Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

物語のはじまるところ その2

 "I'll miss you, フジサン"

 東京方面へ向かう新幹線の中で、ヘイリーが車窓から見える富士山に向かってつぶやいた。僕はヘイリーの横顔を見つめる、金色の髪に反射した柔らかい光が、タンポポの種のようにふわふわとその周りを漂っていた。ヘイリーはとても日本語が流暢なのに、その時発した「フジサン」という言葉は、なぜだかはっきりとした英語なまりを帯びていた。ヘイリーは思い出したようにカバンの中をさぐってから、「そっか、もうスマホはないんだね」と言う。その言葉を聞いて、僕は寂しさに胸を締め付けられる、あんなに何度も僕と連絡を取り合ってきた電話を、昨日、ヘイリーは解約したばかりだった。もう、僕がそこに電話をかけても、ヘイリーがその明るい声で応えてくれることはなくなってしまったのだ。そんなふうに思うと、さっきヘイリーがつぶやいた「フジサン」という言葉の発音までが感傷的に響く。ヘイリーが自分の国に帰ってしまえば、あんなに勉強した、あんなに流暢な日本語を、これから少しずつ忘れていってしまうのかもしれない。

 代わりにカメラを取り出して、ヘイリーは新幹線の窓から何度か富士山の写真を撮った、特に構図にこだわるでもなく、それは一見無造作な動きだったが、しかし一回一回のシャッターを、噛みしめるように押している。

 「ねえ」

 急に、ヘイリーが振り返った、はるか遠い南の海のように透明な緑色の瞳が、僕を見つめる。

 「ん?」

 「富士山はどうして富士山っていうの?」

 たまにヘイリーは子供みたいな質問をしてくる、純粋な気持ちから、ほんの少しだけうまく答えられない僕をからかうような気持ちから。僕の横で眠るときは、ときどき"Tell me a story"なんていうふうに、僕に物語をせがんだりもした、僕は日本の昔話だとか、ときにはアドリブでこさえた話だとか、そんなことを物語りして、寝る前なのにけっこう必死でそんな要求に応えてあげたものだった。普段のヘイリーはちゃんと自立した人間という感じなだけに、急に子供っぽくなった姿が僕は愛おしくて、つい一生懸命そんなことにこたえようとする。

 「かぐや姫の話は覚えてる?」

 「うん。おじいさんが竹から見つけてきた女の子が、美しく成長したけど、最後は月に帰っちゃう話でしょ? 」

 「そうだね。でも、あの話はそれで終わりじゃないんだ」

 かぐや姫の出てくる竹取物語は、僕がヘイリーにしてあげたそんな物語の一つだった。

 「かぐや姫に去られた帝は、別れ際にかぐや姫から不死の薬をもらったんだ。でも、帝は二度とかぐや姫に会えないことが悲しくて、そんな世の中で生きながらえてもしかたがないと嘆いて、その薬を焼いてしまったのさ。その場所が、あの山の頂上だったから、富士山は不死の山、つまりフジサンになったとか、そんなふうに聞いたことがある」

 「あら、そんな話だったんだ。どうして前は最後まで話してくれなかったの?」

 「おとぎ話として語られるとき、その部分は話さないのが普通なんだ」

 「どうして?」

 「どうしてって……考えたこともなかったな」

 答えに窮する僕を、またヘイリーがじっと見つめている。透き通った緑色の瞳は、僕が知る限りこの世で最も美しいものだった、それを見つめ返すと、僕はまるで明るい月の上に浮かんでいるような気がしてくる、虹彩の模様はまるでクレーターのようで、思わず僕はそこにウサギの姿を探すのだった。

 「その方が面白いでしょ、ドラマとして」

 「子供向けに話すなら、ドラマチックじゃないほうが良かったのかもしれない」

 「私はそのほうが印象的で、良いと思うけど」

 「僕もそう思う」

 うなずきながら、僕は、物語はいったいどういうふうにして、細部を変えられたり省略されたりするんだろう、とふと思う。竹取物語こそは、書かれた物語の中で最も古い物語であり、その原型になった羽衣伝説こそは、日本の物語の中で最も古い、原初の物語だったという。たくさんの人に語られながら、まるで川の上流から下流へ転がる石が、しだいに角が取れて丸くなるかのように、物語は、より多くの人に受け入れられやすい形になるのだろうか。川原で綺麗に丸くなった石を拾って眺める時、僕らは、その石が最初はどんな形をしていたかなんていうことに、普段は想像をめぐらすことはしない。そして、例えば僕がその綺麗な丸い石を拾うように、物語の起源に想像を巡らしてみたとき、その最初の形が持っていた個性や情緒や思想やドラマみたいないびつさ、受け入れ難さに触れることの、痛みや喜び、その尊さみたいなものを、どこまで感じることができるだろうか。僕は、原初の物語の中へ自分を投影し、また、原初の物語を自分の中へ投影する。なぜ、これが原初の物語だったのだろうか? あるいは、なぜ、これが原初の物語として残っているのだろうか?

 「ねえ」

 ヘイリーが、再び僕の顔をのぞきこんでいた、緑の瞳。

 「ん?」

 僕も再び、同じように応える。

 「もう一つ聞いてもいい?」

 「何?」

 「もしあなたが、その帝だったらーー」

 「だったら?」

 ヘイリーは、なんだか意味ありげに間を置いてみせる。別に意識してやっているふうでもないが、ときおり見せるこういう演出のつけかたに、僕はついつい乗せられそうになる。

 「その薬、焼くと思う?」

 僕は文字通り、その質問に何も答えられなかった。間違いなく、ヘイリーは僕たち二人のことを念頭に置いて聞いたのだろう、まるで気まぐれないたずらのような感じの質問だったのに、僕は射抜かれたように体の、そして心の動きを止められてしまった。僕がその男だったら、僕がもしヘイリーにこのまま二度と会えないとして、ヘイリーが僕に不死の薬をくれたら、僕はそれを焼くだろうか、そして黄金の薄絹のような髪を透かしてこちらを見つめる緑色の瞳は、いったいどんな答えを期待しているのか、そのどちらの答えも、すぐには出てこなかった。何となく逃げるように視線をそらし、しだいに遠ざかる富士山の頂を見る、青い空へゆっくりと溶けていく煙のように、白い雲が漂っていた、もし本当にその薬を焼いた男がいたとするなら、その遙か時間の彼方でその男が見ていた景色は、ちょうどこんな感じだったのだろうか。

 「もし、その薬を飲んだとしたら、僕は永遠に生きて、もう一度彼女に会う方法を見つけ出すことができるかな?」

 「それは、あなた次第じゃない?」

 「もし、その薬を、あの遙かに高い山の頂で焼いたとしたら、その煙を、彼女はさらに高い月の上から見つけてくれるだろうか?」

 「それは、もしかぐや姫が、気まぐれみたいにして、地上の様子をながめていたら、その煙を見つけるかもね」

 「どうかな……、僕はたぶん、その煙はかぐや姫から見えるところまで届かない思う」

 「どうして?」

 「この世の中で、最も高いところに手が届く帝であっても、この世の外に対しては、全くの無力だからさ。この世の中で完全な存在であっても、その外側では、何でもない存在でしかない」

 「じゃあ、あなたはその薬を焼かずに飲んで、永遠に生きて、かぐや姫にもう一度会おうとするの?」

 「僕はーー」

 そのとき、いったいヘイリーに対して何と答えたのか、実のところどうしても思い出せない。ただ、忘れてしまったというのではない、心に強いショックを受けてその記憶にバリアを張られてしまった人のように、その答えが、僕の意識の奥深くに沈んでしまっているのだ。

 その答えを思い出すためには、もっと他の、いろんなことを思い出さなければならないような気がする。僕自身と、ヘイリーと、僕とヘイリーのことを。

 ただ僕の記憶にはっきりと浮かんでいるのは、富士山の頂を霞める煙のような雲と、暖かい光をふくんで輝く綿毛のように柔らかい金色の髪と、そして、遙か南の海のように透き通る緑の瞳だった。屈託ない明るい声で僕に物語と答えをせがむ、彼女、ヘイリー・ベイリー。

 

 

物語のはじまるところ その3へつづくーー

物語のはじまるところ その1

 かしむかし、あるところにーー彼女について語ろうとするとき、僕はそんなふうに始めたくなる。全然むかしのことではないけど、まるでそうであるかのように、全然隠すつもりはないけれど、まるで秘密の箱を開けるかのように、僕はそれを語りたくなる。特別なできごとに聞こえるかもしれないけど、本当は誰にでも起こるようなことであって、あるいはこの話を聞く誰しもにすでに起こったことから、そんなに遠くはないだろう。きっと誰もが、僕のような話を、それぞれのやり方で語ることだろう。

 いつはいつとていつとも知らず、どこはどことてどことも知らず、僕の、あなたの、誰かの話。

 むかしむかし、あるところにーー僕と、ヘイリーがいました。ヘイリー? そう、僕が言った、「彼女」の名前。彼女と聞いて、ある人々は綾子とか春香とか昌美とか結衣とか、そういう名前を思い浮かべたかもしれないが、何はともあれ、ヘイリー・ベイリー、僕のそばにいた、あのコの名前。

 

 まるで、絵本に出てくるキャラクターの名前みたいだ。

 そうね。私のお母さん、いろんな童話が好きだったから、そういう名前をつけたみたい。

 いい名前だ、僕は好きだよ。

 私も気に入ってる。お母さん、いつも掃除をしながら歌を歌うの、自分で作った私の歌、ヘイリー・ベイリーの歌。

 

 ヘイリー・ベイリー

 ヘイリー・ベイリー

 赤い頰

 リンゴのような女の子

 秘密の森の緑の中で

 さやかな空を見上げるあの子

 カナリアたちと歌ってる

 ヘイリー・ベイリー

 ヘイリー・ベイリー

 

 たぶんまだ会ったばかりのころだったか、そんな話をしたことがある。名前がヘイリー、苗字がベイリー、Hailey Bailey、ささやくような"H"の音と、はじけるような"B"の音を冠に、"L"の音が二回、"Lolita"のように歯の裏を舌が連続でノックして、まるで軽やかなポップスのリズムのように聞こえる。そんな一人歩きで踊りだしそうな名前に負けず劣らず、ヘイリーは魅力的な人だった、少なくとも、僕にとってはこれ以上ないくらいの出会いで、僕はそれを忘れることはないだろう、もし仮に忘れようとしたところで、僕はいつまでもそれを覚えているだろう。ある時は悲しみとともに思い出し、ある時は喜びとともに思い出す、もし万が一、怒りとともに思い出すことがあったとしても、その思い出の奥底には、いつであっても、変わらない笑いと愛情が満ちあふれていることだろう。

 

 むかしむかし、あるところに

 僕と、ヘイリーがいました

 

 

 

物語のはじまるところ その2へつづくーー

故郷の番人

 "故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、すでにかなりの力を蓄えたものである。だた、全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。"

ーー聖ヴィクトルのフーゴー

 

 

 「人は、一生のうちで少なくとも三つの場所に住んだほうが良い。一つめは、故郷というものを知るために。二つめは、どんな場所も故郷になると知るために。三つめは、故郷など無いと知るために」

 僕が子供のころ、哲学者の叔父が、ぽつりとそんなことを呟いた。意味が分からなくて首をかしげる僕に、叔父は微笑んで、「ただ、どの段階にある人間が一番幸せなのかは、分からないけどな」と付け加えた。

 

 叔父の言う通りにした、というわけではないが、僕は結局三つの場所に住んだ。

 

 一つ目は雪国で、僕の生まれ故郷だった。一面の雪景色は、さらに寝ても覚めても降る雪に包まれ、それ以上の世界は見えない。僕にとって雪国は世界の全てであり、僕は全てを知り、全てが僕の思いのままだった。雪国での僕の友達はヒツジだった。ある時、ヒツジは僕にこんなことを尋ねてきた。

 「全ての雪が消えてしまったら、この世界はどんな風に見えるだろう?」

 

 二つ目は海の国で、僕はいつも海の上で暮らしていた。一面の海原には限りがなく、僕はどこまで行っても同じように生活することができる。僕はどこにいても良かった、僕は何も所有したり、支配する必要がなかった。海の国での僕の友達はワシだった。ある時、ワシは僕にこんなことを尋ねてきた。

 「全ての水が消えてしまったら、この世界はどんな風に見えるだろう?」

 

 三つ目は砂漠の国で、僕は絶えず移動していた。一面の砂漠は常に僕に限界を迫り、定住することができない。僕はどこにもいられなかった、僕は何も所有できなかったし、支配できなかった。砂漠の国での僕の友達はライオンだった。ある時、ライオンは僕にこんなことを尋ねてきた。

 「全ての砂が消えてしまったら、この世界はどんなふうに見えるだろう?」

 

 僕は再び、一番最初の場所を目指すことにした。列車に乗って、故郷へと向かう。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。長い年月が過ぎていたせいだろうか、僕はその一面の雪景色に、何の懐かしさも感じられない。故郷はもはや、柔らかく僕を迎え入れてくれる場所ではなく、よそよそしく、無関心で、僕を突き放し、拒んでいるようだった。僕は何も所有しようと思わなかったし、支配しようと思わなかった。

 僕は叔父に再会することになった。

 「久しぶりだね」叔父は僕を迎え入れる。

 僕はしばらく、旅の話を叔父にした。叔父は黙ったまま、満足そうに僕の話を聞いていた。

 「ところで、ひとつ聞いてみたいんだが」僕の話の終わりに、叔父がそう言った。

 「何だい?」僕は叔父を見つめて、質問に備える。

 「久しぶりのこの雪国は、どんなふうに見えるかね?」

 叔父はソファの上でくつろいでいた、しっぽを振って、羽を手入れしながら。叔父はヒツジの頭と、ワシの羽を持ち、体はライオン、みんなからスフィンクスと呼ばれている。叔父は質問の答えを待っていた。

 古代ギリシアスフィンクスは、謎かけが得意なことで知られていた。スフィンクスの謎かけで答えを誤った者は死に、正解ならばスフィンクスが死んだ。エジプトでは王の墓の番人、つまり生と死の番人であり、ギリシアでは真実の番人であったスフィンクスは、現代ではいったい何の番人をしているのだろう?

A hermes in a silent town

"Cho-ka (Long Poem)"

 

Flying in the sky, you can see an infinitely elongated line of clouds far away, far above the mountains in a spring day. A bird has a long, long tail; it metamorphoses into the wandering evening star.

Spring snows, never listen to me, fall down to the sky. I close my eyes.


Every day like red shadows of vermillion come in.
 Every night like seeds of iris domestica. 
Play with the Moon. Befool the Sun.


The first drop of snow falls without knowing my name.
 The second drop of snow falls without knowing your name.


Inches of stars cover the sky. A resounding bowstring.
 Sing my name. Sing your name.


Names turn to be the lights and the pathways in the dark sky.


I throw the nights on the fire. Icy ashes. And to you I write a poem with it.


A resounding bowstring, sparkle stardust.
 Sing my name. Sing your name.



"Han-ka (Envoi)"

 

Constellations― Japanese didn't know of them, they just came from China and the West. We never thought to find any meanings in dispersed stars or connections between them. We are the lonely crowds, our anonymity, our anomie.

Only three of them we recognized as remarkable existences in the old days: the Sun, the Moon, and Venus.

 

"―Again, this kind of letter."

A postman said to himself and flipped the letter to look at both sides. An address and the name of an addressee were on one side but there was nothing on the other. He went to the place indicated by the address and found the mailbox on the door was sealed with packing tape― The resident rejects any mail or is simply gone. He finds this sort of letter a few times a month in his work.

 

"Undeliverable" ...he stamped the letter with red ink and threw it into a depository inside of the post office. Those undelivered words lie still inside of the dark room like small and timid animals, abandoned and forgotten without being touched by anyone.

He was tasked with keeping tabs on those letters for disposal. Those letters accumulate while postmen― they are inconspicuous like Mercury― run around the town. Sometimes he disposes of all letters in the depository.

 

However, he never follows the formal procedures. He secretly carries them out of the post office and drives, his back to the setting sun, glancing at the evening star. Then he will see the Moon and climb up a certain mountain.

 

When he gets to the top of the mountain, he makes a fire and sits beside it. He takes the letters from his bag and starts to read each of them in the light of the fire.

"I know you'll never reply...," "I'm not sure how many years it’s been since I saw you…,” "I believe that you're still alive somewhere...," "............................................"

Once he finishes reading, he throws the letter on the fire. A thread of smoke rises to the sky. There were stars. Some have names and become parts of the constellations, some never will. An alchemist, he turns smoke into gray clouds. There are some like him among the postmen.

 

It is a bitterly cold night. Those frozen clouds will snow on the town. Words with nowhere to go fall down to the ground among the people. But they’re too fragile. Once the words touch warm skin, they melt and disappear instantly without ever changing into voices. A zero-degree cry of shiny white lost words.

On snowy days everywhere in the world, people in towns are silenced. No one speaks, overwhelmed by the soundless roar of those words. A grieving work by the alchemists for those disappearing words.

He will keep throwing the letters on the fire as on other nights, until the snows cover every corner of the town―

 

ヘルメスの細雪

 

天飛ぶや 春日の山に 遥かなる

雲居たなびく しだり尾の 山鳥やつす 夕星の か行きかく去き

吾が声を 耳だにかけぬ 春の雪 降り昇りてや 目を閉じる

茜さす 日のことごと ぬばたまの 夜のことごと 月に戯れ 日を欺いて

吾が名を知らで 一つ降り 汝が名も知らで 二つ降り

積もる星々 梓弓 吾が名を鳴らせ 汝が名を鳴らせ

暗き夜空に 名は光と成る 路と成る

夜を火にくべ 氷の灰で 吾妹子に 歌を綴りて

星の粉降らす 梓弓 吾が名を鳴らせ 汝が名を鳴らせ



 星座――というのはもともと日本には存在せず、それは中国と西洋から伝えられたものだった。ばらばらの星々に意味を求め、そこにつながりを見ようとは、我々は考えなかったのだ。我々、孤独な群集、その匿名性、そのアノミー

 我々が古来そこに存在を見いだしたのは、ただ三つの星、つまり、太陽と月、そして金星だけだった。

 

 ――また、このたぐいの手紙だ。

 郵便配達員は呟き、白い封筒をくるりと返して裏と表を交互に見る。表面に宛先。封筒の裏面を見るが、差出人の住所も名前もない。配達のために宛先の住所まで行くと、郵便受けはガムテープで塞がれていた――ここの住人は、いっさいの郵便物の受け取りを拒否しているか、または行方が分からなくなってしまっていた。この仕事をしていると、月に何度かこういう手紙を見ることがある。

 

 「配達不可」......という赤いスタンプを押して、郵便局の奥にある保管庫にその手紙を投げ入れる。届かない言葉たちは、おびえる小動物のように、誰にも触れられず暗い部屋の中でじっとしたまま、廃棄され、忘れられていく。

 彼はそういう手紙の管理から処分までを任されていた。水星のように目立たない郵便配達員たちが街中を走り回る中でこういう手紙がたまると、彼が、まとめて処分してしまうのだ。

 

 ただし、彼は決められたやり方で手紙を処分してはいなかった。彼はこっそり手紙を運び出してしまうと、沈んでいく太陽を背にして、宵の明星を横目に車を走らせ、やがて月に出会うと、そのままいつもの山へと登っていくのだった。

 頂上に着くと、彼は火を起こし、その隣に腰掛ける。そしてカバンから手紙を取り出し、炎の光の中で、一つ一つ読み上げていく。

 「返事がないのは、分かっています……」、「もう何年、あなたに会っていないでしょう……」、「きっとどこかで生きていると、信じています……」、「………………………………」

 彼は読み終わった手紙を、火にくべていく。一筋の煙が空へと昇っていた。名前を持ち星座になった星々と、名前もなく星座にもなれなかった星々。彼は魔術師だった、彼はその煙を灰色の雲に変えることができた。郵便配達員たちの中には、彼のような魔術師がいくらか存在していた。

 

 ひどく寒い夜だった。凍り付いた雲は、やがて街に雪を降らせていくだろう。行く宛てのない言葉たちが、ゆっくりと人々の間へ降りていく。だが、それはあまりにはかなくて、暖かい人肌に触れるだけで、声に変わる前に、すぐに溶けて消えてしまう。白く輝く、迷子の言葉たちの、零度の叫び。

 雪の日、世界中のどこであっても、街は静かになる。それは、その言葉たちの、無音のざわめきに圧倒されて、誰も口をきくことができなくなるからだった。魔術師たちによる、消えていく言葉たちのための、喪の作業。

 彼は今夜も手紙を燃やし続けるだろう、雪が、街を覆い尽くしてしまうまで――

誘惑の炎、存在の淵 最終回

 とり、炫士は家の中に立っていた、どこを見回しても、子供の頃からの記憶がそこに染み付いている、懐かしむとかそういうことに関係なく、炫士がそれを受け入れようと拒否しようと関係なく、ただただ、その記憶は頭の中に絶えず浮かび上がって来る。においや手触りが、そこに染み付いている、炫士の体にも、染み付いている。何か、悪いことだけではなかった気がする、良い思い出もあった気がする、だが、炫士はどうにもならない衝動によって、それを押し流してしまった。奇妙な悲しさと寂しさが、奥底からわき上がってきて、その感情が炫士の唇を震わせる。孤独が張り詰めていた、この家のどこにいても、息苦しかった。

 出ることも残ることもできず、家の中をさまよっていた炫士は、玄関の三和土に置かれていた、灯油の入ったタンクを見つけた。しばらくじっとそれを見つめて、炫士はおもむろにそれを抱え上げる、まだかなりの量が残っていて、容器の中で重い液体が揺らぐ音が聞こえた。

 タンクを抱えたまま、炫士はリビングへやって来る、そしてまず、目についたソファに、炫士は灯油を撒いた。そのソファには、テレビを見るときにいつも腰掛けていた、炫士はそうしていたし、岐史も速彦も那美も、そうしていた。部屋の中に、灯油のにおいが充満していく、嗅覚が異様に敏感になっていて、炫士はそのにおいに何度もむせ返った、カーペットの一面に灯油を撒き、カーテンに向かって残りの灯油をぶちまける、その作業はどこまでも淡々としていた、炫士は何も考えてはいなかった、なぜ自分がそんなことをしているのかも考えようとしない、ましてやその結果がどうなるのかなど、なんら関心の対象にはならなかった。

 炫士は台所からマッチを見つけて戻ってくると、リビングの窓を開けて、庭へと解放する。リビングの真ん中へ、わずかに灯油が残ったタンクを置いて、注ぎ口に丸めた新聞紙を差し込む。部屋は灯油のにおいに満たされていた、今まで絶えず浮かび上がってきていた記憶が、そのにおいによってかき消されていく。炫士はマッチを一本取り出して、火を点ける、かすかに燃えるの火の中心は、一瞬たりとも留まることなく揺らぎ続け、しかしどこまでも白く明るい。そのマッチの火を、炫士は柔らかい新聞紙に与える、ゆっくりと深呼吸をするように、新聞紙は火を吸い込んで燃え上がり、したたる滴のように、灯油の中へと落ちていく。

 炫士が庭へ降り、家から離れて振り返る、その瞬間、部屋を満たしていた灯油に触れた火が、赤々と輝いて破裂し、部屋の中のものを全て覆い尽くすように燃え広がった。ソファを溶かし、カーペットの上を這いずり回り、カーテンに喰いついてずたずたに引き裂く、木でできたドアや壁を、太い爪で握りつぶすようになぎ倒し、その奥にあったものを次々と捕らえて踏みにじる、家中の床を走り、階段を駆け上がり、大蛇のように柱に巻きついて、そのまま締め上げるように芯まで焼き尽くし、家をゆるがし悲鳴を上げさせる、窓ガラスを叩き破り、這い出した炎の舌は、夜空まで喰おうとするかのように、家の外を覆っていた闇を舐めまわした。

 炫士は恍惚として、その光景に見入っている、炫士はこの瞬間、何もかもを忘れてしまっていた、那美は生きている、速彦も生きているかもしれない、秋姫を傷つけて、速彦を傷つけて、那美を傷つけて、それでも、何一つ解決しなかった、ただ単に、自分が逃れられないということに、打ちのめされただけだった、これから、その責めを負うことになるだろう、無力な己を、どうしようというあてもない、それでも、炫士は全てを忘れて、その光景に見入っている、祈りだけを知る無神論者のように、炫士は炎を崇めた。炫士は、まるで自分が、家を焼き尽くしている炎になったように錯覚していた、炫士はそこにいなかった、圧倒的な炎の力が、炫士の存在を飲み込んで押しつぶした、炎だけが、幻のような家を飲み込んで、燃え盛っている、炫士は家を喰った、そして、夜を喰った、家が叫び声を上げる、それは夜を突き抜けて、どこまでも高い空へと放たれ、反響し続けた。

 遠くから、サイレンが聞こえてくる、ここへ向かって、パトカーか、消防車か、サイレンが聞こえてくる、だが、そのサイレンは、いっこうに近づいては来ない、炫士の周辺を、遠く、ぐるぐると回るように、夜の中で鳴り続ける――。

 

 

 ふわふわと蛍のように空をただよう火の粉が、炫士の瞳に映っていた、その火の粉はそこに区切られた時間と空間があることを忘れさせる、まるで、何千年という昔から、そこでそうしていたのだというように、火の粉はただよっている。炫士は翼を広げるように、両手を広げた、このまま、どこへでも行ってしまえるだろう。だから、海へ行こうと思った、時間と空間の純粋な広がりが無限に連なる、何もない場所へ。

誘惑の炎、存在の淵 その11

 士は孤児のように、夜を歩いた、孤独で、寄る辺なく、何者でもない。あるいは孤児になるために、炫士は夜を歩いた。夜は気配で満たされている、その闇の向こうには、人々の息づかいが、物の怪のような気配として、密やかさに包まれささめいている。その気配は自然の法則として、運命のようなものとして、炫士の四肢に絡みつき、肌を撫でまわす。炫士は顔にべったりと付いた血をぬぐいながら、その気配を振り払おうとするかのように、休むことなく、まっすぐ歩いて行く。

 そして炫士がたどり着いたのは、自分が生まれ育った家だった、速彦が去り、岐史が去り、自分が去った今、そこに最初はいなかったはずの那美だけが残っている。均質に区割りされた住宅地に、他の家々と同じような姿で建てられている、それなのに、その家だけが、炫士の実家と呼べるものなのだ。自分が何をしようとしているのか、どうして戻って来たのか、血まみれの手のひらを見つめながら考えても、炫士には分からなかった、ただ、もし自分が速彦を殺してしまったのだとすれば、ここに来るのは、少なくともここに来ることだけは、必然だと思えた、那美に、自分にとって最も醜悪で不可解な怪物に、会わなければならない。口の中が、まだ痛みでうずいている。炫士は、今初めて、自分が那美という人間に対峙しようとしているような気がした、自分が目を背け、知らず知らずのうちに隠蔽してしまっていたものを、そうすることでまるで無意識のように自分を捕らえていたものを、直視しようとしている。別に那美が特別な魔力を持っているわけではない、何でもない、ごくありふれた人間にすぎない、だが、それを嫌悪して遠ざけることが、まるで帳に覆われた空虚のように、炫士にとって那美を余計に母親という特別な存在に仕立てていた、だから炫士は、あるいはごくありふれた人間としての、この世に無数にいる人間の一人としての、街ですれ違えばその存在を気に止めることすらしないような他人としての、那美をそこに見ようとしていた。

 

 「――炫士?」

 玄関のドアが開き、おそるおそる顔をのぞかせた那美は、仰天して炫士を見つめた。口の周りに乾いた血の塊を付けて、冷たい表情をした炫士は、異形の者の訪れのように、ただならぬ雰囲気を放っている。

 「どうしたの?」

 那美は、まるでいつでも逃げ出せる準備をするかのように、玄関のドアの後ろに身を隠し、顔の半分だけをのぞかせたまま尋ねる。炫士はしばらく無言のまま那美を見下ろしてから、ようやく、重く厳しい様子で口を開く。

 「……殺してきた」

 那美はよく分からないという顔をする、言葉の意味はもちろん分かるが、そんな言葉を一瞬で受け入れられるはずがない、那美は聞き返す、本当に炫士がそう言ったのかを確かめるために。

 「殺してきたんだよ。速彦を」

 那美は炫士を見つめる。那美は混乱していた、頭の中の思考が、次にどこへ動き出せばいいのか分からず、硬直してしまう。とうてい嘘としか思えない言葉だが、炫士の顔にべったりと付いている血が、少なくとも何か異様な事態が起きているのだと考えざるを得なくしている。

 「本当なの?」

 那美は尋ねる、徐々に冷静になり、覚悟を決めて、目の前の事態に対処しようとしていた、それが真実である可能性について、考えようとしていた。炫士はうなずく、もちろん、本当に速彦が死んだのかどうかなど炫士は知らない、だが、今ここで、あえて速彦が死んだのだということを、那美に突きつけようとしていた。

 「何でそんなことに――」

 那美は恐れおののき、悲しむと同時に、ふつふつとした、怒りの感情を湧き上がらせつつあった。炫士はそれこそが望んでいたものなのだとばかりに、その感情を煽ろうと、嘲笑的な笑いを浴びせる。

 「あいつを怒らせたのさ、あいつの方が先に、俺を殺そうとしたんだ」

 「いったい、何をしたっていうの」

 「セックスだよ、秋姫を、あいつの女を、俺が弄んでやったのさ」

 怒りが、恐れと悲しみよりも強く表れてくる、那美は、今まで見たこともないような顔をして、炫士を睨みつける。

 「嘘だと思うか?」

 「あなた、それを速彦に言ったの?」

 それが真実かどうかはどうでも良い、というような言い方だった。

 「言ったよ、ありのままを。俺が秋姫とセックスして、おまけに俺の仲間を呼んで三人でやったことも言ってやった」

 わざと、下種な言い方をしていた、炫士はもっともっと那美を怒らせようとしている、今まで岐史と速彦の背後に隠れるようにしていた那美が、生々しい感情を露出する瞬間を待ち構えている。

 「……なんてこと」

 那美は絶句しつつも、あからさまな怒りを、炫士に向けていた。二人は睨み合う、昂った怒りが、二人をその間の空隙に引きずり込んでいくかのようだった、もはやそこに憎悪しか残らないように、互いに他の感情をそぎ落としていく。

 「俺は秋姫をクラブで引っ掛けたのさ。俺は毎日毎日そんな生活をしていたんだ。夜の街をうろついて、めぼしい女に次々声をかけて、飽きることもせずにセックスし続けた、何人とやったかなんて覚えてない、そのくらい、自分でもわけが分からなくなるくらいにたくさんのセックスをし続けたのさ。別に秋姫は特別な女じゃなかった、俺が今までさんざん突っ込んできたマンコの一つでしかない。俺にとっては何の価値もない。憐れだろ? 憐れだろ? あいつは、速彦は、そんな女のために怒り狂い、俺を殺そうとした、そして、あいつに対して侮辱の限りを尽くした俺に、その死の瞬間まで嘲られ続けたんだ。あいつは俺を殴りつけた、怒りに震えて。この血が見えるだろ? 見えるだろ? あいつに殴られて、俺の顔は血まみれになったのさ、感情を暴発させて、訳の分からない言葉で俺を罵りながら、俺を殴った。俺が弟だとか、あいつが兄だとか、そんなことは関係ない、ただひたすらに、俺に憎悪を向けてきた、俺を殺そうとしたのさ、俺を、だから、俺はあいつを殺したのさ、暴れるあいつを殴りつけ、倒れて立ち上がろうとするあいつの顔面を蹴り飛ばして、それでもあきらめないあいつを、迫ってくる電車に向かって、電車に向かって、突き飛ばしてやったのさ――」

 じっと、那美はそれを聞いている、何も言わないが、鋭い憎悪の切っ先を、炫士の喉元に突きつけるようにして、那美はそこにいる。

 「後悔するだろ? 俺を産んだことを、俺をあいつの弟として、親父の子どもとして、お前の子どもとして産んだことを、後悔するだろ? 俺のことなんか産まなければよかったって思うだろ? 俺の存在が、なかったことになればいいと思うだろ? 俺を今ここで、殺してしまいたいって、思うだろ?」

 那美は、その言葉に答えない、不動の存在のように、その場に立ったまま、炫士を睨みつけている、炫士もまた、その那美を睨み返していた。那美はあきらかに怒りを抱えていた、だが、初めは炫士に挑発されて熱くたぎっていたそれは、徐々にその姿を変化させていく、熱がみるみるうちに引いていき、怒りはむしろ皮膚を切り裂くような冷たさを湛え始めていた、炫士にの思うままに引き寄せられていた感情が、次第にその影響を逃れ、那美の支配下へと帰って行くかのようだった。

 「思いもしないわね、そんなことは」

 とうとう那美は言葉を返した、毅然として、自分のペースに巻き込もうとする炫士を突っぱねる。

 「お前が俺を産まなければ、こんなことにはならなかったのに?」

 「そんなに憎いの、私があなたを捨てて、どこかへ行ってしまったことが」

 「言っただろ、俺がこだわっているのは、お前がいなくなったことじゃない、お前が帰ってきたことだ。他はどうでもいいんだよ、お前がどこへ行っていたとしても、俺の実の父親がお前の浮気相手だったとしても、そんなことはみんなどうでもいいんだ、どうでもよかったはずなんだ、でも、お前は帰ってきてしまった、それが全てだ」

 「私の存在そのものが憎いのね」

 「違う、俺とお前の繋がりが憎いんだ」

 「炫士、あなたは私を責め立ててるけど、私には的外れにしか聞こえない。私が帰って来ようが来るまいが、私とあなたの繋がりはそこにある、それは消えたり現れたりするものじゃない、ただ単にそこにあるだけ」

 「俺を産んだのは、お前の意志だろう、俺を孕んだのは、お前の意志の結果だろう。それを作り出したのは、結局お前じゃないか」

 「私の意志である以前に、自然の結果ね。いつ、どんな子供が産まれるのか、それを私が決めることはできない。でも、だからなんだって言うの? あなたは産まれてきた、私の子供として」

 少しずつ、炫士は自分が思うような方向へ進まなくなってきているのが分かった。自分が加えた力に直接的に反発してきた速彦とは違い、那美は、水面に映る写像のように、ゆらゆらと揺れて、正体もつかめないままに、炫士の力を受け流して吸収していってしまう。たとえ暴力によって那美を肉体的に叩き潰したとしても、意味をなさない、那美の存在が問題なのではなく繋がりが問題なら、それは炫士自身の問題でもある、そこまではっきりと意識できていなくても、速彦のときのようにここで暴力を行使したとしても何もならないということくらいは、炫士は理解していた。みるみる怒りを滅却し、冷静な態度を表して、相手の力を飲み込んで無化してしまう那美を目の前に、炫士は焦りを感じていた、言いようのない敗北感が迫ってきている、炫士はそれを受け入れる前に、何かをしなければならなかった、炫士はせめて、いつのまにか敗北していたという事態が起こることだけは避けなければならなかった、何か、決定的な一撃を、那美に加えなければならない――。

 「全ては、偶然のせいか」

 「偶然よ、だからこそ、それは運命なの。炫士、それは絶対に変わらない、理由がないからこそ、それは必然なの。もしそこに意志があって理由があるのなら、それは繋がりにはならない、私とあなたは、もはや他人でしかなくなってしまう。全てが自然の気まぐれだからこそ、私とあなたは母と子なの」

 その言葉は、炫士にとって何か強烈な響きがあった、自分がこだわってきたことの盲点を、冷たい矢のような那美の言葉によって貫かれたような感じがした。

 「……それでも、俺は、その繋がりを消してしまいたい」

 「無理ね。あなたは私から産まれてきた、それだけは絶対に否定出来ない事実だから。あなたは、絶対に私との繋がりから逃れられない」

 炫士は言葉を失う、もはやとどめを刺されたかのように、今までの勢いが、消えてしまう。

 ――くそ、くそ!

 独り言のように、呪うように、炫士は言葉を吐いて、それと同時に、玄関のドアを強引に開けて、バランスを崩した那美を突き飛ばす。那美はよろめいて転びそうになりながら、奥にある壁に体をぶつける。

 「炫士!」

 ひどくぶつけた肩を押さえながら、那美は言葉で炫士を制止しようとする、だが、無駄だと分かっていても、もはや力に頼るしかない炫士は、その那美に向かってじりじりと近づいて行く。身の危険を感じた那美は小さく悲鳴を上げて、家の奥へと逃げこむ、それを追う炫士は、生まれ育った家の、よく知ったにおいの染みた空気を吸い、自分の狂気じみた行為の衝動をいっそう煽られる。それは狂気じみている、もはや抵抗ですらない、その繋がりについてここまで思いつめる自分の滑稽さが、炫士の敗北感を極端に強めていった。

 炫士は、那美を台所まで追いつめて、もう一度那美を突き飛ばす、容赦のない一撃で、那美は床の上に転がってしまう。

 「何をするつもりなの? やめなさい、炫士」

 何を? それは炫士には全く分からない、やむにやまれない衝動だけで、炫士は動いていた、そこには、速彦を打ちのめしたときの冷静さはない。炫士はおもむろに、台所にあった大きな菜箸を手にとった、そして、そのまま、那美の上に覆いかぶさる。何を? いったいどうすべきなのか、炫士には分からない、混乱したまま菜箸を握りしめ、那美を押さえつけている。

 「炫士、やめなさい、炫士!」

 何を? やろうとすることの正体がつかめない、だから、それをどうやってやめていいのか分からない。炫士は衝動によって奈落へ突き落とされるように、暗い感情に飲み込まれていた、無表情の裏には、冷静さではなく、制御できない混沌が暴れている。

 炫士は片手で那美を押さえつけながら、もう片方の手で、いきなり那美のスカートをまくりあげ、下着に指をかける。那美が悲鳴を上げ、それを阻止しようと、炫士の手をつかもうとしてくる、だが、炫士は力任せにそれを振り払い、ほとんど引きちぎるようにして、その下着を奪い取った。

 「炫士、炫士!」

 那美が叫び声を上げる、炫士は下着を投げ捨て、菜箸を握りしめる。何をしようというのか、いったい、何を? 何を? 炫士は無表情で、暗さの中へ沈んでいく――菜箸を振りかざし、裸にされた那美の股の間へ突き刺そうとするかのように、それを構えた。そして、炫士はそこにむき出しになった、那美の膣を直視する、一瞬、それが何なのか分からないという錯覚にとらわれる、両側の襞、裂け目、暗い穴、覆い隠していたものを奪い、暴き出したそれに、自分がそこから産まれたのだということを、これ以上ない生々しさによって突きつけられる、それは、母親のというよりも、無数に存在する人間の肉体のうちの、一つだった、意志とか運命とか偶然とか理由とか、そんなものではなく、単なる肉体が、そこにごろんと転がっている。菜箸を握る手が震え、突然に、炫士は頭痛をおぼえた、今目の前にあるものが、はっきりと意識の中に像を結ばない、膨張と収縮を繰り返して、意識の器では、絶えずとらえきれないものとして蠢いていた。自分が見出していた血のつながりとそれに対する激しい憎悪が、そこに見出していた過剰な意味づけが、暴きだされ、突きつけられ、そして途端に色あせていく、砂の城が崩れていくように、幻が風に吹かれていくように、自分の存在を外から根拠づけていたものと、そしてそれに対抗することで内から根拠づけようとしていたものが、同時に、音もなく、消えていった。自分を意味づけているものも、そして無意味によってそれを打ち消す意思も、何もかも残らなかった。何を? いったい、自分は何を見ているのだろうか、こみ上げてくるものをこらえながら、しかし目をそらすことはできなかった、そらすわけにはいかなかった、炫士は、それを直視しなければならなかった、でも、どうしても、耐えられそうになかった、震えていた手から、菜箸が零れ落ちる、頭痛が脳を殴りつけて揺さぶるように激しく拍動し、炫士は崩れ落ちるように頭をふせ、そのまま床の上に向かって嘔吐した、胃が痙攣するほどの吐き気に襲われ、炫士は床に頭をこすりつけるようにして、逆流してくるものを残らずぶちまけていく、舌を出して、情けない声で喘ぎ、それでも止まらない嘔吐に苦しみ、鼻水を垂らしていた。

 その炫士を、那美はじっと見ていた、後ずさりしながら――しかし脚は広げたままだった――じっと見つめている、憐れみもなく、怒りもなく、軽蔑もなく、庭に迷い込んだ野良犬を見るように、炫士を見つめている。胃の中のものを出してしまった炫士は、よだれを垂らしながら、顔をいっさい上げずに床の一点だけを見つめたまま動けなくなっていた。那美が、深い溜息を吐く、その息の、ほんのわずかな力によって、炫士の試みたことが全てどこかへ消えていってしまうかのようだった。那美は立ち上がり、部屋の隅に落ちた下着を拾う。炫士はうつむいたままでいる、もはや、何かをしようという気を失ってしまっていた。

 「炫士、一つだけ答えなさい」

 炫士は沈黙している、だが、その沈黙は那美に見下ろされている。

 「あなた、速彦を本当に殺したの?」

 炫士は、口を、何度か開け閉めする、そこから、力なく息が漏れていた。

 「どうなの?」

 那美が、強い口調で迫った。

 「……分からない」

 ようやく、炫士の口から言葉が発せられる。

 「速彦は、生きてるかもしれないのね?」

 今度は、黙ってうなずく、炫士は、じっくりと呼吸を落ち着けつつあった。

 「どこ? 速彦はどこにいるの?」

 炫士は何度も唾を飲み込みながら、うめくような声で、駅の名前を告げた。那美はそれ以上質問しなかったし、炫士に何の言葉もかけなかった、躊躇のない足取りで黙って部屋を出る、そしてそのまま、炫士を置き去りにして、速彦を捜しに行ってしまった。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 最終回へつづくーー