Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

誘惑の炎、存在の淵 その10

 士は、またしばらく元の生活に戻っていた、夜の街をうろついて、女たちに声をかけ、上手くいったり上手くいかなかったり、面白かったり退屈だったり、そういう生活を再開する。家族とはもちろん、秋姫にも会わなかった、これだけ三人を貶めるようなことをしておいて、もう一度だけでも会うような機会があり得るのだろうかとさえ思う。会おうが会うまいが、どうしようもないことには変りない、無視すればするほど、無意識のように湧いてきて足元に絡みつき、こちらから入り込んで汚せば汚すほど、肌に染み付いてくる。那美から産まれた身体で世界を感じ、世界に触れ、岐史と速彦に植えつけられた言葉で世界を語り、世界を求める、それが自分なのだということを、炫士は認めるしかない、ほとんどすべての人間が、当たり前のこととして疑いもなくそうするように。だが、炫士にはどうしてもそれができなかった、表面的な部分ではなく、根源的な部分において、自分が自由になり得るということを、どうしても求めようとしてしまう。ある人は自分の身体を様々なやり方で傷つけようとするかもしれない、ある人は外国語の中へ逃げ込んだり自分の言葉を変えようとするかもしれない、だが、炫士にはそういう発想はなかった、もっと直接的に、直感的に、自由を求めようとしていた。そんな炫士にとって決定的な問題となっているのは、方法がないということだった、だから、どうしても過激にならざるを得ず、むやみやたらに、他人を傷つけてしまう。秋姫を傷つけてみても、結果は変わらなかった、もがけばもがくほど、沼に引きずり込まれ、はまり込んでぬけられなくなるような気がする。

 

 しばらく気ままに生活しようとする炫士だったが、何度となく、そういう炫士を放っておかないのだとでもいうように、携帯に速彦からの着信があった。炫士はそれを無視し続けていたが、この一ヶ月くらい速彦は執拗に繰り返し電話をかけてきている。何かが、速彦を怒らせている、ちょっとした用事なら、連絡が繋がらなければあきらめもするだろうが、この執拗さは、速彦が感情的になっている証拠だ、と炫士は思った。思い当たるのはもちろん、秋姫のことだった、炫士が自分にしたことを、速彦に打ち明けたのなら、速彦は絶対に炫士を許さないだろう。だが、秋姫の性格からして、それは考えにくいことだった、秋姫は深刻なことであればあるほど、それをひた隠しにしようとする、まるでそうすることで、何も起こらなかったのだとでもいうように、それは表沙汰にすることではないのだというように、自分の心の奥底に、無理矢理押し込めてしまう。ましてや、自分から他の男を求めてクラブをうろつき、昔の恋人だった義理の弟に抱かれたなどと、速彦に打ち明けるはずがない。それに、もしそんなことを知ってしまえば、速彦の怒りはこんなものではないだろう、速彦は潔癖な人間で、おとなしい秋姫の処女性や慎ましさを、己が女性に求めるままに信じているのだから。秋姫がそんなことをするなどというのは、速彦の想像を超えている、想像を超えた事実を突きつけられた速彦の混乱は計り知れないだろう、その時、速彦は炫士に対してありったけの憎悪を爆発させるだろう、いつもためらいがちに炫士に向けられていた怒りは、その抑制を突き破るだろう、兄であるとか弟であるとか、そういう境界を無効にして、剥き出しの感情で対峙しようとするだろう。

 

 炫士は夜の街を歩く、たった一人、ぐるぐると人の多い通りを巡って、風景の底へと沈んでしまう人々の群れに手を差し入れ、一杯の水をすくい上げるようにぽつぽつと声をかける。炫士は歩みを止めなかった、動き続けていないと飲まれてしまうような気がした、止まった瞬間に、自分が何者であるかを思い出してしまいそうだった、動き続ける勢いの中で、誰でもない誰かとして、他人に出会おうとしていた。ただ、今までと勝手が違うのは、自分が速彦に追われているような気がすることだった、街を歩きまわっているときに電話が鳴ることもあったが、そうでなかったとしても、常にその影が、ひたひたと背後から迫っているような感じがする。自分が苦しめた秋姫の顔がたびたび頭に浮かんで、そのことが余計に、速彦の存在を際立たせている。夜の街の闇の中に、速彦の影が染み込んでいる、その忌々しさに、炫士は苛立っていた、速彦の影のせいで、夜の街の何処を歩いていても、常に自分が何者かであるということを思いだしてしまう、もはや、ここで炫士は孤児になることができなくなっていた、炫士は速彦の弟であり、那美の子どもだった。暗い山道に綾かかる茂みをかき分けるように、炫士は人ごみを縫って歩いた、迫ってくる速彦の影を、どうしても振り払いたいのに、それは炫士の動きをものともせずに張り付いてくる。炫士は妙に焦っていた、それをどうすることもできない自分を、持て余すしかない、速彦と那美の存在が消えてしまえばいいのに、と思う、岐史のように肉体的に死ぬというのではなく、それが存在するということを、現在からも過去からも、拭い去ってしまいたい。焦りといら立ちが炫士の顔をこわばらせ、威圧的で強引な声かけをくり返してしまう。

 「おい」

 炫士は目の前を歩いていた女に、いきなり言葉を投げつけた。女が驚いて、不愉快そうな顔でこっちを見る。

 「暇そうだな」

 相手のことなど無視して、炫士は自分の感情に流されるままの態度でしゃべりかける。

 「急いでるんで」

 女は目をそらし、身を守るように前かがみになって、早足で逃げようとする。

 「嘘つくなよ」

 「やめてください」

 「は? 何も悪いことしてねえだろ。お前が暇そうだから声かけてやってんだぞ」

 単なるやつあたりでしかない言い草に、女は恐怖を感じた様子で、人ごみへ向かって走りだそうとする。

 「逃げんなよ。俺が何したっていうんだ」

 炫士は素早く女の腕をつかんで無理矢理引き寄せ、耳元に顔を近づけ脅すような言い方をする。

 「何するんですか!」

 つかまれた腕を振りほどこうと、女が体を左右に揺さぶって抵抗するが、炫士はそれをあざ笑うかのように、その腕をねじり上げてしまう。女は悲鳴を上げて、顔を地面に向けて崩れ落ちそうな格好になる。

 その様子を、通行人の男がしばらく見ていた、何が起こっているのか、しばらく考えていたようだったが、やがてこれは明らかにおかしいと思ったのか、ゆっくりと炫士のほうへ近づいて来る。

 「――ちょっと、あなた何をやってるんだ」

 誠実そうな男で、憎むべき所はないような人柄に見える、おそるおそる、今ここで働かさなくてはならない正義感を、忠実に体現しているだけだった。だが、炫士はもはや、他人に対して必要な感性や判断を見失いかけていた、相手が誰でどんな人間でも、それは炫士にとってはどうでもよくなってしまっている、男のことなど何も見ていない、障害物をどかすように、目も合わさず、瞬間的に身をひるがえし、男の腹を蹴り上げる。

 「あっ」

 男は短く呻いて、みぞおちに入り込んだ蹴りで悶絶して、膝から地面に崩れ落ち、舌を出して苦痛にあえいだ。炫士は笑った、笑いながら女を突き飛ばし、通行人をかき分けて走り出す、通りにそって、ぐるぐると街をさまよいながら、遠くへと移動する、だが、炫士の笑いはすぐに消え、いったい自分は何をやっているんだという内省が始まってしまう、以前にクラブで強引に秋姫を連れだそうとした幼稚な男と、同じことを自分はやっている。闇に忍び込んだ速彦の影が一面に広がり、走っていく炫士の足の裏にねばねばと張り付いて糸をひくようだった、その時ふたたび、電話が鳴る、炫士は電話に触れない、ポケットにつっこまれたそれは、走る炫士と共に移動する、止まっていようが走っていようがもちろんそれは変わらない、だが、炫士はあえて滑稽を演じようとするかのように、自覚もなく、鼓膜を叩くように鳴る音から逃げようと、夜の街を抜ける、街のあちらこちらで、速彦が自分を探しているような気がした、建物のすき間から、行き交う車の窓から、すれ違う人々の視線の奥から、ありとあらゆる場所に乗り移った速彦の目が、自分を見ていた、その視線から逃れようと、炫士は走り続ける、息が上がり、激しい呼吸の音を漏らしながら、夜の街の隅から隅を転げまわる、だが、その目は至る所にあった、その目は、炫士の内側から炫士を観察していた、全身をめぐる血液の中から、臓器の奥から、速彦の目が、自分を見つめている――。

 炫士は疲れきっていた、息を吐き、獣のように歯を剥いて、低い声でうなり、街の中にぽっかりと空いた空洞のような公園へとやってくる。夜なので全く人気はない、それが、今の炫士を落ち着かせてくれた。その公園の中ならば、つかの間でも速彦の目を避けられるように思えた。

 呼吸が落ち着くと、さっきまで鳴っていた電話の着信履歴をチェックしてみる、電話をかけてきたのは、速彦とは全然関係の無い知り合いだった。炫士は笑い声を上げる、何をこんなに逃げ回っているのだろうと思う、結局すべてが、自分一人の考えの中で起きていることにすぎない、秋姫も速彦も、今は目の前にいないというのに。だが、予感だけは消えなかった、この街のどこかで、速彦が自分を探している、それはほぼ間違いなかった。次に速彦と会ったとき、いったい何が起こるだろうか、と炫士は考えてみる、速彦は、きっと自分に対して今までにない憎悪を感じているのだろう、それは自分も同じだった、お互いに、お互いの存在をこの世から消したいと思っているだろう。少なくとも、炫士はそうだった、互いに兄弟として生まれるべきではなかった、全くの他人であったならば、互いの存在を許容できただろう、だが、二人は兄弟なのだ、自然はその気まぐれな残酷さによって、二人を同じ母親から産まれさせてしまった、炫士が誰かの子どもであることを、絶対的な運命にしてしまった。炫士がその運命から必死で目を背け、己の両眼をえぐりたいほどだと思ったとしても、自然は平然としてそこにある。偶然の結果が、運命として炫士を拘束している、その馬鹿馬鹿しさは、救いようがない。たぶん、自分は那美と速彦という人間そのものが憎いのではないのかもしれない、と炫士は思う、母だから那美が憎いのであり、兄だから速彦が憎いのだ、ならば、この憎悪は解決しようがない、自然は、自分が加害者になることを許してくれない、誰もが原因に突き動かされた結果としてしか存在できない、誰もが憐れな被害者になってしまう。

 炫士は帰ることにした、歩いて行く夜の街の、深い闇々の中から、速彦の視線が浮かび上がってきている、ならば背景の闇そのものは、那美の目だろうか、その瞳孔の、虚空の深さが、炫士を誘っているようだった。自分は、すっかり街の中での居場所を失ってしまった、と炫士は思う、あるいは居場所だと思っていたものが、結局そうではなかったということが、はっきり見えてしまった、孤児のように街をさまよい、名前のない女たちを漁ることでごまかしていたものが、すっかりあらわになってしまった。結局自分はありふれた繋がりの中でしか存在していない、にもかかわらず、説明のつかない衝動によって、直情的にそれを拒み続けている。

 ――どうすることもできない。

 ひときわ強く、その言葉が炫士の頭の中で響いた。頭の周辺を駆け巡る理屈がいかにそれを無駄な抵抗だと説明しても、炫士はその衝動を押さえこむことができない。むしろ衝動こそがその理屈の主だった、那美と速彦と岐史と自分の関係についてのあらゆる理屈が、その衝動に従属している。関係と衝動が真実であり、理屈はその影でしかない。もうあれこれ考えるのはやめようと思った、後は関係に衝動をぶつけていくだけだった、その結果何が起きたとしてもかまわない、何も起きないよりましだった。

 

 

 炫士は地下鉄の駅のホームに立った。そこに立ったまま、何本かの電車を見送った。炫士はそこで、速彦を待ってみることにしたのだった、その駅は速彦の職場の最寄りで、通勤時には必ず通るはずだった。自分を追い回す速彦の視線を、そこで迎え撃とうと思った、逃げ回るほどに、それは強迫的になる。電話に出る気もかける気もなかった、速彦の予期していない形で対面し、不意をつきたかった。

 そのまま、さらに何本かの電車を見送る。速彦は現れなかった、今日はもう帰ったのかもしれない、そう思って、炫士は周囲を見回した。人もまばらなホームに、一人、女が電車を待っていた、背筋を伸ばして立っているが、少し疲れたような気怠い表情で、じっと正面を見つめる瞳が揺れ動いている。とても美しい顔をしていた、毎日のように街を歩き回っていても、めったに出会うことのないくらいの女だった。アナウンスが聞こえてくる、快速の電車が通過します、当駅には停車いたしません、そう告げていた、視線の向こうから光が飛んできて、押し出された風がホームを吹き抜ける、やがて巨大な質量の電車が音を立てて突っ込んでくる、炫士はそれを見つめながら、その電車が自分の体を粉砕する所を想像してみた、圧倒的な力が、自分の存在を消し潰してしまう、その想像に、不思議な解放感を覚える、自分が死ぬということではなく、圧倒的な力に消し潰されるということに、戦慄と安らぎを覚える。

 女もまた、目を細めて電車を見送っていた、吹き抜ける風で長い髪の毛が扇を開くように舞い上がり、毛先を踊らせたかと思うと、突然に力を失って元の位置へ落ちて行く。炫士は少し考えてから、一歩を踏み出す、声をかけてみようかと炫士は迷う、以前の自分なら、何も迷わず声をかけただろう、だが、速彦の視線の幻影に囚われてしまった今、それをいくらやったところで、自分は何も得られない。自分の目の前で、世界が閉じようとしていた、こじ開けたくても、その方法がない。

 ――――。

 何か、聞こえたような気がした、それは通過する電車の騒音にかき消されて、耳には届かない、だが、炫士はその声に注意を惹かれる。

 振り向こうとした瞬間、炫士は肩をつかまれた、反射的にその肩を動かして、それを振り払う、そして顔を向け、その手の主の姿をとらえる。

 「――炫士」

 そこには速彦が立っていた、自分のほうが先に相手の姿を見つけたはずなのに、炫士よりも速彦のほうがずっと驚いた表情をしていた。理由は簡単だった、この遭遇を、炫士は予期していて、速彦は予期していなかった。

 「何だよ?」

 嫌に冷静な態度で聞く炫士に、速彦は驚いた表情のまま一瞬考えこむようなしぐさをした。

 「……こっちのセリフだ。こんな所で何やってる」

 「たまたま通りかかっただけだ」

 速彦は首を傾げる、こんな所にたまたま炫士がいるというのは、どう考えても不自然だった。

 「まあいい。それより……何で電話に出ない?」

 今自分が何を言うべきか思い出し、速彦が尋ねる、その言葉には自ずと力がこもった。

 「どうせ、俺にとってはロクな用事じゃないだろ」

 予想通りの炫士の反応を、速彦は鼻で笑ってあしらう。炫士は、いったい何の用事なのかと再び考えてみる、秋姫のことだとは考えられない。

 「お前、母さんになんてこと言うんだ」

 ああ、そっちのことか、と炫士は思う。

 「何のことだ」

 「とぼけんなよ。お前、母さんのこと、この世で一番醜い生き物だとか言ったらしいな」

 それを聞いて、思わず炫士は吹き出してしまう。

 「それを、何でお前がわざわざ俺に言ってくるんだ。そんなことで何回も電話してきやがって」

 「俺が言うしかないだろ。父さんが死んだ今、お前をちゃんと注意できるのは、俺しかいないんだからな。お前はその場で感情的にそんなことを言ったのかもしれないけど、母さんに対してあまりに侮辱的な言葉じゃないか。俺はそれを見過ごすわけにはいかない」

 「おいおい、勘弁してくれ、とうとう父親気取りか。俺は本心からそう言ったまでだ、事実そうだと思ってる」

 「お前が幼稚だから、俺がお前の親父みたいにふるまわないといけない」

 「お前が、俺のことを幼稚だと思い込みたがってるんだろうが」

 「そんな子どもっぽいこと言い散らかしといて、いっぱしの大人のつもりか」

 速彦がなぜこんなに自分に対してこだわるのだろうか、と炫士は考える、弟を嫌悪して排除しようとしながらも、同時に拘泥してあくまで家族内の周縁に引き止めようとするのは、明らかに矛盾した行動だった。速彦は那美と炫士という個人のことなど見てはいないのだ、と炫士は思う、速彦は常に、父と母と弟と、兄である自分という、閉じられた集団内の力学にしたがって動いている、言ってしまえば、自分を兄というポジションに置かなければ、自分がどう振舞って良いのか分からないのだ、集団に自分を定義してもらうことでしか、自分自身と、そして自分と他人との関係を、とらえることができない、だから、母と弟を、どうしても手放すことができない。ここで自らを父親というポジションに移行させようとしていることことが、その動かぬ証拠だった。そのことに気づいた炫士の頭の中に、邪悪な考えが浮かんでくる、速彦を追いつめ、壊してしまうのは、もはや簡単なことだった。

 「悪かったよ、ごめんね、パパ」

 悪意の塊のような笑みを浮かべて、炫士は速彦をパパと呼ぶ。

 「そうやって人のこと馬鹿にした態度をとり続けるんだな。でもそんなのはな、お前自身の、余裕の無さと幼稚さの裏返しでしかないぞ」

 少なからず当を得た言葉に挑発されるように、炫士は笑いを止め、速彦を睨みつける。だが、すぐに、その顔には薄笑いが戻ってきた。

 「じゃあね、パパ、炫士くんが良いこと教えてあげるよ」

 「いいかげんに――」

 言いかけた速彦を、炫士が手のひらをかざして制止する。もう何もかも壊れてしまえ、と炫士は思う、行き着くところまで、行ってしまえ。

 「まあ、とりあえず聞いてよ、パパのお嫁さんいるでしょ、秋姫っていう女。あの女ね、昔、炫士くんの彼女だったの」

 「何を言ってる?」

 突拍子も無いことを言いだした炫士に、速彦の表情が強張る。

 「ホントだよ。炫士くんと秋姫は、おんなじ中学に通ってたんだ、こっそり付き合ってたから、みんな知らないかもしれないけど」

 「お前、本当にいいかげんにしろよ。嘘でも、そんなこと言っていいと思ってるのか」

 「でもさ、パパはおかしいと思わなかったのかい? 炫士くんと秋姫ってさ、明らかによそよそしい態度とってただろ? そのくらい、気づいても良かったのに」

 速彦が黙り込む、いくら鈍感な速彦とはいえ、秋姫の人見知りな性格を差し引いても確かにあまりによそよそしい態度をとっていたことに思い当たり、炫士の言葉に何と返していいのか分からないようだった。

 「びっくりしたよ、パパが秋姫をお嫁さんだって言って、炫士くんの目の前に連れてくるんだもん。それでね、炫士くん、パパのこと嫌いじゃない? だからさ、炫士くん、何したと思う?」

 速彦は何も答えない、答えられない、炫士の喋っている荒唐無稽な話を、ただ聞いていることしかできない。何も証拠はない、ただの侮辱にしか聞こえない、だが、速彦は黙って聞いている、潜在的に、そんなことがあるかもしれないという不安を、自分でも気付かないくらい深い意識の底で、抱えていたのかもしれない。

 「パパのお嫁さんね、ホントはパパのものになるのが嫌だったのかな? だから夜にクラブに通って男漁りしてたみたいだね。だから炫士くんね、パパのお嫁さんに声かけて、セックスしちゃった」

 「ふざけるな!」

 速彦が叫んで炫士の胸ぐらをつかむ、炫士はあえて抵抗しなかった、薄ら笑いを浮かべながら挑発し、速彦の自尊心を根こそぎ奪い取ろうとする。

 「ただ単に二人でセックスしただけじゃないよ。炫士くんね、パパのお嫁さんが、パパのものにも、炫士くんのものにもならないようにしちゃった」

 胸ぐらをつかんでいる手に、ありったけの力がこもり、震えていた、速彦は顔を真っ赤にして目を血走らせ、歯をむき出しにして炫士を睨みつけていた、膨れ上がる怒りが、制御できないものになりつつあるのがはっきりと分かる、それなのに、炫士は挑発をやめない、全てを取り返しの付かない結果に向けて、押し出そうとしている。

 「炫士くんね、お友達を呼んでね、パパのお嫁さんと三人でやっちゃった。後ろから前から、パパのお嫁さんに、おちんちん入れちゃったの――」

 その瞬間、速彦が叫び声を上げる、制御できない怒りが、炫士の目の前で破裂した、まともな言葉にならない叫びと共に、速彦の拳が飛んできて、炫士の頬を殴り飛ばす。炫士は顔を弾き飛ばされてのけぞる、口の中が切れ、すぐに血が溢れて舌や歯をベトベトに濡らし、その血液がよだれに混じって、痛みで上手く閉じることの出来なくなった口からだらだらとホームの床の上に垂れていった。激しい痛みで、口の中がうずいていた、だが、炫士はその痛みに妙に嬉しい気分になってきて、笑いを漏らす、痛みが、真実となって響いているような気がした、その痛みが、自分を孤絶した場所へ連れていき、その痛みが、その場所で無根拠な存在となるはずの自分の根拠となって繋ぎ止めてくれるような気がした。続けざまに、速彦の蹴りが飛んできて、炫士はそれを腕と胴で受け止める、骨を軋ませるような痛みが腕を突き抜け、炫士は血にまみれた口の奥で喘ぐ。速彦は激昂で肩を震わせ、荒く息をしていた、怒りは治まらない、速彦は感情の奴隷になったかのように、炫士に対する攻撃性を吐き出そうとしていた、もはや相手を殺してしまうまで、それが治まらないのだというように。速彦が再び拳を振り回す、それが炫士の鼻先をかすめ、たまらずうつむいた炫士の鼻から血が溢れ、真っ赤な鮮血が飛び散った。炫士は笑う、痛みが、体を突き抜けていた、血まみれになった顔を手でぬぐいながら、止まらなくなった笑いを押しとどめることもせず、ただひたすらに笑う。自分でも何を笑っているのか分からなかった、速彦に対する笑いでもなく、自嘲でもない、痛みと共に、純粋な笑いが脳を突き抜けているかのようだった。怒り狂った速彦は、攻撃の手を止めようとはしない、訳の分からない言葉で罵りながら、炫士の方へと向かってくる、炫士は笑っていた、そのおかげで、ひどく冷静に、速彦の動きをとらえていた、だから炫士にとって、反撃するのはたやすいことでしかない。次の瞬間、速彦が力まかせに振り回す拳をかわした炫士は、バランスを失いそうになる速彦のこめかみ目がけて、鋭い一撃を叩き込んだ、それまで暴れていた速彦の動きが急に止まったかと思うと、糸を切られた操り人形のように、ホームの上に崩れ落ちてしまう。怒りの奴隷になっている速彦はなおも動き続けようとして、こめかみを押さえながら、がくがくと震える膝を押さえ、立ち上がろうと体を起こす、だが、炫士は容赦なく、その顔面に強烈な蹴りを浴びせてしまう。肉の弾ける音がして、速彦はそのまま背中からホームに転がった。さっきまで優勢だったのが嘘のように、速彦はうつろな目で体を震わせ、鼻と口から流れる血で顔面を濡らしているのに、それでも必死に起き上がろうとする。激しく息をしているせいで、口の周りに真っ赤な泡が噴き出して溜まっている。炫士は、その速彦へ向かって、ゆっくりと歩いて行く、後は、とどめをさすだけだった。

 ――電車が来ます、白線の内側までお下がりください。

 アナウンスが聞こえた、炫士は笑う、速彦が、圧倒的な力に潰される瞬間を想像した、その力によって、肉体と一緒に、存在の事実が消えてしまうことを想像した、何もかも、消えてしまえばいい、炫士は思った、速彦は必死に体を起こし、立ち上がろうとしている、炫士はその瞬間をただ待っていた、線路の消える闇の奥から光が飛んできて、押し出される風が一瞬でホームの端から端を吹き抜ける、警笛を鳴らし、巨大な質量の塊が迫ってくる、後は簡単だった、必死で立ち上がる速彦をあざ笑うかのように、ほんのわずかな力で、速彦を線路の方へと押し出した、もはや力を失っていた速彦は、よろめきながら、バランスを崩して、迫ってくる電車へと吸い寄せられるように、よたよた後ずさりをする、炫士は笑い声を上げた、そしてそのまま踵を返して走り出し、ホームを駆け抜ける、その瞬間、あの美しい女と目が合った、女は世にもおぞましいものでも見たように、瞳孔を広げ、釘付けられたような視線で炫士を見つめていた、逸らそうとしても逸らすことができないという視線だった、炫士はその女の横を通り過ぎ、跳ぶように階段を上がる、金属をねじ切るような、激しいブレーキ音が聞こえ、女の悲鳴がホームをつんざいた、炫士は振り返らない、何が起きたのかは確認しなかった、ただ、地下から、駅の外へと向かって、一直線に這い上がることだけに集中していた、速彦は死んだのだろうか、それは分からなかった、炫士はひたすら走り続けた、立ち止まってしまえば、粉々になった速彦の体から洪水のようにあふれる血によって足元をすくわれ、そのまま再び地下へと引きずり込まれてしまうような気がした、だから炫士はひたすら走り続けた、今自分がやるべきなのは、このまま全てを悲惨な結末へと向かって押しやることだけだった、結果がどうなるかは分からない、それは自分が決められることではない、だが、能うる限り、自分は徹底的に加害者になるのだ、そう思いながら、炫士は、地上へと駆け上がる、明かりに照らされていた地下よりはるかに暗い、闇の底のような夜の地上へ、炫士は戻って来たのだった。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その11へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その9

 欲は、いつまでも湿り気を帯びたままだった、行為が終わって、うつぶせになって休んでいる秋姫の裸の尻をつかんで引き寄せ、炫士は何度でも勃起する性器をもう一度挿入する。秋姫もまた、何度でもそれに応じて、快感とも苦痛ともつかない声を漏らして、炫士の動くリズムに体を合わせてくる。絶頂の度に、勝利の快感が炫士の背筋をしびれさせ、同時に、粘つくような敗北感が胸を塞ぐ。いくらこれを続けたところで、自分が速彦や那美から切り離されるわけではない、速彦と秋姫が結びつこうとする絆をこうやって汚したとして、それが決定的なものをもたらすこともない。ただ、炫士にはそれを止めることはできなかった、こうしていなければ自分が那美と速彦と秋姫に囲い込まれてしまうような気がして、それを振り払うように何度も何度も秋姫と交わった。一度関係を持って以来、二人はもはや当たり前のように例のクラブで会い、そのままベッドに向かうようになっていた、言葉もほどんど交わさず、暗黙の了解のように裸になり、避妊もせずに、繰り返し繰り返しセックスをして、朝が来るとそのままさよならも言わずに別れていく。相変わらず他人のままだった、お互いが誰なのか知っているのに、他人のまま出会い、他人のまま交わり、他人のまま別れる。

 何度か交わって、体力が尽きると、二人は裸の体を横たえて、じっと黙っている、闇と静寂に隠れて、二人の秘密を暴いて罰する怪物から、身を守ろうとするかのように。何度となく、秋姫がどうしてこんなことをしているのだろう、と炫士は思ってみる。炫士自身は壊そうとしていた、速彦と秋姫の結びつきを、そこから発展して家族を形成する結びつきを、内側から浸食するウイルスを植えつけようとするかのように、秋姫の体の中へ射精することを繰り返していた。だが秋姫は、炫士と違って、自ら壊れてしまおうとしているように見えた、炫士に愛というようなものはなかったが、たぶん秋姫にもなかった、だが少なくとも、炫士にとっては交わる相手が秋姫でなければいけなかったのに対して、秋姫にとっては、別にそれが炫士ではなくてもいいような気がした。炫士は、速彦と秋姫と自分という三人の関係性を見ていたが、秋姫の目には、自分自身しか映っていないように思える、自分自身の世界にこもって、それを内側から引きこんで崩壊させようとするかのように、その目は虚ろで、外からの光を飲み込んで静まり返っている。だが、秋姫は今、炫士を選んでいた、何かそこに、決定的な戸惑いがあって、秋姫は恐れを抱き、そこで踏みとどまろうとしているようにも見えた。

 「結婚、いつするんだ?」

 いったいどこまでこの関係を続けるのか、どこまで続けることに意味を見出せば良いのか、何とか探ろうとして、炫士は唐突に質問してみる。この明らかに普通でない関係は、多かれ少なかれ互いを蝕んでいく、だから、いつまでも際限なくずるずると続けるようなものではないはずだった。

 「……急に、どうしたの」

 秋姫は質問から身を守るようにして、炫士に裸の背を向ける、いつまでもかたくなに、自分のことを話すのを避けていた。

 「ずっとこんなことしてるわけにも、いかないだろ。だから、いつまでなんだろうって」

 「私が結婚したら、終わりってこと?」

 「君がそのつもりでそうしてるんだと思ってた」

 「そんなこと、話した覚えはないけど」

 「ないよ。俺の一方的な解釈さ。いわゆるマリッジブルーで、俺とこんなことをしてるんだって思ってたから」

 秋姫は、ずっと背を向けていた、身を横たえて、瞑想をするように目を閉じる、考えているというよりも、自分の頭から考えを追いだそうとするかのように。

 「理由なんて、考えたこともなかった」

 「それは、嘘だろ。理由もないのに、俺と会うのをためらったりするわけがない」

 「理屈がなくても、人は悩むことができる。私とは違ってあなたは賢いから、理屈で悩もうとするのよ」

 私とは違ってあなたは賢いから、という言葉を聞いて、炫士は中学生のころを思い出す、炫士と秋姫は別々の高校へ進んだが、それは、炫士がより偏差値の高い学校へ進学したからで、勉強の得意でなかった秋姫は、そのことについて全く同じ恨み言を漏らしたのだった。だからその言葉は、まるで今も秋姫がその別れに恨みを持っているかのように響く。

 「じゃあ、ここでこうしているのは、感情の赴くままにってことか」

 「私が単なる気分屋みたいな言い方しないで。私は、感情と身体で考えてるの、あなたみたいに、考えることで答えを見つけようとしているわけじゃない」

 「それは、頭で考えてるってことと一緒だ。頭だけで考えることができる人間がいないように、感情と身体だけで考えることができる人間はいない、それは全部、同じものだ、無理矢理分けるようなものじゃない」

 「人の言葉を取り込んで、上手く自分のものにするのが得意なのね」

 「そんなつもりじゃない、正直な考えさ」

 「それがあなたの欠点」

 「どういう意味だ」

 「考えを柔軟にして、他人からの言葉を上手くいなしながら、結局自分の頭の中から言葉を見つけてくるのが上手いから、他人の言葉を聞かずに済むの」

 「俺は聞いてる、でも、俺は他人より良い答えを持ってるから」

 「そうだとしても、きっと別のやり方を試みることだって必要よ。私はあなたみたいに、上手く言葉を取り出してくることはできない、だけど、その代わり、他人に触れて、その皮膚の下から答えを探すことだってできるんじゃないかと思う」

 「……それで、俺に触れて、何か感じたのか?」

 秋姫は何か言おうとして言葉をつまらせ、自信なさ気に身を固くする。

 「確信が持てないんだな。教えてやろうか? 君が確信を持てないのは、頭が悪いからじゃない、自分の感情を肯定できないからさ。自分が求めているものを、君自身の理性が気に食わないから拒んでる」

 そう言った炫士の声には、いくらか嘲りが混じる。

 「……分かったようなこと、言わないで」

 「確かに俺は自分の賢さを盾にしてるかもしれないが、それでもそのおかげで冷静に観察できる。でも、君はそうじゃない、感情と身体で何かを感じようとしていても、実は理性に邪魔されてる、我が身を守ることに必死で、結果的には自分の中に閉じこもることしかできない。感情と理性に板挟みにされて、硬直しているだけのことだ」

 炫士には、秋姫が今までずっとそうして生きてきているのがよく分かった、秋姫は、中学生のころから変わっていない。

 「やめて。私を、あなたの解釈の中に丸め込まないでよ。私を、理解しないでよ」

 「受け入れろよ、それが真実だ」

 「そんなもの、あなたに見えている世界の真実にすぎない。その真実の向こうには、さらに無数の真実が広がってる。私は私の真実を抱えてるんだから」

 「じゃあ、説明してみろよ、その真実とやらを」

 「やめてよ、私があなたみたいに言葉で何もかも言えないってわかるでしょ。私を追いつめないで」

 「違うよ、君は、自分を守ることに必死すぎるんだ、そしてそのことが、君自身を追いつめてる。君を追いつめてるのは俺じゃない、君自身だ」

 邪悪さが、炫士の奥底からせり上がってくる、その頭の中にあるのは、秋姫を追いつめることだけだった、秋姫が自分を追いつめているというのも確かだったが、それを突きつけることで、より秋姫を追いつめることができるといことを、炫士は知っていた。ここにいる二人には、情愛などはなかった、ただ、互いが互いを、利用しているだけだった、そこに決定的な違いがあるとすれば、炫士には確信があって、秋姫にはないということだ。そうは言っても、たとえ確信があろうがなかろうが、それぞれが思う方向へと進んでいくことは間違いない。炫士は加害者として秋姫を襲い、秋姫は被害者として苦しむだけのことだった、その中で互いが予期する結果へと引きずり込まれていくだろう、立場の違いは演じる役割の違いに過ぎず、あくまで二人は共犯者なのだ。

 「やめて」

 秋姫が繰り返す、それ以外に何も言い返せなくなったかのように。

 「やめてどうなる? 俺の言葉に耳をふさげば、君が苦しみ続けるだけだぞ」

 いつもそうだった、秋姫は拒否することによってしか、身を守ろうとしないのだ。

 「それ以上聞きたくない」

 秋姫が枕を抱いてうずくまり、身を震わせている。

 「認めればいいのさ、真実を。それが目の前にあるくせに、いつまでも迂回し続けるから苦しむんだ」

 真実、という言い方を、炫士はあえてしていた、それがまるで客観的なものであるかのように。だが、それは、秋姫が選びきれない無数の答えのうちの一つを、強制的に押し付けているにすぎない、炫士はそれを自覚していた、炫士が求めるのは、秋姫を壊し、それによって速彦との繋がりを、家族になろうとする繋がりを壊し、速彦を壊し、那美を壊し、その瓦礫の中から、外へ這い出ることだった。

 「それが真実だっていうなら、私は何をしたらいいっていうの」

 「壊れてしまえばいい。それが、君の望んでいることだ」

 秋姫は何も答えない、肯定はしなかったが、否定もしない。だが、秋姫は炫士に抵抗する力を持たなかった、何もかもを否定することで身を守ろうとする優柔不断さは、強い肯定を示されれば、たちどころに引きずり込まれてしまう。そして、壊れてしまうということは、手段を失った人間にとって、絶望的なはずなのにこの上なく魅力的に響いてしまう。

 炫士はほほ笑みを浮かべて、秋姫の頭をなでる、何も心配はいらないのだと言うように、優しさで秋姫を包み込もうとする。だが、そのほほ笑みは、いわば炫士の悪意が花開いたようなものだった、炫士もまた、手に負えないものに引きずり込まれていく、悪意を縛っていた手綱を、するすると緩めてしまう。秋姫は炫士に服従しているのではなかった、だが、何らかの抵抗を示すほどの意思を、持ちあわせていなかった。

 ベッドを抜け出て、炫士は携帯電話をつかむ、そしてそのまま風呂場のほうへ行き、ほんの一分間程度、誰かと会話してから、秋姫の所へ戻る。炫士は、神経の奥底に、興奮からくる震えを感じていた。膨らんだ悪意が暴れ、良心を引きずり倒していく、もがいている良心を足蹴にして、ぐしゃぐしゃに踏みつぶしてしまう快感に酔い、頭がくらくらし始めていた。秋姫が不安気な顔で見上げている、炫士は再び優しい笑みを浮かべて、その頭をなでてやった。秋姫は無反応だった、たぶん、どう反応して良いのか分からないのだろう、炫士の笑顔の奥底に蠢く、背筋が凍るほどの悪意を、秋姫が感じ取れないわけがなかった、炫士の優しさと悪意が成すひどい矛盾を前に、秋姫はどうしていいのか分からない。

 それは、すぐにやって来た、炫士は、もうひとつの悪意を呼び寄せたのだった。

 「よう」

 部屋のドアが開いて、現れた男が声をかけ、炫士もそれに応えて挨拶する。その声には、品の悪い野蛮さがにじんでいる。浅黒い肌で髪を茶色に染めた、体格のいい男が部屋まで入ってきて、ベッドの上にいる秋姫は慌てて布団で裸の体を隠す。その秋姫を、男がじろじろ見て、にたりと笑う、口に溜まった唾液が舌に絡んで、くちゅっという音を立てた。

 「おいおい、可愛いじゃないか。ホントに良いのかよ、こんな娘を回してもらっちゃって」

 いやらしい笑顔を浮かべて、男が炫士に言う。炫士は下卑た笑みを返して、その男の肩を無言のまま叩いた。男はこみ上げる笑いを漏らしながら、上着を脱ぎ始める、男の上半身は筋肉の塊のようで、シャツの上からでも胸板が盛り上がっているのが分かる。男は、炫士のナンパ仲間だった。

 「さあ」

 炫士が秋姫の目の前にやって来て、布団に手をかける、秋姫は何が起ころうとしていのか分からず、表情を恐怖で凍りつかせ、ありったけの力でそれに抵抗した。

 「離せよ」

 秋姫は黙っている、想像以上の炫士の悪意に怯えきって、目に涙を溜めて、炫士を見上げている。

 「安心しろ」

 炫士が、また優しい笑みを浮かべる、完全に作り物の、おぞましい笑顔。いったい何に安心できるのか、秋姫には分からない、だから今にも泣き出しそうな顔で、必死になって自分の裸を隠している布団をつかむ、それを離した瞬間に、秋姫は壊れてしまいそうだった。

 「怯えなくていい、ただ身をまかせるだけでいいんだ。君は、その力に身をまかせて、バラバラに壊れてしまうだけでいいんだ」

 静かで、不気味なほど落ち着いた口調で、炫士は語りかける、まるで催眠術師のような、子守歌のような、甘く香る香水のような響きだった。その優しい笑みのまま、秋姫には抵抗できないような猛烈な力をいきなり込めて、炫士は秋姫から布団を奪い取る、その勢いでベッドの上に裸の秋姫の体が転がる。

 「さあ、おいで」

 炫士が秋姫の頭をつかんで、勃起した性器の前まで誘導する、秋姫は身を固くして、震えていた、炫士は笑顔のままでいる、表情は凍りついて、微細な筋肉の動きひとつ見せない。力なく抵抗しようとする秋姫の顎を鷲掴みにして口を開けさせると、炫士はその中に性器をねじ込んでイラマチオをさせる。たまらずに秋姫が咳き込むが、炫士はお構いなしに突っ込んでいた。

 四つん這いになってイラマチオをさせられる秋姫の裸の尻に、すっかり興奮した様子の男が、赤黒くて大きな性器を剥き出しにして忍び寄る。男はイラマチオをさせる炫士と目があって、声を漏らしながら笑った。

 「さあ、やれよ」

 炫士が男を促す、男は言われなくてもそうするといった調子で、返事もせずに、イラマチオの勢いで揺れる秋姫の尻の真後ろに膝をつく。秋姫は顔と視線を動かして、背後で何が起こっているのかを見ようとするが、炫士はその頭を両手で押さえこんで、それができないようにしてしまう。男はその姿にますます興奮して待ちきれず、秋姫の尻を両手でつかむと、何の前置きもなく後ろから性器を挿入する、秋姫はわずかばかりでも抵抗をしようとするが、筋肉の塊のような男に抱えられてどうすることもできなかった。

 ――ああ、ああ。

 興奮した男のやけに大きな喘ぎ声が、部屋に響いていた。男に後ろから犯される秋姫を見ながら、炫士は秋姫に対する同情心を押さえこんでイラマチオを続ける、自分の良心を踏みにじれば踏みにじるほど、それが快感に変わっていく、自分はこの世で最低のクズだと思った、だが、炫士は可能な限りクズになりたかった、誰もが被害者になれる世界では、全員から責めを受ける最悪の加害者になることこそが、何よりも尊いのだ。秋姫は口をふさがれながら、泣いているような怒っているような声を漏らし続けている。動物のように腰を振り続ける男の顔が紅潮していくのに合わせて、炫士も徐々に昇りつめていく、もはやそこには、速彦に対する勝利のようなものは皆無だった、情欲は湿り気を帯びているというよりも、どろどろになるまで濡れて崩れ、絶頂というよりも奈落へ崩れ落ちるような感覚で、胸の底をえぐるような虚脱感とともに、炫士は秋姫の口の中に、苦悩のため息のような精液を注ぎこむのだった。何もかもが、最低だった、後悔するにはあまりに遠いところまで来てしまった、炫士は目を閉じて、重たい闇が自分を押し潰してくれるよう祈っていた。

 

 

 男はそそくさと帰ってしまい、部屋には炫士と秋姫だけが残っていた。秋姫はうずくまってベッドに横たわり、壁の一点をぼんやりと見つめて動かない、炫士はイスに腰掛けて、その秋姫を背後から見つめている。ばらばらに崩れ落ちた感情を、どんなふうにかき集めていいのか分からない、どうしてだか、炫士の頭の中には秋姫と付き合っていた中学時代の記憶が次々と浮かび上がってきていた、炫士はただそれを、非情な傍観者として眺めている、そこに手を伸ばすこともせず、ひたすら感情がその記憶に結びつかないように遠ざけている。

 いったいどれだけ時間がたったのか分からない、部屋の外、表通りを過ぎる車の数が減っているのが音で分かるだけだった、たぶん、深夜と言っていい時間なのだろう。秋姫はそこでじっとしたままだった、呼吸が、かすかに背中と肩を揺り動かす。自分は行き過ぎたのだろうか、と炫士は考える、自分が壊そうとしたものは、果たして壊れたのだろうか、自分が望んでいることは、実現できないことでしかないのに、なぜこんなことまで自分はやってしまうのだろうか、自分はただ単に、目の前の女を、兄の婚約者を、自分が何を望んでいるのかが理解できずにただ戸惑っていることしかできない女を、自分が昔好きだった女を、悲惨な目に会わせて、取り返しの付かないくらいに壊してしまっただけなのではないだろうか、たぶん、そうなのだろう、自分は悔いるべきなのだろう、自分の考えをここで改めるべきなのだろう。だが、炫士はひたすら後悔から自分を遠ざけていた、炫士にはそれができなかった、炫士にできるのは、それが無駄で、自分も他人も取り返しの付かないくらい傷つけてしまうだけなのだと知りつつも、とことんやってしまうことだけだった。それは、強迫的な衝動だった、炫士には、それを止めることができない。だが、炫士は自分の胸に痛みがあるのを認めないわけにいかなかった、目の前でじっとしている秋姫を見ながら、たぶん自分はこんなことをするべきではなかったのだという気持ちが、いくら否定しようとしても、執拗に胸を突き刺している。この倫理的な感情はどこから来るのだろうか、と炫士は考える、それは、社会とか神とかに罰せられる恐れなどではなかった、自分はそんなものから遠く離れた所にいると思っている、それは誰から与えられたものでもない、強いて誰かから与えられたのだとすれば、それは、目の前にいる秋姫だった、どれだけ人倫にもとるようなことを試みても、自分はそういうものを超越できるわけではない、自分は、そういうものに繋ぎ止められたままなのだ。そのことを、目の前の秋姫の存在が、炫士に突きつけている。

 いったい、ここで自分に何ができるというのだろう、炫士には何も分からなかった。だが、直感的に、炫士は残酷さのほうを選び取ろうと思った、救われたいなどとは思わない、赦されたいとも思わない、可能な限り、自分を加害者へと追い込むだけだと思った。

 「秋姫」

 炫士は名前を呼んだ、湧き上がってきてしまう同情心を吐き捨て、踏みにじろうとするかのように、今まで封じ込めてきたその名前を、はっきりと呼んでしまった。秋姫は何も答えない、だが、さっきまで一定のリズムで動いていた肩と背中が硬直し、沈黙に嫌な緊張感が走った。

 「秋姫」

 もう一度、炫士が名前を呼ぶ。その声は、明らかに、秋姫の感情を抉っていた、徐々に、呼吸が始まり、肩と背中が大きく動き始め、息が荒くなっていく。炫士は両手を組んで、固く握る、爪が手の甲に食い込んで、痛みが走っていた、それでも炫士は、もっと深く、爪を突き刺していく。秋姫は何も答えない、炫士は震えてしまう身体と感情を抑え込もうとするかのように、手に力を込め、唇を噛む。

 「秋姫!」

 残酷さを思い切り投げつける、炫士は、秋姫に内面へ閉じこもることを故意に許さなかった、無理矢理心の扉を開け、中にいる秋姫を、引きずりだしてしまおうとする。その瞬間、逃げ場を失った秋姫は悲鳴を上げた、痛々しい感情を剥き出しにされ、突き刺さる冷酷さに悶え、秋姫は泣いているような悲鳴をあげる、引きずり出された扉の中へ戻ろうとするように、うずくまって、言葉もなく、ただ感情だけを破裂させる。その悲鳴を聞きながら、炫士はひたすら耐えていた、頭が痛くなり、吐きそうな気分だった、無表情で人を傷つけることができるほど炫士は人間味を失うことができそうになかった、自分を加害者へと押しやることに、必死にならなければならない、その弱さのせいで、自分が過剰に秋姫を傷つけているとしても、炫士はその向こうにいる速彦を傷つけたかった、那美を傷つけたかった、そうすることで、自分と速彦と那美の繋がりを、否定してしまいたかった。

 

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その10へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その8

 葬場からの帰り道、炫士は無言のままハンドルを握った、助手席には那美が座っている。那美と二人になるということは、できるだけ避けたいことだったが、速彦たちは帰る方向が違うため、結局そうならざるを得なかった。那美がハンドルを取るのは主導権を握られているような気分になるので、せめて、と思い、炫士は自らハンドルを握ることにしたのだった。炫士はまっすぐ前を向いている、風景など見ていなかった、ただすれ違う車の動きと、信号ばかりを注視して、目的地に着くという以外のことは考えない、那美と会話を交わすなど、もってのほかだった、身を固くして、視線を決して合わさない。

 「疲れたねえ」

 那美が言葉を漏らす、ぽつりとしたものだったが、それははっきりと炫士に向けられていた。たぶん何か声をかける機会をうかがっているのだろう、とさっきから炫士は感づいていたが、いざ言葉を向けられると、背中から冷水を浴びせられたような気分になり、心臓のリズムが乱れてしまう。炫士は黙っていた、まるで穢らわしいものに触れるのを忌むかのように、沈黙の奥へと隠れ、身を守ろうとする。

 「ねえ?」

 那美は反応を求めた、炫士は応えない。

 「炫士」

 那美は炫士を逃がそうとはしなかった。しっかりと炫士の顔をのぞき込み、言葉を発する。

 こんなふうにしていると、自分がつまらない反抗期の子どものような気がしてくる。たぶん、はたから見ればそうなのだろうと思う、ただ、自分の嫌悪の割り切れなさは、そんなもので説明できないと炫士自身は思う、この感情は心理学的なものではなく、とことん個人的なものなのだ。もし仮にその程度のものだったとしたら、それはせいぜい中学生のころに終わっているはずだった、やがて親を受け入れ、感謝するようになるという抑圧的で「感動的」な筋書きにはまる、月並みな大人にでもなっていただろう。もし自分からその嫌悪が消えるとすれば、どんな瞬間だろうかと炫士は考える、それは、たぶん、自分と那美が全くの他人になれた時だろう、一緒に過ごした時間が消え、戸籍が消え、家が消え、那美が母親だという事実が消える、街で偶然すれ違ってもその存在を気に止めることすらあり得ない、他人になるというより、それは、はじめから互いが他人だったということを意味する、その時、そこにはあらゆる感情の固着が発生する余地がなくなるだろう。

 「あきれた。こんな時までそんな態度なの」

 いくらかの嫌味を含んで、那美が言う。それは、もはや互いの関係が良好になることがないという予兆のように響く、岐史の死は、この関係性が変化しうる最後の機会だった、だが、この瞬間に予感されるのは、これから加速度的に関係が崩れて行く一方なのだろうということだった。

 「……親父には、話したのか」

 重苦しいトーンで、ようやく炫士が言葉を搾り出す。炫士は半ば意を決していた、もうこれ以上正面の問題を避けていてもしょうがない、壊れるなら壊れるで、とことん壊しきってしまえばいい、逃れられないなら逃れられないで、自分も他人も傷つけ尽くせばいい、あきらめるつもりも、自分がそこから自由であるかのように振舞うつもりもない、道化のように、その不自由に頭をぶつけ続けようと思った、額が割れ、血まみれになり、気を失うまで、徹底的に自分をその不自由に叩きつけようと思った。

 「何を?」

 「とぼけるな。分かりきったことだろうが。お前が五年間、どこで何をしてたのか、親父には話したのか」

 「炫士、あのね――」

 「まず俺の質問に答えろ」

 何か言い訳をしようとした那美の言葉を容赦なく遮り、炫士が迫る。表情には、憎悪と怒りがにじむ。

 「言ってない、何も言ってない」

 那美がため息をつく、そのため息には、炫士をたしなめるような雰囲気と、自己正当化がこもっていた。その態度にますます腹が立ち、炫士はハンドルを握る手に徐々に力を込める。

 「親父が死ねば片付くと思ったのか? お前の過去が、何もかも水に流されると思ったのか?」

 「そんなこと思ってない」

 「なら、何で言わなかった? 何で親父をそのまま死なせたんだ?」

 「それを言ったところで、どうしようもない。それはもう、お父さんとお母さんの間で、問題じゃなかったの」

 「お前が一方的に黙殺しようとしたんだろ。親父は関係ない、その沈黙はお前の企みだ、どんな問題も、黙っていれば表面化しない、そのうち時間の重なりの底に沈んで薄れて、忘れ去られる、どうせそんなふうに思って、目を背け、隠蔽しようとしたんだろ」

 「それを言い出したのは、お父さんのほうなんだからね」

 那美が動じている様子はなかった、炫士が言うことなど見すえていたかのように、不気味な落ち着きで助手席のシートに身を預けている。

 「何だと?」

 「帰ってきたばかりのとき、私は、お父さんに自分が何をしていたのか話そうかどうか迷ってた。でもね、お父さんがそれを察したみたいに、自分のほうからそのことを切りだして、何も言わなくてもいい、聞いても何も変わらない、だから、まるで何もなかったかのように、これから一緒に暮らしていこうって、そう言ったの」

 あ然として、炫士は那美の話を聞いていた。岐史の体たらくも、のうのうとしている那美も、もはや理解できなかった、言葉が出てこない、せり上がってくるいら立ちに、炫士は唇を噛む。死んだ人間に問いただすことはできない、だが、岐史は那美を赦したつもりだったのだろう、と炫士は思う、だとすれば、そんなものは赦しではない、岐史は、目の前の問題から目を背けたのだ、自分を現実から、那美から遠ざけ、日常生活の中に立てこもり、その世界が壊れないようにすることだけを、考えることにしたのだ。岐史自身は、そうすることで速彦や炫士や那美を守ったつもりなのかもしれない、父親としてそうするのが正しいと思ったのかもしれない、だが、実際に岐史が守ったのは、自分自身だけだった、そういった問題から自分が超然としていられるかのように振舞うことで、自分自身の世界の完璧さを守ったにすぎない、単なるナルシストにすぎない。岐史は、那美に、母に完敗したのだ、ひざまずき、那美の顔を見上げようともせず、靴を舐めるように、その足元を見つめ続けたのだ。そう考えて、炫士はこの瞬間、尊敬していなかったとはいえかすかな同情心を向けていた岐史を、完全な軽蔑の対象と見なした。

 「それで、親父が死ぬまで、結局何も言わなかったのか」

 「……それが、お父さんの望みだったからね」

 これまでにないくらいに耐え難かった、自分が岐史と那美の子であるということが、おぞましかった、自分は、この黙殺から産み落とされたのだ、この共謀された沈黙が、自分を宿した子宮なのだ。激しい怒りが、炫士の思考を殴りつける、子どもは母から産まれ、父のようになるのだという呪縛を、狂おしいほど否定したかった、それが子どもの運命なのであれば、自分は沈黙から生まれ、沈黙へと回帰していくことになるだろう、自分の生は、ひと続きの無となるだろう。再び、激しい怒りが炫士の思考を殴りつける、まるで壁を打ち破り、世界の外へと飛び出そうとするかのように。

 「親父だけのせいにするな。それを決めたのはお前らだろう。親父にそのことを話そうと思ってただと? 嘘をつけ。お前は言い出そうとする振りをして、親父がそう言うのを待っていただけだろうが。お前らは二人で示し合わせて、自分たちを家庭の中へと閉じ込めたんだ。何も見なくてもいいように目を覆い、何も聞かなくていいように耳を塞ぎ、一切の矛盾を追いだして、全てが予定調和になる場所へ引きこもっただけだろう。お互いが何者であろうと、自分の役割と居場所を保障してくれる家庭の中へ」

 「だからどうだって言うの? 炫士、私たちには、あなたと速彦がいたの。だから私たちは、それを選ぶ必要があったのよ。私たちはもはや、自分たちのことだけを考えていればいい存在じゃなかった。自分のことなんて、そこでは二の次だった」

 「今度は子どものせいか? お前はどうなんだ、お前の責任はどこへ行った。お前はいつでも被害者のつもりか? 自分が母親だから、自分はいつでも夫と子どもの被害者だから、自分は責任など負う必要はないってことか?」

 「そうじゃない。私がこの十五年、苦しまずに生きてきたとでも思ってるの? 炫士、被害者のつもりでいるのは、あなたのほうじゃない。あなたは自分が子どもだったことを盾にして、他人を責め続けてるけど、お父さんにも、速彦にも、私にも、それぞれの苦しみがあったのよ? あなたこそ、そのことを見ようともしない。自分だけが被害者で、自分だけが苦しんだような顔をしてる」

 「俺は別に自分を被害者だとは思ってない。あえて言うなら、俺は加害者だ、俺を苦しめているのはお前らじゃなくて、俺自身だ。俺はただ単にこの世に産まれてきたという事実によって、お前らと、俺自身を苦しめてる」

 苦しみ、という言葉をつい口走ってしまうが、それは適切ではない気がする、自分は苦しんでいるのではない、と炫士は思う、そうではなくて、ひたすら憤っている。

 「なら、今すぐそれをやめればいいでしょう。自分を受け入れなさい。そうするだけでいい、そうすれば、全てを赦せるようになる」

 「そんなことができると思うか? そこでお前が受け入れろと言ってる自分は、俺自身のものじゃない、それを受け入れることで、むしろ俺は全てを失うだろう、お前らが家庭に閉じこめられたのと同じように、俺はその自分から出られなくなるだろう」

 那美はため息をつく。何か言い出そうとためらっている様子で、時間をおいてから、ゆっくりと口を開く。

 「……炫士、ごめんね、確かにあなたを捨てるように、どこかへ行ってしまったことは悪かったと思ってる。赦してもらえないかもしれないけど、でも、その時の私は、そうする以外に道はなかった。私もきっとあなたと同じよ、私は、まだ自分でいられる可能性を、捨てたくなかったのかもしれない」

 「勘違いするんじゃねえ!」

 優しく自分を懐柔するような那美の口調に嫌悪感が噴き出し、衝動的に叫んでハンドルを叩いた、はずみでクラクションが鳴り、隣の車の運転手が驚いて炫士を見たので、炫士はそれを凄まじい怒りの形相で睨み返す。その運転手は慌てて視線をそらし、逃げるように速度を落として、炫士と並走しないようにする。

 「勘違いって……何が勘違いなのよ」

 驚いた那美が、今にも殴りかかってきそうな炫士から身を退きながら言う。

 「俺の苦しみが始まったのは、俺が俺を苦しめはじめたのは、お前がいなくなった後からじゃない」

 「どういうこと?」

 「それが始まったのは、お前が帰ってきた後からだ。理由がそこにあるとすれば、お前が消えたことが理由じゃなくて、帰ってきたことが理由だ」

 「何を言ってるの?」

 「お前は帰ってくるべきじゃなかった。俺の前に現れるべきじゃなかった。お前は、どこかへ消えたままでいるべきだった」

 「炫士、分からないわ。ちゃんと説明して」

 「分からない? ふざけるなよ、お前は自分が何をしたのか、本当は分かってるはずだ。お前は無知を装って、全てを何事もなかったかのように黙殺しただけだろうが。お前が無知だったとしても、それはお前の無罪を意味しない。本当は何もかも分かっているんだろ? 分かっていてもどうすることもできないから、あえて無知を装うことで、全てをコントロールしようとしただけだろうが」

 「いい加減にして。どうしても私を悪者にしたてあげたいのね。炫士、いくらそんなことを言っても、その悪者は、あなた自身が創りだしたものにすぎないのよ」

 「悪者? 俺に取ってのお前は、悪者じゃない――ただの母親だ。それは俺が創りだしたものじゃない、それは共有されたものだ、俺が息子であるように、あの男が父親であるように、お前は母親だ」

 だから逃れ難いのだ、と炫士は思う。それは悪者ではない、病巣ではない、だから、外科的に取り除くことができない。

 「……いったい、あなたの望みは何? 私が何をすれば、満足するっていうの? 炫士、私にはもちろんあなたを苦しめる意図はなかった、それどころか、私が帰ってくるのは、あなたにとって良いことだとすら思ってた」

 「結局、お前は俺の言っていることを理解しようともせず、自分自身の姿すら見ようとしないんだな。お前みたいな人間たちから見れば、俺はわがままで独善的に見えるんだろうが、本当の意味で独善的なのはお前のほうだ。俺はやっぱりお前を嫌悪してる、お前はこの世で最も醜悪な生き物だ、どんなに無知を装っても、それがお前の本当の姿だ」

 自分が帰ることで何をもたらすか、そんなにまで無自覚だったと那美が言うのなら、それはさすがに嘘だろう、と炫士は思う。那美はいつでもそうだった、自分は常に深刻なことの中心にはいないのだというふるまいを、今に至るまでずっと続けている。これは、私がひきこ起こしたことではない、これは、起こってしまったことなのだ、それが那美の論理だった。そこでは、誰もが平等に被害者になることができるだろう、だからこそ、炫士は自らを加害者だと見なそうとする。そこでは、誰もが那美の子どもになってしまう、速彦も、岐史も、那美の子どもであり被害者なのだ、炫士は加害者になることで、逆に自分を那美を上回る存在としてしたてあげようとする、速彦と、岐史と、那美――炫士はそれぞれを上回る存在になろうとしていた、能うる限りにおいて、三人を、徹底的に傷つけようとしていた。

 喪服のネクタイをゆるめ、炫士はハンドルを握り直す。ひどい疲労感だった、話せば話すほど、ディスコミュニケーションが折り重なっていく、もはや言葉は機能していなかった、それでも、車の中、一つの空間の中には、二つの身体が存在している、それは言葉ではどうすることもできないものだった、それでも何かを試みようとするならば、そこには何らかの形での肉体的な接触以外に方法はないだろう。

 炫士の目の前で、フロントガラスの向こうに現れる風景が凝固して目に貼り着こうと迫ってくる、だが、炫士はそれを振り払うようにアクセルを踏んで車を走らせる、視線を、その風景の奥へ奥へと突き刺していく、限り無く遠くの彼方まで入り込んで、無限の世界を見出そうとするかのように。

 何もかも、暴きだしてやる、炫士はそう思った。沈黙の闇の中へ覆い隠されてしまうことの全てを、燃え盛る炎のような光で、暴きだすのだ、まるで産まれた瞬間に母親の膣を焼き、黄泉へと向かわせた火の神のように、母の死をもって、自分の生をこの世に表すのだ、父と母は自分を無の中から生み出した、しかし、自分は無ではない、だから、無には回帰しない、何としても、この世に有らねばならない。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その9へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その7

 史が死んだ。その死のあっけなさは、それについて充分に考えたり解釈したりする時間を与えてはくれず、ただ単に起こったことを受け入れるしかないというようなものだった。深刻な病を患っていたとはいえ、それは死の近さを連想させるような雰囲気を備えてはいなかった。その死の知らせを受け取った炫士に、悲しみはなかった、その死を意識していなかったとはいえ、まあそういうものだろうと思っただけだった。その喪失の大きさを測ろうとするよりも、その何でもなさをむしろ感じていた、誰が死んでも、世の中というものは昨日も今日も同じように回り続ける、自分自身が死んだとしてもそれは全く同じことで、人の死というのはそういうものだということのほうに、目が向くばかりだった。

 葬式にて、僧侶の読経の声を聞きながら、ならば自分にとっては何が変わるだろう、と炫士は考えてみる。自分を家族に繋ぎとめようとしていた父親が死ぬことで、自分は家族と縁が切れるのだろうかと問うてみて、そうではないだろうと自らに答えを返す。もしかすると、これで自分はもはや那美と速彦からほぼ完全に遠ざかり、もう二度と会わなくなるかも知れない、だからといって、自分がその中で生まれ育ったという痕跡は消えることはないだろう。それは速彦が死んでも、那美が死んでも、同じことでしかない。その繋がりの根深さと不気味さが、よけいに際立っただけだ。

 炫士は、視線の先に那美の姿を見とめる、何を感じ、何を考えているのか全く読み取れない、ある種の能面のような顔をしている、つまり、悲しい気持ちでいる人には那美が悲しんでいるように見えただろうし、無感動な人には那美が無感動でいるように見えただろう。黒い衣装に身を包んで、その対比が肌の白さと玉のような瞳の輝きを際立たせている、夫を失い、喪主を勤める那美には、奥底に――決して表には表れようとしない――妙に威風堂々としたものが宿っているように感じられる。那美は力を失い、何も持たない存在のようでありながら、その場の中心を、動かし難いものとして占めている。この葬式が、まるで岐史の棺と遺影ではなく、那美を中心にした磁場の中で動いているかのようだった。那美は、炫士と、速彦と、岐史の死の、中心を占めている。家族は、少なくとも炫士の目から見れば、四人をそれぞれ柱として成り立っていたのではなかった、那美がブラックホールのような中心として磁場を作り出し、その周囲を、自分と速彦と岐史が、吸い込まれるようにぐるぐると回っているだけのことなのだ。那美が帰って来る前は、自分と速彦と岐史は家族と呼べるものではなかったのではないか、という考えが、炫士の頭の中にあった。同じ家の中に、独立した三体の人間が暮らしている、そういう感覚だった。だが、那美が現れたことで、岐史は那美と結びつき、炫士と速彦はその同じ結びつきから産まれてきたのだということが、意識の奥深くに刻み込まれるような感じがした、あるいは、それまで気づかずにいられたことが、とどめてもとどめてもその隙間からあふれ出て、二度と目を背けられないような事実として浮かび上がってしまったような感じがした。

 那美のそばには、速彦と秋姫が立っていた。速彦は岐史の遺体が入った棺をじっと見つめている、表情にはその場にふさわしい重々しさがあり、今ここで悲しむべき悲しみをちゃんと悲しんでいるように見える。秋姫は相変わらず収まりの悪い存在感を持ってそこにいた、そして秋姫もまた、那美と同じような表情をしている、そこに積極的な感情の表出というものはなかった、悲しいといえば悲しい表情で、無表情といえば無表情だった。炫士はその秋姫を目で追ってみるが、秋姫とは全く視線が合わなかった、たぶん、意識して避けているのだろう、激しく肉体を絡みつかせながら何度も交わったにも関わらず、夜の街から出てここに現れた二人は、よそよそしい空気で互いを隔てたままでいる。ここで二人は、あいも変わらず、弟とその兄の婚約者という以外の何者でもない。

 やがて焼香が始まり、炫士は慣れない手つきでそれをやり過ごし、そして参列者に礼をする那美と速彦から少し離れたところに立つ。速彦の後ろには、ひかえめな様子で、秋姫が立っている。焼香をしていく参列者の流れの中で、その三人が、そして炫士も、浮き上がっていた、その他大勢と、そこから明らかに区別された結びつき、家族、那美と速彦と炫士、そしてこれからその一員になろうとする秋姫――儀式の中で、家族というその塊が、生々しい実体を持って炫士の目の前に表れてくる。今まで蜃気楼のように漂っていたものが、この儀式を通して、もはや否定する隙もないような完全体として組み上がるように思えてきて、炫士はだんだん気分が悪くなる。岐史が死んで、そんなものでは何も変わらないとタカをくくっていたことを後悔しそうになるくらい、自分が何も分かっていなかったような気がしてきた。何となくそこにある不気味なもの、という程度にとらえてきた繋がりが、突然実体化してきて、ほとんど直接的な恐怖感すら覚える。炫士は、その感覚を持て余すしかない、こんな違和感は、那美にも速彦にもないはずだと思う、もしそれがあるのなら、ここでこんなふうに平然としてはいられない。じゃあ、秋姫はどうなのだろうかと思って見てみるが、秋姫は相変わらず、感情の読み取れない表情で、こちらにはいっさい顔を向けずに、速彦に付き従うように参列者を見送っている。耐えられなくなって、炫士は三人から目を背け、岐史の棺と遺影の方を向く。ほとんど暴れだしたいような気分だった、遺影をたたき割り、棺から岐史の遺体を引きずりだして、それが単なるモノでしかないのだと叫びたかった、魂や人格などもはやどこにもない、父親など存在しない、那美と速彦と秋姫とそして自分は全くの他人なのだ、今ここで行われている儀式には何の意味もなく、滑稽の限りでしかないのだと、この場にいる全員に知らしめたかった。炫士は、秋姫の裸の姿を想った、この場の逃れ難さを思えば思うほど、なぜかその裸体は鮮明に浮かび上がる、白い肌、滑らかな線を描く鎖骨、小さな乳房、細い腕、柔らかい陰毛、そういうものが、家族の繋がりの実体感と呼応するように、非常な生々しさを持って、炫士の頭の中を満たしていく。今すぐにでも、秋姫を裸にして交わりたいと炫士は思う、今ここにある関係性など、全部無視してしまいたかった。そういう二つの衝動が湧き上がり、炫士はいてもたってもいられない、自分はこの場にこれ以上ないほどふさわしくない人間なのに、なぜここにいなければならないのだろう、と炫士は無益な問いを発し続けた。

 

 

 火葬場で岐史の遺体が焼かれ肉を失い骨だけになるのを待つ間、四人に会話はなかった、ただ、那美がぽつりと、ああ、いろいろ大変だった、と呟いただけだった。それぞれが自分の思いにふける静かな空間で、その言葉は煙のように漂い、いつまでも消えずに残っていた。那美自身は、岐史が死んでから葬式までのことを言っているだけだったはずだが、炫士にはそれが、那美が今まで岐史と関わってきた全てのことに対して言われているような感じがした、炫士が産まれた直後に自分がどこかへ消えて、五年経って戻ってきて以来、こうやって過ごしてきたことで積み重なってきたものが、この死によって浄化されたのだと那美が言っているように聞こえた。それが自分の一方的な解釈でしかないと分かっていても、炫士は妙に腹が立ち、この死によって浄化されるものなど何もない、岐史の死によってそういうことが起こるように見えるのはまやかしでしかない、むしろそれは、一つの呪いとして、残響のように炫士と那美と速彦の間に居座り続けるのだと思う。岐史が死んだことで、三人が自分にとっての岐史の存在と自分との関係を、それぞれ都合の良いようにとらえ始めるだろう、そのことで、岐史が実在していた時よりも三人の間のずれは広がるだろう、死者は消えない、何度となく、記憶の中に回帰してくるだろう、まるで家族のつながりもまたそうであるように。

 やがて火葬が終わる、肉が燃え落ちた灰の中に、岐史の遺骨が横たわっていた。その骨を、炫士はできるだけ何でもないもののように見なそうとする、不特定多数の死骸の中から、一組の骨を拾い集めてきたのだとでもいうように。もちろん、そんなことは不可能だった、それが岐史の遺骨なのだということは、炫士の頭からは消えようもない、その遺骨を通して、幼い頃に自分の頭を撫でていた手を思い出し、頭蓋骨の形の起伏に、面影を重ねてしまう。記憶が、すでに消え去ったものを追いかけ始めていた、炫士は、これから自分が死者まで相手にしなければならないことを感じていた、死者は距離と無関係に、心の中に浮かび上がるだろう、逃げ場はなくなる、だから、炫士がそこから逃れたいと思うほど、今まで以上にそれは困難なことになるだろう。

 二人一組なって、岐史の遺骨を拾っていく、炫士は那美と一緒に、黙々とその作業を行った。成人男性の大きな骨を、ひとつゆっくりと丁寧に拾って、骨壷に放りこむ、一瞬、炫士と那美の目が合う、その視線の邂逅は、那美がいま何を考えているのかを炫士に想像させずにはおかないが、炫士はかたくなにそれを拒んで、目の前の物質としての骨に意識を集中させる。箸の先を通して、岐史の遺骨の重みが伝わる、そして、一緒にその骨を拾う那美の力の加減が、一緒に伝わる。まるで遺骨と箸の描く三角形が、三人を深く結びつけているかのようだった。ありふれた儀式によって――むしろありふれた儀式だからこそ――その繋がりが自分の奥深いとこまで流れこんで刷り込まれていくような感覚があった。

 那美は淡々として、遺骨を拾い上げている、喪服から現れる白い手、指先で器用に動かされる箸、その先端、白い骨、那美の作法は厳かですらある、何か覚悟めいて、自らの喪の作業に他人を立ち入らせない雰囲気を備えていた。炫士が遺骨を拾い上げる心境と、那美が遺骨を拾い上げる心境は、まるで違っている、それを嫌悪し逃れたがっている炫士と、まるでそれが自分のためにとり行われているかのように遺骨に向かう那美――だが、そんな二人の違いなど全て霧消させるように、岐史の遺骨は二人を結びつけている、まるで他人のような、いや、他人である二人を、岐史が結びつける、他人である速彦と炫士と岐史を、那美が結びつける、他人である那美と岐史を、速彦と炫士が結びつける、他人である速彦と炫士を、那美と岐史が結びつける。黙々として、誰もがそれぞれの孤独と内省の中で作業に集中しているのに、誰もがますます深く互いに結び付けられていく。

 何もかもが、那美に飲み込まれていく、これからどうなるのかと考えたとき、炫士はそんな気がした、岐史が消えて、そういう引力が強まるような気がした、那美は別に自分に何かを強制したりするようなことはない、それをやろうとするのは速彦だろう、速彦は岐史の立場の穴を埋めようとするだろう、だが那美はただそこにいて、死者となった岐史を従えて、その磁場の中に炫士をとどめようとするだろう。しかし、炫士はそのことで、かえってそこから逃れられる可能性が見えるようにも思えた、那美の存在感がはっきりと顕在化することで、自分が囚われているものが何なのか見えれば、自分はそこに対して抵抗を示せばいい。今のようにやみくもにやっている、というよりもわけが分からず何も出来ないという状態から、一歩進めるのではないかという気がする、目の前にそれが浮かんだなら、ありったけの力と冷酷さを持って、それをめちゃくちゃにしてやろうと思う、自分は那美の子ではない、岐史の子ではない、速彦の弟ではない、寄る辺ない、無限の海をさまよう、一人の孤児なのだ。

 炫士は、思わず指に力を込める。箸の先で、もろくなった岐史の遺骨の破片が、ぼろぼろと崩れ落ちた。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その8へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その6

 れからほとんど毎日、炫士はクラブへ通った。安っぽい音が不快で、ウォッカベースの水っぽいカクテルをあおりながら、酔いでその輪郭がぼやけていくのを待って、ふらふらとフロアを歩きまわり、秋姫の姿を探した。たぶん来ないだろうと思いながらも、炫士はどうしてもそれを待たずにはいられない。秋姫は矛盾した存在だった、どこかへ逃れようとしているくせに、そこから出ると怯えたように自分の中へと退避して閉じこもり、嵐が過ぎるのを待つように身を固くしているばかりなのだ。秋姫は逃げ場を失っている、あらゆる逃げ場は逃げ場ではない、だから崩れ落ちてしまうこと以外に、秋姫が逃れる場所はないように見える。もうこういう所へ逃げ場を求めては来ないかもしれない、それでも炫士はずっとここへ来ている、わずかとはいえ可能性はあった、秋姫はあり得ない逃げ場として、自分を求めるかも知れない、炫士はそう思っていた。

 毎夜三十分ほどフロアを歩き回る、秋姫の姿をそこに見つけることはできなかった。感情がざわついていた、何をやろうとも、とうてい治まりそうにはない。無駄と知りつつ、秋姫の代わりというでもなく、ささくれ立ちいきり立つような感情を少しでもなだめようと、炫士はフロアにいる適当な女に声をかけて連れ出すことを繰り返す。美人で自分の値段を高く見積もっているような女ではなく、とにかく手軽に抱けそうな女ばかりを選んでいた、感情の交流も色気もなかった、ただ単にお互いをオナニーの道具にするような、どうでもいいセックスを毎日毎日繰り返す。暴れる虫のように下腹部を引っ掻き回す感情はそれでも炫士をきりきりとさいなんだが、中途半端な人間味を相手に求めるよりも、無機質で機械的なくらいの性器の擦り合いのほうがずっとましだった、寄ると触ると炸裂しそうな感情のうねりは、一人で膝を抱えるようにぐっと耐えているほうが気が紛れる、だからいっさいそこに立ち入らない人間が相手になることで、炫士はより深い孤独へと入っていくことができた。自己肯定感が低く沈んだ顔で男に抱かれる女や、人懐こいがどうしようもないほど頭が悪い女たちとセックスをしながら、炫士は秋姫のことを思い浮かべた、速彦に抱かれている秋姫のことを思い浮かべた、痛みと快感にゆがむ秋姫の顔、絶頂にむせぶような速彦の声、薄闇で体温にいきれ汗に湿りナメクジのように絡みあう二人の肉体、速彦のことも秋姫のこともどうでも良いと思っているはずなのに、炫士は赤く光る溶岩のような感情が隆起するのに突き動かされながら、女たちに暴言を吐き、柔肌に爪をくいこませ、頬を張り、髪をひっぱり、獣のように呻きながら、毎夜毎夜と精を放つ。

 そしてそのまま空が白み始め朝を迎えると、まるで空気や幻を抱いていたような気分で夜の昂りから醒めていく。炫士はベッドで横になりだらだらとする女たちを置き去りにして、人のいない、青みがかった冷気に満たされた夜とも朝ともつかない街へ出て行き、瞑想するかのようにゆっくりと歩いた。街は、あらゆる意味付けを漂白されているかのようだった、炫士の意識もまた漂白され、夜の夢とは違う、夜と朝の境目で自分だけに見ることを許された世界を歩いているのだとばかりに、憑かれたような表情になっていく。周囲から、空から、螺旋を描くようにカラスの声が降りてくる、争いに敗れたのか、一匹のカラスが地ベタに落ちて、血にまみれて命を失い、風が黒い羽根をまき散らしていた。炫士は何者でもなかった、夜と朝の境目で、炫士は孤児たちの中の孤児だった、両手を広げる、そのまま翼で滑空するようにまっすぐ歩いて行く、天と地の境目で、炫士は鳥たちの王だった、ふらふらと、炫士は一台の車も走っていない道路へと踊り出る、炫士は威風堂々と、断続的な白線が無限に連なるかのような道のど真ん中を飛ぶ、右の翼で生を、左の翼で死を統べるのだというように、炫士はそこに君臨していた、まるで神話の王のように。無人の、夜と朝の境目にある街は、国ケ崎の海を思い出させる、時間と空間の純粋な広がりの中で、炫士は、孤児になる夢を見ていた。

 

 

  炫士が秋姫を見つけたのは、とうとうまるまる一ヶ月が経った時だった。以前と同じように、秋姫は身を固くして、カウンターの側でプラスチックのカップに入ったカクテルを飲んでいた。ぎこちなく、伏し目がちに周囲をうかがい、たまに声をかけてくる男たちに心を閉ざす。何度見ても、その場違いな様は際立っている。炫士はすぐには声をかけなかった、原色の光の中に浮かぶ、秋姫という女の得体の知れなさを、遠くから観察してみる。秋姫は、誰かに心を開いたりしない、たとえ自分の話を饒舌にしていても、巧妙に本心を隠してしまう、それは本人すら自覚せずに身についてしまっているもので、まるで言葉と感情が完全に切断されてしまったかのように、秋姫は本心と言えるようなものを表に出さない、というより、本人にすらその本心がどんな姿をしているのかは見えなくなっている。深い霧に覆われ、幽玄の遠火のように、その本心はのぞく。中学時代に一番近くにいた炫士にもその本心を見せることはなかったし、今速彦にそうしているということもまず考えられない、あるいは、人間の本心というのはそもそも虚構でしかないということを、あまりに誇張した形で、秋姫という女は示しているようにも思える。結局、どこにいても、どんなふうにしていても、秋姫は常に場違いな存在だった。

 しばらく見ていると、炫士の視線の向こうに、ホスト風のファッションに身を包んだ男が現れ、秋姫に声をかけた。おとなしい女は強引に攻めれば落とせるということをバカの一つ覚えのように実践している体の男で、露骨に嫌がるそぶりをする秋姫にしつこく話しかけ、秋姫が視線をそらすと、その肩をつかんで無理矢理に自分のほうを向かせたりする。秋姫がどんなに身を固くしようとも、男はそれだけいっそうしつこく、己の男性性を誇示するようにしつこく秋姫に迫っていた。その様子を、炫士は遠くから見ているだけで、別に助けようとはしない、無遠慮に迫ってくる男をどうにか振り払おうとする秋姫の姿を、残酷で無関心な観客の視線で観察する。炫士はその姿に、不思議な魅惑を感じた、可憐な秋姫が、下卑た欲望を丸出しにして触れてくる男に汚されていく様を、もっと見たいような気がしてくる。秋姫には不思議な影があった、それは被害者の影、抵抗する力を持たず、暴力的な何かの侵食を呼び寄せてしまう人間の影だった。だから秋姫が拒んでみせるほど、それは男の嗜虐性をあおってしまう。それを知りながら、炫士は手を差し伸べない、秋姫がこのまま男に強姦されてしまえばいいとすら思う。だが、とうとう耐えかねた秋姫は、カウンターのスタッフに視線で助けを求める、スタッフは面倒を嫌がる雰囲気を隠そうとはしなかったが、やれやれといった態度で男に声をかけ、秋姫から引き離そうとした。しかし男は引き下がらない、スタッフに何か文句をたれ、アルコールの入ったカップをカウンターの上に勢い良く置く、カップは変形し、アルコールが飛び散った。スタッフが二言三言何かを言い返すと、今度は男がスタッフの胸ぐらをつかみだす。

 「マヌケが」

 炫士は独りごちて、つかつかと男の方へ向かう。始めから余裕のない小物だと思っていたが、仲裁に入られたくらいでこんなに取り乱すような人間も珍しかった、男の周囲にいた数人の客が、事態に気づいて注視する。その中のおせっかいな客が一人、男を押さえにかかった、だが、そのことがよけい男を煽り、今にも暴れだしそうな勢いでそれを振りほどく。醜態でしかなかった、収まりどころのない男根を振り回しているかのような幼稚で情けない男に、秋姫から何かを奪うことなどできようはずもなかった。一歩、二歩、炫士は勢いを早めながら近づき、男の間合いに入る、男は炫士に気づかなかった、炫士は取り乱した家畜を罰する主人のように、容赦なくその拳を男の頬に叩きつける、声すら上げずに、男が床へと崩れ落ちる、炫士は間髪入れずに、かかとを尖らせた蹴りを男の口の中へ叩き込む、分厚い皮を貼った打楽器のようなくぐもった音がして、血が飛び散り、前歯が一本転がった。闖入者のもたらした一瞬の出来事にスタッフも客も唖然として動かなかった、それを意にも介さず、炫士は覆いかぶさるような勢いで秋姫の前に立ち、秋姫が何かを言うのも待たずに手を引くと、そのままフロアを立ち去っていく。男は気を失って原色の光の海の底のような闇へ沈んでしまった、周囲の客以外、その出来事に気づいた者はいない、誰も男を助け起こそうとはしなかった、他の大多数の客たちは何事も無かったように――彼らにとっては実際に何事もなかったのだが――音楽に合わせて体を揺さぶり、降りてこない神を待つ信者のように、原色の光を崇める。炫士は秋姫の手を引いて、落ち着いた態度で歩く、だが、たったいま行使した暴力のおかげで神経は昂りきっていた、目を覚ました禍々しさは、絶えない感情の炸裂を待望する。暴発する力が、噴出する孔を求めて皮膚の下を這いずり回る。炫士の感覚は安定を失調する、原色の光は渦を巻いて音を飲み込んでいった、渦は巨大化し、音は光に閉ざされ、この場にはありえない静寂が訪れたようにさえなる。こんなものは、何かを傷つけなければ治まりようがないのだ、炫士は取り返しの付かない形で、秋姫を傷つけようとしていた。

 

 

  「いつから見てたの?」

 落ち着きを取り戻した秋姫が、炫士を見上げて尋ねる。夜も更けて、道には人もまばら、街の喧騒は遠ざかる波のように薄れ、振りまかれた香水の残り香のような静寂が漂う、安い音楽と原色の光との対比が強いせいで、その闇と静寂が豊潤なものにすら感じられる。

 「あいつが、声をかけたあたりから」

 外気に冷やされ、昂った炫士の体温は下がっていった、だが、感情の昂りそのものは、凝縮され、外気から遮断された体内で尖り、まだ煌々と燃えている。

 「もっと早く、助けてくれたらよかったのに」

 「どうするのか、見てようと思った」

 「私が?」

 「君と、あいつが」

 「そんな面白いことに見えた?」

 「そうじゃない。予想通りだったとしても、それを見たかったのさ。何かが起こる瞬間を、見たかった」

 「予想通りだったでしょ」

 「でも、それは起こった」

 「それの何が、面白いのか分からない」

 「それは起こった、男は悔しがり、君は恐怖し、俺は怒りをあらわにした」

 「彼は傷ついて、私は辱められ、あなたは傷つけた」

 「そして、俺たちはここでこうしている」

 「そこで起こったことの結果として?」

 「そこで起こったことを原因として」

 「あなたの意志じゃなくて」

 「君の意志でもない」

 「運命?」

 「そんなたいそうなものじゃない」

 「じゃあ何なの」

 「なりゆき」

 「気に入らない答えね」

 「欲望」

 「もっと嫌な響き」

 「期待」

 「そのほうが良い」

 「予感」

 「そうなのかもしれない」

 「君にとってはそうだろう」

 「どういうこと?」

 「君は一ヶ月もの間、そこに現れなかった。つまり積極的な何かでそうしたのではなくて、あくまで受動的な何かによりそうなってしまった」

 「どちらでもあるっていうほうが、正解ね。私はむしろ、そこにもう一度迷い込んだの。どこかへ行こうとして、でも目指す場所はなくて、さまよった結果、気がついたらそこにいた」

 「そこにたどり着く、そういう感じはしてたってことじゃないのか」

 「そうかもしれない、だから私は、あえて行動しようという考えを持とうとしなかった」

 「俺はそうなるって思ってた」

 「私を待ってたのね」

 「そう、君を待ってた」

 「どうして?」

 「会いたかったから」

 そう言って、炫士は秋姫の髪をなでる。自分が言っていることが本当だとは思わなかったが、嘘をついているという感覚もなかった、だからその言葉は、まるでしらじらしさのないように響いた。

 会話は途絶え、沈黙したまま、二人はタクシーへ乗り込んだ。炫士が行き先を告げ、タクシーは動き出す。それは、二人が後戻りできないものに主導権を明け渡した瞬間だった、分岐する道はなく、結末へ向けて、一直線に進んでいく。秋姫は窓の外を見ていた、だが、その視線はおそらく、外の風景をとらえてはいなかっただろう、秋姫が見つめているのは、そこで何かが、不可逆の方向へ流れているということだけだった。炫士は運転手の肩越しに、正面を向いている。対向車のライトに、自分の意識が飲み込まれていくのを、まるで心地良いことのように目を細めていた。後部座席に座った二人の間には、実質的に距離はなかった、そのことを確認するように、炫士は秋姫の手に触れ、そっと握る。秋姫は抵抗はおろか、身動きすらしない、じっとしたまま、手のひらから伝わる炫士の体温を受け入れていた。夢の中へ落ちて行くような気分で、いったい自分の横にいるのは誰なのだろう、と炫士は考える。秋姫と呼ばれる誰か、横に速彦がいれば、自分の中学時代に戻れば、那美のような他人の視線の中にいれば、それは秋姫と呼ばれる、だが、今ここにいる誰かを、秋姫と呼ぶ必然性はない、これは、秋姫と呼ばれていた誰か、閉ざされた場所から、原色の光の中へ浮かび上がり、静寂を散りばめる夜景を浮遊する、誰でもない誰かなのだ。

 

 

 部屋の中へ入る、炫士は秋姫の髪をゆっくりと撫で、冷たくなった頬に触れる、炫士の体温に導かれるように、その頬の奥から柔らかさと暖かさがほんのり溢れ始める。

 「――」

 名前を呼ぼうかと思った、だが、その瞬間には炫士の頭の中から秋姫という名前が消え去ってしまっていた。もはや、誰でもない、お互いに、誰でもない。何かが完全に抜け落ちてしまった、お互いをしっかりつかんでいないと、どこかへ消えてしまうだろう。炫士は

秋姫の頬に触れていた手を、撫でるように耳から頭の後ろへ回して抱くようにすると、ゆっくりと秋姫にキスをする。今度は奪うようなやり方ではなかった、すでに、お互いがお互いのものになっていた。あとは、お互いをしっかりつかんでいるだけでいい、力も駆け引きも誘惑も必要ない、そこには、ただ奪われ魅了された体があるだけだった。

 下着を取り、秋姫の上半身を裸にすると、炫士は乱暴な手つきで小さな乳房をつかみ上げる、秋姫はか細い悲鳴のような息を漏らした。少年だった自分が見ることのできなかった裸体が、目の前に差し出されている、その興奮に突き動かされ、炫士はむしゃぶりつくようにして秋姫をまさぐり、そのままベッドまで連れて行った。裸で向かい合いながら、炫士も秋姫も、まるで互いを見ていないかのようだった、そこには、他人の影が忍び込んでいる、二人の間で、速彦と呼ばれていた誰かの、影のようなものがベッドの中に忍び込んでいる、それが情欲を湿らせて、くすぶるように明滅し、胸のあたりから伝うように沈み込む。いったい誰の手で、いったい誰の体に触れているのだろうかと思いながら、暗い森をかき分けるように、炫士は秋姫と体をこすり合わせていく。速彦の一番大事なものを本人のプライドごと取り上げて、粉々になるまで踏みにじることの快感が突きあげる、もはや炫士の意識の中に速彦の実体はなかったが、その勝利の昂揚感だけは肉体の奥底に宿り、激しい興奮で炫士は火花に打たれたように震え、視界は真っ赤に染まった。秋姫の柔らかい肌に爪を食い込ませ、尻をわしづかみにして引き寄せ、脈打つ性器で何度も突き上げる、秋姫は悲鳴をあげていた、炫士は獣のように低くうなり、入り込めるだけ奥深くへ入り込み、放てるだけの精液を放とうと、むき出しの性器を膣壁にこすりつける。肉体は、お互いを消滅させようとするかのように侵食し合う、やがて激しい快感が背筋を走り、奥歯を震わせ、頭を突き抜ける、炸裂する絶頂が虚空のようになった体を満たし、外へあふれ出て、消えない余韻として、錯乱した知覚を反響する。後は、ベッドの上で、誰でもない肉体が、溶けて崩れているだけ。

 

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その7へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その5

 士は病室を出て、談話室のソファに腰かける。岐史の命に別状はなかった、だが、結局そのまま入院ということになり、家族で岐史の病室に集まりこれからのことなどを話していたのだった。炫士にも死にゆく人間に対するいくらかの同情心はあって、だから速彦と那美と同じ部屋にいても、つまらないぶつかり合いをして岐史の心労を増やすようなことを避けるために、あえて刺のある言い方をするようなことを控えていたのだが、やはりその二人といると先のいさかいのこともあり、ねばつくような嫌な緊張感と否定しがたい嫌悪感に胸がむかつき、とうとう耐えられなくなって、トイレに行くと嘘をついて病室の外へ出てきてしまったのだった。

 「そんなに一人がいいか」

 しばらく談話室で座っていると、後ろから声がする、振り返ると、いつものように不愉快そうにこちらを見る速彦の姿があった。

 「そうだな。やっぱりお前らと一緒にいると疲れる」

 「こんなときでも憎まれ口か」

 「こんなときだけ仲良くして、それが何になる。少なくとも親父の前では我慢してただろうが。それで充分だ」

 互いに口を開けば、という具合に、言葉の数だけ雰囲気は険悪になる。二人の敵対心は大人になるほど深まってきていた、小さい頃は普通の兄弟に近く一緒に遊ぶこともあるくらいだったが、那美が返ってきてから次第に距離ができはじめ、炫士が中学生になるころには、二人の間の亀裂はもはや決定的なものになっていた。

 「親父と、何話したんだ」

 これ以上やってもいらぬいさかいの繰り返しだというように一度ため息を挟んでから、速彦は質問する。

 「気になるんか」

 炫士にとってはどうでもいい質問だった。だが、速彦は表面上の何気ない様子よりはずっと、その答えを知りたそうに見える。自分の方が岐史と近いと思っているだけに、倒れる寸前の体を押してまで炫士に話したかったことが何なのかが気になるのだ、炫士はそれと知っていたからこそ、わざと必要以上に煽るような言い方をする。

 「何だ偉そうに。もったいぶるな」

 「別にもったいぶってないだろ。そんなに気になるのかどうか聞いてるだけだ」

 「言いたくないなら言わんでもいい。つまらんことで優位に立った気になるな」

 「いちいちイライラするなよ」

 速彦は炫士の言葉をふんと鼻で笑うようにして、自分が兄であるということの優位を示そうとする。

 「まあいい。お前のつまらんもったいぶりには付き合ってられん」

 「最初から俺のことなんかほっときゃいいんだよ」

 炫士の態度にいらつきを隠そうともせず、速彦は音を立てて舌打ちを返す。

 「それはそうとな、お前、母さんにしっかり謝っとけ」

 耐えられなくなったのか、速彦は唐突にそのことを蒸し返して、口調は徐々に荒くなる。

 「何を謝ることがある」

 「言わないと分からんのか」

 「俺はあの時本当のことを言っただけだろ」

 「本当のことだったら何言っても良いんか。もう昔のことだ。もう終わったことだ」

 「お前にとってはそこで終わったことかもしれん、でも、俺にとってはそこから始まったことだ」

 「何を言ってる?」

 「お前や親父にしたら無くなったものを取り返してハッピーエンドってことになるんだろうが、俺にしたら得体の知れない女がいきなり家にあがり込んできただけだ」

 「得体の知れない女だと? 何て言い方をするんだ」

 「事実俺にとってはそうだからな」

 「お前の産みの母親だぞ」

 「だから何だ。どちらにしろ得体が知れない」

 むしろ、だからこそ得体が知れない、と炫士は思う。突きつけられている事実――自分があの女から産まれたという不気味さを、いったいどうやって処理できるというのだろう。

 あきれたような顔をして、速彦は談話室の自販機に手をつきながら、じっと考えるようなそぶりをしている。炫士は不機嫌な態度でソファにふんぞり返っていた。談話室には二人だけで、沈黙の度に自販機の耳ざわりなモーター音が低く重く響く。

 「……しかしお前は何でもかんでも拒んでばかりだな、そういうところが子どもじみてるんだよ。少しは境遇を受け入れてから物を考えろ」

 「俺にとってそれは、受け入れるとか受け入れないとか、そういう問題じゃないんだよ。お前がそれを受け入れるべきものだと考えていることがすでにおかしいんだ」

 二人はにらみ合う、重なりあって増幅しうねる波のように、感情が昂ぶっていく。まごうことなく、二人は兄弟だった、その血縁の肉迫が、ほんのわずかなずれさえも、敵意として炸裂する危うさへと転化させていく。

 「いったい何なんだお前は、家族をめちゃくちゃにしたいのか? 母さんも俺も、そして誰より父さんが十年以上かけて、バラバラになったものを修復しようと努力してきたのに、お前は自分のくだらないふてくされた感情なんかのために、それを台無しにするのか」

 あるいはそうだった、別に三人の努力を踏みにじろうという意図が炫士にあるわけではない、だが、その努力が必然的に自分を巻き込んで、自分の望まない、悪寒のするような、家族というシロップ漬けの沼のようなものへ、そのまま引きずっていこうとしているようで、炫士はその一部になることをかたくなに拒みたかった。そのまま飲み込まれれば、抜け出せなくなり、どろどろと溶けていき、ついには自分と言い得るものが、何もかも消えてしまうように思えるのだ。炫士は速彦をにらむ、何と答えて良いのか分からなかった、勝手にやってくれとも言えない、自分がどんなにそれと関係ないという態度を取ろうとも、あるいは同様に速彦や岐史が炫士を抜きにして三人の家族の絆を作り上げたとしても、何も変わらないのだ、自分はすでにそこに産まれ落ちてしまった、そのことだけで、その繋がりは消しようがないのだ。

 「どうなんだ」

 もう一度、速彦が聞く。炫士は答えない、答えを用意できない、自分の考えを的確に表す言葉を、どうしても見つけることができない。

 「……そうだな」

 「そうだなっていうのは、どういうことだ」

 「そんなもの、めちゃくちゃになればいい」

 思考よりも、感情が先走りして、取り返しの付かない所まで炫士を突き飛ばす。答えだけがはっきりしていた、ただ、理由がまったく自覚できない。炫士は常に炸裂するような正体のない怒りを持っていた、その感情の力は理性などものともしない、そもそも理性にできるのは感情をなだめることであって、コントロールすることではないとばかりに、後先考えないような言い方をする。

 聞き取れないような言葉で先に怒りを発したのは速彦だった、感情の昂りを炫士に向けながら、拳で自販機を叩く。

 「クズだなお前は、何でお前なんかが俺の弟なんだ、何でお前なんかが父さんと母さんの子どもなんだ」

 その言葉に、炫士はほとんど発作的に立ち上がる、そして、速彦の怒りに触発されたように、自らの怒りもたぎらせ、強い憎悪の視線を向けた。速彦の言葉に、自分でも意外なほど頭に血が上っていた、むしろ普段から自分で考えているようなことなのに、いざ他人から言われると、この上なく心外な言葉に聞こえる。

 「お前はお前でベタベタしすぎなんだよ。母さん母さんうるせえな、このマザコン野郎が」

 「俺のどこがマザコンだ」

 「マザコンそのものじゃねえか。お前の頭の中心に母親が居座ってるのが見え見えなんだよ」

 「この野郎!」

 速彦が炫士に跳びかかった、不意を突かれ、炫士はバランスを崩して思い切り壁に背中から叩きつけられる。速彦は炫士の胸ぐらをつかみ、息を荒らげ、歯をむいていた。家族に背を向け、決して兄である自分の思い通りになろうとしない炫士を、やっきになって抑え込もうとしている。幼い頃は、年長の速彦の方が頭も体も優れ、無知薄弱な弟を支配することができていたが、今は炫士の方が体も大きく、何を考えているのかも分からない。そのことが、速彦を必要以上に必死にさせる。

 「放せ」

 炫士は胸ぐらをつかむ速彦の手をつかみ返し、そのままねじり上げようとする、二人の力は拮抗するが、しかし大人になった今、腕っぷしが強いのは炫士の方だった、速彦の指がゆっくりと解け、そのまま持ち上げられていく。一見冷静だが、暴力衝動は炫士の奥底で軋むような音を立てている、炫士の頭の中では、殴り飛ばした速彦の返り血で視界が真っ赤に染まるイメージが猛烈なスピードで点滅を繰り返していた。

 「俺は、お前を許さんぞ。自分を育ててくれた家族にここまで仇をなすお前は、絶対にろくなもんにはならん。地獄というものがあるなら、さぞかしお前にふさわしい行き場だろうよ」

 腕をつかみ上げられ、息を喘がせながら、速彦が呪詛を吐く。炫士は速彦をにらみ返す、その瞬間、まずはこいつだ、という考えが脳裏をよぎった。自分が家族から切り離されるためには、まずはこの歩兵のような、番犬のように吠えている、こいつからだ、そういう直感が、電光のように炫士を撃った。

 「俺は地獄も天国にも行かん、そんなものは俺には無関係だ、けどな、俺はお前を蹴落としてやる、餓鬼のようにまとわりつくお前を、奈落へでもどこでも、蹴落としてやるぞ」

 こいつをめちゃくちゃにしてやる、理不尽なほどの悪意が炫士の中でみるみるうちに膨れ上がった、那美の顔が浮かんだ、そこにたどり着くには、まずこいつからなのだ、こいつが目の前で吠えている限り、自分はそこにはたどり着けない――悪意は、暴力をともなって、皮膚の下を這い回る。

 「何を――」

 速彦の言葉を遮るように、炫士が勢い良く速彦の腕をねじり上げ、体勢を崩したところを突き飛ばした、そして速彦はそのまま自販機へと叩きつけられる。側頭部を打って、速彦はこめかみの少し上を押さえて動きを止める。

 「どうしたって、俺とお前は合わない。お前の求めてるものは、俺の求めてるものを邪魔する」

 「意味が分からん――」

 速彦は独り言のように呟いて、炫士の方へ向き直る。

 「お前の言うことは意味が分からん!」

 怒鳴るように言い直し、速彦は衝動に任せて炫士の顔面に向かって拳を振り回す。それに反応して炫士は身をのけ反らせたものの、突然の攻撃を上手くかわしきれず、速彦の拳が唇をかすめるようにぶつかった。犬歯で唇の端が切れて、炫士の舌先を生臭い血の味が濡らしていく、同じ那美の膣から溢れ出た血の中から産まれた二人に、同じように流れる血の味だった。炫士もまた拳を握る、爪が手のひらを傷つけるほどに固く、炫士は自らに与える痛みを求めた、目の前の、似ても似つかぬ鏡像のような兄を、徹底的に破壊するために、今手のひらを傷つける痛みなど遠く及ばぬ自らの存在感を消すほどに強い痛みを、炫士は欲しいと感じていた。速彦は肩で息をしながら、たった今振り下ろした拳を再び上げようともせず、じっと炫士をにらんでいる。痛みが鼓動していた、炫士はもっともっと深く爪を手のひらへ突き刺す、炫士は待っていた、その痛みが充分な程度に達するのを――その瞬間には、速彦は病院の床に叩きつけられ、眼球を裂傷し、頭蓋を砕かれ、噴出す血にあえいで床を舐めるように舌を突き出していることだろう。

 「ちょっと、君たち!」

 張り詰めた緊張が極限に達して二人を硬直させていたところに、突然横から声が飛んできた。同時に反応して速彦と炫士がそちらを見ると、フロアの入院患者らしき男が立っている。

 「こんなところで止めないか。いったいどうしたんだ」

 入院患者にしては心身ともに健康そうな男は、スリッパの音をぺたぺたとさせながら近寄ってきて仲裁に入ろうとする。おせっかいで人の良さそうな男の登場にすっかり拍子が抜けて、炫士と速彦は互いに緊張を解く。速彦がちょっとしたケンカで騒がせて悪かったと男に軽く頭を下げる、男は笑いながら炫士と速彦の肩を同時にぽんと叩き、腹が立ったときはいったん深呼吸をするんだ、とどうでも良いアドバイスをしながら自販機で缶コーヒーを買い、満足そうな様子で自分の部屋へと戻って行った。

 男が去った後、炫士と速彦は全く目を合わせようとしなかった。速彦は無言で、炫士に声もかけずに岐史の病室へと戻って行く。炫士は唇からにじむ血を舌先で何度も何度も繰り返し味わいながら、秋姫のことを思い出す。速彦を徹底的に破壊してやろうと思った、二度と這い上がれないほど深い奈落へ、その存在が二度と問題にならなくなるくらいに深い奈落へ、蹴り落としてやろうと思った。

 

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その6へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その4

 めた夢に追われているような気分で炫士は帰り道を歩いた、夜は明け、朝はすでに過ぎて、日は一日の高みへ昇ろうとしていた。住んでいるマンションの入り口まで来たとき、壁に寄りかかっていた人影がこちらを目に止めるなり、すっと体を立てて、炫士の方へ手を振る。

 「元気か」

 そこにいたのは岐史だった、炫士はあいまいにうなずいて、何気もなく目をそらす。速彦や那美にくらべれば、岐史のほうがずっと良かったが、いずれにせよ会いたくない人物であることには変りない。

 「何だよ?」

 世話ばなしでもされると面倒で、炫士はにべもなく要件を聞こうとする。速彦とは反目し合い、那美とは他人のような距離があり、岐史が家族の中で一番ましとは言え、炫士はこの父親のことを好いてるわけでもない。尊敬も軽蔑もなく、親近感も嫌悪感もなく、長い時間一緒にいたが仲良くもない知り合いとか同僚とか、そういう感覚に近い。

 「ちょっと、国ケ崎に海でも見に行かないか?」

 「何しに行くんだ」

 奇妙な誘いだった、国ケ崎には岐史の実家があり、盆や正月などの里帰りでたまに連れて行かれた場所だが、数年前に岐史の両親とも死んでしまって、その葬式以来一度も訪れていない。

 「まあ、なんだか急にもう一度だけ行きたいと思ってな。これから病院に入ることになるし、これで最後になるかもしれん」

 そう言って、岐史は寂しそうに笑った。

 「別に、行きたかったら一人で行ったらいいだろ」

 「そう言うな。これからは一緒に出かけることすらかなわん」

 渋りながら、炫士は岐史と車に乗り込んだ。病気の岐史を助手席に座らせ、炫士がハンドルを握る。免許取り立てで不安だがどうせ先の短い命だから、と岐史が冗談を言う、炫士は笑わなかった。

 そのまま一時間、国ケ崎へ向けて炫士は車を走らせた、車内は静かで、ほとんどラジオだけが害のないおしゃべりを続けている。時々、岐史が炫士にあたりさわりのない感じで近況を尋ね、炫士はほとんどあしらうように、別に、とか、上手くやってる、というような答え方をした。昔通った道を走りながら、炫士は国ケ崎の海を思い出す。炫士は懐かしいというような感情を抱く人間ではなかった、言わば故郷というものを心に持っていない、実家のある場所は、自分を受け入れてくれる帰るべき場所というようなものではなく、ただ単に昔住んでいただけの場所にすぎない、自分は断ち切られ、浮遊したまま移動し続けるのだという感覚が、炫士の中にはある。ただ、国ケ崎の海は、唯一回想を誘う風景だった、たまに父親に連れられて行く、その海という場所は、幼い炫士の心をとらえる魅力を抱いていた。

 海の手前に停めた車を降りて潮のにおいを嗅ぎ、炫士は思わず目を細める。ぼんやりとした記憶へ現実の光景が流れこみ、やがて目の前に海が広がる。茫漠として、風はいるべき場所を持たずに漂い、青い色の重なりは無限へと続いて果てない。光を含んで揺れる柔らかい水面は人を優しく迎え入れるようでありながら、沈んでいく闇の暗さは人を冷たく突き放すようでもある。海は中立だった、帰るでも捨て去るでもなく、炫士はただ、そこで漂っていさえすれば良かった。

 砂浜へ降りる、小さな場所なのでめったに人は来ない、炫士と岐史の二人だけがぽつんとして、遠く開けた海に向かい立っている。炫士はじっと海を、空間と時間の純粋な広がりのような青色を、見つめて動かない。はるか昔から、神話の時代から、それよりもっと深い過去から、海は変わらずそうなのだろう、いや、それほど深い過去も現在も、海にとっては同じ瞬間の中にあるのだろう、そういう感覚が、炫士をとらえている。潮風の音が、耳元で爆ぜている。

 「炫士」

 岐史が名を呼ぶ、炫士は応えない。

 「炫士、母さんのことだけどな」

 炫士は黙っている、やっぱりそのことか、と思い、来るべきじゃなかったとばかりに舌打ちをした。

 「何ていうかな、母さんもいろいろあったんだ。子どもからすれば、産まれたとたんに母親が自分を置いてどこかに行くなんて許せないことかもしれない、でも、母さんは母親である前に、どうしても一人の人間でもある。自分自身の考えも悩みもあるだろう、やむにやまれず、子どもより自分を優先することもあるだろう」

 岐史の言葉を聞きながら、炫士は徐々にいら立ちを募らせていく。

 「別に、俺を置いていったことが許せないとか、そんなことじゃねえよ」

 「じゃあ、何で母さんにあんなことを言ったんだ」

 「知らねえよ」

 炫士はほとんどなじるように言い捨てる。うまく言葉が続かない、捨てられた子が母を恨むとか、そういう型にはまった憎悪ではないのだという確信だけはありつつも、じゃあそれがいったい何なのかということが、炫士にはよく分からない。強いて言うなら、那美が母親として君臨しているということが、自分に母親という存在がいることが、扱いきれない違和感として胃をむかつかせる。例えば速彦にとってそれは生まれ持っての当然だったのかもしれないが、自分にとってはそうではない。

 「そんなら聞くけどよ」

 炫士が岐史のほうを見る、岐史は覚悟めいた顔で、それに頷きを返す。

 「親父は知ってんのか? あの女が出て行って、そんでまたのこのこ戻って来やがった理由を」

 「それは……」

 岐史は言葉を濁す、それを見て、炫士はお見通しだとでもいうように鼻で笑う。

 「五年間、何してたか分かんねえぞ、そんなこと確かめもせずに、よく夫婦やってられるよな」

 いら立ちはますます膨らんで、炫士はわざと岐史の人の良さを踏みにじるような言い方をした。

 「それを知った所で、どうだというんだ。母さんは戻って来た、それはよっぽどの覚悟がいることだっただろう、だから父さんは黙って迎え入れることにした。何よりも、戻って来てくれたことが嬉しいじゃないか、父さんにも、速彦にも、そしてきっと炫士にも、必要な人が戻って来てくれたんだ。だったら、それ以外のことなんて、どうでもいいじゃないか」

 これ以上話しても無駄だというような顔で、炫士はため息をついた。結局のところ、母親という得体のしれない怪物に違和感を持っているのは自分だけだった、岐史も速彦も、何かそれが無条件の聖性や善性を備えているかのように扱う、だから、そもそも炫士とは根源的な認識が違う。那美が母親である前に一人の人間だということを本当の意味で理解しているのは、岐史でも速彦でもなく、自分だけだと思った。岐史と速彦は、那美をその聖なるベールで覆う、そして那美は、確信犯的にそのベールに身を隠し、その奥から勝ち誇った微笑を投げかけるのだ、と炫士は思った。

 「うんざりなんだよ、正直もう近づきたくない」

 「いったい何が不満なんだ。悪態をつくだけじゃなくて、自分の考えをもっとはっきり言ってみたら良い」

 それができれば世話はなかった、自分の状態を語るには、一般に家族について語られているどんな言葉も当てはまらない気がした。自分にとって母親は異次元からきた存在で、その母親を核としている家族に対して、自分は異物なのだという気がした。だから普通の家族を語るためのあらゆる言葉は、炫士の違和を語ることができない。

 「不満とかじゃない、ただ単に、居心地が悪いのさ」

 特に何も求めてはいないはずだった、だから不満ということすらありえない。

 「ただ、お前がどう考えていようと、お前は父さんと母さんの子どもで、速彦の弟だ」

 噛み締めるように、岐史が言う、だがその意図とは裏腹に、それがますます炫士の神経を逆なでする。炫士にとっては、岐史と速彦と那美と自分が、何か消し去ることのできない結びつきに取り込まれていることが、不気味でしかない。

 炫士は岐史と目が合う、俺はたぶんお前の子どもじゃないぞ、という言葉が寸前まで出かかる、なぜその可能性を二十年も突きつけられていながら、この男は那美と自分のそばにいられるのだろうか、炫士にしてみれば滑稽で情けないだけの岐史に対し、怒りと憐れみが腹の底でせめぎ合う。

 「もう帰ろう」

 その場にいることにそれ以上耐えられず、炫士は岐史を誘導するような仕草で車の停めてある方向に顔を向けた。

 「まだ良いだろう」

 そう言って、岐史は炫士の肩に手を置いて引き止める。

 「これ以上何の話もないだろう」

 「待つんだ」

 岐史がいつになく思いつめたような表情になり始め、炫士の肩に置いた手に力を込める。岐史は何か、近づく死を前にして、可能な限りのことを言い残そうとしているかのように見えた。その感情の圧力を炫士は不快に感じ、思わず強引に岐史の手を振り払ってしまう。炫士はそのままさっと背を向けて、その場を去ろうと歩き始めた。岐史がどんな顔をしているのかは見ようとしなかった、それを見ることを、炫士は嫌がった、だから振り向く素振りもなく、できるだけ早く車まで戻ろうと浜辺の砂を蹴るように進む。海は静かだった、波は沈黙したまま、優しい手つきで砂浜を撫でている、漂う風以外に、音を立てるものはない、寄る辺ない風の、孤独と自由が、耳元で爆ぜている。

 炫士は立ち止まらずにしばらく歩く、背後に気配はなかった、まるでその場から、岐史がいなくなってしまったかのように。一瞬、炫士は本当にそんなふうに感じて、思わず振り返り、驚く。岐史がいなかった、こつ然と、砂浜から姿を消している。影がにじんだ金色の砂浜が視界の手前で途切れ、あとは延々として広がる空と海が彼方で霞んでいる。何かに太陽の光が反射しているのか、綿のような粒が輝いて、炫士の目の前をゆっくり上りながら遠くへ流れていく。夢を見ているのかと思えて、炫士はぼうっとする、だが、同時に奇妙な重力が這い上がってきて、炫士はじわじわと視線を落としていく。

 ああ、と炫士は思わず声を上げた。岐史は消えたのではなかった、そうではなく、病のために突然倒れたのだった、炫士が視線を止めた先で、すでに意識を失い、砂浜に崩れ落ちて突っ伏していた。その存在が、ゆっくりと砂浜に飲まれていこうとするかのように、体は暗い重さに満ちて、身動きひとつしない。

 炫士は砂浜を走って戻った。自分が岐史を救いたがっているのかどうかは分からなかった、だが、失われていく人間の生命を前にする焦りの中に、来るべき一つの終わりに、静かな安堵を見出していたことだけは間違いなかった。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その5へつづくーー