最も純粋な子供達のために その6
三日ぶりに家に帰って来た桐原玲と廊下ですれ違った桐原和弘は何か言いたげな顔で息子を見ていたが結局何も言い出せずに突っ立ったままその姿を見送った。深いため息をついて桐原和弘が居間に入ると不機嫌そうな顔の桐原由美が座っていて目が合った瞬間その顔をしかめて夫をにらみつける。
どうして黙ってるの?あなたが父親らしい顔しないとだめじゃない。
もう何度もやってみたよ。でもあいつは父親なんてものを軽蔑してる。単純に僕のことだけじゃない。父親という社会的役割そのものをあいつは馬鹿にしてるんだ。
そんなの母親の私に対しても同じことよ。だからってこのままにしておくつもり?何日も家に帰ってこない子供を放っておくなんてまともな親のすることじゃない。あの子が何かの犯罪とかに巻き込まれたらどうするの?
言って聞くようなやつじゃない。
だったら力ずくでも駄目なことは駄目だって教えないと。
力ずく?冗談じゃない。そんなことしたら次の日には僕らはあいつに殺されてるよ。
何もしなくても殺されるかもしれないわ。私だって母親なんだしあの子が私たちを恐ろしいくらい憎んでることなんて分かってる。
だったら僕にそんなこと言わないでくれよ。そもそもあいつは子供じゃない。あいつが生まれてから今まで子供であったことなんか一度もない。
大人でもないわ。あの子はとても未熟よ。
社会に出る人間としては未熟だよ確かに。つまり通常の意味では全く大人じゃない。でもあいつは達観してる。何もかもを見透かすと同時に何もかもを冷笑してる。
私はあなたがあの子を恐れ過ぎなんだと思うけど。どんなに頭がよくてもまだ十四歳でしかない。どんなに物事を見透かしていようとも結局冷笑することしかできないの。つまりあの子は無力な中学生だってこと。思春期の男の子にはよくあることよ。だから親がしっかり導いてあげないと。
……でもその方法がないじゃないか。
いい加減にして!いつもいつも情けないことばかり言って。あの子があなたを軽蔑してるのはそういう態度のせいなのよ?どんなに難しくてもあなたにはそれをやる責任があるわ。父親としての責任が。
おどかされた子犬のように弱気な顔をしてうつむいた桐原和弘は君はいつも後ろから偉そうに言うだけだから楽な身分だなと小さな声で呟いていた。
何?ぼそぼそ言ってないではっきり言えば?
桐原由美が激しい苛立ちを隠そうともせずに鋭い口調で言う。
仕方ないから話をしに行くよって言ったんだ。
仕方ない?違うでしょ。それはあなたが自分から引き受けるべき責任なのよ。
ああそうだねと桐原和弘はあきらめきったような様子で答えその場から逃げるようにして二階にある桐原玲の部屋へと向かった。桐原和弘は部品メーカーの営業の仕事をしているが最近は景気のせいであまり業績がかんばしくなく何時会社が潰れるか自分が首を切られるかと恐怖を感じているのに家に帰れば常に苛立っている妻と自分を軽蔑する不気味な息子に悩まされ耐え難いストレスで胃が毎日しきりに痛んでいた。息子の部屋に行く前に胃が締め付けられ吐き気を催したのでしばらく洗面台の前で頭を下げて口を開けじっとしたままうなだれたようになっていた。やがて気分が落ち着き頭を上げた桐原和弘はポケットから携帯電話を取り出し電話帳データに載っている白澤明歩の名前を見つめてぼんやりと考え込んでいた。結局別に何をするわけでもなく携帯電話をポケットにしまうと目頭を抑え首を横に振り大きくため息をついてから再び息子の部屋へと向かった。
部屋をノックすると桐原玲は自らドアを開けて桐原和弘を迎え入れた。桐原和弘はその対応が意外なので驚いたという表情で自分の椅子に座る桐原玲の姿を見ていた。
何か用?
そう言った桐原玲はいつものように他人を嘲笑するような笑みを浮かべていた。
いや。何。どうってことはないんだ。ただお前が三日間も返ってこなかったから。何か困ったことでもあったのかと思ってな。
別に。何もない。
友達の家かどこかに泊まってたのか?
そうだよ。
……ならいいんだ。
桐原和弘はうつむいたままそう言った。そのまま部屋の入り口へ向かって数歩進んだが何か思いとどまった様子で振り向く。
なあ。もっとコミュケーションをしたほうがいいんじゃないか?僕らは家族なのにあまりまともに会話もしないだろ。
必要ないよ。なぜなら俺は家族なんてものを信用してない。
でも一緒に住んでる。
嫌なら出て行くよ。
金はどうするんだ。
金なら稼ぐ当てはある。
強盗でもする気か?
俺はそんな野暮じゃない。
……でもコミュケーションは必要だ。ここを出て社会で生きていくつもりなら。お前はいつも他人を見下してるだけでまともに関わろうとしないだろう。それは良くない。他人とコミュニケーションを取ることを学ばないと。家族だけじゃなくいろいろな人々と関わる術をね。
桐原玲はそれを聞いても鼻で笑うだけだった。
そんなに世間一般の人々が言う意味でのコミュニケーションを真面目に考える必要はないよ。父さん。なぜなら今は金が人と人とのコミュニケーションを代替する時代だ。金さえあれば人は最低限の言葉だけで生きていける。その反面で世間ではコミュニケーション能力なんてものが騒がれてるだろ?コミュニケーションの価値が拡大していると思われているようだけど実際は逆だ。コミュニケーションの形態が金を稼ぐ手段として変形させられているにすぎない。金を稼げないコミュニケーションは欠陥品だというわけさ。コミュニケーションは金に従属している。金の力でコミュニケーションはやせ細り画一的なものになるだろう。言葉は金に取って変わられると同時に市場での流通を促進させる手段として単純化された貧しいものになる。雄弁は銀。沈黙は金。雄弁なやつが小金を稼ぐ一方ですでに金を持ってるやつは沈黙することができる。言葉についての伝統的な課題として言葉が暴力を乗り越えられるかどうかというものがあるだろ?ペンは剣より強しとか。でも今日の社会ではそれだけじゃない。言葉は金を乗り越えられるか。それがもう一つの重要な課題だ。つまりそういう自覚を持っていない人間とのコミュニケーションなんか無意味なんだよ。そんなくだらないコミュニケーションに付き合わされるくらいなら俺は金を持って沈黙する。
……父さんはそういう難しい話はよく分からないよ。
分かるはずだよ。例えば女を買うときだ。金さえあればコミュニケーション無しで女とセックスできる。言葉はいらない。父さんがろくにコミュニケーションを取れない中学生が相手でも金を払えばチンポをしゃぶってくれる。金がコミュニケーションを代替するという機能が社会の隅々まで浸透してるからね。プロの売春婦相手じゃなくてもそれが可能なんだ。
桐原玲は声を出して笑っていた。桐原和弘は青ざめた顔をしてそこに立ちすくんでいたが桐原玲はそれ以上なにも言わなかった。
まあそういう考え方もあるかも知れないけど……。
桐原和弘は相手の心のうちを探るようにちらちらと桐原玲の顔色をうかがいながらどうにか言葉をつないでいた。しかし桐原玲はずっと声を出して愉快そうに笑っているだけで桐原和弘について何か秘密を知っているというようなそぶりなど見せようとはしなかった。桐原和弘は思いがけない言葉にすくみ上がってどうにもそれ以上踏み込んで会話を続けることができなくなりとにかく何か話したいと思ったらいつでも言ってくれとだけ言い残してそそくさと部屋を出て行ってしまった。
再び洗面台の前に戻った桐原和弘はうつむいたままの姿勢で迫り上がってくる吐き気に耐えながらポケットの中の携帯電話を握りしめ体を震わせていた。くそ。くそ。と呟いて唇を噛み締める。力を込めすぎたために唇の表皮が裂けて血が流れた。目の前が不意に白くなって体の状態を平静に保つ気力を失った瞬間とうとう迫り上がってくるゲロを口からだらだらと吐き出してしまった。