やめて。私を、あなたの解釈の中に丸め込まないでよ。私を、理解しないでよ」

 「受け入れろよ、それが真実だ」

 「そんなもの、あなたに見えている世界の真実にすぎない。その真実の向こうには、さらに無数の真実が広がってる。私は私の真実を抱えてるんだから」

 「じゃあ、説明してみろよ、その真実とやらを」

 「やめてよ、私があなたみたいに言葉で何もかも言えないってわかるでしょ。私を追いつめないで」

 「違うよ、君は、自分を守ることに必死すぎるんだ、そしてそのことが、君自身を追いつめてる。君を追いつめてるのは俺じゃない、君自身だ」

 邪悪さが、炫士の奥底からせり上がってくる、その頭の中にあるのは、秋姫を追いつめることだけだった、秋姫が自分を追いつめているというのも確かだったが、それを突きつけることで、より秋姫を追いつめることができるといことを、炫士は知っていた。ここにいる二人には、情愛などはなかった、ただ、互いが互いを、利用しているだけだった、そこに決定的な違いがあるとすれば、炫士には確信があって、秋姫にはないということだ。そうは言っても、たとえ確信があろうがなかろうが、それぞれが思う方向へと進んでいくことは間違いない。炫士は加害者として秋姫を襲い、秋姫は被害者として苦しむだけのことだった、その中で互いが予期する結果へと引きずり込まれていくだろう、立場の違いは演じる役割の違いに過ぎず、あくまで二人は共犯者なのだ。

 「やめて」

 秋姫が繰り返す、それ以外に何も言い返せなくなったかのように。

 「やめてどうなる? 俺の言葉に耳をふさげば、君が苦しみ続けるだけだぞ」

 いつもそうだった、秋姫は拒否することによってしか、身を守ろうとしないのだ。

 「それ以上聞きたくない」

 秋姫が枕を抱いてうずくまり、身を震わせている。

 「認めればいいのさ、真実を。それが目の前にあるくせに、いつまでも迂回し続けるから苦しむんだ」

 真実、という言い方を、炫士はあえてしていた、それがまるで客観的なものであるかのように。だが、それは、秋姫が選びきれない無数の答えのうちの一つを、強制的に押し付けているにすぎない、炫士はそれを自覚していた、炫士が求めるのは、秋姫を壊し、それによって速彦との繋がりを、家族になろうとする繋がりを壊し、速彦を壊し、那美を壊し、その瓦礫の中から、外へ這い出ることだった。

 「それが真実だっていうなら、私は何をしたらいいっていうの」

 「壊れてしまえばいい。それが、君の望んでいることだ」

 秋姫は何も答えない、肯定はしなかったが、否定もしない。だが、秋姫は炫士に抵抗する力を持たなかった、何もかもを否定することで身を守ろうとする優柔不断さは、強い肯定を示されれば、たちどころに引きずり込まれてしまう。そして、壊れてしまうということは、手段を失った人間にとって、絶望的なはずなのにこの上なく魅力的に響いてしまう。

 炫士はほほ笑みを浮かべて、秋姫の頭をなでる、何も心配はいらないのだと言うように、優しさで秋姫を包み込もうとする。だが、そのほほ笑みは、いわば炫士の悪意が花開いたようなものだった、炫士もまた、手に負えないものに引きずり込まれていく、悪意を縛っていた手綱を、するすると緩めてしまう。秋姫は炫士に服従しているのではなかった、だが、何らかの抵抗を示すほどの意思を、持ちあわせていなかった。

 ベッドを抜け出て、炫士は携帯電話をつかむ、そしてそのまま風呂場のほうへ行き、ほんの一分間程度、誰かと会話してから、秋姫の所へ戻る。炫士は、神経の奥底に、興奮からくる震えを感じていた。膨らんだ悪意が暴れ、良心を引きずり倒していく、もがいている良心を足蹴にして、ぐしゃぐしゃに踏みつぶしてしまう快感に酔い、頭がくらくらし始めていた。秋姫が不安気な顔で見上げている、炫士は再び優しい笑みを浮かべて、その頭をなでてやった。秋姫は無反応だった、たぶん、どう反応して良いのか分からないのだろう、炫士の笑顔の奥底に蠢く、背筋が凍るほどの悪意を、秋姫が感じ取れないわけがなかった、炫士の優しさと悪意が成すひどい矛盾を前に、秋姫はどうしていいのか分からない。

 それは、すぐにやって来た、炫士は、もうひとつの悪意を呼び寄せたのだった。

 「よう」

 部屋のドアが開いて、現れた男が声をかけ、炫士もそれに応えて挨拶する。その声には、品の悪い野蛮さがにじんでいる。浅黒い肌で髪を茶色に染めた、体格のいい男が部屋まで入ってきて、ベッドの上にいる秋姫は慌てて布団で裸の体を隠す。その秋姫を、男がじろじろ見て、にたりと笑う、口に溜まった唾液が舌に絡んで、くちゅっという音を立てた。

 「おいおい、可愛いじゃないか。ホントに良いのかよ、こんな娘を回してもらっちゃって」

 いやらしい笑顔を浮かべて、男が炫士に言う。炫士は下卑た笑みを返して、その男の肩を無言のまま叩いた。男はこみ上げる笑いを漏らしながら、上着を脱ぎ始める、男の上半身は筋肉の塊のようで、シャツの上からでも胸板が盛り上がっているのが分かる。男は、炫士のナンパ仲間だった。

 「さあ」

 炫士が秋姫の目の前にやって来て、布団に手をかける、秋姫は何が起ころうとしていのか分からず、表情を恐怖で凍りつかせ、ありったけの力でそれに抵抗した。

 「離せよ」

 秋姫は黙っている、想像以上の炫士の悪意に怯えきって、目に涙を溜めて、炫士を見上げている。

 「安心しろ」

 炫士が、また優しい笑みを浮かべる、完全に作り物の、おぞましい笑顔。いったい何に安心できるのか、秋姫には分からない、だから今にも泣き出しそうな顔で、必死になって自分の裸を隠している布団をつかむ、それを離した瞬間に、秋姫は壊れてしまいそうだった。

 「怯えなくていい、ただ身をまかせるだけでいいんだ。君は、その力に身をまかせて、バラバラに壊れてしまうだけでいいんだ」

 静かで、不気味なほど落ち着いた口調で、炫士は語りかける、まるで催眠術師のような、子守歌のような、甘く香る香水のような響きだった。その優しい笑みのまま、秋姫には抵抗できないような猛烈な力をいきなり込めて、炫士は秋姫から布団を奪い取る、その勢いでベッドの上に裸の秋姫の体が転がる。

 「さあ、おいで」

 炫士が秋姫の頭をつかんで、勃起した性器の前まで誘導する、秋姫は身を固くして、震えていた、炫士は笑顔のままでいる、表情は凍りついて、微細な筋肉の動きひとつ見せない。力なく抵抗しようとする秋姫の顎を鷲掴みにして口を開けさせると、炫士はその中に性器をねじ込んでイラマチオをさせる。たまらずに秋姫が咳き込むが、炫士はお構いなしに突っ込んでいた。

 四つん這いになってイラマチオをさせられる秋姫の裸の尻に、すっかり興奮した様子の男が、赤黒くて大きな性器を剥き出しにして忍び寄る。男はイラマチオをさせる炫士と目があって、声を漏らしながら笑った。

 「さあ、やれよ」

 炫士が男を促す、男は言われなくてもそうするといった調子で、返事もせずに、イラマチオの勢いで揺れる秋姫の尻の真後ろに膝をつく。秋姫は顔と視線を動かして、背後で何が起こっているのかを見ようとするが、炫士はその頭を両手で押さえこんで、それができないようにしてしまう。男はその姿にますます興奮して待ちきれず、秋姫の尻を両手でつかむと、何の前置きもなく後ろから性器を挿入する、秋姫はわずかばかりでも抵抗をしようとするが、筋肉の塊のような男に抱えられてどうすることもできなかった。

 ――ああ、ああ。

 興奮した男のやけに大きな喘ぎ声が、部屋に響いていた。男に後ろから犯される秋姫を見ながら、炫士は秋姫に対する同情心を押さえこんでイラマチオを続ける、自分の良心を踏みにじれば踏みにじるほど、それが快感に変わっていく、自分はこの世で最低のクズだと思った、だが、炫士は可能な限りクズになりたかった、誰もが被害者になれる世界では、全員から責めを受ける最悪の加害者になることこそが、何よりも尊いのだ。秋姫は口をふさがれながら、泣いているような怒っているような声を漏らし続けている。動物のように腰を振り続ける男の顔が紅潮していくのに合わせて、炫士も徐々に昇りつめていく、もはやそこには、速彦に対する勝利のようなものは皆無だった、情欲は湿り気を帯びているというよりも、どろどろになるまで濡れて崩れ、絶頂というよりも奈落へ崩れ落ちるような感覚で、胸の底をえぐるような虚脱感とともに、炫士は秋姫の口の中に、苦悩のため息のような精液を注ぎこむのだった。何もかもが、最低だった、後悔するにはあまりに遠いところまで来てしまった、炫士は目を閉じて、重たい闇が自分を押し潰してくれるよう祈っていた。

 

 

 男はそそくさと帰ってしまい、部屋には炫士と秋姫だけが残っていた。秋姫はうずくまってベッドに横たわり、壁の一点をぼんやりと見つめて動かない、炫士はイスに腰掛けて、その秋姫を背後から見つめている。ばらばらに崩れ落ちた感情を、どんなふうにかき集めていいのか分からない、どうしてだか、炫士の頭の中には秋姫と付き合っていた中学時代の記憶が次々と浮かび上がってきていた、炫士はただそれを、非情な傍観者として眺めている、そこに手を伸ばすこともせず、ひたすら感情がその記憶に結びつかないように遠ざけている。

 いったいどれだけ時間がたったのか分からない、部屋の外、表通りを過ぎる車の数が減っているのが音で分かるだけだった、たぶん、深夜と言っていい時間なのだろう。秋姫はそこでじっとしたままだった、呼吸が、かすかに背中と肩を揺り動かす。自分は行き過ぎたのだろうか、と炫士は考える、自分が壊そうとしたものは、果たして壊れたのだろうか、自分が望んでいることは、実現できないことでしかないのに、なぜこんなことまで自分はやってしまうのだろうか、自分はただ単に、目の前の女を、兄の婚約者を、自分が何を望んでいるのかが理解できずにただ戸惑っていることしかできない女を、自分が昔好きだった女を、悲惨な目に会わせて、取り返しの付かないくらいに壊してしまっただけなのではないだろうか、たぶん、そうなのだろう、自分は悔いるべきなのだろう、自分の考えをここで改めるべきなのだろう。だが、炫士はひたすら後悔から自分を遠ざけていた、炫士にはそれができなかった、炫士にできるのは、それが無駄で、自分も他人も取り返しの付かないくらい傷つけてしまうだけなのだと知りつつも、とことんやってしまうことだけだった。それは、強迫的な衝動だった、炫士には、それを止めることができない。だが、炫士は自分の胸に痛みがあるのを認めないわけにいかなかった、目の前でじっとしている秋姫を見ながら、たぶん自分はこんなことをするべきではなかったのだという気持ちが、いくら否定しようとしても、執拗に胸を突き刺している。この倫理的な感情はどこから来るのだろうか、と炫士は考える、それは、社会とか神とかに罰せられる恐れなどではなかった、自分はそんなものから遠く離れた所にいると思っている、それは誰から与えられたものでもない、強いて誰かから与えられたのだとすれば、それは、目の前にいる秋姫だった、どれだけ人倫にもとるようなことを試みても、自分はそういうものを超越できるわけではない、自分は、そういうものに繋ぎ止められたままなのだ。そのことを、目の前の秋姫の存在が、炫士に突きつけている。

 いったい、ここで自分に何ができるというのだろう、炫士には何も分からなかった。だが、直感的に、炫士は残酷さのほうを選び取ろうと思った、救われたいなどとは思わない、赦されたいとも思わない、可能な限り、自分を加害者へと追い込むだけだと思った。

 「秋姫」

 炫士は名前を呼んだ、湧き上がってきてしまう同情心を吐き捨て、踏みにじろうとするかのように、今まで封じ込めてきたその名前を、はっきりと呼んでしまった。秋姫は何も答えない、だが、さっきまで一定のリズムで動いていた肩と背中が硬直し、沈黙に嫌な緊張感が走った。

 「秋姫」

 もう一度、炫士が名前を呼ぶ。その声は、明らかに、秋姫の感情を抉っていた、徐々に、呼吸が始まり、肩と背中が大きく動き始め、息が荒くなっていく。炫士は両手を組んで、固く握る、爪が手の甲に食い込んで、痛みが走っていた、それでも炫士は、もっと深く、爪を突き刺していく。秋姫は何も答えない、炫士は震えてしまう身体と感情を抑え込もうとするかのように、手に力を込め、唇を噛む。

 「秋姫!」

 残酷さを思い切り投げつける、炫士は、秋姫に内面へ閉じこもることを故意に許さなかった、無理矢理心の扉を開け、中にいる秋姫を、引きずりだしてしまおうとする。その瞬間、逃げ場を失った秋姫は悲鳴を上げた、痛々しい感情を剥き出しにされ、突き刺さる冷酷さに悶え、秋姫は泣いているような悲鳴をあげる、引きずり出された扉の中へ戻ろうとするように、うずくまって、言葉もなく、ただ感情だけを破裂させる。その悲鳴を聞きながら、炫士はひたすら耐えていた、頭が痛くなり、吐きそうな気分だった、無表情で人を傷つけることができるほど炫士は人間味を失うことができそうになかった、自分を加害者へと押しやることに、必死にならなければならない、その弱さのせいで、自分が過剰に秋姫を傷つけているとしても、炫士はその向こうにいる速彦を傷つけたかった、那美を傷つけたかった、そうすることで、自分と速彦と那美の繋がりを、否定してしまいたかった。

 

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その10へつづくーー