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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

誘惑の炎、存在の淵 その11

 士は孤児のように、夜を歩いた、孤独で、寄る辺なく、何者でもない。あるいは孤児になるために、炫士は夜を歩いた。夜は気配で満たされている、その闇の向こうには、人々の息づかいが、物の怪のような気配として、密やかさに包まれささめいている。その気配は自然の法則として、運命のようなものとして、炫士の四肢に絡みつき、肌を撫でまわす。炫士は顔にべったりと付いた血をぬぐいながら、その気配を振り払おうとするかのように、休むことなく、まっすぐ歩いて行く。

 そして炫士がたどり着いたのは、自分が生まれ育った家だった、速彦が去り、岐史が去り、自分が去った今、そこに最初はいなかったはずの那美だけが残っている。均質に区割りされた住宅地に、他の家々と同じような姿で建てられている、それなのに、その家だけが、炫士の実家と呼べるものなのだ。自分が何をしようとしているのか、どうして戻って来たのか、血まみれの手のひらを見つめながら考えても、炫士には分からなかった、ただ、もし自分が速彦を殺してしまったのだとすれば、ここに来るのは、少なくともここに来ることだけは、必然だと思えた、那美に、自分にとって最も醜悪で不可解な怪物に、会わなければならない。口の中が、まだ痛みでうずいている。炫士は、今初めて、自分が那美という人間に対峙しようとしているような気がした、自分が目を背け、知らず知らずのうちに隠蔽してしまっていたものを、そうすることでまるで無意識のように自分を捕らえていたものを、直視しようとしている。別に那美が特別な魔力を持っているわけではない、何でもない、ごくありふれた人間にすぎない、だが、それを嫌悪して遠ざけることが、まるで帳に覆われた空虚のように、炫士にとって那美を余計に母親という特別な存在に仕立てていた、だから炫士は、あるいはごくありふれた人間としての、この世に無数にいる人間の一人としての、街ですれ違えばその存在を気に止めることすらしないような他人としての、那美をそこに見ようとしていた。

 

 「――炫士?」

 玄関のドアが開き、おそるおそる顔をのぞかせた那美は、仰天して炫士を見つめた。口の周りに乾いた血の塊を付けて、冷たい表情をした炫士は、異形の者の訪れのように、ただならぬ雰囲気を放っている。

 「どうしたの?」

 那美は、まるでいつでも逃げ出せる準備をするかのように、玄関のドアの後ろに身を隠し、顔の半分だけをのぞかせたまま尋ねる。炫士はしばらく無言のまま那美を見下ろしてから、ようやく、重く厳しい様子で口を開く。

 「……殺してきた」

 那美はよく分からないという顔をする、言葉の意味はもちろん分かるが、そんな言葉を一瞬で受け入れられるはずがない、那美は聞き返す、本当に炫士がそう言ったのかを確かめるために。

 「殺してきたんだよ。速彦を」

 那美は炫士を見つめる。那美は混乱していた、頭の中の思考が、次にどこへ動き出せばいいのか分からず、硬直してしまう。とうてい嘘としか思えない言葉だが、炫士の顔にべったりと付いている血が、少なくとも何か異様な事態が起きているのだと考えざるを得なくしている。

 「本当なの?」

 那美は尋ねる、徐々に冷静になり、覚悟を決めて、目の前の事態に対処しようとしていた、それが真実である可能性について、考えようとしていた。炫士はうなずく、もちろん、本当に速彦が死んだのかどうかなど炫士は知らない、だが、今ここで、あえて速彦が死んだのだということを、那美に突きつけようとしていた。

 「何でそんなことに――」

 那美は恐れおののき、悲しむと同時に、ふつふつとした、怒りの感情を湧き上がらせつつあった。炫士はそれこそが望んでいたものなのだとばかりに、その感情を煽ろうと、嘲笑的な笑いを浴びせる。

 「あいつを怒らせたのさ、あいつの方が先に、俺を殺そうとしたんだ」

 「いったい、何をしたっていうの」

 「セックスだよ、秋姫を、あいつの女を、俺が弄んでやったのさ」

 怒りが、恐れと悲しみよりも強く表れてくる、那美は、今まで見たこともないような顔をして、炫士を睨みつける。

 「嘘だと思うか?」

 「あなた、それを速彦に言ったの?」

 それが真実かどうかはどうでも良い、というような言い方だった。

 「言ったよ、ありのままを。俺が秋姫とセックスして、おまけに俺の仲間を呼んで三人でやったことも言ってやった」

 わざと、下種な言い方をしていた、炫士はもっともっと那美を怒らせようとしている、今まで岐史と速彦の背後に隠れるようにしていた那美が、生々しい感情を露出する瞬間を待ち構えている。

 「……なんてこと」

 那美は絶句しつつも、あからさまな怒りを、炫士に向けていた。二人は睨み合う、昂った怒りが、二人をその間の空隙に引きずり込んでいくかのようだった、もはやそこに憎悪しか残らないように、互いに他の感情をそぎ落としていく。

 「俺は秋姫をクラブで引っ掛けたのさ。俺は毎日毎日そんな生活をしていたんだ。夜の街をうろついて、めぼしい女に次々声をかけて、飽きることもせずにセックスし続けた、何人とやったかなんて覚えてない、そのくらい、自分でもわけが分からなくなるくらいにたくさんのセックスをし続けたのさ。別に秋姫は特別な女じゃなかった、俺が今までさんざん突っ込んできたマンコの一つでしかない。俺にとっては何の価値もない。憐れだろ? 憐れだろ? あいつは、速彦は、そんな女のために怒り狂い、俺を殺そうとした、そして、あいつに対して侮辱の限りを尽くした俺に、その死の瞬間まで嘲られ続けたんだ。あいつは俺を殴りつけた、怒りに震えて。この血が見えるだろ? 見えるだろ? あいつに殴られて、俺の顔は血まみれになったのさ、感情を暴発させて、訳の分からない言葉で俺を罵りながら、俺を殴った。俺が弟だとか、あいつが兄だとか、そんなことは関係ない、ただひたすらに、俺に憎悪を向けてきた、俺を殺そうとしたのさ、俺を、だから、俺はあいつを殺したのさ、暴れるあいつを殴りつけ、倒れて立ち上がろうとするあいつの顔面を蹴り飛ばして、それでもあきらめないあいつを、迫ってくる電車に向かって、電車に向かって、突き飛ばしてやったのさ――」

 じっと、那美はそれを聞いている、何も言わないが、鋭い憎悪の切っ先を、炫士の喉元に突きつけるようにして、那美はそこにいる。

 「後悔するだろ? 俺を産んだことを、俺をあいつの弟として、親父の子どもとして、お前の子どもとして産んだことを、後悔するだろ? 俺のことなんか産まなければよかったって思うだろ? 俺の存在が、なかったことになればいいと思うだろ? 俺を今ここで、殺してしまいたいって、思うだろ?」

 那美は、その言葉に答えない、不動の存在のように、その場に立ったまま、炫士を睨みつけている、炫士もまた、その那美を睨み返していた。那美はあきらかに怒りを抱えていた、だが、初めは炫士に挑発されて熱くたぎっていたそれは、徐々にその姿を変化させていく、熱がみるみるうちに引いていき、怒りはむしろ皮膚を切り裂くような冷たさを湛え始めていた、炫士にの思うままに引き寄せられていた感情が、次第にその影響を逃れ、那美の支配下へと帰って行くかのようだった。

 「思いもしないわね、そんなことは」

 とうとう那美は言葉を返した、毅然として、自分のペースに巻き込もうとする炫士を突っぱねる。

 「お前が俺を産まなければ、こんなことにはならなかったのに?」

 「そんなに憎いの、私があなたを捨てて、どこかへ行ってしまったことが」

 「言っただろ、俺がこだわっているのは、お前がいなくなったことじゃない、お前が帰ってきたことだ。他はどうでもいいんだよ、お前がどこへ行っていたとしても、俺の実の父親がお前の浮気相手だったとしても、そんなことはみんなどうでもいいんだ、どうでもよかったはずなんだ、でも、お前は帰ってきてしまった、それが全てだ」

 「私の存在そのものが憎いのね」

 「違う、俺とお前の繋がりが憎いんだ」

 「炫士、あなたは私を責め立ててるけど、私には的外れにしか聞こえない。私が帰って来ようが来るまいが、私とあなたの繋がりはそこにある、それは消えたり現れたりするものじゃない、ただ単にそこにあるだけ」

 「俺を産んだのは、お前の意志だろう、俺を孕んだのは、お前の意志の結果だろう。それを作り出したのは、結局お前じゃないか」

 「私の意志である以前に、自然の結果ね。いつ、どんな子供が産まれるのか、それを私が決めることはできない。でも、だからなんだって言うの? あなたは産まれてきた、私の子供として」

 少しずつ、炫士は自分が思うような方向へ進まなくなってきているのが分かった。自分が加えた力に直接的に反発してきた速彦とは違い、那美は、水面に映る写像のように、ゆらゆらと揺れて、正体もつかめないままに、炫士の力を受け流して吸収していってしまう。たとえ暴力によって那美を肉体的に叩き潰したとしても、意味をなさない、那美の存在が問題なのではなく繋がりが問題なら、それは炫士自身の問題でもある、そこまではっきりと意識できていなくても、速彦のときのようにここで暴力を行使したとしても何もならないということくらいは、炫士は理解していた。みるみる怒りを滅却し、冷静な態度を表して、相手の力を飲み込んで無化してしまう那美を目の前に、炫士は焦りを感じていた、言いようのない敗北感が迫ってきている、炫士はそれを受け入れる前に、何かをしなければならなかった、炫士はせめて、いつのまにか敗北していたという事態が起こることだけは避けなければならなかった、何か、決定的な一撃を、那美に加えなければならない――。

 「全ては、偶然のせいか」

 「偶然よ、だからこそ、それは運命なの。炫士、それは絶対に変わらない、理由がないからこそ、それは必然なの。もしそこに意志があって理由があるのなら、それは繋がりにはならない、私とあなたは、もはや他人でしかなくなってしまう。全てが自然の気まぐれだからこそ、私とあなたは母と子なの」

 その言葉は、炫士にとって何か強烈な響きがあった、自分がこだわってきたことの盲点を、冷たい矢のような那美の言葉によって貫かれたような感じがした。

 「……それでも、俺は、その繋がりを消してしまいたい」

 「無理ね。あなたは私から産まれてきた、それだけは絶対に否定出来ない事実だから。あなたは、絶対に私との繋がりから逃れられない」

 炫士は言葉を失う、もはやとどめを刺されたかのように、今までの勢いが、消えてしまう。

 ――くそ、くそ!

 独り言のように、呪うように、炫士は言葉を吐いて、それと同時に、玄関のドアを強引に開けて、バランスを崩した那美を突き飛ばす。那美はよろめいて転びそうになりながら、奥にある壁に体をぶつける。

 「炫士!」

 ひどくぶつけた肩を押さえながら、那美は言葉で炫士を制止しようとする、だが、無駄だと分かっていても、もはや力に頼るしかない炫士は、その那美に向かってじりじりと近づいて行く。身の危険を感じた那美は小さく悲鳴を上げて、家の奥へと逃げこむ、それを追う炫士は、生まれ育った家の、よく知ったにおいの染みた空気を吸い、自分の狂気じみた行為の衝動をいっそう煽られる。それは狂気じみている、もはや抵抗ですらない、その繋がりについてここまで思いつめる自分の滑稽さが、炫士の敗北感を極端に強めていった。

 炫士は、那美を台所まで追いつめて、もう一度那美を突き飛ばす、容赦のない一撃で、那美は床の上に転がってしまう。

 「何をするつもりなの? やめなさい、炫士」

 何を? それは炫士には全く分からない、やむにやまれない衝動だけで、炫士は動いていた、そこには、速彦を打ちのめしたときの冷静さはない。炫士はおもむろに、台所にあった大きな菜箸を手にとった、そして、そのまま、那美の上に覆いかぶさる。何を? いったいどうすべきなのか、炫士には分からない、混乱したまま菜箸を握りしめ、那美を押さえつけている。

 「炫士、やめなさい、炫士!」

 何を? やろうとすることの正体がつかめない、だから、それをどうやってやめていいのか分からない。炫士は衝動によって奈落へ突き落とされるように、暗い感情に飲み込まれていた、無表情の裏には、冷静さではなく、制御できない混沌が暴れている。

 炫士は片手で那美を押さえつけながら、もう片方の手で、いきなり那美のスカートをまくりあげ、下着に指をかける。那美が悲鳴を上げ、それを阻止しようと、炫士の手をつかもうとしてくる、だが、炫士は力任せにそれを振り払い、ほとんど引きちぎるようにして、その下着を奪い取った。

 「炫士、炫士!」

 那美が叫び声を上げる、炫士は下着を投げ捨て、菜箸を握りしめる。何をしようというのか、いったい、何を? 何を? 炫士は無表情で、暗さの中へ沈んでいく――菜箸を振りかざし、裸にされた那美の股の間へ突き刺そうとするかのように、それを構えた。そして、炫士はそこにむき出しになった、那美の膣を直視する、一瞬、それが何なのか分からないという錯覚にとらわれる、両側の襞、裂け目、暗い穴、覆い隠していたものを奪い、暴き出したそれに、自分がそこから産まれたのだということを、これ以上ない生々しさによって突きつけられる、それは、母親のというよりも、無数に存在する人間の肉体のうちの、一つだった、意志とか運命とか偶然とか理由とか、そんなものではなく、単なる肉体が、そこにごろんと転がっている。菜箸を握る手が震え、突然に、炫士は頭痛をおぼえた、今目の前にあるものが、はっきりと意識の中に像を結ばない、膨張と収縮を繰り返して、意識の器では、絶えずとらえきれないものとして蠢いていた。自分が見出していた血のつながりとそれに対する激しい憎悪が、そこに見出していた過剰な意味づけが、暴きだされ、突きつけられ、そして途端に色あせていく、砂の城が崩れていくように、幻が風に吹かれていくように、自分の存在を外から根拠づけていたものと、そしてそれに対抗することで内から根拠づけようとしていたものが、同時に、音もなく、消えていった。自分を意味づけているものも、そして無意味によってそれを打ち消す意思も、何もかも残らなかった。何を? いったい、自分は何を見ているのだろうか、こみ上げてくるものをこらえながら、しかし目をそらすことはできなかった、そらすわけにはいかなかった、炫士は、それを直視しなければならなかった、でも、どうしても、耐えられそうになかった、震えていた手から、菜箸が零れ落ちる、頭痛が脳を殴りつけて揺さぶるように激しく拍動し、炫士は崩れ落ちるように頭をふせ、そのまま床の上に向かって嘔吐した、胃が痙攣するほどの吐き気に襲われ、炫士は床に頭をこすりつけるようにして、逆流してくるものを残らずぶちまけていく、舌を出して、情けない声で喘ぎ、それでも止まらない嘔吐に苦しみ、鼻水を垂らしていた。

 その炫士を、那美はじっと見ていた、後ずさりしながら――しかし脚は広げたままだった――じっと見つめている、憐れみもなく、怒りもなく、軽蔑もなく、庭に迷い込んだ野良犬を見るように、炫士を見つめている。胃の中のものを出してしまった炫士は、よだれを垂らしながら、顔をいっさい上げずに床の一点だけを見つめたまま動けなくなっていた。那美が、深い溜息を吐く、その息の、ほんのわずかな力によって、炫士の試みたことが全てどこかへ消えていってしまうかのようだった。那美は立ち上がり、部屋の隅に落ちた下着を拾う。炫士はうつむいたままでいる、もはや、何かをしようという気を失ってしまっていた。

 「炫士、一つだけ答えなさい」

 炫士は沈黙している、だが、その沈黙は那美に見下ろされている。

 「あなた、速彦を本当に殺したの?」

 炫士は、口を、何度か開け閉めする、そこから、力なく息が漏れていた。

 「どうなの?」

 那美が、強い口調で迫った。

 「……分からない」

 ようやく、炫士の口から言葉が発せられる。

 「速彦は、生きてるかもしれないのね?」

 今度は、黙ってうなずく、炫士は、じっくりと呼吸を落ち着けつつあった。

 「どこ? 速彦はどこにいるの?」

 炫士は何度も唾を飲み込みながら、うめくような声で、駅の名前を告げた。那美はそれ以上質問しなかったし、炫士に何の言葉もかけなかった、躊躇のない足取りで黙って部屋を出る、そしてそのまま、炫士を置き去りにして、速彦を捜しに行ってしまった。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 最終回へつづくーー