Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

僕らが何者でもなくなるように その2

 

 がこの世に生まれてきたとき、その人の人生は、いったいどのくらいが、あらかじめ定まっているものなのだろうか。どんな国の、どんな地域の、どんな集団の、どんな親の子供として生まれてくるかによって、それはどのくらい決められてしまうのだろうか。ある人は全てが運命だと言うだろうし、ある人は全て努力次第だと言うだろう。そして多くの人は、例えば半々だとか、割合の問題だと言うだろう。

 それがもし貧しい家庭に生まれた子が金持ちになるという問題に限定されるなら、それはシンプルな話になるし、努力によってその目標が達成された話も枚挙にいとまがない。けれども、もしここに、生まれたときに用意された、ありとあらゆるものから自由になりたい、という人間がいたとしたら? この問題の本当に意味での矛盾と困難にぶち当たるのは、まぎれもなくそういう人間だろう。それはあらゆる社会的条件や前提からの解放を信じること、裏を返せばあらゆる社会的条件や前提と無関係に自分というものが存在し得るという信念、ひいては信仰と言える。人間が単なる肉体の存在だとするなら、あらゆる国や社会が消えても個人が存在するのは当たり前の事実だと言えるし、個人が社会的関係の中の座標の産物でしかないとするなら、なんらか寄って立つための根拠が必要というのも当たり前の事実だと言える。ただ一つ確実なのは、あらゆる意味付けの無い荒野の中の、むき出しの肉体のような人間としての自分を想定する力なしには、人はそういった個人を析出することができないということだ。それが実際には不可能なことであれ。

 荒野への想像力ーーただそれだけが、「個人」と呼ばれる存在への道を開く。

 そしてその荒野への想像力は、自分が何者かであるということへの違和感を出発点とする。この国の、この集団の、この親の子供として生まれたという「この私」への、その恣意性と必然性への、底無しの違和感。

 おそらく、僕らはそういう違和感を持っている人間たちだった。僕と、タカユキと、そしてそのパーティーで再会することになる、アヤカと、ノリマサ。僕の同級生の中で、そういう違和感を持っているのは、たぶんこの四人だけだった。仲が良かったと言えるのかどうかはわからない、けれど、僕らは、他の同級生たちよりも、互いに強い縁のようなものを感じていた。きっと、その違和感を共有していることこそが、僕らを結びつけたのだろう。その違和感への向き合い方は、四者四様ばらばらだったけれども、僕らはそれに向き合うことなしに、生きては来られなかった。

 これは、僕ら四人の物語。そして僕らと同じような人々の、定められた何者かでいることから、踏み出してしまう人々の物語。

 

 

 

僕らが何者でもなくなるように その3へつづく__