君の代わりに その4
「彼女」は、じっと窓の外を見つめながら、そこに座っていた。レースの入った真っ黒いワンピースを着て、これまた真っ黒いつば広のキャペリンをかぶっている。服を着ている人間というより、服に収まった人形のようで、その容貌にしろ肌の質感や色にしろ、奇妙なほどの透明感を持っている。その存在についての現実感が希薄で、僕は一瞬、本当にカフェの片隅にマネキンが置いてあるのかと思ったほどだ。つやつやした木製のテーブルの横で、エッグチェアにもたれた姿は、そういうちょっと変わったコンセプトのインテリアなのだというふうにも見えてしまう。
「あの」
声をかけると、「彼女」はすうっと向き直って顔を上げた。意外にも視線は強く余裕があり、ベルト・モリゾの肖像画を思い起こさせる。真っ黒い服装とコントラストを描く、ヘーゼル色の瞳は美しく、大きなガラス窓を通して入ってくる陽光のせいできらきらと光っていた。ただ、唇は軽く動きかけた状態のまま止まって、浮かぼうとする言葉が舌先ではかなく溶けていってしまうのが見えた。ああ、そういえば、「彼女」は喋ることができないのだな、と僕は思う。
「あなたが手紙を――」
僕の言葉をさえぎるように「彼女」は無言のままうなずき、同時に、ややぎこちない動きで手のひらを差し出しながら、席をすすめてくれた。その手には、やはりレースの入った、真っ黒い手袋をしている。服装はとにかく黒、黒、黒、で統一されている、ほとんど葬儀に来た貴婦人かゴスロリみたいだし、世間の人々からは多少ジロジロと見られてしまうであろう奇抜な格好なのだが、「彼女」の着こなしには妙に品があって、良く似合っていると僕は思う。率直に言って、僕はそんな「彼女」に好感を持った。
…………………
まあ、ひどいもんだ。女子校と男子校出身の人見知りにいきなり正面きってお見合いさせたかのように、僕と「彼女」はしばらく何も喋らなかった。当然のことながら、「彼女」は全く喋らない、店員が注文を取りに来ても、無愛想に黙ってメニューを指さすだけで、目を合わそうとすらしなかった。最初、僕は二言ないし三言と投げかけてみたが、「彼女」は何も言わず、うつむいて、これもやはり真っ黒いブラックコーヒーを意味なくスプーンでぐるぐるかき混ぜていた。何かを考えている様子であって、何かを喋ろうとしている様子ではない。言葉を失ったというより、対人恐怖症なのではないかと思ってもみたが、「彼女」の態度はとても落ち着いていて、僕の存在に怯えたりしているわけでもなさそうだった。
「手紙、読んだ時思ったんですけど、文章、個性的ですよね。僕、けっこう、好きでした」
やむにやまれず、そんなことを言ってみる、すると、「彼女」は顔を上げ、僕を見た。スプーンをぐるぐる回す手を止めて、不思議そうに、僕の目をじっとのぞき込んでいる。ヘーゼル色の瞳は、やはりきらきらしている。窓ガラスの向こうにあるテラスで、バナナの木の大きな葉っぱが、風で、ふわふわと揺れていた。
「あの、やっぱり喋れないんですね……」
そう言って、僕はカバンから二冊のノートと二本のペンを取り出す。たぶんこういうことになるだろうと思って、筆談の準備をしてきたのだ。僕は、ノートとペンを一つずつ「彼女」に手渡そうとする、ところが、意外にも、「彼女」は手のひらをぐっと僕の目の前に突き出して、「いらない」という意思表示をしてみせる。
「でも、これがなきゃ会話ができないと思うんですが」
「彼女」は首を横に振る、うつむいて、ゆっくりと、やや深い呼吸を二、三度繰り返し、最後に大きく息をはくと、今度はおもむろに、つば広の真っ黒い帽子を脱ぐ、寝ぐせのように立ち上がった髪の毛をぽんぽんとなでて整え、瞳と同じヘーゼル色の髪の毛を手ぐしで梳いてから、ぴんと背筋を張ってイスに座りなおし、そして、もう一度だけ深呼吸。
「……大丈夫、喋れるから」
今度は僕が黙ってしまった。「彼女」は喋れないのだという前提でここに来ていたし、大人びた風貌とはギャップのある、高校生の女の子みたいな声にも一瞬戸惑った。ただし、子どもっぽいというのではなく、口調はとても落ち着いた感じだ。「彼女」は、また、僕の目をのぞき込んでいる。
「いや、全然喋れないのかと思ってたから、驚いた」
「普段はね。私、この一ヶ月以上、全然喋らなかった」
「誰とも?」
「誰とも」
「どうして?」
「手紙で書いた通りなの。あなたの本を読んでいる間は、言葉が頭と口に浮かんでくるけど、普段は全然。今は直接話してるから、それと同じこと。一ヶ月ぶりだから、喋るってどんな感じだったか忘れてたけど、今はもう大丈夫」
一ヶ月ぶりに喋れたのならもっと感動していてもよさそうなのだが、「彼女」の性格なのか、口調はとことん淡々としている。
「カウンセリングとか、考えなかった?」
「全然」
「何で?」
「だって、病名付けられたくないし。私、別に、自分が病気だと思ってない。無理に病人にされるのなんて、いや」
やっぱり変わってるなあ、と僕は思った。病名を付けられるのが嫌だなんて、他の人とは言う事が違う。たいていの人間は、むしろ病名を欲しがるのに。
少しまた、沈黙があって、「彼女」はその度にスプーンで真っ黒いコーヒーをかき回す。
「人と話すと、落ち着かなくなるの? というか、やっぱり一ヶ月ぶりっていうのも、あるのかな」
沈黙の間、ずっとそわそわしたままの「彼女」に聞いてみる。
「そうじゃない、何ていうか、黙ってると、そのまま言葉が頭の中から蒸発して消えてしまいそうな気がするの」
「本当に、僕以外の人とは喋れないってことなんだ」
あまり愉快ではなさそうな顔で、「彼女」はその問いにうなずく。何でだろう、と僕は質問してみようと思ったが、やっぱり止めておいた。「彼女」がその答えを持っていないことは明らかだったし、何よりデリカシーにかける気がした。
「……それで、依頼のことなんだけど」
「彼女」が黙ったままなので、こちらからその件を切りだしてみる。しかし「彼女」はやはり黙ったままでいる、頬杖をついている、そして、僕をじっと見たままでいる。
「具体的に、何をしたらいいんだろう」
僕は、ほとんどひとり言のように投げかけてみる。「彼女」にもそれは分からないようだったし、もちろん僕にも分からない。
「何をしたら、いいんだろうね」
「彼女」は考えている、うつむいてはいない、顔を上げて、スプーンでコーヒーをかきまぜる手は止まっている。
「君に向けて、詩でも書いたらいいんだろうか」
「そういうのじゃないんだよね」
無表情で、「彼女」が手を振って僕の提案を拒む。たぶん、「彼女」なりの素直さのせいなのだろうが、救いがないほど返事がそっけない。何だか、僕がイタイやつだったみたいで恥ずかしくなる。
「難しい話だよ、そもそも、僕は君のことを何も知らない。何が好きだとか、普段は何をしているんだとか、今まで何の仕事をしていたんだとか、あと、名前だってまだ聞いてない」
「そういうのも、今は別に知る必要はないと思う」
再び、「彼女」手を振って答える。
「お手上げじゃないか」
僕は両手を上げて、そのまま、頭の後ろで組んでイスの背もたれに体重をあずける。とりつく島もありゃしない、いったい、こんな状態で何ができるんだ。
「怒ったの?」
「そうじゃない」
僕の返事の口調は、やや強めだったかもしれない。別に怒っていたわけじゃないけど、あまりにつかみどころがなく、しかも非協力的な「彼女」の態度に、ちょっと投げやりな気分になってしまったのだ。
「ごめん、悪気はないんだけど。私、自分自身のことについて、喋るのが好きじゃないの」
「言葉を失ったせいで?」
「違う。ずっと前からそう。自分自身について語ってしまうと、それがいったい誰についての言葉なのか、分からなくなるの。私っていう主語で、私が私について語ると、それが全部、嘘のような気がしてくる」
「自分の名前ですら?」
「自分の名前ですら、ね」
「何か、面白い人だね、君って」
「彼女」は、またじっと僕を見つめる。癖なのだろうか、微妙にピントをずらしながら見つめているので、まるで呼吸をしているかのように、瞳がときどき揺らいでいた。
「怒った?」
「そうじゃない」
常に変わらない冷静さと無表情のまま、「彼女」は肩をすくめる。
「まあ、せめて糸口は欲しいと思うんだよね。僕が、いったい、君のために何ができるのか、とにかく考えないと」
「うん」
子供みたいなしぐさで、「彼女」はうなずく。良くも悪くも、とても素直な人なのだ。きっと、その分、誤解されることも多いのだろうと僕は思う。
「君は、仕事をしていたけど、ある日、急に、喋ることができなくなった」
「そう。ちなみに、書くこともできなくなった。頭の中に、まったく言葉が浮かばないの」
「何か、きっかけになることは? 仕事で嫌なことがあったとか、プライベートなことで悩んでたとか」
「特に、何も」
「何も?」
「特に思いつくことなんかない。仕事は良くもなく、悪くもなく。忙しい仕事だったし、プライベートでの出来事なんか特になかった」
「忙しいことについては、特に問題はなかったの?」
「まあ、プライベートでやりたいことなんかなかったし。ある種のエリートコースみたいな企業で働いてたから、比較的男女平等でフラットな文化だったし、給料もかなりよかった。特に不満を持つようなこともなかった」
「外資系みたいな?」
「そういう系統ね」
相変わらず無表情で答える「彼女」を、僕は少し観察してみる。黒ずくめの、ある種エレガントな装いで、厭世的な、アンニュイな雰囲気のある、寡黙――というか喋れない――な女性。エリートキャリアウーマンというより、世をはかなんだ令嬢といった感じだ。ふと、別れた恋人のことが頭をよぎる、専業主婦志向で愛想の良いユミと「彼女」とは、正反対だと僕は思う。ついでに、上意下達で男尊女卑、薄給で年功序列な役所で働いていた僕とも正反対だ。
「自分でも意識していない問題を抱えてたとか? 表面的には満足してたけど、心の奥底ではそうじゃなかったってとこはないのかな」
「さあ。そんなこと言いだしたら、誰もが自分の人生に完全に満足しているわけないし。それは、誰にでも当てはまることじゃない?」
「確かに。じゃあ、僕の本を読んだ時だけ言葉を取り戻せることについてはどう思う?」
「それもよく分からないけど、ただ、ときどき、妙にしっくり来る本ってあると思うの。小説だと、まるで自分のことを書いてるみたいだって時もあるけど、あなたの本の場合はもう少し違って、まるで自分が書こうとしている文章みたいだっていう感じだったの」
「君にそんなふうに思ってもらえる内容だったかなあ」
僕は、その本に収められた詩の内容を思い出してみる、それは僕の個人的な感情や考えをつづったようなもので、「彼女」みたいな人に共感してもらえるものではとうていなかったはずだが。
「内容がどうこうっていうより、文章ね。文章の呼吸っていうか、そういうもの。さっき、私の文章が個性的だって言ってたけど、あなたの文章は、もっと個性的ね」
「そうかなあ、自分ではよく分からないけど」
「私にもよく分からない。でも、妙にしっくり来たってわけ」
「それじゃあ、君に文章の書き方でも指南したらいいんだろうか」
「それもちょっと違う感じね」
そっけない返事をして、「彼女」は首を横に振る、そして、しばらく何かを考えている、僕は、その様子を見ながら、何か新しい言葉が出てくるのを待っていた。
「……あなたは、誰かの代わりに、ものを書いている」
「まあ、そういう仕事だね」
「私も、何か書いてもらおうかな」
「何がいいんだろう」
「彼女」は、何か考えているそぶりを見せる、しかし、実際には、もう答えを持っていたはずだけれど。
「じゃあ、日記なんてどう?」
「日記?」
「そう、私の日記を、私の代わりに、あなたが書くの」
難しいなあ、と僕はうめくように呟いて腕組みをする。日記というのは、手紙やスピーチとは違っている。手紙とかなら、おおまかな内容や相手や目的がはっきりしているので、後はそれらの条件を上手にクリアできるように、パズルを組み立ててやればいい。でも、日記というのは、そういうのとは違って、自分のために書くもので、そもそも人に代わりに書いてもらうなんて言う性質のものじゃない。目的から言えば、矛盾はなはだしいということになる。
「別に、難しく考えなくていい。あなたが、思うように、私の日記を書けばいいの」
「そうは言っても、そういうとても個人的なものを、他人が代わりに書くなんて、上手くいきそうもないよ。こんな仕事をしているのになんだけど、根本的には、他人の代わりに何かを書くなんて不可能だ。手紙を代筆するときですら、僕は多かれ少なかれ失敗しながら書いてると思ってる。ましてや女性の日記なんて! 往々にして、特に男性というのは、女性のことを書くのが極端に下手くそだ。男性作家の描く女性なんて、ほとんどみんな違和感があるだろ? 頭の中で都合よく創り上げられた女性像を、子供みたいに自分の箱庭で動かしてる。女性のことなんか、まともに見てやしないし、理解しようともしていない。きっと、僕の日記もそうなるよ」
「そういうことを考えられるだけ、まだましじゃないの」
「上手くできないからこそ、よく分るのさ」
「やってみてよ、これは仕事の依頼なんだし、完璧なクオリティなんて求めてないから」
また腕組みして、ううん、と僕は煮え切らない返事をかえしてしまう。
「ちょっとした実験だと思ってくれたらいいの。紀貫之みたいで面白いじゃない? 『土佐日記』ごっこみたいな感じでやろうよ」
僕は、『土佐日記』ごっこという言葉の無理矢理な感じが面白くて、ふき出してしまう。「彼女」も笑っていた。普段は無表情なのに、笑うときは遠慮無く表情を崩していて、とても自然だった。
「それでも、他人の日記を書くんだから、難易度はそれ以上だよ」
「何度も言うけど、面白がってやってくれればそれでいいの。私も、興味あるし。日本語の散文の嚆矢がそんな感じなんだし、日本語で書くっていう行為の根底にはそんな要素もあるってことじゃない?」
「まあ、やるとしても、一つ問題があると思うんだけど」
「何?」
「日記ということは、君の過ごした一日を書くわけだよ。でも、まさか僕が君に一日中つきまとうわけにもいかない」
「別に、つきまとったらいいじゃない」
「え?」
「初めっからそのつもり。しばらく、私と一緒にいてもらうわ」
「同棲でもするってのかい」
「彼女」は首を横に振って、おしい、と言う。何だか楽しそうだ。
「じゃあ、いったい……」
「旅行、一緒に行こうよ、明日から」
「は?」
僕は、マンガみたいなぽかんとした顔で「彼女」を見る。「彼女」はますます楽しそうに、マヌケ面の僕を見て、うふふと笑う。ここでおかしいのは「彼女」であって、僕ではないはずだ。いきなり呼び出された女の子に、明日から一緒に旅行に行きましょうと誘われるなんて、しかもこれは仕事の依頼だからお金ももらえるわけで、こんなのできの悪い迷惑メール並みの話じゃないか。
「どっかに行きたいの、でも、別に一緒に行く友達もいないし、だからあなたに付いて来てもらおうかなって。報酬もはずむよ。さっきも言ったけど、私、給料の高い仕事に就いてたから、貯金はたっぷりあるの。ねえ、やるでしょ、この仕事?」
何が何だか、わけも分からず、僕は、うん、と首を縦に振ってしまう。唯一、直感的に分かったのは、「彼女」が別に僕を騙そうとしているわけではないということだけだった。ちょうど生活費の底も見えていたし、実質、選択の余地などなかったのだが。僕の返事を聞いて、「彼女」は、よっしゃ、と言って軽くガッツポーズをして喜ぶ。喋り始めの重々しい空気はどこへやら、今はまるで、マイペースな女友達の提案に強引に巻き込まれているような気分だ。僕に慣れてきたせいだろうか、それとも、喋ることに慣れてきたせいだろうか、「彼女」の表情はとても自然だった。しかし、一方で、その奥にある翳りのようなものが、決して消えたわけではない。楽しんでいるようで、反面、努めてそうふるまっているような気もする。
レジでお金を払う間、「彼女」は物憂げな表情に戻り、全く喋らなかった、僕の背中に隠れるように立ったまま、店員の目など見ようともせず、ずっと、意味なく、つば広のキャペリンの下から、まるで警戒心の強いヤドカリのように天井の照明を見つめていただけで、全てを僕にまかせてしまっていた。僕以外の人間とは喋れないのだから、それも無理もないことなのだが。
結局、僕は「彼女」のことは何一つ分かっていない。そんな「彼女」と、僕はこれから旅に出ることになってしまった。はてさて、いったいどうなることやら。