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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

物語のはじまるところ その6

 んの昼過ぎからパーティーが始まったせいで(ギャラリーの近隣との兼ね合いによるらしい)、夕方になる頃には、アリスがベロベロに酔っ払ってしまっていた。彼氏と別れたのが昨日の今日なので、晴らそうとしている憂さがだいぶ深いのか泣いたり笑ったり情緒不安定で手を焼かされた。ヘイリーになだめすかされ、帰る方向が一緒のジェイムズに引き取られて、ようやくアリスは会場を後にする。

 結果的に、僕はヘイリーと一緒に帰ることになった。外はまだ明るく、ぶらぶらするのにもちょうど良い気候だった。二人並んで街中を歩いていると、やたらと通行人の視線がこちらに向けられるのを感じた、ヘイリー自身がそもそも目立つのだが、日本人の男性が外国人の女性と連れ立って二人で歩いているということが、よけい人々の注目を集めてしまっているらしい。まあ、そりゃそうだろうな、と僕は思いながらも、他人からジロジロ見られるのは決して良い気分ではなかった、ただ、ヘイリーやジェイムズにとって、こんなふうに道行く人々から無遠慮な視線を浴びるというのは日常的な体験なのだということを、僕は想像させられる。

 僕とヘイリーは、ぽつぽつと言葉を交わしながら、ゆっくりと歩いていく。お互いの普段の生活のことから始まって、互いの国の社会や文化について面白かったり変だったり思うこととか、そんなことを喋っていた、ヘイリーは頭の良い人だったので話をするのは楽しかったし、けっこう深い内容についても意見を交換したりできたのだが、いかんせん会ったばかりの二人だったので、一瞬会話が途切れたりすると、妙にぎこちない雰囲気が漂い、僕もヘイリーもそれをごまかすように会話の糸口を探すことになった。ただ、その合間の沈黙には、お互いがその距離を測っているような感じがあり、決して居心地の悪いものではない。

 「ちょっと、あの公園寄っていかない?」

 このまま歩いて行くと、すぐに駅に着いてしまって別れなければいけなくなるので、思い切って僕はヘイリーを誘ってみる。今までから、ヘイリーが僕なんかに興味を持つなんてことはないんじゃないかと勝手に考えてしまっていたので、こんなことをするのにはだいぶ勇気が要った、たぶんアリスがあんなことを言ってくれていなければ、このまま僕はヘイリーを見送ったことだろう。

 「桜がきれいなんだ」

 唐突に提案した僕をふっと見上げたヘイリーの視線に何だか焦ってしまい、僕は慌てて付け加える、そういえば桜の咲く季節だったなんてことを思い出しながら。僕の緊張した様子が伝わったのか、ヘイリーはそれを解きほぐすようにくすりと笑いながら、「うん」とうなずきを返す。

 僕とヘイリーはそのまま連れ立って公園へと足を踏み入れる。いくらかの花見客が桜並木の下を陣取っていて、期待したよりは賑やかな光景だった、もうちょっと静かな方が二人で歩くにはよかったなと思いつつ、あんまり静かすぎるくらいなら、まあこんな感じも悪くないかと考え直す。

 「楽しそうだね」

 ヘイリーが花見客たちを見ながら言う。

 「風情は台無しだけど」

 「桜のきれいさのほうが、大事?」

 「別にそういうことでもない」

 「日本人が宴会するときは、なんだかみんなの顔が見えるような気がして、面白い」

 「顔?」

 「たぶん自分に素直になるのね、普段はみんなどうしても集団に合わせて控えめにするから同じようなことを喋ってしまって、誰と話してもその集団の標本みたいだけど、ああいうときはちょっとだけそれぞれ自分勝手なことを言うから」

 「まあ、そういうもんかな」

 本当のことを言えば、僕は特に桜にも花見客にも興味があるわけではなくて、ヘイリーと少しでも長く時間を過ごせる口実があればそれで良かっただけだった。

 "Oh, that's pretty."

 ひときわ見事な木が公園の中心のあたりに植わっていて、満開の花を見てヘイリーがつぶやく。つられて、僕もその木を見上げる、ただ、僕はむしろ、もっと遠くにある空を見ていた。綿毛のような小さい白雲が浮かぶ空は、とても高く、澄んで青い。僕はストールのことを思い出す、こんな美しい日よりの中にいるヘイリーがそのストールを身につけていたら、どんなに鮮やかだっただろうと感じながら。なぜだか、目の前のヘイリーが、本当の姿をしていないような気がした、僕がカバンの中に隠したストールを身につけていなければ、彼女の本当の姿を見ることができないような気がした。

 "kawaii."

 たぶんわざとだろうけども、英語訛りで「可愛い」と言いながら、ヘイリーはスマホで桜の写真を撮っていた、健康的なピンク色の唇の間から真っ白い歯をのぞかせて微笑み、けっこう楽しそうにしているヘイリーを見て、僕はとても幸せな気分になる。ヘイリーは、自分のために笑う人だった、誰かに自分を良く見せたりするために、その笑顔を浪費したりはしない、自分が楽しいときだけいつも、その自然な笑顔が口元からこぼれて、僕をはっとさせる。その笑顔のたびに、僕はヘイリーに惹き込まれていく。

 ふと、その公園の広場の隅から、こちらを見つめている視線に僕は気づいた。ずっとそこにいたのだろうか、歳は七十くらいの老人が、ぽつんとベンチに腰掛けている。老人は一人だけのようだった、缶ビールをすすっているが、他のどの花見客のグループにも属していない雰囲気で、仲間たちと浮かれ騒ぐ他の人々とは全く違って楽しそうではない、顔はこわばり、どこか寂しそうで、暗い底へ光が沈んだ薄闇のような目をしている。灰色のジャケットを羽織り、禿げた頭を隠すように紺色のキャップをかぶっているが、襟足から、ほつれた糸のような白い髪の毛がはみ出していた。ほぼ同時に、ヘイリーも老人に気づいてそちらを見る、老人は僕というよりヘイリーを見ていたせいで、二人の目が合ったようだった。するとおもむろに老人は立ち上がり、ふらふらとおぼつかない足取りでこちらへ向かってきた。僕は嫌な予感がして、気持ち二人の間に入るようなかたちで、ヘイリーの前に立つ。

 「おい」

 老人は僕にともヘイリーにともつかないような感じで声をかけてくる。舌のもつれたもごもごとした声で、その目は僕らに焦点を合わせるのをあえて避けるように泳いでいた。老人は僕を挟んでヘイリーの前に立つ。

 「こんなところで、ガイジンが何をやっとる」

 半ば独り言のような感じだったが、しかし同時に、それは間違いなくヘイリーに向けられた言葉だった。

 「桜が、きれいだったので、見てたんです」

 ヘイリーが答える、できるだけ落ち着いた態度でいようとしているのが僕には分かった。

 「何でオマエにそんなんが分かるんや」

 不自然なタイミングで、老人の言葉は怒りをにじませた強い口調になる。

 「何でって……」

 ヘイリーは驚くと同時にあきれたような感じで、言葉に詰まる。

 「桜の美っちゅうんは、ガイジンなんかに分かるもんじゃない」

 「……そうなんですか」

 ただただ困った様子のヘイリーは、老人に何と返していいのか分からないようだった。

 「そうなんですかやないわ。これは日本人のもんや。オマエがこんなところで何をやっとる。ガイジンは国に帰れ! これは俺たちのもんや、帰れ帰れ!」

 いきなり本当に怒り出した老人に、僕は唖然としてしまった。腹の底でこういう感情を抱いている人間が多少でも存在している事実を知らないわけではなかったが、しかしそれをを露骨に口に出すなんていう行為を目の当たりにすることがあるとは、夢にも思っていなかった。せいぜい家の中でそれを愚痴のようにぼやいているか、もっと若い世代ならばネットに書き込んで憂さをはらすくらいのことはあっても、生身の人間に対して直接それを言う人間がいるなんてことは、全く僕の想像の埒外にあったのだ。

 「帰れ!」

 老人は一歩前に踏み出して、ヘイリーにその言葉を投げつけた、たぶんもっと近くからヘイリーの顔をのぞきこもうとしただけだったのだろう、だが、その瞬間、老人がヘイリーに危害を加えようとしたのだと僕は思ってしまう。考えるより早く、僕は老人の正面へと割って入り、反射的にその肩をつかんで、勢いよく突き飛ばしてしまった。

 「あっ」

 短く声を上げて、老人はその場で尻もちをついて倒れてしまった、その威勢が嘘のように、あまりにもろく老人は崩れ落ちたのだ。持っていた缶ビールが転げ落ちて、どぼどぼとこぼれた中身が地面を濡らし、砂の中へと吸い込まれていった、ビールの嫌な臭いが、かすかに僕の鼻を刺激する。倒れた老人を見て、自分たちに敵対してきたものがここまで弱い存在でしかなかったことに僕は拍子抜けすると同時に、やりすぎたのかもしれないと思いながら、様子をうかがう。ヘイリーは、驚きとショックのせいか、青ざめた表情で唇をふるわせていた。老人はうめき声を漏らしながら、すぐに体を起こす。さいわい、どこも怪我したりはしていないようだった。

 「大丈夫ですか、すいません。つい、とっさに……」

 僕は駆け寄って、老人を助け起こす。老人は僕に引っ張られるままに立ち上がった。

 「くそ、くそ、くそ」

 老人はぶつぶつと言っていたが、もはや僕らに聞かせようという意思はないらしく、視線をふせたままひざのあたりの砂を払う。僕は変に刺激しないほうがいいだろうと思って、黙ったまま何もせずその姿を見ていた。老人はしばらくそんなふうにして、何かを考え込むように幾度となく目を細めたり見開いたりしていたが、すっかり戦意を失ったようで、それ以上何も言ってこなかった。終戦の前後の生まれでもおかしくはないこの老人の人生には、もしかしたら外国人に恨みや鬱屈した感情を持つような体験もあったのかもしれないが、だからといってこういう行為を許せるわけでもない、と思い、僕もそれ以上謝ることも助けることもしなかった。結局、老人は一度だけ恨みがましく舌打ちをすると、そのまま僕らには一瞥もくれず、ゆっくりと公園の外まで歩いて行ってしまった。

 そして再び広場には、僕とヘイリーの二人だけになる。おそるおそる、僕はヘイリーの顔を見る、いつも屈託ないヘイリーも、さすがに苦しそうな顔をしていた。あたりまえだ、あんなことを言われて、傷つかない人間がいるわけがない、ヘイリーは別に、僕らと異質な精神を持った存在ではない、僕らと全く同じように、悲しみ、喜び、怒り、他人を思いやるような、そういう存在、それ以上でも以下でもないのだ。しかし外国人、あるいはガイジンという認識が、あの老人のような人々に、それを忘れさせてしまう。

 「ーーーー」

 僕はなんとかヘイリーに声をかけようとしたが、できなかった。ヘイリーの表情には、今にもあふれんばかりの悲しみが往来し、その感情の膜を破って、涙がこぼれそうになっているように見えた。しかしなぜあそこまであの老人は他人に鈍感になれるのかと思い、僕は再び腹が立ってくる。たぶん、あの老人にはあの老人なりの鬱屈や怒りや理由があって、酔っていたせいで自制が効かなかったのかもしれないが、僕にはとうていそれを受け入れられそうにない。

 「あーあ」

 急に我に返ったように、ヘイリーがため息をつき、肩をすくめて、僕に笑いかけた。自分は大丈夫だというふうに見せたかったのだろうが、口元がこわばってしまっている。その顔を見て、僕は本当にたまらない気持ちになってしまう。なんでこんなに優しくて、しかも日本に対する理解を持っている人が、ぶしつけにこんな言葉を投げつけられなければいけないのか分からなかった、まるでヘイリーの悲しみを吸収してしまったかのように、僕までが心に痛痒を感じていた。老人に対する怒りというよりも、その理不尽に対して湧いてくる名付けようのない感情のかたまりに、僕は喉を塞がれる。

 「せっかく楽しい気分だったのに、ね」

 何も言わずに唇を噛む僕をなだめるように、ヘイリーがもう一度笑いかける。さっきよりは、自然な笑顔だった。

 「……うん」

 本当は僕がヘイリーを慰めないといけないのに、と思いながらも、僕は上手く感情を制御できず、手短な返事だけをする。

 「前にも、一回だけ、こういうことあったかな」

 「……そっか」

 そのもう一回の出来事について、僕は何も質問しなかった、というか、できなかった。

 「ごめんね」

 「え?」

 「なんか、私のせいで、イヤな思い、させてしまったから」

 「そんな……」

 何と言っていいのか分からず、僕はただ首を横に振った。

 「怒ってる?」

 知らず知らずのうちに、僕もまたそういう顔をしていたのだろうかと思い、複雑な感情で固まった表情をなんとか解きほぐそうとする。

 「いや、そうじゃないんだ。なんで君が、こんなこと言われなきゃいけないんだって、そう思って……」

 絞り出した僕の声は、感情で震えていた、もしかしたら動揺したのは、ヘイリーよりも僕のほうだったのかもしれない。

 "Oh, no, no, it's okay."

 僕が泣きそうになったと思ったのだろうか、慌てたようにヘイリーは近づいてきて、僕をそのままハグしてくれる。その優しさに、よけい悲しくなってしまい、なんとかヘイリーを慰めたい一心で、僕はヘイリーを抱きしめ返す。しばらく、二人とも黙ったままだった、僕はヘイリーのあたたかい体を通して伝わる、その呼吸の音と、心臓の鼓動に耳をすましていた。

 "I'm very sorry..."

 思わず、僕の口から漏れた言葉は、全く慣れない英語だった。どうしても、ヘイリーに今の思いを、一番良い言葉で伝えたいと思っただけだった。

 "It's okay."

 ヘイリーの声はうわずって、かすれたように響く。

 「うん」

 僕はヘイリーを抱きしめたまま、その背中をできるだけ優しく撫でていた、僕の耳元の、ささやきのようなヘイリーの呼吸が、だんだんと落ち着いていくのが分かった。僕がそこで僕が望んでいたのは、ヘイリーの痛みを感じ、そしてそれをどうにかして取り除いてあげたいという、ただそのことだけだった。

 

 

 

物語のはじまるところ その7へつづくーー

物語のはじまるところ その5

 ばらく、僕の日常はまたのっぺりとしたものに戻っていた。世の中の多くの人がそうであるように、似たような時間に起きて、似たようなことをして一日を過ごし、そして似たような時間に寝る、そういう生活。ストールを早く返さないといけないとは思いつつ、僕は全くヘイリーに連絡する勇気を出せずにいた、そしてなお悪いことに、こういうのはためらえばためらうほど、実行できなくなっていくものなのだ。さっさと返して楽な気分になりたかったけれども、本棚の裏側に落ちていたとか言い訳しながらそれを渡した時に、ヘイリーは僕に感謝の言葉を言うだろう、僕はその言葉を、しらじらしい顔をして受け止めることができそうになかった。かといって、また君に会えるかどうかわからなかったから、衝動的に隠してしまった、なんて正直に言えるわけもない。ストールを隠してしまったことも、今ここで悩んでいることも、僕の愚かさゆえなのだが、前にも後ろにも進めなくなっている。

 事態を動かしたのは、僕ではなくヘイリーの方だった。交換した連絡先にメッセージが届いて、友達の芸大生が作品展をやるので、一緒に観に行かないかという誘いが来たのだ。もちろん僕の方からすれば、それは願ってもない話だった、なんとか理由をつけてもう一度会いたいと思っていたわけだし、後ろめたさでどうにも一歩を踏み出せずにいたところに、そういう僥倖が訪れた。僕はなんだかヘイリーから許しがもらえたような気になってくる。これでストールを返しやすくなったような気がしていた、出かける時に偶然見つけたとか言って、待ち合わせのタイミングでぽんと手渡してしまえばいい、事前に連絡すると、あれこれ説明して、怪しまれるようなことを口走ってしまうかもしれない、そうならないように、自然な流れでそのまま作品展に向かってしまおう、僕はそんなことを考える。罪悪感はもちろん消えないが、何より返すことが第一だ。そう考えるとだいぶ気が楽になってしまって、僕はすぐにクローゼットへ向かうと、忘れないようにカバンに入れておくために、ずっとしまったままにしていたストールを取り出す。青色の色彩の鮮やかさと共に、移り香が漂う、そのストールには、本当に魔法がかかっているような気がした、その色彩と香りによって、僕は見たこともないヘイリーの故郷の生き生きとした姿を、まぶたの裏に感じることができた、それはもちろん僕の想像によるものだったが、そんなことを忘れてしまうくらいの強い印象に包み込まれてしまう。海の向こうに漂うヘイリーの故郷と過去が、僕を包み込む。

 

 五分くらい早く待ち合わせの場所に行ったのだけれども、すでにヘイリーはそこにいて、僕の姿を遠くから目ざとく見つけて手を振ってくれた。

 「ちょっと早めに来てたの?」

 「うん。日本人には時間に正確な人が多いから、ちょっと早めに来るかなって思った」

 「外国人はそうじゃないの?」

 「少なくとも、私が今まで知り合った友達はだいたいみんな十分から十五分くらい遅れて来る」

 「電車みたいだね。日本の電車は、世界的に見てもとことん時間に几帳面だって聞いたことがある」

 僕がそう言うとヘイリーはくすりと笑う。

 「良いことじゃない」

 「みんながみんな几帳面に生きてると、ちょっと窮屈だけど」

 「どっちが良いかな……。もう一人来る予定だけど、たぶん”ガイジン”時間で遅れてくると思う」

 僕はそこでなんとなく、ヘイリーたちが「ガイジン」という言葉を使うとき、そこには何か、日本で自分たちが置かれている立場を冗談めかすようなニュアンスがこもっていることに気づく。

 「その芸大生の友達?」

 「ううん、彼女はギャラリーにいる。アリス、この前会ったでしょ、台湾人の女の子」

 「ああ、あのコなんだ」

 そういえば、アリスは一風個性的なアレンジの黒いロリータファッションに身を包んでいたし、そういうことをしていると言われても違和感はない。

 「そう。アリスは日本のマンガやアニメが好きで、そういう感じのアートがやりたくて日本に来たんだって。ちなみに生まれてから十歳まではアメリカ暮らしで、それから台湾に戻ったから、英語も”ペラペラ”なの」

 へえ、と言っただけで、僕は何か言葉を返すことをしなかった。自分の身の回りの知り合いといったら、だいたい地元に残るかせいぜい就職や大学で東京に行ったりするくらいで、僕の感覚からすると移動のスケールが段違いすぎる話だった、あのニャンニャン言ってる姿からは想像もできない人生を歩んできたらしい。

 「へえ、でしょ」

 いたずらっぽく、ヘイリーが僕の返しをまねするような言い方をする。

 「『へえ』って、何か変な言い方だったかな」

 「ううん、別に。日本人はけっこうみんなやってるけど、何か考えてる風で次の言葉を用意しようとしてない感じ」

 「ああ」

 確かにその通りだ。ヘイリーと話していると、僕が普段あたりまえのようにやっていることが、どうもあたりまえじゃなくなってしまう。

 しばらく会話しながら、僕は頭の片隅でストールを返すタイミングをうかがっていた、もう一人誰か来るのなら、ちょっと言い出しにくくなるかもしれない。

 「そういえば……」

 あまり引き延ばせないので、僕はちょっと不自然かもしれないと思えるタイミングで切り出す。

 「あ」

 僕の言葉がヘイリーの耳に届くより早く、彼女が僕の背後に視線をやって声を上げる。振り向くと、そこにはジェイムズが立っていて、僕ら二人を見下ろしていた。

 「やあ、この間はありがとう」

 英語でヘイリーと少し会話したあと、ジェイムズは僕に笑顔を見せて言う。

 「いや、こちらこそ」

 僕はジェイムズとぽつぽつ会話をしながら、その登場で返すに返せなくなったストールの入ったカバンに無意識に手をやっていた、別に彼の存在があるからといって返せなくなるなんてことはないはずなのだが、今日はずっとそれを隠しておかなければならないという気になってしまった。まるで、そのストールのことは、僕とヘイリーとの間だけの秘め事にしておかなければならないのだとでもいうように。僕は、カバンの中に広がる遥か遠くの青空のことを思った。

 

 パーティーのときほど、ではなかったが、アリスはやっぱりヘイリーに抱きついて、猫みたいな声を出しながらギャラリーに着いた僕らを、というよりヘイリーを歓迎してくれた。アリスはヘイリーとジェイムズと英語で何かを話しながらも、おもむろに僕を見つけて、ヘイリーの陰に隠れるようにしながら"Hello"と小声で言ってこちらに手を振る。どうやら、しらふだとだいぶ人見知りな性格らしい。

 作品展は学生のグループ展で、オープン初日ということもあって、出展者それぞれの知り合いらしき人々でごった返している。アリスの出展スペースには、アニメ絵の美少女キャラクターがゴシックロリータの衣装に身を包み、その周りをキッチュで過剰な装飾が覆っている作品が数点並べてあった、ちなみにそれぞれのキャラクターにはネコミミが付いている。こういう作品は人目を惹きやすいのか、比較的多くの人がアリスの絵を観察している。アリスとジェイムズが誰か共通の知り合いらしき人に出会って話を始めたので、僕はヘイリーと並んでしばらくアリスの絵を観る。

 「アリスの頭の中っていう感じで面白い」

 ヘイリーはにこにこしながら、アリスのポップでゴシックな感じの絵を眺めていた。

 「これは葛飾北斎かな……」

 僕はその作品の一つで、顔の半分がドクロになった少女が大量のヨダレを垂らしている絵をみながら、ぽつりと呟く。

 「北斎?」

 ヘイリーが僕の呟きを聞いたみたいで、こっちを見る。

 「このヨダレの描き方は、北斎の滝の引用だと思う」

 「引用?」

 「ええと、つまり、その絵の描き方をわざと真似してるってこと」

 "Uh huh, OK, I see."

 ヘイリーは急に英語になって、相槌を打つ。

 「この顔のドクロは歌川国芳かな」

 僕はアリスの絵の中に、様々な日本画の引用が描かれているのに気づいて、それを読み解いていく。

 「アートに詳しいのね」

 「いや、大学生のときになんだか興味本位で、図書館にあったいろんな画集をぱらぱらとめくって眺めたことがあるから、いろんな絵を知ってるっていうだけだよ。詳しい歴史とか理屈とか、そういうことは知らない」

 「私は全然知らないけど……Oh, this is so cute!」

 会話の途中で、ヘイリーが一つの絵に目を留めてそう言った。それはいかにもアリスらしい、同じ歌川国芳の『猫飼好五十三疋』を引用したと思われる作品で、五十三人のネコミミをつけた美少女キャラクターたちが思い思いのことをしている姿を描いているものだった。

 「これも日本の昔の絵の引用?」

 「そうだと思う」

 「昔から、日本人もずいぶん独特のスタイルで絵を描いてたみたいね」

 僕はすぐには返事をせず、目の前の浮世絵とアニメ絵がオーバーラップしているアリスの作品を眺めていた。ヘイリーの「日本人」という言葉には、僕がその一部分であるかのようなニュアンスがこもっていたが、僕の感覚では、そうではないような気がする。実際には、ヘイリーがこういう「日本的」な絵を観るのと同じ距離感で、僕はアリスの絵を観ているように思う。昔から僕はそういう人間だった、自分が帰属させられているものを、みんながそうするように内側から眺めるのではなく、あたかも外側に立っているかのように眺めているのだ。僕は安易に、自分がどこかに属しているという感覚を持つことができなかった。といっても、そこに疎外感や、あるいは反対に拒否感なんていうものは全くない、ただ単に、どこかに属しているという感覚それ自体が、僕にとっては奇妙なものでしかなかっただけのことだ。あるいは、例えば日本というものならそれは、日本というものへ向かって都合の良い断片的な素材を統合することで表象したものにすぎないし、その根底には何も無いという事実を、僕はいささか身も蓋もなく受け入れすぎるのだろうか。だから僕からすれば、「日本」というキーワードで切り出される表現の全ては、誰がいかなる手段を用いたとしても、ほんの戯れにしか見えないのも事実だった。いずれにせよ、僕はいつでも何かに帰属させられているのだが、僕自身はどこへ行っても異物であり、よそ者だという感覚の中で生きている。

 「そうみたいだね」

 僕は、赤の他人の様子にコメントする口調でそう言った。なんだかごちゃごちゃと考えてしまったけれども、この絵自体はなかなかハチャメチャで楽しそうな感じじゃないかと思いながら。

 

 作品展が終わると、ギャラリーはそのままパーティー会場になった。またパーティーか、と思いながらも、僕は誘われるままそこに残る。この間のホームパーティーとは違って、今度は吉岡とかが好みそうな、DJが音楽を鳴らすようなやつで、バーテンのバイトをしているらしい出展者の知り合いがカクテルを作ってみんなに配りワイワイやり始めていた。天井には、出展者の一人が作ったらしい地球儀を模したミラーボールが掛けられ、くるくる回っている。普段は飲み会なんかも避けている僕のような人間からすれば、立て続けにこんなイベントに巻き込まれるというのは、ずいぶんな出来事だ。さいわい派手でうるさい音楽ではなく、穏やかなエレクロニック・ミュージックが控えめな音量でかかる会場では、音楽を聴きながらゆらゆらと体を揺らしている人もいたが、お酒を飲みながら会話をしている人もけっこういる。僕らはしばらく四人で喋っていたが、そのうち、ジェイムズがヘイリーに踊ろうと誘いをかける。ヘイリーはおどけて首をかしげたりしていたが、結局みんなが集まっている会場の真ん中へと移動して、二人で音楽に合わせて揺れるように踊り始めた。僕はなんだかジェイムズにヘイリーを取られたような気分になる、取られたという感覚はもちろんおかしいし、強い嫉妬とは違うものだったが、僕はストールの入ったカバンを無意識に触りながら、その二人の様子を見つめてしまう。

 「パーティー、苦手?」

 唐突に、横にいたアリスが、ヘイリーやジェイムズに比べると決して上手いとは言えない日本語で話しかけてきてくれた。

 「うん、まあ。今までこういうのに参加することがなかったし。もともとそういうタイプでもないし」

 普段は人見知りな感じのアリスに、もしかしたら気まずい思いをさせているかもしれないと思い、僕はできるだけ何気ない雰囲気を出しながら答える。

 「分かる。でも、みんなそんなに得意じゃないよ。お酒とか音楽は、そういうのをごまかすためにある」

 ヘイリーと一緒にいるときはふにゃふにゃ喋っているアリスが意外に冷静で鋭いことを言ったので、僕は多少面食らいながらうなずく。

 「みんな苦手。それなら、どうして、こういうことをするのかな」

 アリスが日本語を聞き取りやすいように、できるだけゆっくりと、言葉の並びがはっきりするような言い方をした。

 「ほとんどのみんなは、やっぱり寂しいから。でも、いろんな人に会うっていうのも、大事なことでしょ。普段は一人でもいい。でも、ずっとそうだと、自分の世界が汚れてしまう。一人でいても、ホントはいろんな人に会うことができる人じゃないと、一人でいる、そのことの価値は低くなります。一人でいることしかできない人の世界は、美しくなりません」

 日本語を学校で勉強したときのクセが出たのか、アリスは急に敬語になった。精神的に幼いと思っていたアリスがしっかりと自分の考えを話すので、僕は思わずうんうんと少し過剰にあいづちを打つ。

 「そうだね。いろんな人に会うのって難しいけど。僕は今までずっと、似たような種類の人に囲まれてきたから、正直飽きてしまっているんだ。僕が人生で会える人たちっていうのは、だいたいパターン化してしまってる。本当に”いろんな”人に会うっていうのは、僕の今までの人生だと、本当に難しいことだった」

 僕の日本語が完全には理解できなかったのか、アリスは特に言葉を返さずにうなずく。そして一瞬黙ると、思い出したように自分のカバンを開けて、そこから錠剤を取り出した。

 「実は、昨日彼氏と別れた」

 そう言って、アリスはカップに入ったカクテルで、その錠剤を飲み込んだ。僕はどういうことか分からず、視線を上に向けて考える。

 「"relationships"には、女性の方が心配することが多い。でも、女性のほうがそれを求めるように、させられてる」

 そう言って、アリスは感情をごまかすような笑いをもらす。そこで僕は、その錠剤がモーニングアフターピルであることに気づいた。彼氏と別れ際にセックスをしたのか、それとも別れた腹いせに他の男と寝てしまったのか、どういうことなのかは分からなかったが、僕が最初に抱いたイメージをどんどんぶっ壊すような姿を見せるアリスにますます面食らってしまう。

 会話が途切れて、僕はつい、再びヘイリーの姿を目で追う。さっきまでリズムに合わせて体を揺らすだけだった二人は、いつの間にか社交ダンスをアレンジしたような踊りをアドリブでやって楽しそうにしている。置いてけぼりになったような気分になりながら、僕はヘイリーにはどんなふうに見えているんだろうと思う。

 「気になる? ヘイリーのこと」

 ピーマンを食べさせられている子供みたいな渋い顔でアリスはカクテルをあおって錠剤を胃に押し込みながら、僕の顔を見る。見え見えなのかと思うと気恥ずかしくて、僕は言葉も出さずにうなずいた。

 「心配しなくても大丈夫」

 「大丈夫?」

 「ジェイムズはね、ゲイだから」

 「……え?」

 僕のリアクションを見たアリスは、一瞬目を細める。

 「そういえば日本は、そういうことオープンにしないですね」

 こっちからすれば、そういうのをこんなにあっさりオープンにすることに驚いたのだが、僕は混乱しながら、じっとジェイムズを見る。彼がゲイだとか、そんなふうに思ってもみなかったし、言葉遣いも立ち振る舞いも、いたって女性的なそぶりはなかった。僕は身の回りでゲイだということをオープンにしている人間に会ったことはなかったので、ただ当惑するだけで、どんなふうにジェイムズをみていいのか分からない。恥ずかしながらその時の僕の頭の中にあったゲイのイメージというのは、テレビ番組に出て女性的な言葉遣いやしぐさをしているオネエと呼ばれる人たちだったのだが、アリスの言う通りなら、世の中のゲイというのは、そんな人たちばかりではなさそうだ。あまり良くないことだとは思ったが、僕はどうしてもまじまじとジェイムズを観察してしまう、いかにも好青年という感じで、女性からもてそうなタイプなのだが、言われてみれば、踊りながらヘイリーを見つめる視線の中には、性愛めいたものはなく、ただただ親愛の情がこもっているようにも思える。

 「そうだね、オープンにしない」

 「ゲイの人、イヤだと思う?」

 「いや、そうじゃなくて。ゲイだっていう人に会ったのは初めてだから、驚いたんだ」

 「どうして驚くの?」

 「どうしてって……」

 まあ確かに、驚くほうがおかしいのが本当なのだが、こちとらそういう人々の存在がそれとなく無視されている社会で今の今まで生きてきた人間なのだ。

 「ジェイムズのこと、変な人だと思う?」

 「いや、そんなことないよ。良かったと思う」

 「良かった?」

 「ヘイリーを取り合わなくていいから。ジェイムズは良いヤツだし、仲良くしたいと思ってた」

 「良かったね」

 アリスはまた幼い子供みたいな笑顔になって、カップに残ったカクテルを飲みほす。

 「僕はジェイムズみたいにモテる感じじゃないから。彼がヘテロセクシャルだったら、確実に負けてる」

 「そうですか? 白人よりアジアの人のほうが魅力がないと思ってるなら、良くない考えですよ」

 「……ああ、まあそうだね」

 それを抜きにしてもジェイムズのほうが魅力がありそうだったが、自分の中にそう思っている部分があったのは否定できないので、曖昧な返事しか出てこない。

 「でもね、ヘイリーはあなたのこと、ちょっとくらいは気になってると思う」

 「そうかな」

 「あなたって、寂しさから自由な気がする」

 「どういうこと?」

 「あんまり寂しいって思わないでしょ。寂しさがあっても、そういう感情に流されないっていうか」

 あまり面と向かってそういう指摘を受けたことがないので、僕はただただ首をかしげる。

 「うーん……まあ、どうでもいい他人から受け入れてもらって寂しさをごまかすよりは、いっそとことん独りになるほうがいいって思うけど」

 「ほとんどの人は、そんなふうに思えないよ。やっぱり、あなたはちょっと変わってる。だいたいの人は、寂しさをごまかすか、隠そうとするだけ」

 なんで急にアリスはそんなことを言い出したのだろうかと思いながら、僕はカクテルを飲み込んだ。

 「ヘイリーは、とても強い寂しさを持ってる人だよ」ぽつりと言って、アリスはヘイリーを見た。「でも別にごまかさないし、それはきっと、どうでもいい他人といくら一緒にいても、どうにもならない寂しさなの」

 「そういう寂しさは、誰にでもあるんじゃないかな」

 と言いつつ、僕はアリスの言うように、それがいったいどういう理由から来るものなのか分からないが、ヘイリーが何か他人とは違うものを抱えていて、それが彼女に強い孤独を与えているように見えるのは確かだと思った。ヘイリーが僕に対して、遥か遠くから物事を見ている感じだと言ったが、ヘイリーもまた、他人から遠く離れた場所から物事を見ている人間に見える。

 「そうかもしれない、けど、たぶん、ごまかすことができないくらい、深い寂しさなの。ヘイリーは、何か重たいものを隠してるように見える。だから、寂しさから自由なあなたに、興味あるんじゃないですか」

 僕のそういう感じに興味を持つ人間に今まで会ったことはないので、よく分からなかった。ヘイリーが何か重たいものを隠している、とすれば、いったい何を隠しているのだろう? ヘイリーには、確かに明るく振舞っている時でも内側に押し込められたような孤独感が潜んでいて、それが彼女に不思議な美しさを与えていた。もしかしたらアリスの言うように、ヘイリーはその深い寂しさをごまかすために他人を利用できないのかもしれない、倫理的な意味でも、実践的な意味でも、僕らはその寂しさを自らの手で解決するしかないという、ごく限られた種類の人間どうしなのかもしれない。

 「私も踊ろう」

 アリスは僕から離れて、ジェイムズとヘイリーのほうへ歩いて行く、音楽に合わせて体をくるくると回転させ、リボンのついた黒いスカートをひらひらさせながら。そしてヘイリーに抱きつき、ジェイムズの手を握りながら、三人で踊り始める。ジェイムズがふいにこっちを見て手招きをする、君も踊りに来なよ、ということなのだろう、僕は戸惑ったように笑いを浮かべるが、ヘイリーもこっちを見て手を振ってくる、そしてアリスも招き猫のようなしぐさで僕を誘っていた。どういうふうにしていいのかよく分からなかったが、僕は観念したように誘いに乗ることにした、三人の輪に入り、音楽に合わせて体を動かす、自分で自分のぎこちなさが分かって正直恥ずかしいような気もしたが、まあ、たまにはこういうのもいいんじゃないだろうか。

 

 

物語のはじまるところ その6へつづくーー

物語のはじまるところ その4

 「ヘローヘロー」

 パーティー当日、カタカナ丸出しの英語であいさつしながら、吉岡がやって来た、ビールだとかワインだとか各種アルコールの入ったビニール袋を提げて、靴を脱ぎ僕の家にどたどたと上がりこむ。

 「ようこそ」

 ひとことだけ言って吉岡を招き入れると、その後ろからさらにぬうっと人影が現れる、僕はその姿に思わず驚いて、身構えるようにしてしまう。

 "Hi"

 目の前に立っていたのは、身長がたぶん185センチくらいはありそうな、白人の男性だった。英語で"Hi"と言われても、僕は何も言えずに彼を見上げたままでいる、もちろん同じように"Hi"と返せば良いだけの話なのだが、習慣として染み付いていないあいさつが、そんなにすっと出てくるものでもない。

 「僕はジェイムズ、よろしく」

 ジェイムズと名乗った彼が、僕に手を差し出す。僕が外国人に免疫が無いのをすぐに見抜いたのか、緊張を和らげようとするかのように笑みを浮かべていた。

 「よろしく」

 僕は自分の名前を名乗りながら、ジェイムズと握手をする。僕は割と背の高い方なので、普段は他人を見下ろしながら話すことのほうが多いのだけれど、ジェイムズに対してはその顔を見上げながら喋らないといけなかったので、変に新鮮な違和感を覚えた。

 「今日は場所を貸してくれてありがとう。たくさんの人でパーティーできるとこ、そんなにないからね」

 流暢な日本語で僕にお礼を言いながら、ジェイムズは吉岡の後ろに続いて僕の家に入る、その両脇には大きめのスーパーの袋を抱えていた、何やら食材が入っているらしい。

 「キッチンを借りてもいいかな」

 ジェイムズが僕に尋ねる、むろん僕はオーケーして、使えそうな鍋を出してやる。このまま料理を始めるのかと思ったが、キッチンに食材を並べ終えてから、ジェイムズはきょろきょろと周囲を伺い始めた。何か必要な道具でもあるのかと聞こうと思った時、ジェイムズが玄関のほうをのぞき込む。

 "ーーーー"

 ジェイムズが誰かの名前を呼んだようだったが、馴染みのない言葉なので、僕には聞き取れなかった。

 "I'm here"

 玄関からぞろぞろと入ってきていたパーティーの参加者の一人が応えて、手を挙げながらジェイムズのところに近寄っていった。金色の髪をした女性で、片手には僕が見たことのない店の袋(たぶん輸入食品店のやつ)を提げている。首には青色のストールを巻いていて、彼女の髪の色や立ち振る舞いだからこそ似合うその色彩の鮮やかさは、ひときわ印象的だった。すれ違う一瞬、彼女は僕と目が合い、笑みを浮かべるーー緑色の瞳が、こちらを見ていた。

 彼女は持っていた袋をキッチンに置くと、ジェイムズの横に並んで二人で料理を始める。英語でなにやら喋りながら、仲良さそうにしていた、ときおりジェイムズが彼女の肩に手を置いたりしていている。その様子は、ずいぶん親密に見えた。

 

 料理が出来上がる頃になると、まばらに来ていた参加者がそろい、いつの間にか僕の家のリビングは吉岡が言ったとおり十五人くらいの人で賑わっていた。ほとんどがジェイムズの友達で、例えばアメリカ人やドイツ人から、南アフリカ人や台湾人といった人たちが参加者の7割くらいを占め、そこで一同に会し飲んだり食べたりしながら談笑している。共通語は英語のようで、数人いた日本人も流暢な英語を喋って楽しそうにしていた。こういう人たちが世の中にいるなんてことについて、今まで特に考えたり気にしたこともなかった僕には、ずいぶんな非日常的光景で、ましてやこの家は普段一人だけで過ごしている場所なので、まるで現実感がない。こんなことが起こるなんていうのは、想像の埒外なのだ。全く英語が話せないのは僕と吉岡くらいのものだったが、吉岡はその持ち前のキャラクターでそんなことを負い目に感じる様子もなく、適当な単語を並べてコミュニケーションを図り、あるいは他の日本人に通訳させたりしながら、なんだかんだでフルにはしゃいでいる。

 そんな僕はといえば、もともと社交的でないタイプなうえに、全く未体験の雰囲気にどうして良いのかわからず、ろくに誰とも話さないまま一人ぽつんとカクテルの入ったコップ片手に壁を背にして、リビングを埋めるみんなの様子を観察しているだけだった。あとで知ったことだれども、僕みたいな状態になっている人のことをウォールフラワー、つまり壁の花というらしい、その場に馴染めない人間が、できるだけその姿を他人から見られる位置よりも、せめて他人を見る位置に身を置こうとするのは、わりかし文化を超えて共通しているらしい。

 そうはいっても、実際のところ、僕はそんなに退屈しているわけでもなかった、改めて言うのもなんだけど、パーティーに参加している人々の様子は、僕にとっては本当に物珍しかったからだ。見た目の面で単純に言っても、ジェイムズは赤色の髪をしているし、他にも茶髪黒髪金髪、黒人白人黄色人種、いろいろいた。彼らの様子は僕らが抱くステレオタイプに当てはまると言えば当てはまる、当てはまらないと言えば当てはまらない、僕らとさほど変わらないといえば変わらない、違うといえば違う、そんな感じだった。彼らは僕にはわからない言葉で喋り、僕にはなじみのないしぐさをしているけれども、僕らと同じように酒を飲み、同じように笑っている。

 「ここ、あなたの家なの?」

 急に話しかけられて、僕は驚く、もはや自分がパーティーの参加者だという意識はなくて、もの珍しいイベントの観客のような気分でいたので、話しかけられるというのは全く考えてもいなかった。おそるおそるそちらを見ると、さっきアンディと仲良くしていた金色の髪をした女性がそこに立っていた。緑色の瞳が、こちらを見ている。

 「あ、うん。そうだよ」

 女性はそれを聞いて、部屋を見回す。

 「一人で住んでるの?」

 「うん」

 「たくさんスペースがあって、いいね」

 両親が死んだことを話さないといけないかなという考えが僕の頭をよぎったが、彼女はそこに何らかの事情があると察したのか、それ以上何も聞こうとしなかった。その感受性に感謝しつつ質問が来ないことに何となく安堵した僕は、今さらながら彼女の日本語がかなり流暢であることに気づく。

 「日本語すごく上手いね、……いつも言われてるかもしれないけど」

 僕は彼女の日本語を褒めたつもりだったが、たぶん日本人なら誰もがそういうことを言うだろうと思い、ひと言付け加えた。

 「ありがと。まだまだ、ネイティブみたい話すのは無理だけど」

 彼女は気恥ずかしそうに笑う。外国人の照れた姿というのは、なんだか僕にはとても意外なものに思え、妙に親近感を覚える。

 「ねえ、あなたの名前は? 私はヘイリー」

 僕は自分の名前を答える、いったい何だって彼女、ヘイリーは僕に話しかけてきたんだろうと思いながら。

 「こういうの、全く初めてだから、慣れなくて」

 たぶん、ヘイリーはこの場に馴染めていない僕に気を遣ってくれたのかもしれないと考えて、僕は正直に言う。

 「私も、こういうのあまり得意じゃない」

 「え、そうなの?」

 僕は本当に意外だと思って、けっこう大きな声を出してしまったので、ヘイリーがそれを見て笑った。

 「そうなの。人に会うって大事なことだと思うから、こういう所に来るようにはしてるけど、もし初対面の人が多かったら、ちょっと疲れるし、馴染めないこともあるかもしれない」

 僕に配慮しているようでもありながら、正直なことを言っている感じだった。この場に来ている人たちはみんな外交的な雰囲気を持っていたし、とりわけ僕と話すヘイリーの態度はだいぶ落ち着いていて、僕が普段接するような女性達よりずっと大人びて見えたから、よもや彼女にそんなシャイな一面があるとは思ってもみなかった。

 「まあ、これでも楽しんでるけど」

 何だかいろいろ気を遣わせてしまっているように思えて、僕はあえて余裕ぶってみせる。

 「本当に? 退屈そうだなって思ったけど」

 「みんなの様子を見てるんだ。英語も喋れないし、間近でじっくりと外国人を観察したこともない、だから、本当に珍しい」

 「動物園に来た、という感じ?」

 「むしろ、僕が珍しい動物として檻に入れられた感じかな」

 それを聞いたヘイリーが、くすくすと笑ってくれた。

 「本、好きなの?」

 部屋の中を見回していたヘイリーが、本棚を見つけて指差す。

 「まあね。特に用事のないときは、だいたい本を読むか映画を観てる」

 実際、家のあちこちには棚があり、大量の本と映画のDVDが収められていた。それは、単純にそういうものが好きだということもあったし、加えて、この家に染み付いた孤独や静寂の重さに対抗する意味合いもあった。例えば友達を呼んでしょっちゅう騒ぐというやり方もあったのかもしれないが、僕が選んだやり方は、本や映画によって、よりその孤独の純度を高めて、深く潜っていくというものだった。浅く濁った孤独は人を奴隷にするが、深く澄んだ孤独は人を自由にする。

 「いろいろ読むんだね。古いのから新しいのまであるのかな……あ、夏目漱石の『草枕』、これは読んだことある。それと、あら、シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』とかまであるんだ。日本人でこれ読んだことある人に会ったの、初めて」

 本棚を覗き込みながら、ヘイリーは本のタイトルを物色していく。

 「本とか読むの?」

 「うーんとね、私は、小説よりも詩が好き」

 「読むのは日本語と英語、どっちが多い?」

 「つい英語で読んでしまうけど、いっぱい日本語で読むのをがんばってる」

 「どうしてそんなに日本語を勉強するの? ……いっつも聞かれてるかもしれないけど」

 「なんでかな、気が付いたら勉強してた。単純に面白いからかな」

 ヘイリーははっきりとそう言ったけれども、僕はなんとなく、彼女がもっと他の理由を隠しているような感じがした。

 「面白い?」

 「やっぱり英語とは違うし。特にね、ひらがなが好きなの」

 「ひらがなは女性が作ったって言われてるから、とか?」

 「それ聞いたことあるけど、私にとってはどうでも良いことかな。それよりも、なんだか見た目が面白い」

 「見た目?」

 「なんか動きがあるでしょ、ひらがなって。ユーモラスで、それぞれの表情がある感じがする」

 「そういうもんかな。そんなふうにひらがなを見たことなんてなかった」

 僕は本棚から適当に一冊本を取り出して、ぱらぱらとめくりながらそこに書かれているひらがなを眺めていく。

 「ほら、この”ん”とか、なんか飛び跳ねてるみたいじゃない?」

 ヘイリーがページの中でみつけたひらがなを指差して言う。

 「まあ、言われてみたら楽しそうに見えるかな」

 「でしょ」

 「この”す”なんていうのは、怠け者みたいな感じがする」

 そういう視点でひらがなを観察すると、なんだかそれぞれが個性的な動物のように見えてきた。それぞれの毛並みに触れていくと、みんな独特の手触りがある。

 「ふふ。そういう感じ」

 「こっちの”む”は、ちょっと難しい顔をしてるね」

 「難しい顔って、どんな?」

 「こういう感じさ」

 僕は”む”をイメージした、変な顔をしてみせる。ヘイリーはそれを見て、明るい声で笑っていた。

 "You're weird"

 「え?」

 笑い終わってから一瞬、ヘイリーがじっと僕を見て、急に英語で呟く、僕は意味がわからなくて首をかしげた。

 「変わった人ってこと。もちろん、面白いっていう意味で言ってるよ」

 「まあ、変わってるっていうのは、確かにそうかもしれない」

 「面白いっていうだけじゃなくって……うまく言えないけど、どこにでもいる雰囲気じゃない。日本人の中では特に、あなたみたいな人は珍しい。"aloof"っていうか、はるか遠くから物事を見つめているみたい、でも嫌な感じじゃない」

 僕には確かに、少し世の中から遊離しているようなところがあった、例えば学校とか、そういう集団の中である程度周囲とうまくやっていくこともできる人間だったが、僕という人間の中核にあるのはむしろ深い孤独であって、それが絶対に、僕を周囲となじませることはなかった、僕はいつ誰とどこにいても、常に異物だった。僕はどこかに所属しているとか、所属することで無条件に他人と何かを共有できるとか、そういう感覚を、いっさい抱いたことはない。家族とか故郷とか、そういった最も根源的な場所に対してすら、僕はなんだかたまたま拾われてそこに放り込まれたにすぎないという、至極乾いた感覚しか持つことができない。

 「そういうもんかな」

 僕はなんだか欧米人がやるみたいに、肩をすくめてみせた。けれども、内心では、そういう指摘を受けたことに驚いていた、そんなことを僕に言ったのは、ヘイリーが初めてだったからだ、しかも肯定的なニュアンスで。今まで僕の周囲にいた人間たちは、口には出さなくても、僕のそういう在り方にどちらかといえば嫌悪とまではいかなくても否定的な感情を抱いている様子だったし、そんな僕と仲良くできるのは、細かいことはいっさい気にしない鈍感な性格の吉岡くらいのものだった。

 "Hailey~, I, I, I missed youuuu."

 その時いきなり、酔っ払ったアジア系の女の子が現れてヘイリーに抱きついた、酔っ払っているからなのかもともとこういう性格なのか、ネコの鳴き真似をしながらヘイリーに擦り寄っている。

 "Okay, okay, I missed you too, kitty."

 ヘイリーは苦笑いしながら、その女の子の頭をなでてやる。女の子は真っ黒いメイド服みたいなものを着ていて、いわゆるゴスロリみたいな、個性的なファッションをしていた。

 "I know, I know, you missed meeeeeow."

 「アリスはなんだか私にすごくなついてるの」

 苦笑いしたまま、ヘイリーが僕を見て説明する。

 「そうみたいだね」

 僕はその様がおかしくて、二人を見ながら笑う。

 「ああ、もう」

 アリスと呼ばれたその女の子はネコがそうするみたいに丸めた手で、ヘイリーがしていたストールをいじり始めた。ヘイリーはそれに触られたくないのか、首からほどいてアリスの届かないところに高く挙げる。

 「ちょっとここに置かせてね」

 そう言って、ヘイリーは僕の本棚の高いところにストールを置いた、綺麗な青色で、僕の頭上に広がったそれは、一瞬そこにふんわりとした青空が広がったかのような気にさせる。

 「お母さんが、私が日本に来る時にプレゼントしてくれた大事なストールなの。汚れたり傷ついたり、無くなったりしたら困るから」

 そう説明しながら、ヘイリーはなんとかアリスをあしらおうとしていたが、アリスは駄々っ子みたいにぐいぐいとヘイリーの腕を引っ張る。

 "So, so, sorry, but Hailey is..... mine! meow! meow!"

 アリスはヘイリーに抱きついたまま、僕を見てそう言った。幸い僕にも分かるくらいの英語だったので、調子を合わせて笑いながらうなずく。

 「ごめんね」

 結局ヘイリーはアリスに負けて、僕に謝りながら引っ張られていった。

 

 僕はまたウォールフラワーに戻って、部屋の雰囲気をうかがう。吉岡は楽しそうに適当な会話を続けていて、別に心配したようにDJをやりだしたりはしなかった。みんな別に騒ぎ立てる様子もなく、落ち着いた感じでただ単に談笑している感じで、馬鹿騒ぎといった雰囲気は微塵もない。

 できるだけまんべんなく参加者を観察するようにはしていたが、それでも僕は度々ヘイリーに目を留めてしまっていた。それは単純に彼女が美しかったからというだけじゃなくて、僕は初めて僕の正体を見透かした人間に出会ったような気がしていた、よくわからないまま他人から距離をとって生きてきた自分の、今ままで誰も踏み込まなかったような近さまで、ほんの最初の一歩で踏み込んできた、この外国人の女性に、なんだかこれまでにないような不思議な親近感を感じてしまっていた。ヘイリーはアリスとジェイムズと、他の二人くらいのグループで会話をしていた。英語で喋っているヘイリーは、心なしか日本語のときのわずかにシャイな雰囲気はなく、もっと堂々としているように見える。彼女はジェイムズとなんだか楽しそうに喋っていて、その横で酔って疲れた様子のアリスがソファに座って鼻歌を唄っている。最初に見た時そうしたように、ジェイムズはときおりヘイリーの肩に手を触れる、僕にはそれがどのくらいの親密さを表しているのか分からなかった、彼らにとっては普通のことなのかもしれない、でも、もしヘイリーが僕の彼女だったら、日本で生まれ育った僕にとってはちょっと嫌かもしれないな、とかそんなことを考えてしまう。

 僕は何気なく、スマホで時間をチェックする、パーティーが始まってから二時間くらい経っていた、もうすぐ終わりだろうか。もう一度、僕はヘイリーに目を遣る、このパーティーが終わったら、僕が再び彼女に会うチャンスなどあるのだろうか。もし彼女が日本人だったら、勇気を出して連絡先くらい聞いたのかもしれないが、初めて会った外国人の女性にそういうことをするのは、僕にとってあまりにリアリティがなかった。そんなことを考えて、僕は気分が落ち込みそうになる。

 僕はあきらめたように再び部屋の中を見回す、その時、ふと本棚に置かれたヘイリーのストールが目に入った。地味めのインテリアしかない部屋の中で、鮮やかな色に輝くそれは、まるで遥か遠い青空の切れはしを、ここへ持ってきたみたいだった。それを一目見るだけで、自分の魂がどこか遠いところへ運ばれてしまうような感じがした、僕は一瞬、そのストールの魔法にかけられたように、見入ってしまう。僕はそのとき確かに魔法にかけられてしまったのだと言ったら言い訳に過ぎないのだが、今でも信じられないような行動に出てしまった。僕はおもむろに、部屋の中の参加者が、誰一人僕のことを見ていないのを確認する。狡猾な邪心というより、子供の出来心と言ってしまったほうが正確だろう、それは計算でもなんでもなく、発作的にやってしまったことなのだ。僕は慎重に他人の視線から隠れるように手を伸ばし、そのストールを素早くポケットにしまい込む、そしてそのまま、そそくさと部屋を出て行ってしまった。僕は冷静ではなかった、だから自分のしていることの恥ずかしさを感じていても、自分の行動を止めることができなかった。僕はそのまま自分の寝室に滑り込むと、クローゼットの中に、そのストールを隠してしまった。全く理性的ではない自分の行動に、そのまま呆然としてしばらくじっとしていると、日本に来るときにお母さんがプレゼントしてくれたの、というヘイリーの言葉が頭をよぎる。徐々に冷静になってきて、自分がしているのは、子供じみた出来心というにはあまりある、ひどいことなのだというのが分かってきた。

 「すぐに返さないと」

 僕は呟いてストールを取り出そうとするが、どうしても動けなかった、なんだか自分のしたことの恥ずかしさを、上手く受け入れることができなかった。顔が熱くなると同時に冷や汗が出て、突っ立ったまま、自分がすべきことを行動に移せない。風のない日の重苦しい雨雲のように、ひどくゆっくりと、部屋の中を時間が横切っていく。

 しばらくじっとして、ようやく元の場所に返そうと決意した瞬間、ふいに、玄関からインターホンの音が聞こえた。びくっとして身を起こし、玄関の方に注意を向ける、遅れてやってきた参加者だろうかと思ったが、どうもそんな雰囲気ではない、一人や二人でなく、数人の人間が玄関にいるような物音と気配がしている。やっぱり様子がおかしいと思い、僕はとりあえずストールをしまったまま玄関の方へ行くことにした。

 「この家の住人の方ですか?」

 玄関先に現れた僕を見るなり、警察官がそう言った、そう、警察官だ。

 「そうですけど……」

 何だって警察なんかが僕の家に来たのかが分からず、ただただ困惑して彼らの様子をうかがう、警察官はなんと全部で七人もいて、狭い玄関から部屋の中をじろじろと見ていた。

 「ちょっと近隣の方から通報がありまして。その方が言うには、たくさんの人がこの家に集まって大騒ぎしているということなんですが」

 「大騒ぎ?」

 たくさんの人が集まっているのは事実だが、大騒ぎというのは全く当てはまらない。むしろみんな穏やかに会話を楽しんでいただけだし、まだそんなに遅い時間でもない。大学時代に友達がやってきて飲み会をやったこともあるし、その時の方がよっぽどひどかったが、注意されるほどのレベルじゃなかった。

 「いや、そんな近隣に迷惑をかけるほど騒いではないんですが……」

 「まあ、本人たちが思ってなくても、周囲からすると、うるさく思えることもありますから」

 警察官は別段高圧的ではなく、丁寧な物言いをするように努めている風だった。代表で僕と会話をしている警察官の背後にいた仲間の一人が、無線でなにやら会話をしている。一瞬、「相当数の外国人を確認」という言葉が聞こえてきた。そこで僕は初めて、この程度で警察を呼ばれてしまった原因に気づく。外国人がいること、それこそが、近隣の住人がわざわざ通報なんていうマネをした理由だったのだ。

 「いや、どう考えてもそんなにうるさくしてないし、それにどうしてこんなにたくさんの警察官が来てるんですか?」

 その事実に気づいた僕は苛立って、ついついそんな言い方をしてしまう。ふいに背後を見ると、ジェイムズやヘイリーが不安気にこっちを見ていた。

 「どんな感じの騒ぎか、通報からは分かりませんでしたし、万が一の時のためにです。怖がらせようとか、そういう意図はないですよ」

 万が一、という言葉に、彼らの過剰な警戒が読み取れる、外国人だからといって、そんなにすぐに暴れ出すものじゃないだろうに。

 「別に外国人がいるからって、危険だとかそんなことはないでしょう」

 暗にヘイリーやジェイムズが責められているような気がして、頭に来た僕は腹にあったことをはっきりと口に出した。

 「そういうつもりじゃないんですが、言葉が通じないと、あらぬ誤解を生むこともありますし。トラブルを避ける意味もあるんですよ」

 「いや、だけどーー」

 「すいません。ちょっと私たちも、うるさくしてしまったかもしれないです。気をつけます。ごめんなさい」

 僕の言葉を遮って、横から現れたヘイリーが、流暢な日本語と、まるで日本人みたいなしぐさで警察官に謝ってくれた。そのあまりに日本化された態度に、警察官たちは安堵したような表情を浮かべた。ここにいるのは、日本人のルールが通用する外国人だということに気づいて、安心したらしい。

 「いえ、私たちも通報を受けたので、やはり現場を確認する必要がありまして」

 僕はそこでひと呼吸おいて、冷静になる。外国人がいることで偏見を持たれたという事実に腹は立ったが、日本人のマジョリティが持つ外国人のイメージなんてそういうものかもしれないし、元々は僕もその一員であったことは否めないし、別にこの警察官たちが特別な悪意を持っているわけでもない。

 そのあとは適当にこの集まりの経緯や内容を説明して、近隣に迷惑をかけないよう気をつけるという約束を取り交わすと、警察官たちは軽く一礼して帰っていった。

 

 「ごめんね、ありがとう」

 警察官たちが帰ったあと、ヘイリーがそっと僕の肩に手を置いてそう言った。自分たちのために怒ってくれたことに感謝しているようだったが、ごめんねと言われたことや、その態度からヘイリーやジェイムズがこういう偏見に慣れてしまっている様子が読み取れたことで、僕はなんだかやるせない気分になった。場がしらけてしまったので、僕らは早々にパーティーをお開きにすることにして片付けを始めた。みんなこういうことに慣れているのか、手早くゴミを捨てたりしている。ヘイリーとジェイムズは、料理で使った鍋や皿を洗っていた。

 片付けが終わって、参加者がみんな帰ろうという雰囲気になったころ、僕は当然の帰結として、見たくないものを見なくてはならなかった。僕が本棚の方に目をやると、困った顔のヘイリーが、ぽつんとして、そこに立っていた。ストールがなくなってしまって、困っているのだ。大事な物だと言った彼女の言葉に嘘偽りはなかったようで、本当に悲しそうな顔をしている。ジェイムズやアリスと一緒になってそのあたりを探していたが、もちろん見つかるわけはない。そして僕にも、今この場でそれを返す勇気がなかった。

 「きっと、誰か間違えて持って帰ったのね」

 そんなに気にしてないという顔を作りながら、ヘイリーがみんなに聞こえるように言った。

 「もし見つかったら、連絡するよ」

 僕はしらじらしく、そんなことを言う。結局僕は僕の衝動的な感情が意図した通り、もう一度ヘイリーに会えるという望みをつなぐことになったのだった。良心の呵責で顔が真っ赤になりそうだったが、この次会った時には必ず返すんだからと自分に言い聞かせ、ヘイリーと連絡先を交換する。

 「もし見つかったら、ホントにうれしい」

 「うん」

 僕の目をまっすぐに見て頼んでくるヘイリーに対する僕の返事は、とても弱々しかった。僕はそのまま帰っていく三人を見送る、その去り際、ジェイムズが少しだけヘイリーを慰めるようなことを言って、それにヘイリーがうなずく。それを見た僕は、自分がとても場違いなところに足を踏み込んでしまったのだと思った。

 参加者が全員帰った後、僕は一人で部屋の椅子に座り、虚脱感でぼうっとしてしまう。普段僕が過ごしているのっぺりとして何も起こらない日常からすると、今日はあまりに非日常なことが起こりすぎた。誇張なく、本当に夢でも見ていたような気がする。僕はクローゼットを見る、盗んでしまったヘイリーの大事なストールがまだその中にあった。そこに閉じ込めてしまったストールの魔法が、僕の家よりずっと大きな、遥か遠くの青空を、その中で広げているような気がする。クローゼットに手をかけることはできなかった、その魔法を再び解き放った時、今日見た夢が全て、元の現実へと還ってしまうように思えた。

 

 

物語のはじまるところ その5へつづくーー

物語のはじまるところ その3

 がヘイリーと出会ったのは、僕が大学を卒業してすぐのころだった。死んだ両親が残した一軒家の、だだっ広いスペースでのんびり過ごしていたところに、中学時代からの友達だった吉岡が連絡してきたのが、そもそもの始まりだった。

 「お前ん家、貸してくれないか?」

 出し抜けに、いつものいい加減さで吉岡はそんなことを言い出した。

 「なんでだよ。アパートを追い出されたのか?」

 「違うよ。そんなんじゃないんだけどさ。一日、一日だけでいいんだよ、な?」

 「理由を言えよ。いきなりそんなこと言われたら警戒するに決まってるだろ」

 昔から適当なやつだったが、しかしまあ相変わらずだ。

 「パーティー、やりたいんだよ」

 「パーティー?」

 「そう、パーティーだよ、楽しいぞ」

 「パーティーとは何だ、パーティーとは。DJでもやって浮かれ騒ぐつもりか? そんなことなら絶対に貸さないぞ」

 僕は静かな環境を好む性質だし、別に音楽は嫌いじゃなかったが、それに乗じて騒いだり酒を飲んだりするのは好きじゃなかった、というかそもそも、ずいぶんな近所迷惑だ。人集めの得意な吉岡は自分でDJなんかもやっていて、たまにそういうパーティーを開いたりしているようで、調子に乗って騒いだせいで近隣から怒られたこともあるらしかった。

 「違うって。パーティーっていえば、あれしかないだろ」

 「だから何だよ。誕生日パーティーとか?」

 「ブゥーーー。はずれー」

 吉岡は小馬鹿にするような調子で、電話の向こうで(おそらく)ツバを飛ばしながら言う。

 「……電話切るぞ」

 「まあまあ、待てよ」

 「で、何のパーティーなんだ」

 吉岡はもったいつけるように間を置く。何か驚くようなことを言うときでも、ごく普通のことを言うときでも、同じようにこんなことをするヤツなので、僕は全く平静に構えて答えを待つ。

 「ホームパーティーだよ、パーティーといえばそれしかないだろ」

 「いや、そんなの本当にやるヤツ初めて聞いた。というか、つまり飲み会のことか?」

 ホームパーティーなんていうのは、僕はアメリカのコメディくらいでしか見たことがなかった。吉岡がそんなのをやるとは思えない、だからたぶん、いわゆる宅飲みでもやりたいのだろうと思った。

 「いやいや、もっとアットホームなやつさ。みんなで料理と飲み物を持ち寄って、楽しくやろうっていうパーティーだよ」

 「本当のホームパーティーをやるのかよ」

 「だからそう言ってるだろ。普通のマンションとかだと、ちょっと隣に遠慮するし、スペース的にもイマイチだし。だから、お前ん家がちょうどいいんだ」

 「…………」

 吉岡が本当に言う通りにホームパーティーなんかやるつもりなのか訝しがって、僕は少し無言で考える。

 「もちろん、場所を借りるんだし、お前は何も準備しなくていいよ。片付けもちゃんとやるからさ」

 「……まあ、別に嫌とはいわないけど」

 どうせ僕一人には広すぎる一軒家だし、たまには誰かに使ってもらうっていうのも悪くないかもしれない。

 「きっと面白いと思うぞ」

 「面白い?」

 「そう、やっぱりホームパーティーだしさ、飲み会とは違うってことよ」

 「よく分からないな」

 「察しろよ」

 「アップルパイでも用意するのか」

 「ブゥーーー。はずれー」

 吉岡はさっきと同じ調子で繰り返す。

 「もういいって」

 電話の向こうで吉岡が愉快そうに笑っている。

 「ガイジンだよ、ガイジン。やっぱりホームパーティーだしさ、メンバーにガイジンがいないと雰囲気出ないだろ」

 なんだかもうわけが分からなかった。いったいこいつは何を言いだしているんだか。聞けば、居酒屋で知り合った外国人と意気投合して友達になり、なんやらかんやらでホームパーティーをやることになったらしい。英語も話せないくせにいったいどうやったらそんなことになるんだと思ったが、しかし良くも悪くも誰に対しても馴れ馴れしい吉岡ならあり得る話だった。パーティーで本当にDJとかやりださないだろうかと心配しながら半信半疑で聞いていたが、その辺は大丈夫だと吉岡は適当な感じで請け合いながら、あれこれ計画について話していた。

 結局、僕は家を貸してやることにした。十五人くらい来るらしい。僕はリビングを見回しながら、そこに染み付いた静けさのことを思う。両親が死んで以来、僕一人で暮らしてきたせいで、長い間掃除していない部屋に分厚いホコリの層が積もってしまったかのように、厚く張りつめた沈黙が足元を覆っている気がした。たまにはちょっとくらい賑やかにしてもらえば、この部屋もきれいになる。ただ、外国人がどんなものなのか知らない僕にしてみれば、もしかしたら賑やかすぎて問題を起こすんじゃないかという心配があったのも事実だった。

 

 

 

物語のはじまるところ その4へつづくーー

物語のはじまるところ その2

 "I'll miss you, フジサン"

 東京方面へ向かう新幹線の中で、ヘイリーが車窓から見える富士山に向かってつぶやいた。僕はヘイリーの横顔を見つめる、金色の髪に反射した柔らかい光が、タンポポの種のようにふわふわとその周りを漂っていた。ヘイリーはとても日本語が流暢なのに、その時発した「フジサン」という言葉は、なぜだかはっきりとした英語なまりを帯びていた。ヘイリーは思い出したようにカバンの中をさぐってから、「そっか、もうスマホはないんだね」と言う。その言葉を聞いて、僕は寂しさに胸を締め付けられる、あんなに何度も僕と連絡を取り合ってきた電話を、昨日、ヘイリーは解約したばかりだった。もう、僕がそこに電話をかけても、ヘイリーがその明るい声で応えてくれることはなくなってしまったのだ。そんなふうに思うと、さっきヘイリーがつぶやいた「フジサン」という言葉の発音までが感傷的に響く。ヘイリーが自分の国に帰ってしまえば、あんなに勉強した、あんなに流暢な日本語を、これから少しずつ忘れていってしまうのかもしれない。

 代わりにカメラを取り出して、ヘイリーは新幹線の窓から何度か富士山の写真を撮った、特に構図にこだわるでもなく、それは一見無造作な動きだったが、しかし一回一回のシャッターを、噛みしめるように押している。

 「ねえ」

 急に、ヘイリーが振り返った、はるか遠い南の海のように透明な緑色の瞳が、僕を見つめる。

 「ん?」

 「富士山はどうして富士山っていうの?」

 たまにヘイリーは子供みたいな質問をしてくる、純粋な気持ちから、ほんの少しだけうまく答えられない僕をからかうような気持ちから。僕の横で眠るときは、ときどき"Tell me a story"なんていうふうに、僕に物語をせがんだりもした、僕は日本の昔話だとか、ときにはアドリブでこさえた話だとか、そんなことを物語りして、寝る前なのにけっこう必死でそんな要求に応えてあげたものだった。普段のヘイリーはちゃんと自立した人間という感じなだけに、急に子供っぽくなった姿が僕は愛おしくて、つい一生懸命そんなことにこたえようとする。

 「かぐや姫の話は覚えてる?」

 「うん。おじいさんが竹から見つけてきた女の子が、美しく成長したけど、最後は月に帰っちゃう話でしょ? 」

 「そうだね。でも、あの話はそれで終わりじゃないんだ」

 かぐや姫の出てくる竹取物語は、僕がヘイリーにしてあげたそんな物語の一つだった。

 「かぐや姫に去られた帝は、別れ際にかぐや姫から不死の薬をもらったんだ。でも、帝は二度とかぐや姫に会えないことが悲しくて、そんな世の中で生きながらえてもしかたがないと嘆いて、その薬を焼いてしまったのさ。その場所が、あの山の頂上だったから、富士山は不死の山、つまりフジサンになったとか、そんなふうに聞いたことがある」

 「あら、そんな話だったんだ。どうして前は最後まで話してくれなかったの?」

 「おとぎ話として語られるとき、その部分は話さないのが普通なんだ」

 「どうして?」

 「どうしてって……考えたこともなかったな」

 答えに窮する僕を、またヘイリーがじっと見つめている。透き通った緑色の瞳は、僕が知る限りこの世で最も美しいものだった、それを見つめ返すと、僕はまるで明るい月の上に浮かんでいるような気がしてくる、虹彩の模様はまるでクレーターのようで、思わず僕はそこにウサギの姿を探すのだった。

 「その方が面白いでしょ、ドラマとして」

 「子供向けに話すなら、ドラマチックじゃないほうが良かったのかもしれない」

 「私はそのほうが印象的で、良いと思うけど」

 「僕もそう思う」

 うなずきながら、僕は、物語はいったいどういうふうにして、細部を変えられたり省略されたりするんだろう、とふと思う。竹取物語こそは、書かれた物語の中で最も古い物語であり、その原型になった羽衣伝説こそは、日本の物語の中で最も古い、原初の物語だったという。たくさんの人に語られながら、まるで川の上流から下流へ転がる石が、しだいに角が取れて丸くなるかのように、物語は、より多くの人に受け入れられやすい形になるのだろうか。川原で綺麗に丸くなった石を拾って眺める時、僕らは、その石が最初はどんな形をしていたかなんていうことに、普段は想像をめぐらすことはしない。そして、例えば僕がその綺麗な丸い石を拾うように、物語の起源に想像を巡らしてみたとき、その最初の形が持っていた個性や情緒や思想やドラマみたいないびつさ、受け入れ難さに触れることの、痛みや喜び、その尊さみたいなものを、どこまで感じることができるだろうか。僕は、原初の物語の中へ自分を投影し、また、原初の物語を自分の中へ投影する。なぜ、これが原初の物語だったのだろうか? あるいは、なぜ、これが原初の物語として残っているのだろうか?

 「ねえ」

 ヘイリーが、再び僕の顔をのぞきこんでいた、緑の瞳。

 「ん?」

 僕も再び、同じように応える。

 「もう一つ聞いてもいい?」

 「何?」

 「もしあなたが、その帝だったらーー」

 「だったら?」

 ヘイリーは、なんだか意味ありげに間を置いてみせる。別に意識してやっているふうでもないが、ときおり見せるこういう演出のつけかたに、僕はついつい乗せられそうになる。

 「その薬、焼くと思う?」

 僕は文字通り、その質問に何も答えられなかった。間違いなく、ヘイリーは僕たち二人のことを念頭に置いて聞いたのだろう、まるで気まぐれないたずらのような感じの質問だったのに、僕は射抜かれたように体の、そして心の動きを止められてしまった。僕がその男だったら、僕がもしヘイリーにこのまま二度と会えないとして、ヘイリーが僕に不死の薬をくれたら、僕はそれを焼くだろうか、そして黄金の薄絹のような髪を透かしてこちらを見つめる緑色の瞳は、いったいどんな答えを期待しているのか、そのどちらの答えも、すぐには出てこなかった。何となく逃げるように視線をそらし、しだいに遠ざかる富士山の頂を見る、青い空へゆっくりと溶けていく煙のように、白い雲が漂っていた、もし本当にその薬を焼いた男がいたとするなら、その遙か時間の彼方でその男が見ていた景色は、ちょうどこんな感じだったのだろうか。

 「もし、その薬を飲んだとしたら、僕は永遠に生きて、もう一度彼女に会う方法を見つけ出すことができるかな?」

 「それは、あなた次第じゃない?」

 「もし、その薬を、あの遙かに高い山の頂で焼いたとしたら、その煙を、彼女はさらに高い月の上から見つけてくれるだろうか?」

 「それは、もしかぐや姫が、気まぐれみたいにして、地上の様子をながめていたら、その煙を見つけるかもね」

 「どうかな……、僕はたぶん、その煙はかぐや姫から見えるところまで届かない思う」

 「どうして?」

 「この世の中で、最も高いところに手が届く帝であっても、この世の外に対しては、全くの無力だからさ。この世の中で完全な存在であっても、その外側では、何でもない存在でしかない」

 「じゃあ、あなたはその薬を焼かずに飲んで、永遠に生きて、かぐや姫にもう一度会おうとするの?」

 「僕はーー」

 そのとき、いったいヘイリーに対して何と答えたのか、実のところどうしても思い出せない。ただ、忘れてしまったというのではない、心に強いショックを受けてその記憶にバリアを張られてしまった人のように、その答えが、僕の意識の奥深くに沈んでしまっているのだ。

 その答えを思い出すためには、もっと他の、いろんなことを思い出さなければならないような気がする。僕自身と、ヘイリーと、僕とヘイリーのことを。

 ただ僕の記憶にはっきりと浮かんでいるのは、富士山の頂を霞める煙のような雲と、暖かい光をふくんで輝く綿毛のように柔らかい金色の髪と、そして、遙か南の海のように透き通る緑の瞳だった。屈託ない明るい声で僕に物語と答えをせがむ、彼女、ヘイリー・ベイリー。

 

 

物語のはじまるところ その3へつづくーー

物語のはじまるところ その1

 かしむかし、あるところにーー彼女について語ろうとするとき、僕はそんなふうに始めたくなる。全然むかしのことではないけど、まるでそうであるかのように、全然隠すつもりはないけれど、まるで秘密の箱を開けるかのように、僕はそれを語りたくなる。特別なできごとに聞こえるかもしれないけど、本当は誰にでも起こるようなことであって、あるいはこの話を聞く誰しもにすでに起こったことから、そんなに遠くはないだろう。きっと誰もが、僕のような話を、それぞれのやり方で語ることだろう。

 いつはいつとていつとも知らず、どこはどことてどことも知らず、僕の、あなたの、誰かの話。

 むかしむかし、あるところにーー僕と、ヘイリーがいました。ヘイリー? そう、僕が言った、「彼女」の名前。彼女と聞いて、ある人々は綾子とか春香とか昌美とか結衣とか、そういう名前を思い浮かべたかもしれないが、何はともあれ、ヘイリー・ベイリー、僕のそばにいた、あのコの名前。

 

 まるで、絵本に出てくるキャラクターの名前みたいだ。

 そうね。私のお母さん、いろんな童話が好きだったから、そういう名前をつけたみたい。

 いい名前だ、僕は好きだよ。

 私も気に入ってる。お母さん、いつも掃除をしながら歌を歌うの、自分で作った私の歌、ヘイリー・ベイリーの歌。

 

 ヘイリー・ベイリー

 ヘイリー・ベイリー

 赤い頰

 リンゴのような女の子

 秘密の森の緑の中で

 さやかな空を見上げるあの子

 カナリアたちと歌ってる

 ヘイリー・ベイリー

 ヘイリー・ベイリー

 

 たぶんまだ会ったばかりのころだったか、そんな話をしたことがある。名前がヘイリー、苗字がベイリー、Hailey Bailey、ささやくような"H"の音と、はじけるような"B"の音を冠に、"L"の音が二回、"Lolita"のように歯の裏を舌が連続でノックして、まるで軽やかなポップスのリズムのように聞こえる。そんな一人歩きで踊りだしそうな名前に負けず劣らず、ヘイリーは魅力的な人だった、少なくとも、僕にとってはこれ以上ないくらいの出会いで、僕はそれを忘れることはないだろう、もし仮に忘れようとしたところで、僕はいつまでもそれを覚えているだろう。ある時は悲しみとともに思い出し、ある時は喜びとともに思い出す、もし万が一、怒りとともに思い出すことがあったとしても、その思い出の奥底には、いつであっても、変わらない笑いと愛情が満ちあふれていることだろう。

 

 むかしむかし、あるところに

 僕と、ヘイリーがいました

 

 

 

物語のはじまるところ その2へつづくーー

故郷の番人

 "故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、すでにかなりの力を蓄えたものである。だた、全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。"

ーー聖ヴィクトルのフーゴー

 

 

 「人は、一生のうちで少なくとも三つの場所に住んだほうが良い。一つめは、故郷というものを知るために。二つめは、どんな場所も故郷になると知るために。三つめは、故郷など無いと知るために」

 僕が子供のころ、哲学者の叔父が、ぽつりとそんなことを呟いた。意味が分からなくて首をかしげる僕に、叔父は微笑んで、「ただ、どの段階にある人間が一番幸せなのかは、分からないけどな」と付け加えた。

 

 叔父の言う通りにした、というわけではないが、僕は結局三つの場所に住んだ。

 

 一つ目は雪国で、僕の生まれ故郷だった。一面の雪景色は、さらに寝ても覚めても降る雪に包まれ、それ以上の世界は見えない。僕にとって雪国は世界の全てであり、僕は全てを知り、全てが僕の思いのままだった。雪国での僕の友達はヒツジだった。ある時、ヒツジは僕にこんなことを尋ねてきた。

 「全ての雪が消えてしまったら、この世界はどんな風に見えるだろう?」

 

 二つ目は海の国で、僕はいつも海の上で暮らしていた。一面の海原には限りがなく、僕はどこまで行っても同じように生活することができる。僕はどこにいても良かった、僕は何も所有したり、支配する必要がなかった。海の国での僕の友達はワシだった。ある時、ワシは僕にこんなことを尋ねてきた。

 「全ての水が消えてしまったら、この世界はどんな風に見えるだろう?」

 

 三つ目は砂漠の国で、僕は絶えず移動していた。一面の砂漠は常に僕に限界を迫り、定住することができない。僕はどこにもいられなかった、僕は何も所有できなかったし、支配できなかった。砂漠の国での僕の友達はライオンだった。ある時、ライオンは僕にこんなことを尋ねてきた。

 「全ての砂が消えてしまったら、この世界はどんなふうに見えるだろう?」

 

 僕は再び、一番最初の場所を目指すことにした。列車に乗って、故郷へと向かう。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。長い年月が過ぎていたせいだろうか、僕はその一面の雪景色に、何の懐かしさも感じられない。故郷はもはや、柔らかく僕を迎え入れてくれる場所ではなく、よそよそしく、無関心で、僕を突き放し、拒んでいるようだった。僕は何も所有しようと思わなかったし、支配しようと思わなかった。

 僕は叔父に再会することになった。

 「久しぶりだね」叔父は僕を迎え入れる。

 僕はしばらく、旅の話を叔父にした。叔父は黙ったまま、満足そうに僕の話を聞いていた。

 「ところで、ひとつ聞いてみたいんだが」僕の話の終わりに、叔父がそう言った。

 「何だい?」僕は叔父を見つめて、質問に備える。

 「久しぶりのこの雪国は、どんなふうに見えるかね?」

 叔父はソファの上でくつろいでいた、しっぽを振って、羽を手入れしながら。叔父はヒツジの頭と、ワシの羽を持ち、体はライオン、みんなからスフィンクスと呼ばれている。叔父は質問の答えを待っていた。

 古代ギリシアスフィンクスは、謎かけが得意なことで知られていた。スフィンクスの謎かけで答えを誤った者は死に、正解ならばスフィンクスが死んだ。エジプトでは王の墓の番人、つまり生と死の番人であり、ギリシアでは真実の番人であったスフィンクスは、現代ではいったい何の番人をしているのだろう?