Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

物語のはじまるところ その1

 かしむかし、あるところにーー彼女について語ろうとするとき、僕はそんなふうに始めたくなる。全然むかしのことではないけど、まるでそうであるかのように、全然隠すつもりはないけれど、まるで秘密の箱を開けるかのように、僕はそれを語りたくなる。特別なできごとに聞こえるかもしれないけど、本当は誰にでも起こるようなことであって、あるいはこの話を聞く誰しもにすでに起こったことから、そんなに遠くはないだろう。きっと誰もが、僕のような話を、それぞれのやり方で語ることだろう。

 いつはいつとていつとも知らず、どこはどことてどことも知らず、僕の、あなたの、誰かの話。

 むかしむかし、あるところにーー僕と、ヘイリーがいました。ヘイリー? そう、僕が言った、「彼女」の名前。彼女と聞いて、ある人々は綾子とか春香とか昌美とか結衣とか、そういう名前を思い浮かべたかもしれないが、何はともあれ、ヘイリー・ベイリー、僕のそばにいた、あのコの名前。

 

 まるで、絵本に出てくるキャラクターの名前みたいだ。

 そうね。私のお母さん、いろんな童話が好きだったから、そういう名前をつけたみたい。

 いい名前だ、僕は好きだよ。

 私も気に入ってる。お母さん、いつも掃除をしながら歌を歌うの、自分で作った私の歌、ヘイリー・ベイリーの歌。

 

 ヘイリー・ベイリー

 ヘイリー・ベイリー

 赤い頰

 リンゴのような女の子

 秘密の森の緑の中で

 さやかな空を見上げるあの子

 カナリアたちと歌ってる

 ヘイリー・ベイリー

 ヘイリー・ベイリー

 

 たぶんまだ会ったばかりのころだったか、そんな話をしたことがある。名前がヘイリー、苗字がベイリー、Hailey Bailey、ささやくような"H"の音と、はじけるような"B"の音を冠に、"L"の音が二回、"Lolita"のように歯の裏を舌が連続でノックして、まるで軽やかなポップスのリズムのように聞こえる。そんな一人歩きで踊りだしそうな名前に負けず劣らず、ヘイリーは魅力的な人だった、少なくとも、僕にとってはこれ以上ないくらいの出会いで、僕はそれを忘れることはないだろう、もし仮に忘れようとしたところで、僕はいつまでもそれを覚えているだろう。ある時は悲しみとともに思い出し、ある時は喜びとともに思い出す、もし万が一、怒りとともに思い出すことがあったとしても、その思い出の奥底には、いつであっても、変わらない笑いと愛情が満ちあふれていることだろう。

 

 むかしむかし、あるところに

 僕と、ヘイリーがいました

 

 

 

物語のはじまるところ その2へつづくーー

故郷の番人

 "故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、すでにかなりの力を蓄えたものである。だた、全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。"

ーー聖ヴィクトルのフーゴー

 

 

 「人は、一生のうちで少なくとも三つの場所に住んだほうが良い。一つめは、故郷というものを知るために。二つめは、どんな場所も故郷になると知るために。三つめは、故郷など無いと知るために」

 僕が子供のころ、哲学者の叔父が、ぽつりとそんなことを呟いた。意味が分からなくて首をかしげる僕に、叔父は微笑んで、「ただ、どの段階にある人間が一番幸せなのかは、分からないけどな」と付け加えた。

 

 叔父の言う通りにした、というわけではないが、僕は結局三つの場所に住んだ。

 

 一つ目は雪国で、僕の生まれ故郷だった。一面の雪景色は、さらに寝ても覚めても降る雪に包まれ、それ以上の世界は見えない。僕にとって雪国は世界の全てであり、僕は全てを知り、全てが僕の思いのままだった。雪国での僕の友達はヒツジだった。ある時、ヒツジは僕にこんなことを尋ねてきた。

 「全ての雪が消えてしまったら、この世界はどんな風に見えるだろう?」

 

 二つ目は海の国で、僕はいつも海の上で暮らしていた。一面の海原には限りがなく、僕はどこまで行っても同じように生活することができる。僕はどこにいても良かった、僕は何も所有したり、支配する必要がなかった。海の国での僕の友達はワシだった。ある時、ワシは僕にこんなことを尋ねてきた。

 「全ての水が消えてしまったら、この世界はどんな風に見えるだろう?」

 

 三つ目は砂漠の国で、僕は絶えず移動していた。一面の砂漠は常に僕に限界を迫り、定住することができない。僕はどこにもいられなかった、僕は何も所有できなかったし、支配できなかった。砂漠の国での僕の友達はライオンだった。ある時、ライオンは僕にこんなことを尋ねてきた。

 「全ての砂が消えてしまったら、この世界はどんなふうに見えるだろう?」

 

 僕は再び、一番最初の場所を目指すことにした。列車に乗って、故郷へと向かう。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。長い年月が過ぎていたせいだろうか、僕はその一面の雪景色に、何の懐かしさも感じられない。故郷はもはや、柔らかく僕を迎え入れてくれる場所ではなく、よそよそしく、無関心で、僕を突き放し、拒んでいるようだった。僕は何も所有しようと思わなかったし、支配しようと思わなかった。

 僕は叔父に再会することになった。

 「久しぶりだね」叔父は僕を迎え入れる。

 僕はしばらく、旅の話を叔父にした。叔父は黙ったまま、満足そうに僕の話を聞いていた。

 「ところで、ひとつ聞いてみたいんだが」僕の話の終わりに、叔父がそう言った。

 「何だい?」僕は叔父を見つめて、質問に備える。

 「久しぶりのこの雪国は、どんなふうに見えるかね?」

 叔父はソファの上でくつろいでいた、しっぽを振って、羽を手入れしながら。叔父はヒツジの頭と、ワシの羽を持ち、体はライオン、みんなからスフィンクスと呼ばれている。叔父は質問の答えを待っていた。

 古代ギリシアスフィンクスは、謎かけが得意なことで知られていた。スフィンクスの謎かけで答えを誤った者は死に、正解ならばスフィンクスが死んだ。エジプトでは王の墓の番人、つまり生と死の番人であり、ギリシアでは真実の番人であったスフィンクスは、現代ではいったい何の番人をしているのだろう?

A hermes in a silent town

"Cho-ka (Long Poem)"

 

Flying in the sky, you can see an infinitely elongated line of clouds far away, far above the mountains in a spring day. A bird has a long, long tail; it metamorphoses into the wandering evening star.

Spring snows, never listen to me, fall down to the sky. I close my eyes.


Every day like red shadows of vermillion come in.
 Every night like seeds of iris domestica. 
Play with the Moon. Befool the Sun.


The first drop of snow falls without knowing my name.
 The second drop of snow falls without knowing your name.


Inches of stars cover the sky. A resounding bowstring.
 Sing my name. Sing your name.


Names turn to be the lights and the pathways in the dark sky.


I throw the nights on the fire. Icy ashes. And to you I write a poem with it.


A resounding bowstring, sparkle stardust.
 Sing my name. Sing your name.



"Han-ka (Envoi)"

 

Constellations― Japanese didn't know of them, they just came from China and the West. We never thought to find any meanings in dispersed stars or connections between them. We are the lonely crowds, our anonymity, our anomie.

Only three of them we recognized as remarkable existences in the old days: the Sun, the Moon, and Venus.

 

"―Again, this kind of letter."

A postman said to himself and flipped the letter to look at both sides. An address and the name of an addressee were on one side but there was nothing on the other. He went to the place indicated by the address and found the mailbox on the door was sealed with packing tape― The resident rejects any mail or is simply gone. He finds this sort of letter a few times a month in his work.

 

"Undeliverable" ...he stamped the letter with red ink and threw it into a depository inside of the post office. Those undelivered words lie still inside of the dark room like small and timid animals, abandoned and forgotten without being touched by anyone.

He was tasked with keeping tabs on those letters for disposal. Those letters accumulate while postmen― they are inconspicuous like Mercury― run around the town. Sometimes he disposes of all letters in the depository.

 

However, he never follows the formal procedures. He secretly carries them out of the post office and drives, his back to the setting sun, glancing at the evening star. Then he will see the Moon and climb up a certain mountain.

 

When he gets to the top of the mountain, he makes a fire and sits beside it. He takes the letters from his bag and starts to read each of them in the light of the fire.

"I know you'll never reply...," "I'm not sure how many years it’s been since I saw you…,” "I believe that you're still alive somewhere...," "............................................"

Once he finishes reading, he throws the letter on the fire. A thread of smoke rises to the sky. There were stars. Some have names and become parts of the constellations, some never will. An alchemist, he turns smoke into gray clouds. There are some like him among the postmen.

 

It is a bitterly cold night. Those frozen clouds will snow on the town. Words with nowhere to go fall down to the ground among the people. But they’re too fragile. Once the words touch warm skin, they melt and disappear instantly without ever changing into voices. A zero-degree cry of shiny white lost words.

On snowy days everywhere in the world, people in towns are silenced. No one speaks, overwhelmed by the soundless roar of those words. A grieving work by the alchemists for those disappearing words.

He will keep throwing the letters on the fire as on other nights, until the snows cover every corner of the town―

 

ヘルメスの細雪

 

天飛ぶや 春日の山に 遥かなる

雲居たなびく しだり尾の 山鳥やつす 夕星の か行きかく去き

吾が声を 耳だにかけぬ 春の雪 降り昇りてや 目を閉じる

茜さす 日のことごと ぬばたまの 夜のことごと 月に戯れ 日を欺いて

吾が名を知らで 一つ降り 汝が名も知らで 二つ降り

積もる星々 梓弓 吾が名を鳴らせ 汝が名を鳴らせ

暗き夜空に 名は光と成る 路と成る

夜を火にくべ 氷の灰で 吾妹子に 歌を綴りて

星の粉降らす 梓弓 吾が名を鳴らせ 汝が名を鳴らせ



 星座――というのはもともと日本には存在せず、それは中国と西洋から伝えられたものだった。ばらばらの星々に意味を求め、そこにつながりを見ようとは、我々は考えなかったのだ。我々、孤独な群集、その匿名性、そのアノミー

 我々が古来そこに存在を見いだしたのは、ただ三つの星、つまり、太陽と月、そして金星だけだった。

 

 ――また、このたぐいの手紙だ。

 郵便配達員は呟き、白い封筒をくるりと返して裏と表を交互に見る。表面に宛先。封筒の裏面を見るが、差出人の住所も名前もない。配達のために宛先の住所まで行くと、郵便受けはガムテープで塞がれていた――ここの住人は、いっさいの郵便物の受け取りを拒否しているか、または行方が分からなくなってしまっていた。この仕事をしていると、月に何度かこういう手紙を見ることがある。

 

 「配達不可」......という赤いスタンプを押して、郵便局の奥にある保管庫にその手紙を投げ入れる。届かない言葉たちは、おびえる小動物のように、誰にも触れられず暗い部屋の中でじっとしたまま、廃棄され、忘れられていく。

 彼はそういう手紙の管理から処分までを任されていた。水星のように目立たない郵便配達員たちが街中を走り回る中でこういう手紙がたまると、彼が、まとめて処分してしまうのだ。

 

 ただし、彼は決められたやり方で手紙を処分してはいなかった。彼はこっそり手紙を運び出してしまうと、沈んでいく太陽を背にして、宵の明星を横目に車を走らせ、やがて月に出会うと、そのままいつもの山へと登っていくのだった。

 頂上に着くと、彼は火を起こし、その隣に腰掛ける。そしてカバンから手紙を取り出し、炎の光の中で、一つ一つ読み上げていく。

 「返事がないのは、分かっています……」、「もう何年、あなたに会っていないでしょう……」、「きっとどこかで生きていると、信じています……」、「………………………………」

 彼は読み終わった手紙を、火にくべていく。一筋の煙が空へと昇っていた。名前を持ち星座になった星々と、名前もなく星座にもなれなかった星々。彼は魔術師だった、彼はその煙を灰色の雲に変えることができた。郵便配達員たちの中には、彼のような魔術師がいくらか存在していた。

 

 ひどく寒い夜だった。凍り付いた雲は、やがて街に雪を降らせていくだろう。行く宛てのない言葉たちが、ゆっくりと人々の間へ降りていく。だが、それはあまりにはかなくて、暖かい人肌に触れるだけで、声に変わる前に、すぐに溶けて消えてしまう。白く輝く、迷子の言葉たちの、零度の叫び。

 雪の日、世界中のどこであっても、街は静かになる。それは、その言葉たちの、無音のざわめきに圧倒されて、誰も口をきくことができなくなるからだった。魔術師たちによる、消えていく言葉たちのための、喪の作業。

 彼は今夜も手紙を燃やし続けるだろう、雪が、街を覆い尽くしてしまうまで――

誘惑の炎、存在の淵 最終回

 とり、炫士は家の中に立っていた、どこを見回しても、子供の頃からの記憶がそこに染み付いている、懐かしむとかそういうことに関係なく、炫士がそれを受け入れようと拒否しようと関係なく、ただただ、その記憶は頭の中に絶えず浮かび上がって来る。においや手触りが、そこに染み付いている、炫士の体にも、染み付いている。何か、悪いことだけではなかった気がする、良い思い出もあった気がする、だが、炫士はどうにもならない衝動によって、それを押し流してしまった。奇妙な悲しさと寂しさが、奥底からわき上がってきて、その感情が炫士の唇を震わせる。孤独が張り詰めていた、この家のどこにいても、息苦しかった。

 出ることも残ることもできず、家の中をさまよっていた炫士は、玄関の三和土に置かれていた、灯油の入ったタンクを見つけた。しばらくじっとそれを見つめて、炫士はおもむろにそれを抱え上げる、まだかなりの量が残っていて、容器の中で重い液体が揺らぐ音が聞こえた。

 タンクを抱えたまま、炫士はリビングへやって来る、そしてまず、目についたソファに、炫士は灯油を撒いた。そのソファには、テレビを見るときにいつも腰掛けていた、炫士はそうしていたし、岐史も速彦も那美も、そうしていた。部屋の中に、灯油のにおいが充満していく、嗅覚が異様に敏感になっていて、炫士はそのにおいに何度もむせ返った、カーペットの一面に灯油を撒き、カーテンに向かって残りの灯油をぶちまける、その作業はどこまでも淡々としていた、炫士は何も考えてはいなかった、なぜ自分がそんなことをしているのかも考えようとしない、ましてやその結果がどうなるのかなど、なんら関心の対象にはならなかった。

 炫士は台所からマッチを見つけて戻ってくると、リビングの窓を開けて、庭へと解放する。リビングの真ん中へ、わずかに灯油が残ったタンクを置いて、注ぎ口に丸めた新聞紙を差し込む。部屋は灯油のにおいに満たされていた、今まで絶えず浮かび上がってきていた記憶が、そのにおいによってかき消されていく。炫士はマッチを一本取り出して、火を点ける、かすかに燃えるの火の中心は、一瞬たりとも留まることなく揺らぎ続け、しかしどこまでも白く明るい。そのマッチの火を、炫士は柔らかい新聞紙に与える、ゆっくりと深呼吸をするように、新聞紙は火を吸い込んで燃え上がり、したたる滴のように、灯油の中へと落ちていく。

 炫士が庭へ降り、家から離れて振り返る、その瞬間、部屋を満たしていた灯油に触れた火が、赤々と輝いて破裂し、部屋の中のものを全て覆い尽くすように燃え広がった。ソファを溶かし、カーペットの上を這いずり回り、カーテンに喰いついてずたずたに引き裂く、木でできたドアや壁を、太い爪で握りつぶすようになぎ倒し、その奥にあったものを次々と捕らえて踏みにじる、家中の床を走り、階段を駆け上がり、大蛇のように柱に巻きついて、そのまま締め上げるように芯まで焼き尽くし、家をゆるがし悲鳴を上げさせる、窓ガラスを叩き破り、這い出した炎の舌は、夜空まで喰おうとするかのように、家の外を覆っていた闇を舐めまわした。

 炫士は恍惚として、その光景に見入っている、炫士はこの瞬間、何もかもを忘れてしまっていた、那美は生きている、速彦も生きているかもしれない、秋姫を傷つけて、速彦を傷つけて、那美を傷つけて、それでも、何一つ解決しなかった、ただ単に、自分が逃れられないということに、打ちのめされただけだった、これから、その責めを負うことになるだろう、無力な己を、どうしようというあてもない、それでも、炫士は全てを忘れて、その光景に見入っている、祈りだけを知る無神論者のように、炫士は炎を崇めた。炫士は、まるで自分が、家を焼き尽くしている炎になったように錯覚していた、炫士はそこにいなかった、圧倒的な炎の力が、炫士の存在を飲み込んで押しつぶした、炎だけが、幻のような家を飲み込んで、燃え盛っている、炫士は家を喰った、そして、夜を喰った、家が叫び声を上げる、それは夜を突き抜けて、どこまでも高い空へと放たれ、反響し続けた。

 遠くから、サイレンが聞こえてくる、ここへ向かって、パトカーか、消防車か、サイレンが聞こえてくる、だが、そのサイレンは、いっこうに近づいては来ない、炫士の周辺を、遠く、ぐるぐると回るように、夜の中で鳴り続ける――。

 

 

 ふわふわと蛍のように空をただよう火の粉が、炫士の瞳に映っていた、その火の粉はそこに区切られた時間と空間があることを忘れさせる、まるで、何千年という昔から、そこでそうしていたのだというように、火の粉はただよっている。炫士は翼を広げるように、両手を広げた、このまま、どこへでも行ってしまえるだろう。だから、海へ行こうと思った、時間と空間の純粋な広がりが無限に連なる、何もない場所へ。

誘惑の炎、存在の淵 その11

 士は孤児のように、夜を歩いた、孤独で、寄る辺なく、何者でもない。あるいは孤児になるために、炫士は夜を歩いた。夜は気配で満たされている、その闇の向こうには、人々の息づかいが、物の怪のような気配として、密やかさに包まれささめいている。その気配は自然の法則として、運命のようなものとして、炫士の四肢に絡みつき、肌を撫でまわす。炫士は顔にべったりと付いた血をぬぐいながら、その気配を振り払おうとするかのように、休むことなく、まっすぐ歩いて行く。

 そして炫士がたどり着いたのは、自分が生まれ育った家だった、速彦が去り、岐史が去り、自分が去った今、そこに最初はいなかったはずの那美だけが残っている。均質に区割りされた住宅地に、他の家々と同じような姿で建てられている、それなのに、その家だけが、炫士の実家と呼べるものなのだ。自分が何をしようとしているのか、どうして戻って来たのか、血まみれの手のひらを見つめながら考えても、炫士には分からなかった、ただ、もし自分が速彦を殺してしまったのだとすれば、ここに来るのは、少なくともここに来ることだけは、必然だと思えた、那美に、自分にとって最も醜悪で不可解な怪物に、会わなければならない。口の中が、まだ痛みでうずいている。炫士は、今初めて、自分が那美という人間に対峙しようとしているような気がした、自分が目を背け、知らず知らずのうちに隠蔽してしまっていたものを、そうすることでまるで無意識のように自分を捕らえていたものを、直視しようとしている。別に那美が特別な魔力を持っているわけではない、何でもない、ごくありふれた人間にすぎない、だが、それを嫌悪して遠ざけることが、まるで帳に覆われた空虚のように、炫士にとって那美を余計に母親という特別な存在に仕立てていた、だから炫士は、あるいはごくありふれた人間としての、この世に無数にいる人間の一人としての、街ですれ違えばその存在を気に止めることすらしないような他人としての、那美をそこに見ようとしていた。

 

 「――炫士?」

 玄関のドアが開き、おそるおそる顔をのぞかせた那美は、仰天して炫士を見つめた。口の周りに乾いた血の塊を付けて、冷たい表情をした炫士は、異形の者の訪れのように、ただならぬ雰囲気を放っている。

 「どうしたの?」

 那美は、まるでいつでも逃げ出せる準備をするかのように、玄関のドアの後ろに身を隠し、顔の半分だけをのぞかせたまま尋ねる。炫士はしばらく無言のまま那美を見下ろしてから、ようやく、重く厳しい様子で口を開く。

 「……殺してきた」

 那美はよく分からないという顔をする、言葉の意味はもちろん分かるが、そんな言葉を一瞬で受け入れられるはずがない、那美は聞き返す、本当に炫士がそう言ったのかを確かめるために。

 「殺してきたんだよ。速彦を」

 那美は炫士を見つめる。那美は混乱していた、頭の中の思考が、次にどこへ動き出せばいいのか分からず、硬直してしまう。とうてい嘘としか思えない言葉だが、炫士の顔にべったりと付いている血が、少なくとも何か異様な事態が起きているのだと考えざるを得なくしている。

 「本当なの?」

 那美は尋ねる、徐々に冷静になり、覚悟を決めて、目の前の事態に対処しようとしていた、それが真実である可能性について、考えようとしていた。炫士はうなずく、もちろん、本当に速彦が死んだのかどうかなど炫士は知らない、だが、今ここで、あえて速彦が死んだのだということを、那美に突きつけようとしていた。

 「何でそんなことに――」

 那美は恐れおののき、悲しむと同時に、ふつふつとした、怒りの感情を湧き上がらせつつあった。炫士はそれこそが望んでいたものなのだとばかりに、その感情を煽ろうと、嘲笑的な笑いを浴びせる。

 「あいつを怒らせたのさ、あいつの方が先に、俺を殺そうとしたんだ」

 「いったい、何をしたっていうの」

 「セックスだよ、秋姫を、あいつの女を、俺が弄んでやったのさ」

 怒りが、恐れと悲しみよりも強く表れてくる、那美は、今まで見たこともないような顔をして、炫士を睨みつける。

 「嘘だと思うか?」

 「あなた、それを速彦に言ったの?」

 それが真実かどうかはどうでも良い、というような言い方だった。

 「言ったよ、ありのままを。俺が秋姫とセックスして、おまけに俺の仲間を呼んで三人でやったことも言ってやった」

 わざと、下種な言い方をしていた、炫士はもっともっと那美を怒らせようとしている、今まで岐史と速彦の背後に隠れるようにしていた那美が、生々しい感情を露出する瞬間を待ち構えている。

 「……なんてこと」

 那美は絶句しつつも、あからさまな怒りを、炫士に向けていた。二人は睨み合う、昂った怒りが、二人をその間の空隙に引きずり込んでいくかのようだった、もはやそこに憎悪しか残らないように、互いに他の感情をそぎ落としていく。

 「俺は秋姫をクラブで引っ掛けたのさ。俺は毎日毎日そんな生活をしていたんだ。夜の街をうろついて、めぼしい女に次々声をかけて、飽きることもせずにセックスし続けた、何人とやったかなんて覚えてない、そのくらい、自分でもわけが分からなくなるくらいにたくさんのセックスをし続けたのさ。別に秋姫は特別な女じゃなかった、俺が今までさんざん突っ込んできたマンコの一つでしかない。俺にとっては何の価値もない。憐れだろ? 憐れだろ? あいつは、速彦は、そんな女のために怒り狂い、俺を殺そうとした、そして、あいつに対して侮辱の限りを尽くした俺に、その死の瞬間まで嘲られ続けたんだ。あいつは俺を殴りつけた、怒りに震えて。この血が見えるだろ? 見えるだろ? あいつに殴られて、俺の顔は血まみれになったのさ、感情を暴発させて、訳の分からない言葉で俺を罵りながら、俺を殴った。俺が弟だとか、あいつが兄だとか、そんなことは関係ない、ただひたすらに、俺に憎悪を向けてきた、俺を殺そうとしたのさ、俺を、だから、俺はあいつを殺したのさ、暴れるあいつを殴りつけ、倒れて立ち上がろうとするあいつの顔面を蹴り飛ばして、それでもあきらめないあいつを、迫ってくる電車に向かって、電車に向かって、突き飛ばしてやったのさ――」

 じっと、那美はそれを聞いている、何も言わないが、鋭い憎悪の切っ先を、炫士の喉元に突きつけるようにして、那美はそこにいる。

 「後悔するだろ? 俺を産んだことを、俺をあいつの弟として、親父の子どもとして、お前の子どもとして産んだことを、後悔するだろ? 俺のことなんか産まなければよかったって思うだろ? 俺の存在が、なかったことになればいいと思うだろ? 俺を今ここで、殺してしまいたいって、思うだろ?」

 那美は、その言葉に答えない、不動の存在のように、その場に立ったまま、炫士を睨みつけている、炫士もまた、その那美を睨み返していた。那美はあきらかに怒りを抱えていた、だが、初めは炫士に挑発されて熱くたぎっていたそれは、徐々にその姿を変化させていく、熱がみるみるうちに引いていき、怒りはむしろ皮膚を切り裂くような冷たさを湛え始めていた、炫士にの思うままに引き寄せられていた感情が、次第にその影響を逃れ、那美の支配下へと帰って行くかのようだった。

 「思いもしないわね、そんなことは」

 とうとう那美は言葉を返した、毅然として、自分のペースに巻き込もうとする炫士を突っぱねる。

 「お前が俺を産まなければ、こんなことにはならなかったのに?」

 「そんなに憎いの、私があなたを捨てて、どこかへ行ってしまったことが」

 「言っただろ、俺がこだわっているのは、お前がいなくなったことじゃない、お前が帰ってきたことだ。他はどうでもいいんだよ、お前がどこへ行っていたとしても、俺の実の父親がお前の浮気相手だったとしても、そんなことはみんなどうでもいいんだ、どうでもよかったはずなんだ、でも、お前は帰ってきてしまった、それが全てだ」

 「私の存在そのものが憎いのね」

 「違う、俺とお前の繋がりが憎いんだ」

 「炫士、あなたは私を責め立ててるけど、私には的外れにしか聞こえない。私が帰って来ようが来るまいが、私とあなたの繋がりはそこにある、それは消えたり現れたりするものじゃない、ただ単にそこにあるだけ」

 「俺を産んだのは、お前の意志だろう、俺を孕んだのは、お前の意志の結果だろう。それを作り出したのは、結局お前じゃないか」

 「私の意志である以前に、自然の結果ね。いつ、どんな子供が産まれるのか、それを私が決めることはできない。でも、だからなんだって言うの? あなたは産まれてきた、私の子供として」

 少しずつ、炫士は自分が思うような方向へ進まなくなってきているのが分かった。自分が加えた力に直接的に反発してきた速彦とは違い、那美は、水面に映る写像のように、ゆらゆらと揺れて、正体もつかめないままに、炫士の力を受け流して吸収していってしまう。たとえ暴力によって那美を肉体的に叩き潰したとしても、意味をなさない、那美の存在が問題なのではなく繋がりが問題なら、それは炫士自身の問題でもある、そこまではっきりと意識できていなくても、速彦のときのようにここで暴力を行使したとしても何もならないということくらいは、炫士は理解していた。みるみる怒りを滅却し、冷静な態度を表して、相手の力を飲み込んで無化してしまう那美を目の前に、炫士は焦りを感じていた、言いようのない敗北感が迫ってきている、炫士はそれを受け入れる前に、何かをしなければならなかった、炫士はせめて、いつのまにか敗北していたという事態が起こることだけは避けなければならなかった、何か、決定的な一撃を、那美に加えなければならない――。

 「全ては、偶然のせいか」

 「偶然よ、だからこそ、それは運命なの。炫士、それは絶対に変わらない、理由がないからこそ、それは必然なの。もしそこに意志があって理由があるのなら、それは繋がりにはならない、私とあなたは、もはや他人でしかなくなってしまう。全てが自然の気まぐれだからこそ、私とあなたは母と子なの」

 その言葉は、炫士にとって何か強烈な響きがあった、自分がこだわってきたことの盲点を、冷たい矢のような那美の言葉によって貫かれたような感じがした。

 「……それでも、俺は、その繋がりを消してしまいたい」

 「無理ね。あなたは私から産まれてきた、それだけは絶対に否定出来ない事実だから。あなたは、絶対に私との繋がりから逃れられない」

 炫士は言葉を失う、もはやとどめを刺されたかのように、今までの勢いが、消えてしまう。

 ――くそ、くそ!

 独り言のように、呪うように、炫士は言葉を吐いて、それと同時に、玄関のドアを強引に開けて、バランスを崩した那美を突き飛ばす。那美はよろめいて転びそうになりながら、奥にある壁に体をぶつける。

 「炫士!」

 ひどくぶつけた肩を押さえながら、那美は言葉で炫士を制止しようとする、だが、無駄だと分かっていても、もはや力に頼るしかない炫士は、その那美に向かってじりじりと近づいて行く。身の危険を感じた那美は小さく悲鳴を上げて、家の奥へと逃げこむ、それを追う炫士は、生まれ育った家の、よく知ったにおいの染みた空気を吸い、自分の狂気じみた行為の衝動をいっそう煽られる。それは狂気じみている、もはや抵抗ですらない、その繋がりについてここまで思いつめる自分の滑稽さが、炫士の敗北感を極端に強めていった。

 炫士は、那美を台所まで追いつめて、もう一度那美を突き飛ばす、容赦のない一撃で、那美は床の上に転がってしまう。

 「何をするつもりなの? やめなさい、炫士」

 何を? それは炫士には全く分からない、やむにやまれない衝動だけで、炫士は動いていた、そこには、速彦を打ちのめしたときの冷静さはない。炫士はおもむろに、台所にあった大きな菜箸を手にとった、そして、そのまま、那美の上に覆いかぶさる。何を? いったいどうすべきなのか、炫士には分からない、混乱したまま菜箸を握りしめ、那美を押さえつけている。

 「炫士、やめなさい、炫士!」

 何を? やろうとすることの正体がつかめない、だから、それをどうやってやめていいのか分からない。炫士は衝動によって奈落へ突き落とされるように、暗い感情に飲み込まれていた、無表情の裏には、冷静さではなく、制御できない混沌が暴れている。

 炫士は片手で那美を押さえつけながら、もう片方の手で、いきなり那美のスカートをまくりあげ、下着に指をかける。那美が悲鳴を上げ、それを阻止しようと、炫士の手をつかもうとしてくる、だが、炫士は力任せにそれを振り払い、ほとんど引きちぎるようにして、その下着を奪い取った。

 「炫士、炫士!」

 那美が叫び声を上げる、炫士は下着を投げ捨て、菜箸を握りしめる。何をしようというのか、いったい、何を? 何を? 炫士は無表情で、暗さの中へ沈んでいく――菜箸を振りかざし、裸にされた那美の股の間へ突き刺そうとするかのように、それを構えた。そして、炫士はそこにむき出しになった、那美の膣を直視する、一瞬、それが何なのか分からないという錯覚にとらわれる、両側の襞、裂け目、暗い穴、覆い隠していたものを奪い、暴き出したそれに、自分がそこから産まれたのだということを、これ以上ない生々しさによって突きつけられる、それは、母親のというよりも、無数に存在する人間の肉体のうちの、一つだった、意志とか運命とか偶然とか理由とか、そんなものではなく、単なる肉体が、そこにごろんと転がっている。菜箸を握る手が震え、突然に、炫士は頭痛をおぼえた、今目の前にあるものが、はっきりと意識の中に像を結ばない、膨張と収縮を繰り返して、意識の器では、絶えずとらえきれないものとして蠢いていた。自分が見出していた血のつながりとそれに対する激しい憎悪が、そこに見出していた過剰な意味づけが、暴きだされ、突きつけられ、そして途端に色あせていく、砂の城が崩れていくように、幻が風に吹かれていくように、自分の存在を外から根拠づけていたものと、そしてそれに対抗することで内から根拠づけようとしていたものが、同時に、音もなく、消えていった。自分を意味づけているものも、そして無意味によってそれを打ち消す意思も、何もかも残らなかった。何を? いったい、自分は何を見ているのだろうか、こみ上げてくるものをこらえながら、しかし目をそらすことはできなかった、そらすわけにはいかなかった、炫士は、それを直視しなければならなかった、でも、どうしても、耐えられそうになかった、震えていた手から、菜箸が零れ落ちる、頭痛が脳を殴りつけて揺さぶるように激しく拍動し、炫士は崩れ落ちるように頭をふせ、そのまま床の上に向かって嘔吐した、胃が痙攣するほどの吐き気に襲われ、炫士は床に頭をこすりつけるようにして、逆流してくるものを残らずぶちまけていく、舌を出して、情けない声で喘ぎ、それでも止まらない嘔吐に苦しみ、鼻水を垂らしていた。

 その炫士を、那美はじっと見ていた、後ずさりしながら――しかし脚は広げたままだった――じっと見つめている、憐れみもなく、怒りもなく、軽蔑もなく、庭に迷い込んだ野良犬を見るように、炫士を見つめている。胃の中のものを出してしまった炫士は、よだれを垂らしながら、顔をいっさい上げずに床の一点だけを見つめたまま動けなくなっていた。那美が、深い溜息を吐く、その息の、ほんのわずかな力によって、炫士の試みたことが全てどこかへ消えていってしまうかのようだった。那美は立ち上がり、部屋の隅に落ちた下着を拾う。炫士はうつむいたままでいる、もはや、何かをしようという気を失ってしまっていた。

 「炫士、一つだけ答えなさい」

 炫士は沈黙している、だが、その沈黙は那美に見下ろされている。

 「あなた、速彦を本当に殺したの?」

 炫士は、口を、何度か開け閉めする、そこから、力なく息が漏れていた。

 「どうなの?」

 那美が、強い口調で迫った。

 「……分からない」

 ようやく、炫士の口から言葉が発せられる。

 「速彦は、生きてるかもしれないのね?」

 今度は、黙ってうなずく、炫士は、じっくりと呼吸を落ち着けつつあった。

 「どこ? 速彦はどこにいるの?」

 炫士は何度も唾を飲み込みながら、うめくような声で、駅の名前を告げた。那美はそれ以上質問しなかったし、炫士に何の言葉もかけなかった、躊躇のない足取りで黙って部屋を出る、そしてそのまま、炫士を置き去りにして、速彦を捜しに行ってしまった。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 最終回へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その10

 士は、またしばらく元の生活に戻っていた、夜の街をうろついて、女たちに声をかけ、上手くいったり上手くいかなかったり、面白かったり退屈だったり、そういう生活を再開する。家族とはもちろん、秋姫にも会わなかった、これだけ三人を貶めるようなことをしておいて、もう一度だけでも会うような機会があり得るのだろうかとさえ思う。会おうが会うまいが、どうしようもないことには変りない、無視すればするほど、無意識のように湧いてきて足元に絡みつき、こちらから入り込んで汚せば汚すほど、肌に染み付いてくる。那美から産まれた身体で世界を感じ、世界に触れ、岐史と速彦に植えつけられた言葉で世界を語り、世界を求める、それが自分なのだということを、炫士は認めるしかない、ほとんどすべての人間が、当たり前のこととして疑いもなくそうするように。だが、炫士にはどうしてもそれができなかった、表面的な部分ではなく、根源的な部分において、自分が自由になり得るということを、どうしても求めようとしてしまう。ある人は自分の身体を様々なやり方で傷つけようとするかもしれない、ある人は外国語の中へ逃げ込んだり自分の言葉を変えようとするかもしれない、だが、炫士にはそういう発想はなかった、もっと直接的に、直感的に、自由を求めようとしていた。そんな炫士にとって決定的な問題となっているのは、方法がないということだった、だから、どうしても過激にならざるを得ず、むやみやたらに、他人を傷つけてしまう。秋姫を傷つけてみても、結果は変わらなかった、もがけばもがくほど、沼に引きずり込まれ、はまり込んでぬけられなくなるような気がする。

 

 しばらく気ままに生活しようとする炫士だったが、何度となく、そういう炫士を放っておかないのだとでもいうように、携帯に速彦からの着信があった。炫士はそれを無視し続けていたが、この一ヶ月くらい速彦は執拗に繰り返し電話をかけてきている。何かが、速彦を怒らせている、ちょっとした用事なら、連絡が繋がらなければあきらめもするだろうが、この執拗さは、速彦が感情的になっている証拠だ、と炫士は思った。思い当たるのはもちろん、秋姫のことだった、炫士が自分にしたことを、速彦に打ち明けたのなら、速彦は絶対に炫士を許さないだろう。だが、秋姫の性格からして、それは考えにくいことだった、秋姫は深刻なことであればあるほど、それをひた隠しにしようとする、まるでそうすることで、何も起こらなかったのだとでもいうように、それは表沙汰にすることではないのだというように、自分の心の奥底に、無理矢理押し込めてしまう。ましてや、自分から他の男を求めてクラブをうろつき、昔の恋人だった義理の弟に抱かれたなどと、速彦に打ち明けるはずがない。それに、もしそんなことを知ってしまえば、速彦の怒りはこんなものではないだろう、速彦は潔癖な人間で、おとなしい秋姫の処女性や慎ましさを、己が女性に求めるままに信じているのだから。秋姫がそんなことをするなどというのは、速彦の想像を超えている、想像を超えた事実を突きつけられた速彦の混乱は計り知れないだろう、その時、速彦は炫士に対してありったけの憎悪を爆発させるだろう、いつもためらいがちに炫士に向けられていた怒りは、その抑制を突き破るだろう、兄であるとか弟であるとか、そういう境界を無効にして、剥き出しの感情で対峙しようとするだろう。

 

 炫士は夜の街を歩く、たった一人、ぐるぐると人の多い通りを巡って、風景の底へと沈んでしまう人々の群れに手を差し入れ、一杯の水をすくい上げるようにぽつぽつと声をかける。炫士は歩みを止めなかった、動き続けていないと飲まれてしまうような気がした、止まった瞬間に、自分が何者であるかを思い出してしまいそうだった、動き続ける勢いの中で、誰でもない誰かとして、他人に出会おうとしていた。ただ、今までと勝手が違うのは、自分が速彦に追われているような気がすることだった、街を歩きまわっているときに電話が鳴ることもあったが、そうでなかったとしても、常にその影が、ひたひたと背後から迫っているような感じがする。自分が苦しめた秋姫の顔がたびたび頭に浮かんで、そのことが余計に、速彦の存在を際立たせている。夜の街の闇の中に、速彦の影が染み込んでいる、その忌々しさに、炫士は苛立っていた、速彦の影のせいで、夜の街の何処を歩いていても、常に自分が何者かであるということを思いだしてしまう、もはや、ここで炫士は孤児になることができなくなっていた、炫士は速彦の弟であり、那美の子どもだった。暗い山道に綾かかる茂みをかき分けるように、炫士は人ごみを縫って歩いた、迫ってくる速彦の影を、どうしても振り払いたいのに、それは炫士の動きをものともせずに張り付いてくる。炫士は妙に焦っていた、それをどうすることもできない自分を、持て余すしかない、速彦と那美の存在が消えてしまえばいいのに、と思う、岐史のように肉体的に死ぬというのではなく、それが存在するということを、現在からも過去からも、拭い去ってしまいたい。焦りといら立ちが炫士の顔をこわばらせ、威圧的で強引な声かけをくり返してしまう。

 「おい」

 炫士は目の前を歩いていた女に、いきなり言葉を投げつけた。女が驚いて、不愉快そうな顔でこっちを見る。

 「暇そうだな」

 相手のことなど無視して、炫士は自分の感情に流されるままの態度でしゃべりかける。

 「急いでるんで」

 女は目をそらし、身を守るように前かがみになって、早足で逃げようとする。

 「嘘つくなよ」

 「やめてください」

 「は? 何も悪いことしてねえだろ。お前が暇そうだから声かけてやってんだぞ」

 単なるやつあたりでしかない言い草に、女は恐怖を感じた様子で、人ごみへ向かって走りだそうとする。

 「逃げんなよ。俺が何したっていうんだ」

 炫士は素早く女の腕をつかんで無理矢理引き寄せ、耳元に顔を近づけ脅すような言い方をする。

 「何するんですか!」

 つかまれた腕を振りほどこうと、女が体を左右に揺さぶって抵抗するが、炫士はそれをあざ笑うかのように、その腕をねじり上げてしまう。女は悲鳴を上げて、顔を地面に向けて崩れ落ちそうな格好になる。

 その様子を、通行人の男がしばらく見ていた、何が起こっているのか、しばらく考えていたようだったが、やがてこれは明らかにおかしいと思ったのか、ゆっくりと炫士のほうへ近づいて来る。

 「――ちょっと、あなた何をやってるんだ」

 誠実そうな男で、憎むべき所はないような人柄に見える、おそるおそる、今ここで働かさなくてはならない正義感を、忠実に体現しているだけだった。だが、炫士はもはや、他人に対して必要な感性や判断を見失いかけていた、相手が誰でどんな人間でも、それは炫士にとってはどうでもよくなってしまっている、男のことなど何も見ていない、障害物をどかすように、目も合わさず、瞬間的に身をひるがえし、男の腹を蹴り上げる。

 「あっ」

 男は短く呻いて、みぞおちに入り込んだ蹴りで悶絶して、膝から地面に崩れ落ち、舌を出して苦痛にあえいだ。炫士は笑った、笑いながら女を突き飛ばし、通行人をかき分けて走り出す、通りにそって、ぐるぐると街をさまよいながら、遠くへと移動する、だが、炫士の笑いはすぐに消え、いったい自分は何をやっているんだという内省が始まってしまう、以前にクラブで強引に秋姫を連れだそうとした幼稚な男と、同じことを自分はやっている。闇に忍び込んだ速彦の影が一面に広がり、走っていく炫士の足の裏にねばねばと張り付いて糸をひくようだった、その時ふたたび、電話が鳴る、炫士は電話に触れない、ポケットにつっこまれたそれは、走る炫士と共に移動する、止まっていようが走っていようがもちろんそれは変わらない、だが、炫士はあえて滑稽を演じようとするかのように、自覚もなく、鼓膜を叩くように鳴る音から逃げようと、夜の街を抜ける、街のあちらこちらで、速彦が自分を探しているような気がした、建物のすき間から、行き交う車の窓から、すれ違う人々の視線の奥から、ありとあらゆる場所に乗り移った速彦の目が、自分を見ていた、その視線から逃れようと、炫士は走り続ける、息が上がり、激しい呼吸の音を漏らしながら、夜の街の隅から隅を転げまわる、だが、その目は至る所にあった、その目は、炫士の内側から炫士を観察していた、全身をめぐる血液の中から、臓器の奥から、速彦の目が、自分を見つめている――。

 炫士は疲れきっていた、息を吐き、獣のように歯を剥いて、低い声でうなり、街の中にぽっかりと空いた空洞のような公園へとやってくる。夜なので全く人気はない、それが、今の炫士を落ち着かせてくれた。その公園の中ならば、つかの間でも速彦の目を避けられるように思えた。

 呼吸が落ち着くと、さっきまで鳴っていた電話の着信履歴をチェックしてみる、電話をかけてきたのは、速彦とは全然関係の無い知り合いだった。炫士は笑い声を上げる、何をこんなに逃げ回っているのだろうと思う、結局すべてが、自分一人の考えの中で起きていることにすぎない、秋姫も速彦も、今は目の前にいないというのに。だが、予感だけは消えなかった、この街のどこかで、速彦が自分を探している、それはほぼ間違いなかった。次に速彦と会ったとき、いったい何が起こるだろうか、と炫士は考えてみる、速彦は、きっと自分に対して今までにない憎悪を感じているのだろう、それは自分も同じだった、お互いに、お互いの存在をこの世から消したいと思っているだろう。少なくとも、炫士はそうだった、互いに兄弟として生まれるべきではなかった、全くの他人であったならば、互いの存在を許容できただろう、だが、二人は兄弟なのだ、自然はその気まぐれな残酷さによって、二人を同じ母親から産まれさせてしまった、炫士が誰かの子どもであることを、絶対的な運命にしてしまった。炫士がその運命から必死で目を背け、己の両眼をえぐりたいほどだと思ったとしても、自然は平然としてそこにある。偶然の結果が、運命として炫士を拘束している、その馬鹿馬鹿しさは、救いようがない。たぶん、自分は那美と速彦という人間そのものが憎いのではないのかもしれない、と炫士は思う、母だから那美が憎いのであり、兄だから速彦が憎いのだ、ならば、この憎悪は解決しようがない、自然は、自分が加害者になることを許してくれない、誰もが原因に突き動かされた結果としてしか存在できない、誰もが憐れな被害者になってしまう。

 炫士は帰ることにした、歩いて行く夜の街の、深い闇々の中から、速彦の視線が浮かび上がってきている、ならば背景の闇そのものは、那美の目だろうか、その瞳孔の、虚空の深さが、炫士を誘っているようだった。自分は、すっかり街の中での居場所を失ってしまった、と炫士は思う、あるいは居場所だと思っていたものが、結局そうではなかったということが、はっきり見えてしまった、孤児のように街をさまよい、名前のない女たちを漁ることでごまかしていたものが、すっかりあらわになってしまった。結局自分はありふれた繋がりの中でしか存在していない、にもかかわらず、説明のつかない衝動によって、直情的にそれを拒み続けている。

 ――どうすることもできない。

 ひときわ強く、その言葉が炫士の頭の中で響いた。頭の周辺を駆け巡る理屈がいかにそれを無駄な抵抗だと説明しても、炫士はその衝動を押さえこむことができない。むしろ衝動こそがその理屈の主だった、那美と速彦と岐史と自分の関係についてのあらゆる理屈が、その衝動に従属している。関係と衝動が真実であり、理屈はその影でしかない。もうあれこれ考えるのはやめようと思った、後は関係に衝動をぶつけていくだけだった、その結果何が起きたとしてもかまわない、何も起きないよりましだった。

 

 

 炫士は地下鉄の駅のホームに立った。そこに立ったまま、何本かの電車を見送った。炫士はそこで、速彦を待ってみることにしたのだった、その駅は速彦の職場の最寄りで、通勤時には必ず通るはずだった。自分を追い回す速彦の視線を、そこで迎え撃とうと思った、逃げ回るほどに、それは強迫的になる。電話に出る気もかける気もなかった、速彦の予期していない形で対面し、不意をつきたかった。

 そのまま、さらに何本かの電車を見送る。速彦は現れなかった、今日はもう帰ったのかもしれない、そう思って、炫士は周囲を見回した。人もまばらなホームに、一人、女が電車を待っていた、背筋を伸ばして立っているが、少し疲れたような気怠い表情で、じっと正面を見つめる瞳が揺れ動いている。とても美しい顔をしていた、毎日のように街を歩き回っていても、めったに出会うことのないくらいの女だった。アナウンスが聞こえてくる、快速の電車が通過します、当駅には停車いたしません、そう告げていた、視線の向こうから光が飛んできて、押し出された風がホームを吹き抜ける、やがて巨大な質量の電車が音を立てて突っ込んでくる、炫士はそれを見つめながら、その電車が自分の体を粉砕する所を想像してみた、圧倒的な力が、自分の存在を消し潰してしまう、その想像に、不思議な解放感を覚える、自分が死ぬということではなく、圧倒的な力に消し潰されるということに、戦慄と安らぎを覚える。

 女もまた、目を細めて電車を見送っていた、吹き抜ける風で長い髪の毛が扇を開くように舞い上がり、毛先を踊らせたかと思うと、突然に力を失って元の位置へ落ちて行く。炫士は少し考えてから、一歩を踏み出す、声をかけてみようかと炫士は迷う、以前の自分なら、何も迷わず声をかけただろう、だが、速彦の視線の幻影に囚われてしまった今、それをいくらやったところで、自分は何も得られない。自分の目の前で、世界が閉じようとしていた、こじ開けたくても、その方法がない。

 ――――。

 何か、聞こえたような気がした、それは通過する電車の騒音にかき消されて、耳には届かない、だが、炫士はその声に注意を惹かれる。

 振り向こうとした瞬間、炫士は肩をつかまれた、反射的にその肩を動かして、それを振り払う、そして顔を向け、その手の主の姿をとらえる。

 「――炫士」

 そこには速彦が立っていた、自分のほうが先に相手の姿を見つけたはずなのに、炫士よりも速彦のほうがずっと驚いた表情をしていた。理由は簡単だった、この遭遇を、炫士は予期していて、速彦は予期していなかった。

 「何だよ?」

 嫌に冷静な態度で聞く炫士に、速彦は驚いた表情のまま一瞬考えこむようなしぐさをした。

 「……こっちのセリフだ。こんな所で何やってる」

 「たまたま通りかかっただけだ」

 速彦は首を傾げる、こんな所にたまたま炫士がいるというのは、どう考えても不自然だった。

 「まあいい。それより……何で電話に出ない?」

 今自分が何を言うべきか思い出し、速彦が尋ねる、その言葉には自ずと力がこもった。

 「どうせ、俺にとってはロクな用事じゃないだろ」

 予想通りの炫士の反応を、速彦は鼻で笑ってあしらう。炫士は、いったい何の用事なのかと再び考えてみる、秋姫のことだとは考えられない。

 「お前、母さんになんてこと言うんだ」

 ああ、そっちのことか、と炫士は思う。

 「何のことだ」

 「とぼけんなよ。お前、母さんのこと、この世で一番醜い生き物だとか言ったらしいな」

 それを聞いて、思わず炫士は吹き出してしまう。

 「それを、何でお前がわざわざ俺に言ってくるんだ。そんなことで何回も電話してきやがって」

 「俺が言うしかないだろ。父さんが死んだ今、お前をちゃんと注意できるのは、俺しかいないんだからな。お前はその場で感情的にそんなことを言ったのかもしれないけど、母さんに対してあまりに侮辱的な言葉じゃないか。俺はそれを見過ごすわけにはいかない」

 「おいおい、勘弁してくれ、とうとう父親気取りか。俺は本心からそう言ったまでだ、事実そうだと思ってる」

 「お前が幼稚だから、俺がお前の親父みたいにふるまわないといけない」

 「お前が、俺のことを幼稚だと思い込みたがってるんだろうが」

 「そんな子どもっぽいこと言い散らかしといて、いっぱしの大人のつもりか」

 速彦がなぜこんなに自分に対してこだわるのだろうか、と炫士は考える、弟を嫌悪して排除しようとしながらも、同時に拘泥してあくまで家族内の周縁に引き止めようとするのは、明らかに矛盾した行動だった。速彦は那美と炫士という個人のことなど見てはいないのだ、と炫士は思う、速彦は常に、父と母と弟と、兄である自分という、閉じられた集団内の力学にしたがって動いている、言ってしまえば、自分を兄というポジションに置かなければ、自分がどう振舞って良いのか分からないのだ、集団に自分を定義してもらうことでしか、自分自身と、そして自分と他人との関係を、とらえることができない、だから、母と弟を、どうしても手放すことができない。ここで自らを父親というポジションに移行させようとしていることことが、その動かぬ証拠だった。そのことに気づいた炫士の頭の中に、邪悪な考えが浮かんでくる、速彦を追いつめ、壊してしまうのは、もはや簡単なことだった。

 「悪かったよ、ごめんね、パパ」

 悪意の塊のような笑みを浮かべて、炫士は速彦をパパと呼ぶ。

 「そうやって人のこと馬鹿にした態度をとり続けるんだな。でもそんなのはな、お前自身の、余裕の無さと幼稚さの裏返しでしかないぞ」

 少なからず当を得た言葉に挑発されるように、炫士は笑いを止め、速彦を睨みつける。だが、すぐに、その顔には薄笑いが戻ってきた。

 「じゃあね、パパ、炫士くんが良いこと教えてあげるよ」

 「いいかげんに――」

 言いかけた速彦を、炫士が手のひらをかざして制止する。もう何もかも壊れてしまえ、と炫士は思う、行き着くところまで、行ってしまえ。

 「まあ、とりあえず聞いてよ、パパのお嫁さんいるでしょ、秋姫っていう女。あの女ね、昔、炫士くんの彼女だったの」

 「何を言ってる?」

 突拍子も無いことを言いだした炫士に、速彦の表情が強張る。

 「ホントだよ。炫士くんと秋姫は、おんなじ中学に通ってたんだ、こっそり付き合ってたから、みんな知らないかもしれないけど」

 「お前、本当にいいかげんにしろよ。嘘でも、そんなこと言っていいと思ってるのか」

 「でもさ、パパはおかしいと思わなかったのかい? 炫士くんと秋姫ってさ、明らかによそよそしい態度とってただろ? そのくらい、気づいても良かったのに」

 速彦が黙り込む、いくら鈍感な速彦とはいえ、秋姫の人見知りな性格を差し引いても確かにあまりによそよそしい態度をとっていたことに思い当たり、炫士の言葉に何と返していいのか分からないようだった。

 「びっくりしたよ、パパが秋姫をお嫁さんだって言って、炫士くんの目の前に連れてくるんだもん。それでね、炫士くん、パパのこと嫌いじゃない? だからさ、炫士くん、何したと思う?」

 速彦は何も答えない、答えられない、炫士の喋っている荒唐無稽な話を、ただ聞いていることしかできない。何も証拠はない、ただの侮辱にしか聞こえない、だが、速彦は黙って聞いている、潜在的に、そんなことがあるかもしれないという不安を、自分でも気付かないくらい深い意識の底で、抱えていたのかもしれない。

 「パパのお嫁さんね、ホントはパパのものになるのが嫌だったのかな? だから夜にクラブに通って男漁りしてたみたいだね。だから炫士くんね、パパのお嫁さんに声かけて、セックスしちゃった」

 「ふざけるな!」

 速彦が叫んで炫士の胸ぐらをつかむ、炫士はあえて抵抗しなかった、薄ら笑いを浮かべながら挑発し、速彦の自尊心を根こそぎ奪い取ろうとする。

 「ただ単に二人でセックスしただけじゃないよ。炫士くんね、パパのお嫁さんが、パパのものにも、炫士くんのものにもならないようにしちゃった」

 胸ぐらをつかんでいる手に、ありったけの力がこもり、震えていた、速彦は顔を真っ赤にして目を血走らせ、歯をむき出しにして炫士を睨みつけていた、膨れ上がる怒りが、制御できないものになりつつあるのがはっきりと分かる、それなのに、炫士は挑発をやめない、全てを取り返しの付かない結果に向けて、押し出そうとしている。

 「炫士くんね、お友達を呼んでね、パパのお嫁さんと三人でやっちゃった。後ろから前から、パパのお嫁さんに、おちんちん入れちゃったの――」

 その瞬間、速彦が叫び声を上げる、制御できない怒りが、炫士の目の前で破裂した、まともな言葉にならない叫びと共に、速彦の拳が飛んできて、炫士の頬を殴り飛ばす。炫士は顔を弾き飛ばされてのけぞる、口の中が切れ、すぐに血が溢れて舌や歯をベトベトに濡らし、その血液がよだれに混じって、痛みで上手く閉じることの出来なくなった口からだらだらとホームの床の上に垂れていった。激しい痛みで、口の中がうずいていた、だが、炫士はその痛みに妙に嬉しい気分になってきて、笑いを漏らす、痛みが、真実となって響いているような気がした、その痛みが、自分を孤絶した場所へ連れていき、その痛みが、その場所で無根拠な存在となるはずの自分の根拠となって繋ぎ止めてくれるような気がした。続けざまに、速彦の蹴りが飛んできて、炫士はそれを腕と胴で受け止める、骨を軋ませるような痛みが腕を突き抜け、炫士は血にまみれた口の奥で喘ぐ。速彦は激昂で肩を震わせ、荒く息をしていた、怒りは治まらない、速彦は感情の奴隷になったかのように、炫士に対する攻撃性を吐き出そうとしていた、もはや相手を殺してしまうまで、それが治まらないのだというように。速彦が再び拳を振り回す、それが炫士の鼻先をかすめ、たまらずうつむいた炫士の鼻から血が溢れ、真っ赤な鮮血が飛び散った。炫士は笑う、痛みが、体を突き抜けていた、血まみれになった顔を手でぬぐいながら、止まらなくなった笑いを押しとどめることもせず、ただひたすらに笑う。自分でも何を笑っているのか分からなかった、速彦に対する笑いでもなく、自嘲でもない、痛みと共に、純粋な笑いが脳を突き抜けているかのようだった。怒り狂った速彦は、攻撃の手を止めようとはしない、訳の分からない言葉で罵りながら、炫士の方へと向かってくる、炫士は笑っていた、そのおかげで、ひどく冷静に、速彦の動きをとらえていた、だから炫士にとって、反撃するのはたやすいことでしかない。次の瞬間、速彦が力まかせに振り回す拳をかわした炫士は、バランスを失いそうになる速彦のこめかみ目がけて、鋭い一撃を叩き込んだ、それまで暴れていた速彦の動きが急に止まったかと思うと、糸を切られた操り人形のように、ホームの上に崩れ落ちてしまう。怒りの奴隷になっている速彦はなおも動き続けようとして、こめかみを押さえながら、がくがくと震える膝を押さえ、立ち上がろうと体を起こす、だが、炫士は容赦なく、その顔面に強烈な蹴りを浴びせてしまう。肉の弾ける音がして、速彦はそのまま背中からホームに転がった。さっきまで優勢だったのが嘘のように、速彦はうつろな目で体を震わせ、鼻と口から流れる血で顔面を濡らしているのに、それでも必死に起き上がろうとする。激しく息をしているせいで、口の周りに真っ赤な泡が噴き出して溜まっている。炫士は、その速彦へ向かって、ゆっくりと歩いて行く、後は、とどめをさすだけだった。

 ――電車が来ます、白線の内側までお下がりください。

 アナウンスが聞こえた、炫士は笑う、速彦が、圧倒的な力に潰される瞬間を想像した、その力によって、肉体と一緒に、存在の事実が消えてしまうことを想像した、何もかも、消えてしまえばいい、炫士は思った、速彦は必死に体を起こし、立ち上がろうとしている、炫士はその瞬間をただ待っていた、線路の消える闇の奥から光が飛んできて、押し出される風が一瞬でホームの端から端を吹き抜ける、警笛を鳴らし、巨大な質量の塊が迫ってくる、後は簡単だった、必死で立ち上がる速彦をあざ笑うかのように、ほんのわずかな力で、速彦を線路の方へと押し出した、もはや力を失っていた速彦は、よろめきながら、バランスを崩して、迫ってくる電車へと吸い寄せられるように、よたよた後ずさりをする、炫士は笑い声を上げた、そしてそのまま踵を返して走り出し、ホームを駆け抜ける、その瞬間、あの美しい女と目が合った、女は世にもおぞましいものでも見たように、瞳孔を広げ、釘付けられたような視線で炫士を見つめていた、逸らそうとしても逸らすことができないという視線だった、炫士はその女の横を通り過ぎ、跳ぶように階段を上がる、金属をねじ切るような、激しいブレーキ音が聞こえ、女の悲鳴がホームをつんざいた、炫士は振り返らない、何が起きたのかは確認しなかった、ただ、地下から、駅の外へと向かって、一直線に這い上がることだけに集中していた、速彦は死んだのだろうか、それは分からなかった、炫士はひたすら走り続けた、立ち止まってしまえば、粉々になった速彦の体から洪水のようにあふれる血によって足元をすくわれ、そのまま再び地下へと引きずり込まれてしまうような気がした、だから炫士はひたすら走り続けた、今自分がやるべきなのは、このまま全てを悲惨な結末へと向かって押しやることだけだった、結果がどうなるかは分からない、それは自分が決められることではない、だが、能うる限り、自分は徹底的に加害者になるのだ、そう思いながら、炫士は、地上へと駆け上がる、明かりに照らされていた地下よりはるかに暗い、闇の底のような夜の地上へ、炫士は戻って来たのだった。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その11へつづくーー