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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

抵抗の手段ー権力と美と

力に抵抗するときに、真正面からそれをやってしまうのは失敗になる。分かりやすい抵抗は把握しやすいため、攻撃も批判も容易になる。また、その抵抗自体が権力の対概念を成してしまうため、むしろその権力構造の一部としてしか存在し得ないという最大の欠点がある。

 

権力が複雑かつ強大な時、必要になるのは、あいまいだったり微妙だったりする点を突くことだ。おおっぴらに批判される前のギリギリの線をいくとか、権力が把握できていない部分を表現に巻き込むとか、そういう手段。

 

ものすごく卑近な例を出してみるとすれば、例えば華美や色気を封じるために、白色しか着てはいけないみたいな規則があったとき、ヤンキー的に黒を着てみたり裏地に刺繍を施したりするのではなく、白色だけで華美や色気を表現してしまうとか、そういうこと。

 

権力が、あることを禁じるためにコードを設定するならば、コードを破るのではなく、コードを守る姿勢を見せつつ、権力が想定していない形で禁忌を破るという手段を講じる。

 

ファッションの「外し」みたいに、そこにある種のユーモアを混ぜると、権力はなおさら批判しにくくなる。権力が笑いそのものを攻撃することは、それ自身の愚かさを露呈させてしまうからだ。

 

また、そういう瞬間に、「美」というものも強力かつ不可欠な手段となる。美は人を魅了する、理屈がどうこうという以前に、有無も言わさない説得力を生み出してしまうからだ。美しいものは、美しいというだけで一つの正当性を確保する。

 

ゆえに権力は美を所有したがり、美意識を支配しようとする。美しい権力は、最も根底から人々を支配し、服従させる。権力は人をサディストにし、美は人をマゾヒストにする。無意味な暴力の純粋な快楽。美しいものへの服従の純粋な法悦。

 

美意識もまた、闘争の場に他ならない。天皇が美意識と結びついているのは、単に力による支配の産物ではないのだ。むしろ、天皇が権力から切り離されたが故に、天皇は美意識を支配できた。その支配の原型は、平安期の美意識の中に完成したのだ。

 

万葉の中の天皇は、まだ権力を握っている。その美意識は、崇高で雄大なものとして表現されている。だが、力で人々を支配するのは、実は危ういことでしかない。人々がそれを上回る力を手にすれば、その支配は覆されるからだ。

 

むしろ小さく儚いものをあはれがること、春夏秋冬花鳥風月といったものををかしがること、そういった美意識は、力を排除し、抽象的で永遠なるものを祭り上げる。いったん共同体に美意識が共有されてしまえば、それを破壊することは容易ではない。防壁と支配の基礎固めとしての、和歌集の編纂。

 

例えば「西洋的」な崇高なる芸術を輸入し賛美しコピーすれば、それに対抗できるだろうか? そういう試みは、伝統主義者が主張する正統性を破壊するには充分でないだろう。「西洋的」というくくりがある時点で、攻撃力を削がれてしまっているのだから。

 

我々は、自由さの中から美意識を創造しなければならないだろう。万葉集の中から、源実朝の中から、正岡子規の中から、あるいは古今東西の芸術から、あるいはもっと根源的な感情から、美や崇高や笑いを取り出し、伝統主義者を閉口させるような正統性を主張するような美を創造しなければならないだろう。

 

また、新たなものを創造する際には、必ず文脈に対する深い理解と洞察が必要になる。あらゆるポエジーとユーモアは文脈に対して創造されるものであり、ポエジーとユーモアはあらゆる芸術の必要条件だからである。

 

しかしそこへ行くと、普遍性はどうなんだという話になる。それに、馬鹿の一つ覚えみたいに抵抗だ抵抗だと言っても、不毛に響くだけだ。
しかし書く行為について言うならば、アートや音楽とは違い、それぞれの言語の持つ文脈に強く関わらなければならない。単純に翻訳を持ち出して、書くことの自由を主張することはできない。そこでは、どうしても軋轢は必然となる。

 

結局、そこで可能なのは、書き手と言葉の持つ文脈との関わりが生んでしまう軋轢を通して、単純に言語構造に回収できない異物としての「この私」を描くことだろう。その闘争だけは、どんな言語で書く人間にとっても、共通の問題であり、その闘争だけが普遍的なものになり得る。