Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

物語のはじまるところ その9

 "I, I... I can't breathe."

 僕は夜中、隣で寝ていたヘイリーの激しい呼吸の音で目を覚ました。重度の喘息みたいに、塞がれた胸に必死で空気を送り込もうとあえぐ、さも苦しそうな音が何度も何度も聞こえてくる。明らかに異常な事態を察した僕は、慌てて部屋の明かりを点ける。

 「ヘイリー?」

 僕の呼びかけに、何度も何度も大きな呼吸の音をさせ、胸を詰まらせながら、ヘイリーはどうにか"I can't breathe"とだけ答えた。ベッドに横たわりうずくまるヘイリーの、額にそっと触れてみる、肌には冷たい汗がじっとりと滲んでいて、顔は息苦しさのせいなのか真っ赤になっている。喘息かと思ったが、普段のヘイリーには全くそういう所はなかった、あるいはパニック障害かとも思ったけれども、確証はない。あまりに突然のことだったので、全くどうしていいのか分からなかった、このまま治らなかったら救急車を呼んだ方がいいだろうかと思い、枕元に置いてあったスマホの位置を確認する。ヘイリーは必死で呼吸を求めてあえぎ続けている、僕はその顔をできるだけ優しく包むように、手のひらを額から頬へと移動せさる。すると、ヘイリーは塞がれてしまった胸を押さえていた両手のうち、片方をゆっくりと動かす、そして溺れた人間が投げ入れられた浮き輪をつかむような必死さで、僕の手を握りしめた、ぶるぶると震えているその手は、ひどい量の汗で濡れてしまっている。どうにかヘイリーを助けたいのにどうしていいのか分からなかった僕は、せめて少しでも気分が落ち着くかもしれないと思い、ヘイリーの手を握り返すと、横たわっているヘイリーのすぐそばに寝そべり、降りかかる重苦しさからその体をかばってやろうとするかのように、背中からヘイリーを抱きしめる。それでもしばらくは、ヘイリーの乱れた呼吸音が続いていた。僕は必死でヘイリーに体を密着させ、ヘイリーの両手をそれぞれ自分の両手で握りしめ、ヘイリーの頬に自分の頬を合わせた、ヘイリーの体温が伝わって来る、全身が汗ばんでいて、僕は頬に湿り気を感じる。何が起こっているのかは全く分からない、確認するすべはなかった、もしかしたらヘイリーにも分からないのかもしれない、僕は祈りを捧げながら嵐が去るのを待つ無力な人のように、ただただ、ヘイリーの体を抱きしめて、その回復を待つ。

 ゆっくりと、ゆっくりと、気まぐれな恐竜のように、窓の外を時間が横切っていった、それにつれて、必死で僕の手を握りしめていたヘイリーの手から、徐々に徐々に、力が抜けていく。ヘイリーは一言も喋らなかった、けれども、その呼吸音は次第に静かになり、リズムを取り戻していった、今までとは全く違って、力の抜けてしまったその手が、何度か僕の手を握りなおす。ヘイリーは落ち着きつつあった、僕も安堵して体の力が抜けるのを感じ、ヘイリーの首筋に顔を埋めるようにして、まだ汗ばんでいるその肌に唇をつける。蛍光灯の冷たい光の下で、金色の細い髪を乱れさせ、すっかり顔色の青ざめたヘイリーの姿は、とても痛々しく、なんでこんなことが起きたのか分からない僕は、その理不尽に、ただただ己の唇をかむ。

 

 「大丈夫?」

 ベッドの上に座って、両手でコップを持ち、僕が汲んできた水をちびちびと飲んでいるヘイリーに声をかけた、ヘイリーはこちらを見ずに、目を閉じて、力なく、一度だけうなずきを返す。深くゆっくりと、取り戻した呼吸が逃げないように心配しているみたいに、一回一回、慎重に息を吸って、吐く。ヘイリーはしばらく、口を開こうとはしなかった、僕もあえてそれを求めることはなく、ヘイリーの横に座って、その体を抱きしめ、頭をなでて、額に唇を触れさせる。汗は引いていて、肌はひどく冷たかった、僕は毛布をつかんで、お互いの肩にかけ、包み込むようにする。何が起きたのかは分からず、僕もそしてヘイリーも混乱したままだったが、少なくとも、事態はとりあえず落ち着いたのだということだけは間違いない。

 ひどく長い時間をかけて、ヘイリーがコップの水を飲み終える。

 「もう一杯、いる?」

 僕がそのコップを手にとって尋ねると、ヘイリーは小さく首を横に振って、立ち上がりかけた僕の膝に手を置く。自分のそばにいてくれ、ということらしい。ベッドの脇にコップを置いた僕は、ヘイリーの横で居ずまいを直しながら肩を抱いてやった、ヘイリーは相変わらずのゆっくりとした呼吸を繰り返しながら、力なく、僕の肩にしなだれる。ヘイリーはじっと、何かを考えているように見えた、目を閉じて、小さく口を開けて、気をぬくとまた乱れてしまいそうな呼吸を、なんとか繋ぎ止めている。そのまま、たぶん、長い時間が経った、僕もヘイリーも、まるで世界のあらゆる場所から孤立してしまった空間であるかのような、ぽつんとした部屋の中に二人、じっとしたままでいる。ヘイリーの呼吸は、ようやく平静を取り戻していた。落ち着いたことを確認する作業であるかのように、ヘイリーはひとつ、唾を飲み込む。僕は、こぼれ落ちる滴のような、言葉の気配を感じた、血色の戻ったヘイリーの唇が、誰の目にも留まらなかった野草の花のつぼみのように、小さく、ゆっくりと開く。

 「私のーー」

 ずっと黙っていたせいで、その声はかすれていた。

 「ん?」

 できるだけ優しく、無理をさせないように、僕は聞き返す。

 「私の、お父さん」

 「お父さん?」

 「私の、お父さん。死んじゃったの」

 「え?」

 「私の、お父さん。死んじゃったの。銃で、撃たれて。死んじゃったの」

 唐突に、本当に全く唐突に、ヘイリーはその話を始める。それは、僕が初めて聞くヘイリーの父親の話だった、そして、それは、僕が最後に聞くヘイリーの父親の話だった、つまり、ただ一度だけ、ヘイリーは、僕に父親の話をしたのだ。

 

 

物語のはじまるところ その10へつづくーー

物語のはじまるところ その8

 "I love you"

 初めてヘイリーと寝た後、ベッドに横たわりながら、僕は目の前のヘイリーの顔を見てそう言った。それはとても甘い時間で、僕はヘイリーの口からも同じ言葉が返ってくるのだと思っていた。けれども、僕にとっては意外なことに、それまでずっとにこにこしていたヘイリーの表情が一瞬固まり、怪訝な様子で見つめられてしまう。

 「……えっと、なんだかアメリカの映画とかドラマとか観ると、よく言ってるし、それに、日常的に愛情表現をするっていうイメージがあるから、なんていうか、言ったほうがいいのかなって思って」

 少なくとも、なんだか変なタイミングでそれを言ってしまったことだけは察して僕は恥ずかしくなり、懸命に説明して取り繕う。

 「まあそうかなって思った。ちょっとびっくりしたけど」

 「びっくりした?」

 「だって、普通は会ったばかりの相手にそんなこと言わないから」

 「でも、僕らは単純に会ったばかりの相手じゃないと思うんだけど」

 「キスしてもセックスしても、それイコール"I love you"っていうわけじゃない。そういう感情に対してというより、それだけじゃなくて、もっと深い、"関係"に対して使う表現なの」

 ぼくは文字通りきょとんとする。僕の持っているイメージからすると、それはむしろ、もっと気軽な言葉だった、テンションの高いアメリカ人どうしが、そこかしこでアイラブユーと言っているような感じがする。

 「それを言うには、もっと時間かかるってこと?」

 「はっきりと決まってないけど、ただ、いきなり言うのは、ちょっと……なんていうのか、"too much"って感じ? そういう人もいないわけじゃないとは思うんだけど」

 「重い、ってことかな」

 「そう、重い。いい表現ね。そのとおり」

 「僕のこと、重いやつだって思った?」

 「そうね。いきなりこれなら、来週にはプロポーズされるんじゃないかと心配になった」

 ヘイリーは笑顔に戻って、僕を見つめる。

 「それじゃあ、例えば僕は君に、なんて言ったらいいんだろう」

 「別に、特に決まった表現はないわ」

 「日本人どうしなら、「好き」とか言うんだけど」

 「男性はあんまり言わないって聞いたけど」

 「確かにそうかな。あんまりそういう感じのこと、言われたくない?」

 「そんなことない。言われたほうがもちろん嬉しい」

 「うーん。じゃあ、"I like you"とかは?」

 ヘイリーの唇が動いて、くすりと笑いをもらす。

 「あんまり使わないけど。まあいいわ。カワイイ表現じゃない?」

 そう言いながら、ヘイリーは僕の頭をなで回す。

 "I like you."

 "I like you too."

 しばらく見つめ会ってから、僕らは同時に吹き出した、"I like you"という言葉の気軽さといい加減さによって、真剣さがバカバカしさにとって変わり、僕らはそれを笑いあう。もしかしたら、それは単純に"I love you"なんて言い合うよりも、ずっと僕らを幸せな気分にしていたのかもしれない。

 

 ヘイリーとの日々は、常にそういうギャップやすれ違いや勘違いの連続だった、ただ僕らが幸せだったのは、そもそもすれ違うことが当たり前であって、互いが同じ価値観や通念を持っているという前提でコミュニケーションをせずに済んだことだ。多くのカップルにあるように、すれ違いが終わりに向かう亀裂になることはなく、むしろそれは始まりであり、僕らはその始まりを、何度も何度も繰り返すことができた。僕らにとって、すれ違いはコミュニケーションの決裂点ではなくて出発点だった、その度ごとに、僕らはそれについて意見を交わし、最後にはその滑稽さを互いに笑い合う。僕らは、互いが同じであることを確認し続け、来たるべきその決裂を先延ばしにし続けるような、ありふれたコミュニケーションをすることはなかったのだ。

 一緒にいる期間が、決して長いとは言えなかったせいでもあるのかもしれないが、本当の話、ヘイリーと僕は、一度もケンカをしたことがなかった。僕らは別に特別温厚で辛抱強い性格というのではなかったが、落ついて他人の話を聞くタイプの人間どうしであり、そして、無理に合意を求めず、よく分からない議論はいつも冗談で締めくくっていた。ただ、考えるに、僕らは実際のところものすごく奥深い部分において、共通のものを持っていた、そして、それこそが、僕とヘイリーを単純な衝突から守っていたように思う。その僕とヘイリーに共通していたものとは、自分が何か、この世界から切り離されて存在しているという感覚だ。カフカが、どんな場所へ行っても、まるで外国人のように収まりの悪い、そういう人間が存在しているのだということについて書いているが、もしかしたら、僕らはそういう種類の人間なのかもしれない。ヘイリーは表向きには明るさと優しさを備えた、他人から好かれるような雰囲気の人間だったが、その奥底には、彼女を人々から遠くへ運び去ってしまうような、強い孤独の影が潜んでいる、ヘイリーが打ち解けることのできる人間は決して多くはない、ただ同じように、なんらかの強い孤独に取りつかれた人間でなければ、そもそも彼女の孤独に気づくことはできないし、もちろん本当に仲良くなることもできない。一方で僕は、どこでだれと一緒にいて、どんなアイデンティティを共有していても、全く他人と打ち解けることはない人間だった、ずっと幼い頃から自分が他人とは遠く離れた、孤独の領域で生きることを運命付けられた人間なのだということに感づいていて、すでに十代のどこか、多分高校二年生くらいのときだったか、僕は他人と通じ合えないのだという事実を受け入れ、他人から、群れから遠く離れ、自分は自分の感覚だけを信じて、自分のためだけに考えて生きていくのだという決心をしたのだった。そういう意味で、僕は常に、外国人のような存在だった、たとえ同じ場所で生まれ、同じ言葉を話す人々と一緒にいても、僕は決して、自分がそのことで無条件に彼らと何かを共有しているのだという感覚を、持つことがない。だから、僕とヘイリーはたぶん、全くおなじ種類ではないけれども、互いに自分を他人から遠ざけざるを得ないような孤独を抱え込んでいた、そのせいで無理に相手と同じであるということを追い求める必要がなかったし、その代わりに、僕らはそういった価値や意味ではなく、交感とか共鳴とか、そういうふうにしか呼びようのないもので、互いにつながっていたのだ。

 しかし、僕にとって、そしておそらく僕のような人々にとって、最も不可解なことは、なぜ、僕らのような限られた人間だけがこういう感覚を抱いてしまうのだろうか、そしてまた、なぜ、他の人々は、こういう感覚を抱かないのだろうか、ということだ。彼らのように多くの人々が世界の中に産み落とされたのに対して、僕はまるで、世界の外に産み落とされてしまったかのような感じがする、それは何か、生まれ持ったとしか言いようがないような、根源的で決定的な分岐であるように思える。彼らが当たり前のように抱いている、自分は世界の一部であるという感覚を、僕は決して持つことがない。もちろん、僕は亡命者ではなくて、はっきりと保証されたアイデンティティを持ち、帰属する場所を用意されているが、そんなこととは無関係に、それでもなお、まるで亡命者のようであり、あらゆる場所に置いて、外国人のような存在だった。それは別に与えられたアイデンティティを拒否しているのではなく、そもそも、拒否するとか受容するとかいうことは問題にすらならなくて、そこにあるのは、僕と世界の間の決定的な断絶、としか言いようがないものなのだ。でも、これは僕のごくごく個人的な見解にすぎないし、思い込みにすぎないとすら言えるのかもしれないが、しかし僕個人が確信していることがあった、それは、僕は全くの孤独というのではなく、そこには小さな、しかし確実な希望があって、それは、僕らが孤立しているがゆえに、多くの人々のように他人に鈍感になることで帰属や共有の感覚を得るのでなく、僕らは他人という存在を純粋なものとしてつかむことができる、つまり僕らのような人々だけが、その絶対的な距離の向こうにいるはずの、他人というものと、通じあうことがあり得るということだ。僕はそのことに、ヘイリーとの出会いを通じて、ヘイリーと過ごした日々の中で、僕自身の皮膚感覚によって、気付いたのだ。それはヘイリーが外国人であるからではなかった、それは入り口にすぎない、ヘイリーが外国人でなければならない必然性はなかった、ただ僕は、この出会いを通して初めて、他人というものが、一体どういう姿をしているのかということを、ようやく知ることができた、それは今までのような人間関係の中に埋もれたままであれば、決して見ることのできなかった景色だったということは間違いない。

 ヘイリーと過ごす日々の中で、僕は幾度となく眠りに落ちて、目を覚ます、そこにはいつもいつも同じ顔があって、同じ緑の瞳が僕を見つめ返していた、そこにはまったく純粋でむき出しの、まばゆいばかりの他人の姿があった、僕はヘイリーの頬に触れる、僕は確かに他人に触れていた、ヘイリーとしか名指ししようのない、その人の頬に触れていた、ヘイリーという存在、ヘイリーという名前、僕のそばにいた、あのコの体温、あのコの感触。

 

 ただ、僕はいったい、どこまでヘイリーのことを分かっていたといえるのだろうーーかなり、ある程度、全然? 分かっていると思っていた相手が分からなくなることはもちろんあるし、近くにいると思っていた相手が実は遠くにいることに気づくことももちろんある。そもそも他人というのは、決して分からないものであり、相対的ではなく絶対的な距離の向こうに存在している、と言うことはできるのだが、しかし僕らは誰もが、相手を分かるとか、相手に近づくとか、そういうことが可能だという考えを捨てることはできないし、それどころか、そういうことに幸せを見出したりする。いったい、分かるとか近づくとかいうのは、どういうことなのだろうか。なぜこんなにも、僕らは孤独であることを運命付けられているのだろうか。言葉が現実のものに触れることは決してできないのと同じように、僕らが他人について本当に語ろうとするとき、その言葉の全ては空疎に響き、ことごとく粉々に打ち砕かれるだろう。だが、それでも、他人の存在だけが僕らの現実なのだ。僕がヘイリーについて語る言葉の全ては、風に吹かれて溶けるように消えていく塵であり、誰かの耳に届くとき、それはもはや、人の歴史の、いつかどこかで観られた、ひとつの夢でしかない。それはひとつの詩としてしか存在することはできない、意味を回避しつつ、意味から自由であることを目指しつつ語るとき、それは詩以外にありえない。ヘイリーは意味ではない、ヘイリーとは僕の現実であり、だから、言葉のうえにおいては、ヘイリーは詩としてのみ存在し得るのだ。

 

 

 

物語のはじまるところ その9へつづくーー

物語のはじまるところ その7

 "Wake up. It's already 10am."

 羽毛のような柔らかいふわふわとした感触が、鼻先をなでているのを感じて、僕は目を開ける。長い髪を下ろしたヘイリーが、僕の顔を覗き込んでいた、髪の毛が薄絹のカーテンのように揺れ、朝の光を解きほぐして柔らかい綾を作り、それが僕のまぶたをくすぐって心地よい目覚めを与えてくれる。ヘイリーの髪の毛は、アジア人の僕のそれよりも細く柔らかい。無造作に手ぐしを入れると切れてしまうので、それをなでるときは、とても丁寧にする必要がある。

 「おはよう」

 僕が眠たげな声で言うと、ヘイリーは微笑んで、僕の鼻先にキスをする。何の変哲も無い休みの日の朝の、僕の家の中の光景だった、ただその中に、ヘイリーがいる。僕はベッドから上半身を起こして、部屋から部屋へ歩き回るその姿を目で追っていた、ヘイリーのいる風景は、まるでこの家の全てを違ったものに見せる。突然外国からやって来たその闖入者は、ついこの間まで両親がいなくなった後の僕だけの孤独な世界だったその家に、そよ風のような幸福感を振りまいていた。この家に孤独を反復させ堆積させていた自動化されたシステムのような空気の流れが、ヘイリーの存在一つで変わってしまった。あれから僕らは何度か会ったりするうちに、こんな感じで互いの家を行き来する関係になったのだった。

 キッチンのほうから、甘い匂いがしてくる。朝食にするために、ヘイリーがパンケーキを焼いていた。ヘイリーは料理しながら鼻歌を唄っている、最初は流行りのポップスだったが、そのうちヘイリーのお母さんの作った歌になった、彼女の歌、ヘイリー・ベイリーの歌。シンプルで楽しい歌だった、いいかげんで、思わずくすりとしてしまうような。この歌を聴いた人は、ヘイリーが愛され満たされて生きてきたと信じるのではないだろうか、実際のところはどうであれ。のそのそと起き出した僕は、ヘイリーを手伝うためにキッチンへ入った。手伝うと言っても、皿を並べるとか道具を片付けるとかくらいの話だったけれども。

 "Enjoy."

 できあがったパンケーキを、ヘイリーが僕の前に置いた。ふわふわとして、表面はきれいなキツネ色、それはもう見事に焼き上がっていて、その上にはブルーベリーのジャムとホイップクリーム、そして本物のブルーベリーも乗せてある。

 「おいしい」

 本当においしかったので、僕はそう言いながら子供みたいにパンケーキを頬張った。

 「もしブルーベリーがもっと安かったら、自分でジャムを作りたいんだけど」

 日本でフルーツを買うと高いということについて、ときどきヘイリーは不満を漏らした。外国で暮らしたことのない僕には全く比較のしようがなかったが、ヘイリーが作ったブルーベリージャムでこの絶品パンケーキが食べられないのは残念だということだけは確かだ。

 「本当においしい。どこで作り方覚えたの?」

 「お母さんから習った。生地の作り方から、焼き方の、細かいタイミングまで、全部」

 しばしば、ヘイリーは母親の話をした。ジェイムズやアリスにもそういう所があったが、彼らはしょっちゅう家族のことを話題にする。それは仮に僕が両親を亡くしているということを差し引いても、不思議な感じだった、日本人の友達や恋人といるときに、両親の話題が出ることは、彼らがそうするのに比べたらずっと少なかった。ただ、アリスとジェイムズと比べても、ヘイリーが母親の話をする回数はとても多かったし、それより不思議だったのは、これほど母親の話をするヘイリーが、父親の話は全くしないことだった。父親よりも母親のほうが子供との距離が近いというのは多くの家族において見られることだったが、いささかそのギャップが大きすぎる気もしていた。

 「お母さん、料理が得意だったの?」

 僕は会話を続ける、父親のことは、遅かれ早かれ聞くことになるだろう、くらいにしか思っていなかった。

 「そう。母親の趣味みたいなものだった」

 「こんなおいしいパンケーキを作れるんなら、たいしたもんだよ」

 「そうでしょう?」

 ヘイリーが頻繁に母親の話をすること自体はけっこうなのだが、僕にとって困ったことは、それを聞くたび、聞けば聞くほど、僕の罪悪感が積み上がっていくということだった、何度もヘイリーと会って、親密になってしまうことで、僕はその母親からのプレゼントだったストールを返すタイミングを完全に失ってしまっていたのだ。そのことは、僕とヘイリーが一緒にいるという生活が、どこかで借り物の現実であるかのような感覚をもたらしている。この生活は僕がこっそり盗み取ったもので、ストールを返すことで、何もかもが、夢から覚めたかのように、消え去ってしまうような気がしていた、これほどヘイリーと親密な関係になっても、未だにこんなのは僕の今までの人生からすれば現実離れしているという感じがある。

 パンケーキを食べ終えると、僕らはキッチンを片付けた、ヘイリーがいつも料理をするので、皿洗いは僕の仕事になっている。その後は、二人でソファに座って日本のバラエティ番組を見ていた、日本語がかなり流暢なヘイリーでも、お笑いなどの理解は難しいようで、僕には少しベタに思える所や、普通は日本人が面白さを見出さないような所で笑ったりしていたし、一方で、僕が笑う時には、ヘイリーにはそれがどうして面白いのか直感的には分からないらしい所がちょくちょくあった。しばらくだらだらと過ごしてしまっていたが、別にとりわけテレビを見たいというわけではなく、僕らは単に手持ち無沙汰の時間を潰していただけだった。僕らは、アリスからの連絡を待っていた。

 

 「やっぱり行かないみたい」

 ようやく来たアリスからのメッセージを見て、ヘイリーがつぶやく。

 「行きたくないのかな?」

 「嫌いなんだって」

 「何が?」

 「その、ジェイムズの友達の人」

 僕ら三人は、ジェイムズから彼の友達らしき人がやるコンテンポラリー・ダンスのパフォーマンスを観に行かないかと誘われていた。僕もヘイリーもその友達と面識はなかったが、アリスは一度だけ会ったことがあるらしく、「なんか嫌い」だと思っているようだった。感覚的に判断する所が彼女らしい。

 「なんで?」

 「うーん。よく分からない。どんな人なのか私も知らないし……。ただ、ジェイムズは、その人に気があるみたいなんだよね」

 「ええと、それは、アリスが嫉妬してるってこと?」

 「そうじゃないと思うんだけど。まあ、アリスのことだから、よく分からない。ていうか、きっと自分でも分かってないと思う」

 「どうしよう?」

 「私は、どっちでもOKだけど」

 ヘイリーは(そしてジェイムズやアリスもそうだったが)、けっこう「どっちでもいい」という言い方をする。僕が刷り込まれたステレオタイプによれば、欧米人というのは常にはっきり意思表示をする人々だったのだが、わりかしゆだねたり譲歩したりもするらしい、もちろん必要なときには、はっきりと意見を述べるのだが。

 「そうだな。ジェイムズが好きでアリスが嫌いだっていうのは、いったいどんな人なのか見てみたい気もする」

 「私もちょっと気になってる、実は。ジェイムズはイケメンだからけっこうもてるけど、あんまり他人にそういう興味を示すことは多くないから。どんな人なのか、見てみたい」

 「よし、それじゃあ行こうか」

 「うん。せっかく誘ってもらったしね」

 ジェイムズの招待に応じることで合意ができると、ヘイリーはすぐにアリスに「気が変わったらいつでもおいで」とメッセージを送った。点けっぱなしのテレビから「わあ」と歓声が上がったのでそちらを見る、照明をたっぷり浴びた有名レストランのステーキがアップで画面に映し出されており、ソースと絡み合う油がきらきら輝きながらしたたっているのを観て、タレントたちがめいめい「食べたい食べたい」と連呼している。

 「日本のテレビは、食べ物と動物のことばっかりやってる」

 あくまで素直な感想といった感じで、ヘイリーが言う。

 「僕は日本のテレビしか知らないけど」

 「だいたい何時みても、そんな感じ。日本人は食べ物と動物が大好きなのかな」

 そう言われて、僕は首をかしげる。あんまり日本人がそういう人たちだと思ったことはない。

 「みんなで共有できる無難な話題というのを突き詰めていくと、その二つに絞られるのかもしれない」

 ぱっと思いついたことを、僕は答える。昔なら流行りの歌とか野球とか、そういうものもあるいはそうだったのかもしれないが、今はそういう時代じゃない。例えば家族がみんなで観られる番組なんて、かなり限られてくるだろう。

 「ああ。そうかも。日本のテレビはチャンネルが少なくて、みんなが同じものを観てるもんね」

 これほど人々の嗜好が細分化されていく時代にあっても、みんなで共有できるものを求め続けるという、人々が持つある意味滑稽な本性を、食べ物と動物が象徴している気がした、そしてその滑稽さの奥に浮かび上がる、孤独を解決できない人々の無自覚な寂しさを、僕は見つめていた。ふと、ヘイリーに辛辣な言葉を浴びせた老人のことを思い出した、彼は、もはや手のつけられないほど、無自覚な寂しさにその精神を蝕まれていたのかもしれない。

 

 会場は、普段はサブカルやアート系の音楽をメインでやっているクラブだった。以前に世界的に有名なノイズ音楽のミュージシャンのライブを観に来たことがあったが、けっこう久しぶりなので、僕はきょろきょろとして、微妙な内装の変化を見つけたりする。基本的な造りはどこにでもあるクラブという感じだったが、ステージがちょっと高い所にあるので、後ろの方からでも演者がよく見える、その両サイドには、そびえる二体の守護神の巨像のような、どでかいスピーカーが積み上がって、観客を迎え撃つように凝視して立つ。開始の五分ほど前に会場に入ったのだが、すでに多くの人でごった返していた。友達どうしの内輪的なパフォーマンスになるのかとばかり思っていたが、意外にもそういう雰囲気ではなく、いろんな人たちが観客としてそこにいるようだった。

 「なんか人、多いね」

 はぐれないように、僕はヘイリーのそばをキープしながら、ジェイムズを探して会場を移動する。

 「そうだね。その友達って、けっこう有名な人なのかな」

 知り合いどうしで固まっている人たちもいたが、一人だけとか、僕らみたいにカップルで来ている様子の人もけっこう多い。会場は薄暗く、ジェイムズは見つからなかった、しょうがないので、ステージが見える位置をキープして、パフォーマンスを観ながら探すことにする。僕がステージを眺めている間、ヘイリーは隣に立った中年の女性から話しかけられ、なにやらそれに応じていた、フランス語なまりの英語のようで、僕には何を言っているのか全くわからない。モノクルをかけて、真っ赤なスプリングコートを着ているやたらおしゃれな女性は、たぶんアート関係の仕事とか、もしくは大学教員とか、そういうことをしている人にも見える。

 「なんだか、やっぱり注目されてる人らしい」

 中年女性との会話を終えたヘイリーが、たったいま聞いた内容を僕に説明してくれる。その女性は、どうやら日本を旅行中の雑誌記者らしく、気鋭の若手ダンサーである『カルロス・アレナス・クセナキス』(もちろん三人トリオというわけではなく、これが彼のフルネームだそうだ)、つまりそのジェイムズの友達のパフォーマンスを半ば取材がてら観に来たらしい。

 「何人なの?」

 「アメリカ人だけど、お父さんがキューバ系で、お母さんがギリシャ系だって」

 僕の頭の中で世界地図が展開して、想像が海を越えてぐるぐると駆け巡る。日本人どうしだと父親が北海道出身で母親が沖縄出身とかでも驚くのに、特にアメリカ人と話していると、それぞれの人が持つルーツのスケールの大きさにめまいがしそうになった。

 会場で控えめに鳴っていた音楽が止まり、照明がふっと落ちる、パフォーマンスの始まりを知らせる合図だった、雑談に興じていた人々のざわめきが、徐々に、収まって、みんながステージに視線を向ける。観客席もステージも、しばらく真っ暗なままだった、隣の観客の呼吸音が聞こえるくらいに沈黙がはりつめたとき、ステージの奥から、不意にゆらゆらと揺れる白熱球が灯り、それが、じわじわとこちらへ前進してくる。そのうっすらとした光の奥に、上半身をむき出しにした半裸のダンサーの姿がぼんやりと浮かび上がっていった、暗黒からにじみ出た液体のようなダンサーは、コードにつながれたその白熱球を手にぶらさげて、猫背になり、舞踏のような不気味で緩慢な動きで、闇を這うように蠢いていた。その演出は、闇をめぐる日本の美意識に想を得ているようにも見える。ようやくステージの中央まで来たとき、ダンサーはその白熱球を天井にかかったフックに結びつけた。暗闇に慣れてきた僕の目は、その浅黒い肌に覆われた金属的な質感をした筋肉でできた肉体の、異様なまでにくっきりとした無数のユニットからなる建築物のような構造をとらえていた。ステージの両端にある巨大なスピーカーから、非常にかすかで繊細なノイズ音が聞こえて来る、そしてダンサーは、その白熱球の周りをぐるぐると回るように踊り始める、硬い筋肉が、体を動かす瞬間だけ鞭のようにしなって闇を切り裂き、白熱球の光の中へと現れる、灯りから遠い部分は闇へ隠れ、近い部分だけが観客の視界に入り込んだ、腕が、顔が、脚が、闇の中から現れては消え、消えては現れ、ダンサーの全体像は、観客の想像力の中で構築されてはそれを拒むように溶け出し、ぼやけながらも強度を増していく。白熱球はダンサーの動きに影響されて振り子のように揺れ、ダンスのスピードが加速するに従ってどんどん不安定になっていき、全くランダムにステージへ光を落としていた。激しく踊りだしたダンサーは点滅する発光体のようにめまぐるしく照明の中へ出入りして、その姿を注視する会場には、ダンサーの荒々しい息遣いが響く。やがてそのスピードが頂点に達した瞬間、突然にダンサーはステージの中央へ這い出し、嘘のようにぴたりと動きを止めた。完全に魅了された観客たちの視線の中で、揺れる白熱球に照らされたその完璧な肉体を構築する筋肉が、音を立てるダンサーの呼吸とともに上下して、その汗によってぬらぬらと光っていた。そしてそのまましばらく静止した時間が続いた後、白熱球はふっと消えて、そこにはただ奥へ奥へと引きずられるような闇が残るばかりだった。

 パフォーマンスはそこで終了し、圧倒されて興奮した観客から長い長い拍手が送られる。

 「なんだか期待以上だった」

 感動を隠さずに僕は言った。

 「うん。あんまりコンテンポラリーのダンスって観たことなかったけど、面白かった」

 拍手しながらヘイリーが答える、イベントが終わったので、周囲の観客たちがぱらぱらと帰り始めていた。

 「ジェイムズはどこにいるんだろう」

 「そうね。もっと空いてるイベントだと思ったから、簡単に見つかるって予想してたのに」

 僕らはきょろきょろしながら、観客が片付くのを待った、たぶんジェイムズも僕らを探していることだろう。けれども、なかなかジェイムズは見つからなかった、観客の中にはまあまあの数の白人男性が混じっていたので、いつも日本人の人混みの中にいるときのようには目立たない。

 「来てないのかな」

 意外とそんなことかもしれないと思いながら、僕はつぶやく。

 「まさか。招待したのはジェイムズだし、大事な友達のパフォーマンスだし、来てると思うけど」

 「だよねえ」

 と言いつつ、これだけ見回しても見つからないので、本当にそうかもしれないと思ってみたりする。

 「あっ」

 短く声をあげて、ヘイリーがステージの横のあたりを指差した。そっちを見てみると、そこに固まっている関係者みたいな人たちに混じって、僕らのよく知るジェイムズの姿があった。ジェイムズはなんだか自分の存在を持て余したかのように、控えめな位置に立って、パフォーマンスを終えて関係者たちの前に現れたカルロス・アレナス・クセナキスを見つめていた。カルロスはさっと関係者全員の顔を確認しながら両手を挙げて来場に感謝するような動きを見せると、その中の一人だった眼光鋭い老紳士の所へ行って、軽いハグを交わす。たぶん、一番の重要人物なのだと思われる。

 「なんだかもじもじしてるみたいだな、ジェイムズは」

 「好きな人の前では”奥ゆかしい”感じになっちゃうのかな」

 カルロスを見つめるジェイムズの目には、どこか相手を恐れるような弱々しい光が灯っていた。

 「じっと見つめてばかりだね」

 "Yeah, he's in looove."

 ヘイリーがおどけて肩をすくめる。

 「どうしよう。待っとく?」

 「いいよ。行っちゃおう」

 ジェイムズをひやかすような感じで、ヘイリーは遠慮なく彼に近づいていった、僕もとりあえずその後を追う。

 "Hi!"

 近づきざま、ヘイリーがひじで軽くジェイムズをつつく。

 "Oh, hey."

 ほとんど上の空で、ジェイムズが返事をした、まるで僕らが現れたことになんの感動も示さないかのように。

 「ずっとここにいたの?」

 自分の存在をいちおうアピールするかのように、僕はヘイリーの後ろから顔を出して尋ねる。

 「パフォーマンスが始まる前に君たちのことを探そうかと思ったんだけど、予想より人が多くて。それに、ちょっとした仕事もしないといけなかったんだ」

 「仕事?」

 「パフォーマンスの写真を撮ってくれって頼まれたんだ、カルロスに」

 そう言って、ジェイムズは首から下げた一眼レフを僕らに見せる。大学で美学を専攻していたジェイムズは、趣味で写真をやっていた、その腕はほとんどプロ級で、彼のインスタグラムにはまあまあの人数のフォロワーがいる。彼がアリスやカルロスのような芸術家タイプの友人たちと交流があるのもそのせいだった。

 「こういう写真、確かに得意だもんね」

 ジェイムズはモノクロ写真だけを撮り続けていて、光と影による表現にかけては抜群のセンスを持つ。カルロスからこのパフォーマンスの撮影を頼まれたというのは、よく分かる話だった。

 「まあ、他の写真よりは。モノクロのやつばっかり撮ってるし」

 ジェイムズは謙遜してはにかんだが、やはりカルロスが気になるようで、何度も視線がそちらへ流れていた。

 「話しかけないの?」

 ヘイリーがあごでカルロスを指しながら尋ねる。確かに、友達のわりに、ずいぶん遠慮をしている。

 「あんまり邪魔したくないんだ」

 ジェイムズは僕らに微笑んで見せたが、秘めた感情は隠しきれず、顔に一抹の寂しさをのぞかせてしまっている。カルロスはたぶん、彼の中で重要度の高い自分から順番にあいさつを交わしているように見えた、つまりジェイムズの重要度は、それほど高くないらしい。その場にいる人々の全てとそつなく会話をこなしていく姿は、ダンサーとしての才能だけでなく、社交術においても抜け目のなさを感じさせる、一部の人間が持っているような、常に多くの人々に囲まれるという才能ーーそういうものも、カルロスは持ち合わせていた。

 "Hey, thanks for coming."

 そのうち、ようやくカルロスはジェイムズの前に現れ、ジャガーが獲物を捕らえるような豪快かつしなやかな動きで、ジェイムズをハグする。今までの気弱な表情がぱっと明るくなり、ジェイムズはカルロスを見つめた、その視線は、魅入られている人間のものに間違いない。カルロスは黄金比でデザインされたかのように美しい顔と体を持っている、誰もがその姿に、目を奪われてしまうことだろう。ジェイムズはすぐに、カルロスに撮影した写真を見せはじめた、彼はまるで恋愛下手な女性が、自分を利用する男性に尽くしてしまうのと同じように、好きな男性に媚びて、気に入られようとしてしまっているみたいだった。その姿に僕は、なんだか嫌なものを見てしまったような気にさせられる。

 "Oh, they're my friends."

 ほとんどそっちのけにしていたことを悪いと思ったのか、急にジェイムズが僕らをカルロスに紹介する。

 "Hi, did you like it?"

 社交辞令として、カルロスは僕らにパフォーマンスの感想を尋ねる。その顔に浮かんでいる社交慣れした笑みは、確かに初対面の人であっても惹きつける力を持っている。でも、僕はその裏にある、他人に対する徹底的な無関心を見逃さなかった。社交欲の強いタイプのほとんどは意外と他人に対して鈍感なものだが、カルロスの場合は芸術家気質も加わって、ある意味では他人から最も遠い所に立っているような人間だった。

 "Oh yeah, it was excellent!"

 ヘイリーが感想を述べるが、だいたいそういうコメントを聞き慣れているのだろう、カルロスはそつない感謝を示しながら、それ以上ヘイリーや僕と会話を続けようとはしない。その表面的な人当たりの良さの奥には尊大さが見て取れる。彼のように才能がある人物の多くにはそういうところがありがちなものだとは思ったが、要するに、カルロスは自分より優れていないと見なしたものを心のどこかで軽蔑する、そういうタイプの人間だった。

 "Hi, Carlos!! how are you?"

 そのとき、横からモデル風の女性が現れ、カルロスに身を寄せるようにしながら話しかけてきた。美人だが、その立ち振る舞いにはあまり品性のようなものはない、才能ある芸術家の男の周辺をうろつくタイプの女だと、すぐに分かる。しかしカルロスは満面の笑みとハグで応え、そのまま女性の腰に手を回して、だいぶ馴れ馴れしい感じで会話を始めてしまう。それを見て、僕は妙な感じがした、さっきのジェイムズとのやりとりにも、そこにはかすかな性的アピールのにおいがしていたので、カルロスもゲイなのだと思ったのだが、その女性に対してもまるで同じような、性的なやりとりの雰囲気が漂っている。少なくとも、カルロスはジェイムズが自分に好意を寄せているのを知っているはずだったし、カルロスもまた、ひどく思わせぶりな親密さを見せていたはずだった。しかしそのジェイムズが見ていることなどまるで意にも介さず、というよりもはや眼中にすらなく、カルロスはその女性の耳に、ほとんど唇が触れるくらいの距離から何かを囁いたりする。ひどく甲高い、下品な笑いが女性の口から漏れた、ジェイムズの気持ちを考えると、全く見たくない光景だ。カルロスには、他人の気持ちに対する異様なまでの冷淡さがあり、同時にそれをカバーしてあまりある、社交の能力を備えてしまっている。ひどく鈍感で残酷な男だと思った、どうしてジェイムズは、こんな男のことが好きなんだろう、僕はそんなことすら考えたが、しかし、カルロスはその残酷さを正当化してしまうほどに美しく、強い精力を振りまいて、人々を魅了してしまう。

 

 「もうちょっと、ジェイムズと喋ってくれてもよかったのにね」

 イベントからの帰り際、ヘイリーがジェイムズに向かって言う。結局カルロスはジェイムズに再びかまうことはなく、そのままあの女性と一緒に控え室まで引っ込んでしまったのだった。

 「いや、いいんだ。彼は忙しいから。ちょっと話しかけてくれただけでもありがたいよ」

 ジェイムズには恨み言を言うような様子は全くない、それどころか、カルロスをかばうような口調ですらある。

 「でもさ、あの人、ジェイムズに気があるの知ってたはずでしょ? もうちょっと気を遣ったらいいのに。あんな見せびらかす感じで、つまんない女と仲良くしちゃって」

 僕はヘイリーの意見に賛成だった、ただ、見せびらかすというのはカルロスの意図にはなくて、彼は単に、他人の気持ちに極端に鈍感なだけだと思った。

 「彼はそういう"exclusive"な関係を求めたりはしないのさ。別に、一回か二回そういう"カンケイ"になっても、カルロスはそこに特別な意味を与えたりしない」

 僕はそこでようやく、カルロスがバイセクシャルだったのだと気付いた。ジェイムズと彼の間で一回か二回は、そういう"カンケイ"が結ばれたらしい。でもそのことはたぶん、カルロスからすれば、ジェイムズはあの下品な女と同じような扱いなのだということを意味するだろう。

 「あっちこっちで、そういう相手を捕まえてるやつってことなの?」

 「奔放なのさ。彼は誰のものにもならない。そして、誰も彼のものにはしない。自由だけがカルロスを捕らえてる。"monogamy"への執着なんて、彼にはないよ」

 「ジェイムズはそれでいいの?」 

 「僕はただ、カルロスが好きなだけだ」

 「うーん。そんなのって、……ねえ?」

 急に、ヘイリーが同意を求めてくるが、僕はただ、あいまいに首をかしげただけだった。正直言えば、それはカルロスとジェイムズの意思の問題だと思っていた。ただ多くの女性は、そういう奔放な性のありかたと、それをジェイムズが受け入れてしまっているということに納得がいかないのだろうし、ヘイリーのその気持ちを、想像できないこともない。もしかしたら、アリスもまた、そういう理由でカルロスを嫌いだと言っていたのかもしれない。

 「まあ、嫉妬がないのかって言われたら、それは嘘になるよ」

 「やっぱり」

 「でも、カルロスにとって、"exclusive"な関係というのは弱さの証なのさ。強い人間は、気のおもむくままに、相手を求め続けるというのが、彼の持論なんだ」

 「ずいぶん"masculine"なのね。強さへの"obsession"なんて、過剰に男性的な感じがする」

 「カルロスは、そういう意味ではかなり男性的だよ。むしろ、その過剰な「男性性」が、彼をバイセクシャルにしている気もする」

 「そういうもんなの?」

 「いや、僕も分からないよ。自分がLGBTだからって、他のLGBTのことが理解できてるわけじゃない。でもとにかく、カルロスは文句がつけられないくらい自由で美しい。そんな理屈では、彼を捕まえられないよ」

 僕は全く、二人の会話には入れなかった。今までそういう人たちの存在についてまともに想像したこともない自分が、ちゃんとした意見など持ち合わせているわけもなかった、二人の会話に入れるような知識も考えもない。少なくとも僕が感じることができたのは、”ノーマル”と考えられている男女間の交際については、ノーマルであるがゆえにスタンダードや規範がそれとなく多くの人に共有され、人々は大なり小なりそういうものに従いつつ恋愛をするのにたいして、彼らのそれは、社会的通念と言えるほどにはっきりした交際のスタンダードがなくて、そのあいまいさと人間臭い感情の間で、ジェイムズは揺れ動いているということだった。

 「でも、まだ彼を追いかけるつもり?」

 ヘイリーは、どうしても納得いかない様子で尋ねる。たぶんジェイムズは飽きられて利用されているだけだったし、第三者の視点から見れば、ヘイリーの意見は正しい。

 「まあ、彼に魅力を感じている間はそうするよ。そばで見られるだけでもいいんだ。あれだけ美しくて才能のある人間と、僕は知り合いになったことはない」

 そう言いつつも、ジェイムズの表情にはひどく疲れたような雰囲気の寂しさがつきまとっていた。あまりに遠く、手の届かない距離にあるものを求めて、その切望に夢中になることで感情を支配されてしまい、自らの心身が弱っていくことに気づかない、そういう人間の表情をしている。けれども僕は、ジェイムズの気持ちを想像せずにはいられなかった、明日、もしヘイリーが僕を嫌いになって、どこかへ去ってしまったとしたら、僕は、ジェイムズとまったく同じ表情になるのかもしれない。遠く美しいものが与えるその喜びは"ravishment"であり、それは奪うことによって恍惚を与える、それは与えたものを奪うのではなく、人が以前から持っていたものを根こそぎ奪うことによって、恍惚を与えるのだ、だから、遠く美しいものを失った人間は、文字通り全てを失う、失うことで今までの自分に戻ってしまうのではない、それを失ってしまえば、人は、二度と元の自分の戻ることはできないのだ、そのとき初めて、自分が以前とはまったく異なった人間になってしまっていることに気づくだろう。

 

 

物語のはじまるところ その8へつづくーー

物語のはじまるところ その6

 んの昼過ぎからパーティーが始まったせいで(ギャラリーの近隣との兼ね合いによるらしい)、夕方になる頃には、アリスがベロベロに酔っ払ってしまっていた。彼氏と別れたのが昨日の今日なので、晴らそうとしている憂さがだいぶ深いのか泣いたり笑ったり情緒不安定で手を焼かされた。ヘイリーになだめすかされ、帰る方向が一緒のジェイムズに引き取られて、ようやくアリスは会場を後にする。

 結果的に、僕はヘイリーと一緒に帰ることになった。外はまだ明るく、ぶらぶらするのにもちょうど良い気候だった。二人並んで街中を歩いていると、やたらと通行人の視線がこちらに向けられるのを感じた、ヘイリー自身がそもそも目立つのだが、日本人の男性が外国人の女性と連れ立って二人で歩いているということが、よけい人々の注目を集めてしまっているらしい。まあ、そりゃそうだろうな、と僕は思いながらも、他人からジロジロ見られるのは決して良い気分ではなかった、ただ、ヘイリーやジェイムズにとって、こんなふうに道行く人々から無遠慮な視線を浴びるというのは日常的な体験なのだということを、僕は想像させられる。

 僕とヘイリーは、ぽつぽつと言葉を交わしながら、ゆっくりと歩いていく。お互いの普段の生活のことから始まって、互いの国の社会や文化について面白かったり変だったり思うこととか、そんなことを喋っていた、ヘイリーは頭の良い人だったので話をするのは楽しかったし、けっこう深い内容についても意見を交換したりできたのだが、いかんせん会ったばかりの二人だったので、一瞬会話が途切れたりすると、妙にぎこちない雰囲気が漂い、僕もヘイリーもそれをごまかすように会話の糸口を探すことになった。ただ、その合間の沈黙には、お互いがその距離を測っているような感じがあり、決して居心地の悪いものではない。

 「ちょっと、あの公園寄っていかない?」

 このまま歩いて行くと、すぐに駅に着いてしまって別れなければいけなくなるので、思い切って僕はヘイリーを誘ってみる。今までから、ヘイリーが僕なんかに興味を持つなんてことはないんじゃないかと勝手に考えてしまっていたので、こんなことをするのにはだいぶ勇気が要った、たぶんアリスがあんなことを言ってくれていなければ、このまま僕はヘイリーを見送ったことだろう。

 「桜がきれいなんだ」

 唐突に提案した僕をふっと見上げたヘイリーの視線に何だか焦ってしまい、僕は慌てて付け加える、そういえば桜の咲く季節だったなんてことを思い出しながら。僕の緊張した様子が伝わったのか、ヘイリーはそれを解きほぐすようにくすりと笑いながら、「うん」とうなずきを返す。

 僕とヘイリーはそのまま連れ立って公園へと足を踏み入れる。いくらかの花見客が桜並木の下を陣取っていて、期待したよりは賑やかな光景だった、もうちょっと静かな方が二人で歩くにはよかったなと思いつつ、あんまり静かすぎるくらいなら、まあこんな感じも悪くないかと考え直す。

 「楽しそうだね」

 ヘイリーが花見客たちを見ながら言う。

 「風情は台無しだけど」

 「桜のきれいさのほうが、大事?」

 「別にそういうことでもない」

 「日本人が宴会するときは、なんだかみんなの顔が見えるような気がして、面白い」

 「顔?」

 「たぶん自分に素直になるのね、普段はみんなどうしても集団に合わせて控えめにするから同じようなことを喋ってしまって、誰と話してもその集団の標本みたいだけど、ああいうときはちょっとだけそれぞれ自分勝手なことを言うから」

 「まあ、そういうもんかな」

 本当のことを言えば、僕は特に桜にも花見客にも興味があるわけではなくて、ヘイリーと少しでも長く時間を過ごせる口実があればそれで良かっただけだった。

 "Oh, that's pretty."

 ひときわ見事な木が公園の中心のあたりに植わっていて、満開の花を見てヘイリーがつぶやく。つられて、僕もその木を見上げる、ただ、僕はむしろ、もっと遠くにある空を見ていた。綿毛のような小さい白雲が浮かぶ空は、とても高く、澄んで青い。僕はストールのことを思い出す、こんな美しい日よりの中にいるヘイリーがそのストールを身につけていたら、どんなに鮮やかだっただろうと感じながら。なぜだか、目の前のヘイリーが、本当の姿をしていないような気がした、僕がカバンの中に隠したストールを身につけていなければ、彼女の本当の姿を見ることができないような気がした。

 "kawaii."

 たぶんわざとだろうけども、英語訛りで「可愛い」と言いながら、ヘイリーはスマホで桜の写真を撮っていた、健康的なピンク色の唇の間から真っ白い歯をのぞかせて微笑み、けっこう楽しそうにしているヘイリーを見て、僕はとても幸せな気分になる。ヘイリーは、自分のために笑う人だった、誰かに自分を良く見せたりするために、その笑顔を浪費したりはしない、自分が楽しいときだけいつも、その自然な笑顔が口元からこぼれて、僕をはっとさせる。その笑顔のたびに、僕はヘイリーに惹き込まれていく。

 ふと、その公園の広場の隅から、こちらを見つめている視線に僕は気づいた。ずっとそこにいたのだろうか、歳は七十くらいの老人が、ぽつんとベンチに腰掛けている。老人は一人だけのようだった、缶ビールをすすっているが、他のどの花見客のグループにも属していない雰囲気で、仲間たちと浮かれ騒ぐ他の人々とは全く違って楽しそうではない、顔はこわばり、どこか寂しそうで、暗い底へ光が沈んだ薄闇のような目をしている。灰色のジャケットを羽織り、禿げた頭を隠すように紺色のキャップをかぶっているが、襟足から、ほつれた糸のような白い髪の毛がはみ出していた。ほぼ同時に、ヘイリーも老人に気づいてそちらを見る、老人は僕というよりヘイリーを見ていたせいで、二人の目が合ったようだった。するとおもむろに老人は立ち上がり、ふらふらとおぼつかない足取りでこちらへ向かってきた。僕は嫌な予感がして、気持ち二人の間に入るようなかたちで、ヘイリーの前に立つ。

 「おい」

 老人は僕にともヘイリーにともつかないような感じで声をかけてくる。舌のもつれたもごもごとした声で、その目は僕らに焦点を合わせるのをあえて避けるように泳いでいた。老人は僕を挟んでヘイリーの前に立つ。

 「こんなところで、ガイジンが何をやっとる」

 半ば独り言のような感じだったが、しかし同時に、それは間違いなくヘイリーに向けられた言葉だった。

 「桜が、きれいだったので、見てたんです」

 ヘイリーが答える、できるだけ落ち着いた態度でいようとしているのが僕には分かった。

 「何でオマエにそんなんが分かるんや」

 不自然なタイミングで、老人の言葉は怒りをにじませた強い口調になる。

 「何でって……」

 ヘイリーは驚くと同時にあきれたような感じで、言葉に詰まる。

 「桜の美っちゅうんは、ガイジンなんかに分かるもんじゃない」

 「……そうなんですか」

 ただただ困った様子のヘイリーは、老人に何と返していいのか分からないようだった。

 「そうなんですかやないわ。これは日本人のもんや。オマエがこんなところで何をやっとる。ガイジンは国に帰れ! これは俺たちのもんや、帰れ帰れ!」

 いきなり本当に怒り出した老人に、僕は唖然としてしまった。腹の底でこういう感情を抱いている人間が多少でも存在している事実を知らないわけではなかったが、しかしそれをを露骨に口に出すなんていう行為を目の当たりにすることがあるとは、夢にも思っていなかった。せいぜい家の中でそれを愚痴のようにぼやいているか、もっと若い世代ならばネットに書き込んで憂さをはらすくらいのことはあっても、生身の人間に対して直接それを言う人間がいるなんてことは、全く僕の想像の埒外にあったのだ。

 「帰れ!」

 老人は一歩前に踏み出して、ヘイリーにその言葉を投げつけた、たぶんもっと近くからヘイリーの顔をのぞきこもうとしただけだったのだろう、だが、その瞬間、老人がヘイリーに危害を加えようとしたのだと僕は思ってしまう。考えるより早く、僕は老人の正面へと割って入り、反射的にその肩をつかんで、勢いよく突き飛ばしてしまった。

 「あっ」

 短く声を上げて、老人はその場で尻もちをついて倒れてしまった、その威勢が嘘のように、あまりにもろく老人は崩れ落ちたのだ。持っていた缶ビールが転げ落ちて、どぼどぼとこぼれた中身が地面を濡らし、砂の中へと吸い込まれていった、ビールの嫌な臭いが、かすかに僕の鼻を刺激する。倒れた老人を見て、自分たちに敵対してきたものがここまで弱い存在でしかなかったことに僕は拍子抜けすると同時に、やりすぎたのかもしれないと思いながら、様子をうかがう。ヘイリーは、驚きとショックのせいか、青ざめた表情で唇をふるわせていた。老人はうめき声を漏らしながら、すぐに体を起こす。さいわい、どこも怪我したりはしていないようだった。

 「大丈夫ですか、すいません。つい、とっさに……」

 僕は駆け寄って、老人を助け起こす。老人は僕に引っ張られるままに立ち上がった。

 「くそ、くそ、くそ」

 老人はぶつぶつと言っていたが、もはや僕らに聞かせようという意思はないらしく、視線をふせたままひざのあたりの砂を払う。僕は変に刺激しないほうがいいだろうと思って、黙ったまま何もせずその姿を見ていた。老人はしばらくそんなふうにして、何かを考え込むように幾度となく目を細めたり見開いたりしていたが、すっかり戦意を失ったようで、それ以上何も言ってこなかった。終戦の前後の生まれでもおかしくはないこの老人の人生には、もしかしたら外国人に恨みや鬱屈した感情を持つような体験もあったのかもしれないが、だからといってこういう行為を許せるわけでもない、と思い、僕もそれ以上謝ることも助けることもしなかった。結局、老人は一度だけ恨みがましく舌打ちをすると、そのまま僕らには一瞥もくれず、ゆっくりと公園の外まで歩いて行ってしまった。

 そして再び広場には、僕とヘイリーの二人だけになる。おそるおそる、僕はヘイリーの顔を見る、いつも屈託ないヘイリーも、さすがに苦しそうな顔をしていた。あたりまえだ、あんなことを言われて、傷つかない人間がいるわけがない、ヘイリーは別に、僕らと異質な精神を持った存在ではない、僕らと全く同じように、悲しみ、喜び、怒り、他人を思いやるような、そういう存在、それ以上でも以下でもないのだ。しかし外国人、あるいはガイジンという認識が、あの老人のような人々に、それを忘れさせてしまう。

 「ーーーー」

 僕はなんとかヘイリーに声をかけようとしたが、できなかった。ヘイリーの表情には、今にもあふれんばかりの悲しみが往来し、その感情の膜を破って、涙がこぼれそうになっているように見えた。しかしなぜあそこまであの老人は他人に鈍感になれるのかと思い、僕は再び腹が立ってくる。たぶん、あの老人にはあの老人なりの鬱屈や怒りや理由があって、酔っていたせいで自制が効かなかったのかもしれないが、僕にはとうていそれを受け入れられそうにない。

 「あーあ」

 急に我に返ったように、ヘイリーがため息をつき、肩をすくめて、僕に笑いかけた。自分は大丈夫だというふうに見せたかったのだろうが、口元がこわばってしまっている。その顔を見て、僕は本当にたまらない気持ちになってしまう。なんでこんなに優しくて、しかも日本に対する理解を持っている人が、ぶしつけにこんな言葉を投げつけられなければいけないのか分からなかった、まるでヘイリーの悲しみを吸収してしまったかのように、僕までが心に痛痒を感じていた。老人に対する怒りというよりも、その理不尽に対して湧いてくる名付けようのない感情のかたまりに、僕は喉を塞がれる。

 「せっかく楽しい気分だったのに、ね」

 何も言わずに唇を噛む僕をなだめるように、ヘイリーがもう一度笑いかける。さっきよりは、自然な笑顔だった。

 「……うん」

 本当は僕がヘイリーを慰めないといけないのに、と思いながらも、僕は上手く感情を制御できず、手短な返事だけをする。

 「前にも、一回だけ、こういうことあったかな」

 「……そっか」

 そのもう一回の出来事について、僕は何も質問しなかった、というか、できなかった。

 「ごめんね」

 「え?」

 「なんか、私のせいで、イヤな思い、させてしまったから」

 「そんな……」

 何と言っていいのか分からず、僕はただ首を横に振った。

 「怒ってる?」

 知らず知らずのうちに、僕もまたそういう顔をしていたのだろうかと思い、複雑な感情で固まった表情をなんとか解きほぐそうとする。

 「いや、そうじゃないんだ。なんで君が、こんなこと言われなきゃいけないんだって、そう思って……」

 絞り出した僕の声は、感情で震えていた、もしかしたら動揺したのは、ヘイリーよりも僕のほうだったのかもしれない。

 "Oh, no, no, it's okay."

 僕が泣きそうになったと思ったのだろうか、慌てたようにヘイリーは近づいてきて、僕をそのままハグしてくれる。その優しさに、よけい悲しくなってしまい、なんとかヘイリーを慰めたい一心で、僕はヘイリーを抱きしめ返す。しばらく、二人とも黙ったままだった、僕はヘイリーのあたたかい体を通して伝わる、その呼吸の音と、心臓の鼓動に耳をすましていた。

 "I'm very sorry..."

 思わず、僕の口から漏れた言葉は、全く慣れない英語だった。どうしても、ヘイリーに今の思いを、一番良い言葉で伝えたいと思っただけだった。

 "It's okay."

 ヘイリーの声はうわずって、かすれたように響く。

 「うん」

 僕はヘイリーを抱きしめたまま、その背中をできるだけ優しく撫でていた、僕の耳元の、ささやきのようなヘイリーの呼吸が、だんだんと落ち着いていくのが分かった。僕がそこで僕が望んでいたのは、ヘイリーの痛みを感じ、そしてそれをどうにかして取り除いてあげたいという、ただそのことだけだった。

 

 

 

物語のはじまるところ その7へつづくーー

物語のはじまるところ その5

 ばらく、僕の日常はまたのっぺりとしたものに戻っていた。世の中の多くの人がそうであるように、似たような時間に起きて、似たようなことをして一日を過ごし、そして似たような時間に寝る、そういう生活。ストールを早く返さないといけないとは思いつつ、僕は全くヘイリーに連絡する勇気を出せずにいた、そしてなお悪いことに、こういうのはためらえばためらうほど、実行できなくなっていくものなのだ。さっさと返して楽な気分になりたかったけれども、本棚の裏側に落ちていたとか言い訳しながらそれを渡した時に、ヘイリーは僕に感謝の言葉を言うだろう、僕はその言葉を、しらじらしい顔をして受け止めることができそうになかった。かといって、また君に会えるかどうかわからなかったから、衝動的に隠してしまった、なんて正直に言えるわけもない。ストールを隠してしまったことも、今ここで悩んでいることも、僕の愚かさゆえなのだが、前にも後ろにも進めなくなっている。

 事態を動かしたのは、僕ではなくヘイリーの方だった。交換した連絡先にメッセージが届いて、友達の芸大生が作品展をやるので、一緒に観に行かないかという誘いが来たのだ。もちろん僕の方からすれば、それは願ってもない話だった、なんとか理由をつけてもう一度会いたいと思っていたわけだし、後ろめたさでどうにも一歩を踏み出せずにいたところに、そういう僥倖が訪れた。僕はなんだかヘイリーから許しがもらえたような気になってくる。これでストールを返しやすくなったような気がしていた、出かける時に偶然見つけたとか言って、待ち合わせのタイミングでぽんと手渡してしまえばいい、事前に連絡すると、あれこれ説明して、怪しまれるようなことを口走ってしまうかもしれない、そうならないように、自然な流れでそのまま作品展に向かってしまおう、僕はそんなことを考える。罪悪感はもちろん消えないが、何より返すことが第一だ。そう考えるとだいぶ気が楽になってしまって、僕はすぐにクローゼットへ向かうと、忘れないようにカバンに入れておくために、ずっとしまったままにしていたストールを取り出す。青色の色彩の鮮やかさと共に、移り香が漂う、そのストールには、本当に魔法がかかっているような気がした、その色彩と香りによって、僕は見たこともないヘイリーの故郷の生き生きとした姿を、まぶたの裏に感じることができた、それはもちろん僕の想像によるものだったが、そんなことを忘れてしまうくらいの強い印象に包み込まれてしまう。海の向こうに漂うヘイリーの故郷と過去が、僕を包み込む。

 

 五分くらい早く待ち合わせの場所に行ったのだけれども、すでにヘイリーはそこにいて、僕の姿を遠くから目ざとく見つけて手を振ってくれた。

 「ちょっと早めに来てたの?」

 「うん。日本人には時間に正確な人が多いから、ちょっと早めに来るかなって思った」

 「外国人はそうじゃないの?」

 「少なくとも、私が今まで知り合った友達はだいたいみんな十分から十五分くらい遅れて来る」

 「電車みたいだね。日本の電車は、世界的に見てもとことん時間に几帳面だって聞いたことがある」

 僕がそう言うとヘイリーはくすりと笑う。

 「良いことじゃない」

 「みんながみんな几帳面に生きてると、ちょっと窮屈だけど」

 「どっちが良いかな……。もう一人来る予定だけど、たぶん”ガイジン”時間で遅れてくると思う」

 僕はそこでなんとなく、ヘイリーたちが「ガイジン」という言葉を使うとき、そこには何か、日本で自分たちが置かれている立場を冗談めかすようなニュアンスがこもっていることに気づく。

 「その芸大生の友達?」

 「ううん、彼女はギャラリーにいる。アリス、この前会ったでしょ、台湾人の女の子」

 「ああ、あのコなんだ」

 そういえば、アリスは一風個性的なアレンジの黒いロリータファッションに身を包んでいたし、そういうことをしていると言われても違和感はない。

 「そう。アリスは日本のマンガやアニメが好きで、そういう感じのアートがやりたくて日本に来たんだって。ちなみに生まれてから十歳まではアメリカ暮らしで、それから台湾に戻ったから、英語も”ペラペラ”なの」

 へえ、と言っただけで、僕は何か言葉を返すことをしなかった。自分の身の回りの知り合いといったら、だいたい地元に残るかせいぜい就職や大学で東京に行ったりするくらいで、僕の感覚からすると移動のスケールが段違いすぎる話だった、あのニャンニャン言ってる姿からは想像もできない人生を歩んできたらしい。

 「へえ、でしょ」

 いたずらっぽく、ヘイリーが僕の返しをまねするような言い方をする。

 「『へえ』って、何か変な言い方だったかな」

 「ううん、別に。日本人はけっこうみんなやってるけど、何か考えてる風で次の言葉を用意しようとしてない感じ」

 「ああ」

 確かにその通りだ。ヘイリーと話していると、僕が普段あたりまえのようにやっていることが、どうもあたりまえじゃなくなってしまう。

 しばらく会話しながら、僕は頭の片隅でストールを返すタイミングをうかがっていた、もう一人誰か来るのなら、ちょっと言い出しにくくなるかもしれない。

 「そういえば……」

 あまり引き延ばせないので、僕はちょっと不自然かもしれないと思えるタイミングで切り出す。

 「あ」

 僕の言葉がヘイリーの耳に届くより早く、彼女が僕の背後に視線をやって声を上げる。振り向くと、そこにはジェイムズが立っていて、僕ら二人を見下ろしていた。

 「やあ、この間はありがとう」

 英語でヘイリーと少し会話したあと、ジェイムズは僕に笑顔を見せて言う。

 「いや、こちらこそ」

 僕はジェイムズとぽつぽつ会話をしながら、その登場で返すに返せなくなったストールの入ったカバンに無意識に手をやっていた、別に彼の存在があるからといって返せなくなるなんてことはないはずなのだが、今日はずっとそれを隠しておかなければならないという気になってしまった。まるで、そのストールのことは、僕とヘイリーとの間だけの秘め事にしておかなければならないのだとでもいうように。僕は、カバンの中に広がる遥か遠くの青空のことを思った。

 

 パーティーのときほど、ではなかったが、アリスはやっぱりヘイリーに抱きついて、猫みたいな声を出しながらギャラリーに着いた僕らを、というよりヘイリーを歓迎してくれた。アリスはヘイリーとジェイムズと英語で何かを話しながらも、おもむろに僕を見つけて、ヘイリーの陰に隠れるようにしながら"Hello"と小声で言ってこちらに手を振る。どうやら、しらふだとだいぶ人見知りな性格らしい。

 作品展は学生のグループ展で、オープン初日ということもあって、出展者それぞれの知り合いらしき人々でごった返している。アリスの出展スペースには、アニメ絵の美少女キャラクターがゴシックロリータの衣装に身を包み、その周りをキッチュで過剰な装飾が覆っている作品が数点並べてあった、ちなみにそれぞれのキャラクターにはネコミミが付いている。こういう作品は人目を惹きやすいのか、比較的多くの人がアリスの絵を観察している。アリスとジェイムズが誰か共通の知り合いらしき人に出会って話を始めたので、僕はヘイリーと並んでしばらくアリスの絵を観る。

 「アリスの頭の中っていう感じで面白い」

 ヘイリーはにこにこしながら、アリスのポップでゴシックな感じの絵を眺めていた。

 「これは葛飾北斎かな……」

 僕はその作品の一つで、顔の半分がドクロになった少女が大量のヨダレを垂らしている絵をみながら、ぽつりと呟く。

 「北斎?」

 ヘイリーが僕の呟きを聞いたみたいで、こっちを見る。

 「このヨダレの描き方は、北斎の滝の引用だと思う」

 「引用?」

 「ええと、つまり、その絵の描き方をわざと真似してるってこと」

 "Uh huh, OK, I see."

 ヘイリーは急に英語になって、相槌を打つ。

 「この顔のドクロは歌川国芳かな」

 僕はアリスの絵の中に、様々な日本画の引用が描かれているのに気づいて、それを読み解いていく。

 「アートに詳しいのね」

 「いや、大学生のときになんだか興味本位で、図書館にあったいろんな画集をぱらぱらとめくって眺めたことがあるから、いろんな絵を知ってるっていうだけだよ。詳しい歴史とか理屈とか、そういうことは知らない」

 「私は全然知らないけど……Oh, this is so cute!」

 会話の途中で、ヘイリーが一つの絵に目を留めてそう言った。それはいかにもアリスらしい、同じ歌川国芳の『猫飼好五十三疋』を引用したと思われる作品で、五十三人のネコミミをつけた美少女キャラクターたちが思い思いのことをしている姿を描いているものだった。

 「これも日本の昔の絵の引用?」

 「そうだと思う」

 「昔から、日本人もずいぶん独特のスタイルで絵を描いてたみたいね」

 僕はすぐには返事をせず、目の前の浮世絵とアニメ絵がオーバーラップしているアリスの作品を眺めていた。ヘイリーの「日本人」という言葉には、僕がその一部分であるかのようなニュアンスがこもっていたが、僕の感覚では、そうではないような気がする。実際には、ヘイリーがこういう「日本的」な絵を観るのと同じ距離感で、僕はアリスの絵を観ているように思う。昔から僕はそういう人間だった、自分が帰属させられているものを、みんながそうするように内側から眺めるのではなく、あたかも外側に立っているかのように眺めているのだ。僕は安易に、自分がどこかに属しているという感覚を持つことができなかった。といっても、そこに疎外感や、あるいは反対に拒否感なんていうものは全くない、ただ単に、どこかに属しているという感覚それ自体が、僕にとっては奇妙なものでしかなかっただけのことだ。あるいは、例えば日本というものならそれは、日本というものへ向かって都合の良い断片的な素材を統合することで表象したものにすぎないし、その根底には何も無いという事実を、僕はいささか身も蓋もなく受け入れすぎるのだろうか。だから僕からすれば、「日本」というキーワードで切り出される表現の全ては、誰がいかなる手段を用いたとしても、ほんの戯れにしか見えないのも事実だった。いずれにせよ、僕はいつでも何かに帰属させられているのだが、僕自身はどこへ行っても異物であり、よそ者だという感覚の中で生きている。

 「そうみたいだね」

 僕は、赤の他人の様子にコメントする口調でそう言った。なんだかごちゃごちゃと考えてしまったけれども、この絵自体はなかなかハチャメチャで楽しそうな感じじゃないかと思いながら。

 

 作品展が終わると、ギャラリーはそのままパーティー会場になった。またパーティーか、と思いながらも、僕は誘われるままそこに残る。この間のホームパーティーとは違って、今度は吉岡とかが好みそうな、DJが音楽を鳴らすようなやつで、バーテンのバイトをしているらしい出展者の知り合いがカクテルを作ってみんなに配りワイワイやり始めていた。天井には、出展者の一人が作ったらしい地球儀を模したミラーボールが掛けられ、くるくる回っている。普段は飲み会なんかも避けている僕のような人間からすれば、立て続けにこんなイベントに巻き込まれるというのは、ずいぶんな出来事だ。さいわい派手でうるさい音楽ではなく、穏やかなエレクロニック・ミュージックが控えめな音量でかかる会場では、音楽を聴きながらゆらゆらと体を揺らしている人もいたが、お酒を飲みながら会話をしている人もけっこういる。僕らはしばらく四人で喋っていたが、そのうち、ジェイムズがヘイリーに踊ろうと誘いをかける。ヘイリーはおどけて首をかしげたりしていたが、結局みんなが集まっている会場の真ん中へと移動して、二人で音楽に合わせて揺れるように踊り始めた。僕はなんだかジェイムズにヘイリーを取られたような気分になる、取られたという感覚はもちろんおかしいし、強い嫉妬とは違うものだったが、僕はストールの入ったカバンを無意識に触りながら、その二人の様子を見つめてしまう。

 「パーティー、苦手?」

 唐突に、横にいたアリスが、ヘイリーやジェイムズに比べると決して上手いとは言えない日本語で話しかけてきてくれた。

 「うん、まあ。今までこういうのに参加することがなかったし。もともとそういうタイプでもないし」

 普段は人見知りな感じのアリスに、もしかしたら気まずい思いをさせているかもしれないと思い、僕はできるだけ何気ない雰囲気を出しながら答える。

 「分かる。でも、みんなそんなに得意じゃないよ。お酒とか音楽は、そういうのをごまかすためにある」

 ヘイリーと一緒にいるときはふにゃふにゃ喋っているアリスが意外に冷静で鋭いことを言ったので、僕は多少面食らいながらうなずく。

 「みんな苦手。それなら、どうして、こういうことをするのかな」

 アリスが日本語を聞き取りやすいように、できるだけゆっくりと、言葉の並びがはっきりするような言い方をした。

 「ほとんどのみんなは、やっぱり寂しいから。でも、いろんな人に会うっていうのも、大事なことでしょ。普段は一人でもいい。でも、ずっとそうだと、自分の世界が汚れてしまう。一人でいても、ホントはいろんな人に会うことができる人じゃないと、一人でいる、そのことの価値は低くなります。一人でいることしかできない人の世界は、美しくなりません」

 日本語を学校で勉強したときのクセが出たのか、アリスは急に敬語になった。精神的に幼いと思っていたアリスがしっかりと自分の考えを話すので、僕は思わずうんうんと少し過剰にあいづちを打つ。

 「そうだね。いろんな人に会うのって難しいけど。僕は今までずっと、似たような種類の人に囲まれてきたから、正直飽きてしまっているんだ。僕が人生で会える人たちっていうのは、だいたいパターン化してしまってる。本当に”いろんな”人に会うっていうのは、僕の今までの人生だと、本当に難しいことだった」

 僕の日本語が完全には理解できなかったのか、アリスは特に言葉を返さずにうなずく。そして一瞬黙ると、思い出したように自分のカバンを開けて、そこから錠剤を取り出した。

 「実は、昨日彼氏と別れた」

 そう言って、アリスはカップに入ったカクテルで、その錠剤を飲み込んだ。僕はどういうことか分からず、視線を上に向けて考える。

 「"relationships"には、女性の方が心配することが多い。でも、女性のほうがそれを求めるように、させられてる」

 そう言って、アリスは感情をごまかすような笑いをもらす。そこで僕は、その錠剤がモーニングアフターピルであることに気づいた。彼氏と別れ際にセックスをしたのか、それとも別れた腹いせに他の男と寝てしまったのか、どういうことなのかは分からなかったが、僕が最初に抱いたイメージをどんどんぶっ壊すような姿を見せるアリスにますます面食らってしまう。

 会話が途切れて、僕はつい、再びヘイリーの姿を目で追う。さっきまでリズムに合わせて体を揺らすだけだった二人は、いつの間にか社交ダンスをアレンジしたような踊りをアドリブでやって楽しそうにしている。置いてけぼりになったような気分になりながら、僕はヘイリーにはどんなふうに見えているんだろうと思う。

 「気になる? ヘイリーのこと」

 ピーマンを食べさせられている子供みたいな渋い顔でアリスはカクテルをあおって錠剤を胃に押し込みながら、僕の顔を見る。見え見えなのかと思うと気恥ずかしくて、僕は言葉も出さずにうなずいた。

 「心配しなくても大丈夫」

 「大丈夫?」

 「ジェイムズはね、ゲイだから」

 「……え?」

 僕のリアクションを見たアリスは、一瞬目を細める。

 「そういえば日本は、そういうことオープンにしないですね」

 こっちからすれば、そういうのをこんなにあっさりオープンにすることに驚いたのだが、僕は混乱しながら、じっとジェイムズを見る。彼がゲイだとか、そんなふうに思ってもみなかったし、言葉遣いも立ち振る舞いも、いたって女性的なそぶりはなかった。僕は身の回りでゲイだということをオープンにしている人間に会ったことはなかったので、ただ当惑するだけで、どんなふうにジェイムズをみていいのか分からない。恥ずかしながらその時の僕の頭の中にあったゲイのイメージというのは、テレビ番組に出て女性的な言葉遣いやしぐさをしているオネエと呼ばれる人たちだったのだが、アリスの言う通りなら、世の中のゲイというのは、そんな人たちばかりではなさそうだ。あまり良くないことだとは思ったが、僕はどうしてもまじまじとジェイムズを観察してしまう、いかにも好青年という感じで、女性からもてそうなタイプなのだが、言われてみれば、踊りながらヘイリーを見つめる視線の中には、性愛めいたものはなく、ただただ親愛の情がこもっているようにも思える。

 「そうだね、オープンにしない」

 「ゲイの人、イヤだと思う?」

 「いや、そうじゃなくて。ゲイだっていう人に会ったのは初めてだから、驚いたんだ」

 「どうして驚くの?」

 「どうしてって……」

 まあ確かに、驚くほうがおかしいのが本当なのだが、こちとらそういう人々の存在がそれとなく無視されている社会で今の今まで生きてきた人間なのだ。

 「ジェイムズのこと、変な人だと思う?」

 「いや、そんなことないよ。良かったと思う」

 「良かった?」

 「ヘイリーを取り合わなくていいから。ジェイムズは良いヤツだし、仲良くしたいと思ってた」

 「良かったね」

 アリスはまた幼い子供みたいな笑顔になって、カップに残ったカクテルを飲みほす。

 「僕はジェイムズみたいにモテる感じじゃないから。彼がヘテロセクシャルだったら、確実に負けてる」

 「そうですか? 白人よりアジアの人のほうが魅力がないと思ってるなら、良くない考えですよ」

 「……ああ、まあそうだね」

 それを抜きにしてもジェイムズのほうが魅力がありそうだったが、自分の中にそう思っている部分があったのは否定できないので、曖昧な返事しか出てこない。

 「でもね、ヘイリーはあなたのこと、ちょっとくらいは気になってると思う」

 「そうかな」

 「あなたって、寂しさから自由な気がする」

 「どういうこと?」

 「あんまり寂しいって思わないでしょ。寂しさがあっても、そういう感情に流されないっていうか」

 あまり面と向かってそういう指摘を受けたことがないので、僕はただただ首をかしげる。

 「うーん……まあ、どうでもいい他人から受け入れてもらって寂しさをごまかすよりは、いっそとことん独りになるほうがいいって思うけど」

 「ほとんどの人は、そんなふうに思えないよ。やっぱり、あなたはちょっと変わってる。だいたいの人は、寂しさをごまかすか、隠そうとするだけ」

 なんで急にアリスはそんなことを言い出したのだろうかと思いながら、僕はカクテルを飲み込んだ。

 「ヘイリーは、とても強い寂しさを持ってる人だよ」ぽつりと言って、アリスはヘイリーを見た。「でも別にごまかさないし、それはきっと、どうでもいい他人といくら一緒にいても、どうにもならない寂しさなの」

 「そういう寂しさは、誰にでもあるんじゃないかな」

 と言いつつ、僕はアリスの言うように、それがいったいどういう理由から来るものなのか分からないが、ヘイリーが何か他人とは違うものを抱えていて、それが彼女に強い孤独を与えているように見えるのは確かだと思った。ヘイリーが僕に対して、遥か遠くから物事を見ている感じだと言ったが、ヘイリーもまた、他人から遠く離れた場所から物事を見ている人間に見える。

 「そうかもしれない、けど、たぶん、ごまかすことができないくらい、深い寂しさなの。ヘイリーは、何か重たいものを隠してるように見える。だから、寂しさから自由なあなたに、興味あるんじゃないですか」

 僕のそういう感じに興味を持つ人間に今まで会ったことはないので、よく分からなかった。ヘイリーが何か重たいものを隠している、とすれば、いったい何を隠しているのだろう? ヘイリーには、確かに明るく振舞っている時でも内側に押し込められたような孤独感が潜んでいて、それが彼女に不思議な美しさを与えていた。もしかしたらアリスの言うように、ヘイリーはその深い寂しさをごまかすために他人を利用できないのかもしれない、倫理的な意味でも、実践的な意味でも、僕らはその寂しさを自らの手で解決するしかないという、ごく限られた種類の人間どうしなのかもしれない。

 「私も踊ろう」

 アリスは僕から離れて、ジェイムズとヘイリーのほうへ歩いて行く、音楽に合わせて体をくるくると回転させ、リボンのついた黒いスカートをひらひらさせながら。そしてヘイリーに抱きつき、ジェイムズの手を握りながら、三人で踊り始める。ジェイムズがふいにこっちを見て手招きをする、君も踊りに来なよ、ということなのだろう、僕は戸惑ったように笑いを浮かべるが、ヘイリーもこっちを見て手を振ってくる、そしてアリスも招き猫のようなしぐさで僕を誘っていた。どういうふうにしていいのかよく分からなかったが、僕は観念したように誘いに乗ることにした、三人の輪に入り、音楽に合わせて体を動かす、自分で自分のぎこちなさが分かって正直恥ずかしいような気もしたが、まあ、たまにはこういうのもいいんじゃないだろうか。

 

 

物語のはじまるところ その6へつづくーー

物語のはじまるところ その4

 「ヘローヘロー」

 パーティー当日、カタカナ丸出しの英語であいさつしながら、吉岡がやって来た、ビールだとかワインだとか各種アルコールの入ったビニール袋を提げて、靴を脱ぎ僕の家にどたどたと上がりこむ。

 「ようこそ」

 ひとことだけ言って吉岡を招き入れると、その後ろからさらにぬうっと人影が現れる、僕はその姿に思わず驚いて、身構えるようにしてしまう。

 "Hi"

 目の前に立っていたのは、身長がたぶん185センチくらいはありそうな、白人の男性だった。英語で"Hi"と言われても、僕は何も言えずに彼を見上げたままでいる、もちろん同じように"Hi"と返せば良いだけの話なのだが、習慣として染み付いていないあいさつが、そんなにすっと出てくるものでもない。

 「僕はジェイムズ、よろしく」

 ジェイムズと名乗った彼が、僕に手を差し出す。僕が外国人に免疫が無いのをすぐに見抜いたのか、緊張を和らげようとするかのように笑みを浮かべていた。

 「よろしく」

 僕は自分の名前を名乗りながら、ジェイムズと握手をする。僕は割と背の高い方なので、普段は他人を見下ろしながら話すことのほうが多いのだけれど、ジェイムズに対してはその顔を見上げながら喋らないといけなかったので、変に新鮮な違和感を覚えた。

 「今日は場所を貸してくれてありがとう。たくさんの人でパーティーできるとこ、そんなにないからね」

 流暢な日本語で僕にお礼を言いながら、ジェイムズは吉岡の後ろに続いて僕の家に入る、その両脇には大きめのスーパーの袋を抱えていた、何やら食材が入っているらしい。

 「キッチンを借りてもいいかな」

 ジェイムズが僕に尋ねる、むろん僕はオーケーして、使えそうな鍋を出してやる。このまま料理を始めるのかと思ったが、キッチンに食材を並べ終えてから、ジェイムズはきょろきょろと周囲を伺い始めた。何か必要な道具でもあるのかと聞こうと思った時、ジェイムズが玄関のほうをのぞき込む。

 "ーーーー"

 ジェイムズが誰かの名前を呼んだようだったが、馴染みのない言葉なので、僕には聞き取れなかった。

 "I'm here"

 玄関からぞろぞろと入ってきていたパーティーの参加者の一人が応えて、手を挙げながらジェイムズのところに近寄っていった。金色の髪をした女性で、片手には僕が見たことのない店の袋(たぶん輸入食品店のやつ)を提げている。首には青色のストールを巻いていて、彼女の髪の色や立ち振る舞いだからこそ似合うその色彩の鮮やかさは、ひときわ印象的だった。すれ違う一瞬、彼女は僕と目が合い、笑みを浮かべるーー緑色の瞳が、こちらを見ていた。

 彼女は持っていた袋をキッチンに置くと、ジェイムズの横に並んで二人で料理を始める。英語でなにやら喋りながら、仲良さそうにしていた、ときおりジェイムズが彼女の肩に手を置いたりしていている。その様子は、ずいぶん親密に見えた。

 

 料理が出来上がる頃になると、まばらに来ていた参加者がそろい、いつの間にか僕の家のリビングは吉岡が言ったとおり十五人くらいの人で賑わっていた。ほとんどがジェイムズの友達で、例えばアメリカ人やドイツ人から、南アフリカ人や台湾人といった人たちが参加者の7割くらいを占め、そこで一同に会し飲んだり食べたりしながら談笑している。共通語は英語のようで、数人いた日本人も流暢な英語を喋って楽しそうにしていた。こういう人たちが世の中にいるなんてことについて、今まで特に考えたり気にしたこともなかった僕には、ずいぶんな非日常的光景で、ましてやこの家は普段一人だけで過ごしている場所なので、まるで現実感がない。こんなことが起こるなんていうのは、想像の埒外なのだ。全く英語が話せないのは僕と吉岡くらいのものだったが、吉岡はその持ち前のキャラクターでそんなことを負い目に感じる様子もなく、適当な単語を並べてコミュニケーションを図り、あるいは他の日本人に通訳させたりしながら、なんだかんだでフルにはしゃいでいる。

 そんな僕はといえば、もともと社交的でないタイプなうえに、全く未体験の雰囲気にどうして良いのかわからず、ろくに誰とも話さないまま一人ぽつんとカクテルの入ったコップ片手に壁を背にして、リビングを埋めるみんなの様子を観察しているだけだった。あとで知ったことだれども、僕みたいな状態になっている人のことをウォールフラワー、つまり壁の花というらしい、その場に馴染めない人間が、できるだけその姿を他人から見られる位置よりも、せめて他人を見る位置に身を置こうとするのは、わりかし文化を超えて共通しているらしい。

 そうはいっても、実際のところ、僕はそんなに退屈しているわけでもなかった、改めて言うのもなんだけど、パーティーに参加している人々の様子は、僕にとっては本当に物珍しかったからだ。見た目の面で単純に言っても、ジェイムズは赤色の髪をしているし、他にも茶髪黒髪金髪、黒人白人黄色人種、いろいろいた。彼らの様子は僕らが抱くステレオタイプに当てはまると言えば当てはまる、当てはまらないと言えば当てはまらない、僕らとさほど変わらないといえば変わらない、違うといえば違う、そんな感じだった。彼らは僕にはわからない言葉で喋り、僕にはなじみのないしぐさをしているけれども、僕らと同じように酒を飲み、同じように笑っている。

 「ここ、あなたの家なの?」

 急に話しかけられて、僕は驚く、もはや自分がパーティーの参加者だという意識はなくて、もの珍しいイベントの観客のような気分でいたので、話しかけられるというのは全く考えてもいなかった。おそるおそるそちらを見ると、さっきアンディと仲良くしていた金色の髪をした女性がそこに立っていた。緑色の瞳が、こちらを見ている。

 「あ、うん。そうだよ」

 女性はそれを聞いて、部屋を見回す。

 「一人で住んでるの?」

 「うん」

 「たくさんスペースがあって、いいね」

 両親が死んだことを話さないといけないかなという考えが僕の頭をよぎったが、彼女はそこに何らかの事情があると察したのか、それ以上何も聞こうとしなかった。その感受性に感謝しつつ質問が来ないことに何となく安堵した僕は、今さらながら彼女の日本語がかなり流暢であることに気づく。

 「日本語すごく上手いね、……いつも言われてるかもしれないけど」

 僕は彼女の日本語を褒めたつもりだったが、たぶん日本人なら誰もがそういうことを言うだろうと思い、ひと言付け加えた。

 「ありがと。まだまだ、ネイティブみたい話すのは無理だけど」

 彼女は気恥ずかしそうに笑う。外国人の照れた姿というのは、なんだか僕にはとても意外なものに思え、妙に親近感を覚える。

 「ねえ、あなたの名前は? 私はヘイリー」

 僕は自分の名前を答える、いったい何だって彼女、ヘイリーは僕に話しかけてきたんだろうと思いながら。

 「こういうの、全く初めてだから、慣れなくて」

 たぶん、ヘイリーはこの場に馴染めていない僕に気を遣ってくれたのかもしれないと考えて、僕は正直に言う。

 「私も、こういうのあまり得意じゃない」

 「え、そうなの?」

 僕は本当に意外だと思って、けっこう大きな声を出してしまったので、ヘイリーがそれを見て笑った。

 「そうなの。人に会うって大事なことだと思うから、こういう所に来るようにはしてるけど、もし初対面の人が多かったら、ちょっと疲れるし、馴染めないこともあるかもしれない」

 僕に配慮しているようでもありながら、正直なことを言っている感じだった。この場に来ている人たちはみんな外交的な雰囲気を持っていたし、とりわけ僕と話すヘイリーの態度はだいぶ落ち着いていて、僕が普段接するような女性達よりずっと大人びて見えたから、よもや彼女にそんなシャイな一面があるとは思ってもみなかった。

 「まあ、これでも楽しんでるけど」

 何だかいろいろ気を遣わせてしまっているように思えて、僕はあえて余裕ぶってみせる。

 「本当に? 退屈そうだなって思ったけど」

 「みんなの様子を見てるんだ。英語も喋れないし、間近でじっくりと外国人を観察したこともない、だから、本当に珍しい」

 「動物園に来た、という感じ?」

 「むしろ、僕が珍しい動物として檻に入れられた感じかな」

 それを聞いたヘイリーが、くすくすと笑ってくれた。

 「本、好きなの?」

 部屋の中を見回していたヘイリーが、本棚を見つけて指差す。

 「まあね。特に用事のないときは、だいたい本を読むか映画を観てる」

 実際、家のあちこちには棚があり、大量の本と映画のDVDが収められていた。それは、単純にそういうものが好きだということもあったし、加えて、この家に染み付いた孤独や静寂の重さに対抗する意味合いもあった。例えば友達を呼んでしょっちゅう騒ぐというやり方もあったのかもしれないが、僕が選んだやり方は、本や映画によって、よりその孤独の純度を高めて、深く潜っていくというものだった。浅く濁った孤独は人を奴隷にするが、深く澄んだ孤独は人を自由にする。

 「いろいろ読むんだね。古いのから新しいのまであるのかな……あ、夏目漱石の『草枕』、これは読んだことある。それと、あら、シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』とかまであるんだ。日本人でこれ読んだことある人に会ったの、初めて」

 本棚を覗き込みながら、ヘイリーは本のタイトルを物色していく。

 「本とか読むの?」

 「うーんとね、私は、小説よりも詩が好き」

 「読むのは日本語と英語、どっちが多い?」

 「つい英語で読んでしまうけど、いっぱい日本語で読むのをがんばってる」

 「どうしてそんなに日本語を勉強するの? ……いっつも聞かれてるかもしれないけど」

 「なんでかな、気が付いたら勉強してた。単純に面白いからかな」

 ヘイリーははっきりとそう言ったけれども、僕はなんとなく、彼女がもっと他の理由を隠しているような感じがした。

 「面白い?」

 「やっぱり英語とは違うし。特にね、ひらがなが好きなの」

 「ひらがなは女性が作ったって言われてるから、とか?」

 「それ聞いたことあるけど、私にとってはどうでも良いことかな。それよりも、なんだか見た目が面白い」

 「見た目?」

 「なんか動きがあるでしょ、ひらがなって。ユーモラスで、それぞれの表情がある感じがする」

 「そういうもんかな。そんなふうにひらがなを見たことなんてなかった」

 僕は本棚から適当に一冊本を取り出して、ぱらぱらとめくりながらそこに書かれているひらがなを眺めていく。

 「ほら、この”ん”とか、なんか飛び跳ねてるみたいじゃない?」

 ヘイリーがページの中でみつけたひらがなを指差して言う。

 「まあ、言われてみたら楽しそうに見えるかな」

 「でしょ」

 「この”す”なんていうのは、怠け者みたいな感じがする」

 そういう視点でひらがなを観察すると、なんだかそれぞれが個性的な動物のように見えてきた。それぞれの毛並みに触れていくと、みんな独特の手触りがある。

 「ふふ。そういう感じ」

 「こっちの”む”は、ちょっと難しい顔をしてるね」

 「難しい顔って、どんな?」

 「こういう感じさ」

 僕は”む”をイメージした、変な顔をしてみせる。ヘイリーはそれを見て、明るい声で笑っていた。

 "You're weird"

 「え?」

 笑い終わってから一瞬、ヘイリーがじっと僕を見て、急に英語で呟く、僕は意味がわからなくて首をかしげた。

 「変わった人ってこと。もちろん、面白いっていう意味で言ってるよ」

 「まあ、変わってるっていうのは、確かにそうかもしれない」

 「面白いっていうだけじゃなくって……うまく言えないけど、どこにでもいる雰囲気じゃない。日本人の中では特に、あなたみたいな人は珍しい。"aloof"っていうか、はるか遠くから物事を見つめているみたい、でも嫌な感じじゃない」

 僕には確かに、少し世の中から遊離しているようなところがあった、例えば学校とか、そういう集団の中である程度周囲とうまくやっていくこともできる人間だったが、僕という人間の中核にあるのはむしろ深い孤独であって、それが絶対に、僕を周囲となじませることはなかった、僕はいつ誰とどこにいても、常に異物だった。僕はどこかに所属しているとか、所属することで無条件に他人と何かを共有できるとか、そういう感覚を、いっさい抱いたことはない。家族とか故郷とか、そういった最も根源的な場所に対してすら、僕はなんだかたまたま拾われてそこに放り込まれたにすぎないという、至極乾いた感覚しか持つことができない。

 「そういうもんかな」

 僕はなんだか欧米人がやるみたいに、肩をすくめてみせた。けれども、内心では、そういう指摘を受けたことに驚いていた、そんなことを僕に言ったのは、ヘイリーが初めてだったからだ、しかも肯定的なニュアンスで。今まで僕の周囲にいた人間たちは、口には出さなくても、僕のそういう在り方にどちらかといえば嫌悪とまではいかなくても否定的な感情を抱いている様子だったし、そんな僕と仲良くできるのは、細かいことはいっさい気にしない鈍感な性格の吉岡くらいのものだった。

 "Hailey~, I, I, I missed youuuu."

 その時いきなり、酔っ払ったアジア系の女の子が現れてヘイリーに抱きついた、酔っ払っているからなのかもともとこういう性格なのか、ネコの鳴き真似をしながらヘイリーに擦り寄っている。

 "Okay, okay, I missed you too, kitty."

 ヘイリーは苦笑いしながら、その女の子の頭をなでてやる。女の子は真っ黒いメイド服みたいなものを着ていて、いわゆるゴスロリみたいな、個性的なファッションをしていた。

 "I know, I know, you missed meeeeeow."

 「アリスはなんだか私にすごくなついてるの」

 苦笑いしたまま、ヘイリーが僕を見て説明する。

 「そうみたいだね」

 僕はその様がおかしくて、二人を見ながら笑う。

 「ああ、もう」

 アリスと呼ばれたその女の子はネコがそうするみたいに丸めた手で、ヘイリーがしていたストールをいじり始めた。ヘイリーはそれに触られたくないのか、首からほどいてアリスの届かないところに高く挙げる。

 「ちょっとここに置かせてね」

 そう言って、ヘイリーは僕の本棚の高いところにストールを置いた、綺麗な青色で、僕の頭上に広がったそれは、一瞬そこにふんわりとした青空が広がったかのような気にさせる。

 「お母さんが、私が日本に来る時にプレゼントしてくれた大事なストールなの。汚れたり傷ついたり、無くなったりしたら困るから」

 そう説明しながら、ヘイリーはなんとかアリスをあしらおうとしていたが、アリスは駄々っ子みたいにぐいぐいとヘイリーの腕を引っ張る。

 "So, so, sorry, but Hailey is..... mine! meow! meow!"

 アリスはヘイリーに抱きついたまま、僕を見てそう言った。幸い僕にも分かるくらいの英語だったので、調子を合わせて笑いながらうなずく。

 「ごめんね」

 結局ヘイリーはアリスに負けて、僕に謝りながら引っ張られていった。

 

 僕はまたウォールフラワーに戻って、部屋の雰囲気をうかがう。吉岡は楽しそうに適当な会話を続けていて、別に心配したようにDJをやりだしたりはしなかった。みんな別に騒ぎ立てる様子もなく、落ち着いた感じでただ単に談笑している感じで、馬鹿騒ぎといった雰囲気は微塵もない。

 できるだけまんべんなく参加者を観察するようにはしていたが、それでも僕は度々ヘイリーに目を留めてしまっていた。それは単純に彼女が美しかったからというだけじゃなくて、僕は初めて僕の正体を見透かした人間に出会ったような気がしていた、よくわからないまま他人から距離をとって生きてきた自分の、今ままで誰も踏み込まなかったような近さまで、ほんの最初の一歩で踏み込んできた、この外国人の女性に、なんだかこれまでにないような不思議な親近感を感じてしまっていた。ヘイリーはアリスとジェイムズと、他の二人くらいのグループで会話をしていた。英語で喋っているヘイリーは、心なしか日本語のときのわずかにシャイな雰囲気はなく、もっと堂々としているように見える。彼女はジェイムズとなんだか楽しそうに喋っていて、その横で酔って疲れた様子のアリスがソファに座って鼻歌を唄っている。最初に見た時そうしたように、ジェイムズはときおりヘイリーの肩に手を触れる、僕にはそれがどのくらいの親密さを表しているのか分からなかった、彼らにとっては普通のことなのかもしれない、でも、もしヘイリーが僕の彼女だったら、日本で生まれ育った僕にとってはちょっと嫌かもしれないな、とかそんなことを考えてしまう。

 僕は何気なく、スマホで時間をチェックする、パーティーが始まってから二時間くらい経っていた、もうすぐ終わりだろうか。もう一度、僕はヘイリーに目を遣る、このパーティーが終わったら、僕が再び彼女に会うチャンスなどあるのだろうか。もし彼女が日本人だったら、勇気を出して連絡先くらい聞いたのかもしれないが、初めて会った外国人の女性にそういうことをするのは、僕にとってあまりにリアリティがなかった。そんなことを考えて、僕は気分が落ち込みそうになる。

 僕はあきらめたように再び部屋の中を見回す、その時、ふと本棚に置かれたヘイリーのストールが目に入った。地味めのインテリアしかない部屋の中で、鮮やかな色に輝くそれは、まるで遥か遠い青空の切れはしを、ここへ持ってきたみたいだった。それを一目見るだけで、自分の魂がどこか遠いところへ運ばれてしまうような感じがした、僕は一瞬、そのストールの魔法にかけられたように、見入ってしまう。僕はそのとき確かに魔法にかけられてしまったのだと言ったら言い訳に過ぎないのだが、今でも信じられないような行動に出てしまった。僕はおもむろに、部屋の中の参加者が、誰一人僕のことを見ていないのを確認する。狡猾な邪心というより、子供の出来心と言ってしまったほうが正確だろう、それは計算でもなんでもなく、発作的にやってしまったことなのだ。僕は慎重に他人の視線から隠れるように手を伸ばし、そのストールを素早くポケットにしまい込む、そしてそのまま、そそくさと部屋を出て行ってしまった。僕は冷静ではなかった、だから自分のしていることの恥ずかしさを感じていても、自分の行動を止めることができなかった。僕はそのまま自分の寝室に滑り込むと、クローゼットの中に、そのストールを隠してしまった。全く理性的ではない自分の行動に、そのまま呆然としてしばらくじっとしていると、日本に来るときにお母さんがプレゼントしてくれたの、というヘイリーの言葉が頭をよぎる。徐々に冷静になってきて、自分がしているのは、子供じみた出来心というにはあまりある、ひどいことなのだというのが分かってきた。

 「すぐに返さないと」

 僕は呟いてストールを取り出そうとするが、どうしても動けなかった、なんだか自分のしたことの恥ずかしさを、上手く受け入れることができなかった。顔が熱くなると同時に冷や汗が出て、突っ立ったまま、自分がすべきことを行動に移せない。風のない日の重苦しい雨雲のように、ひどくゆっくりと、部屋の中を時間が横切っていく。

 しばらくじっとして、ようやく元の場所に返そうと決意した瞬間、ふいに、玄関からインターホンの音が聞こえた。びくっとして身を起こし、玄関の方に注意を向ける、遅れてやってきた参加者だろうかと思ったが、どうもそんな雰囲気ではない、一人や二人でなく、数人の人間が玄関にいるような物音と気配がしている。やっぱり様子がおかしいと思い、僕はとりあえずストールをしまったまま玄関の方へ行くことにした。

 「この家の住人の方ですか?」

 玄関先に現れた僕を見るなり、警察官がそう言った、そう、警察官だ。

 「そうですけど……」

 何だって警察なんかが僕の家に来たのかが分からず、ただただ困惑して彼らの様子をうかがう、警察官はなんと全部で七人もいて、狭い玄関から部屋の中をじろじろと見ていた。

 「ちょっと近隣の方から通報がありまして。その方が言うには、たくさんの人がこの家に集まって大騒ぎしているということなんですが」

 「大騒ぎ?」

 たくさんの人が集まっているのは事実だが、大騒ぎというのは全く当てはまらない。むしろみんな穏やかに会話を楽しんでいただけだし、まだそんなに遅い時間でもない。大学時代に友達がやってきて飲み会をやったこともあるし、その時の方がよっぽどひどかったが、注意されるほどのレベルじゃなかった。

 「いや、そんな近隣に迷惑をかけるほど騒いではないんですが……」

 「まあ、本人たちが思ってなくても、周囲からすると、うるさく思えることもありますから」

 警察官は別段高圧的ではなく、丁寧な物言いをするように努めている風だった。代表で僕と会話をしている警察官の背後にいた仲間の一人が、無線でなにやら会話をしている。一瞬、「相当数の外国人を確認」という言葉が聞こえてきた。そこで僕は初めて、この程度で警察を呼ばれてしまった原因に気づく。外国人がいること、それこそが、近隣の住人がわざわざ通報なんていうマネをした理由だったのだ。

 「いや、どう考えてもそんなにうるさくしてないし、それにどうしてこんなにたくさんの警察官が来てるんですか?」

 その事実に気づいた僕は苛立って、ついついそんな言い方をしてしまう。ふいに背後を見ると、ジェイムズやヘイリーが不安気にこっちを見ていた。

 「どんな感じの騒ぎか、通報からは分かりませんでしたし、万が一の時のためにです。怖がらせようとか、そういう意図はないですよ」

 万が一、という言葉に、彼らの過剰な警戒が読み取れる、外国人だからといって、そんなにすぐに暴れ出すものじゃないだろうに。

 「別に外国人がいるからって、危険だとかそんなことはないでしょう」

 暗にヘイリーやジェイムズが責められているような気がして、頭に来た僕は腹にあったことをはっきりと口に出した。

 「そういうつもりじゃないんですが、言葉が通じないと、あらぬ誤解を生むこともありますし。トラブルを避ける意味もあるんですよ」

 「いや、だけどーー」

 「すいません。ちょっと私たちも、うるさくしてしまったかもしれないです。気をつけます。ごめんなさい」

 僕の言葉を遮って、横から現れたヘイリーが、流暢な日本語と、まるで日本人みたいなしぐさで警察官に謝ってくれた。そのあまりに日本化された態度に、警察官たちは安堵したような表情を浮かべた。ここにいるのは、日本人のルールが通用する外国人だということに気づいて、安心したらしい。

 「いえ、私たちも通報を受けたので、やはり現場を確認する必要がありまして」

 僕はそこでひと呼吸おいて、冷静になる。外国人がいることで偏見を持たれたという事実に腹は立ったが、日本人のマジョリティが持つ外国人のイメージなんてそういうものかもしれないし、元々は僕もその一員であったことは否めないし、別にこの警察官たちが特別な悪意を持っているわけでもない。

 そのあとは適当にこの集まりの経緯や内容を説明して、近隣に迷惑をかけないよう気をつけるという約束を取り交わすと、警察官たちは軽く一礼して帰っていった。

 

 「ごめんね、ありがとう」

 警察官たちが帰ったあと、ヘイリーがそっと僕の肩に手を置いてそう言った。自分たちのために怒ってくれたことに感謝しているようだったが、ごめんねと言われたことや、その態度からヘイリーやジェイムズがこういう偏見に慣れてしまっている様子が読み取れたことで、僕はなんだかやるせない気分になった。場がしらけてしまったので、僕らは早々にパーティーをお開きにすることにして片付けを始めた。みんなこういうことに慣れているのか、手早くゴミを捨てたりしている。ヘイリーとジェイムズは、料理で使った鍋や皿を洗っていた。

 片付けが終わって、参加者がみんな帰ろうという雰囲気になったころ、僕は当然の帰結として、見たくないものを見なくてはならなかった。僕が本棚の方に目をやると、困った顔のヘイリーが、ぽつんとして、そこに立っていた。ストールがなくなってしまって、困っているのだ。大事な物だと言った彼女の言葉に嘘偽りはなかったようで、本当に悲しそうな顔をしている。ジェイムズやアリスと一緒になってそのあたりを探していたが、もちろん見つかるわけはない。そして僕にも、今この場でそれを返す勇気がなかった。

 「きっと、誰か間違えて持って帰ったのね」

 そんなに気にしてないという顔を作りながら、ヘイリーがみんなに聞こえるように言った。

 「もし見つかったら、連絡するよ」

 僕はしらじらしく、そんなことを言う。結局僕は僕の衝動的な感情が意図した通り、もう一度ヘイリーに会えるという望みをつなぐことになったのだった。良心の呵責で顔が真っ赤になりそうだったが、この次会った時には必ず返すんだからと自分に言い聞かせ、ヘイリーと連絡先を交換する。

 「もし見つかったら、ホントにうれしい」

 「うん」

 僕の目をまっすぐに見て頼んでくるヘイリーに対する僕の返事は、とても弱々しかった。僕はそのまま帰っていく三人を見送る、その去り際、ジェイムズが少しだけヘイリーを慰めるようなことを言って、それにヘイリーがうなずく。それを見た僕は、自分がとても場違いなところに足を踏み込んでしまったのだと思った。

 参加者が全員帰った後、僕は一人で部屋の椅子に座り、虚脱感でぼうっとしてしまう。普段僕が過ごしているのっぺりとして何も起こらない日常からすると、今日はあまりに非日常なことが起こりすぎた。誇張なく、本当に夢でも見ていたような気がする。僕はクローゼットを見る、盗んでしまったヘイリーの大事なストールがまだその中にあった。そこに閉じ込めてしまったストールの魔法が、僕の家よりずっと大きな、遥か遠くの青空を、その中で広げているような気がする。クローゼットに手をかけることはできなかった、その魔法を再び解き放った時、今日見た夢が全て、元の現実へと還ってしまうように思えた。

 

 

物語のはじまるところ その5へつづくーー

物語のはじまるところ その3

 がヘイリーと出会ったのは、僕が大学を卒業してすぐのころだった。死んだ両親が残した一軒家の、だだっ広いスペースでのんびり過ごしていたところに、中学時代からの友達だった吉岡が連絡してきたのが、そもそもの始まりだった。

 「お前ん家、貸してくれないか?」

 出し抜けに、いつものいい加減さで吉岡はそんなことを言い出した。

 「なんでだよ。アパートを追い出されたのか?」

 「違うよ。そんなんじゃないんだけどさ。一日、一日だけでいいんだよ、な?」

 「理由を言えよ。いきなりそんなこと言われたら警戒するに決まってるだろ」

 昔から適当なやつだったが、しかしまあ相変わらずだ。

 「パーティー、やりたいんだよ」

 「パーティー?」

 「そう、パーティーだよ、楽しいぞ」

 「パーティーとは何だ、パーティーとは。DJでもやって浮かれ騒ぐつもりか? そんなことなら絶対に貸さないぞ」

 僕は静かな環境を好む性質だし、別に音楽は嫌いじゃなかったが、それに乗じて騒いだり酒を飲んだりするのは好きじゃなかった、というかそもそも、ずいぶんな近所迷惑だ。人集めの得意な吉岡は自分でDJなんかもやっていて、たまにそういうパーティーを開いたりしているようで、調子に乗って騒いだせいで近隣から怒られたこともあるらしかった。

 「違うって。パーティーっていえば、あれしかないだろ」

 「だから何だよ。誕生日パーティーとか?」

 「ブゥーーー。はずれー」

 吉岡は小馬鹿にするような調子で、電話の向こうで(おそらく)ツバを飛ばしながら言う。

 「……電話切るぞ」

 「まあまあ、待てよ」

 「で、何のパーティーなんだ」

 吉岡はもったいつけるように間を置く。何か驚くようなことを言うときでも、ごく普通のことを言うときでも、同じようにこんなことをするヤツなので、僕は全く平静に構えて答えを待つ。

 「ホームパーティーだよ、パーティーといえばそれしかないだろ」

 「いや、そんなの本当にやるヤツ初めて聞いた。というか、つまり飲み会のことか?」

 ホームパーティーなんていうのは、僕はアメリカのコメディくらいでしか見たことがなかった。吉岡がそんなのをやるとは思えない、だからたぶん、いわゆる宅飲みでもやりたいのだろうと思った。

 「いやいや、もっとアットホームなやつさ。みんなで料理と飲み物を持ち寄って、楽しくやろうっていうパーティーだよ」

 「本当のホームパーティーをやるのかよ」

 「だからそう言ってるだろ。普通のマンションとかだと、ちょっと隣に遠慮するし、スペース的にもイマイチだし。だから、お前ん家がちょうどいいんだ」

 「…………」

 吉岡が本当に言う通りにホームパーティーなんかやるつもりなのか訝しがって、僕は少し無言で考える。

 「もちろん、場所を借りるんだし、お前は何も準備しなくていいよ。片付けもちゃんとやるからさ」

 「……まあ、別に嫌とはいわないけど」

 どうせ僕一人には広すぎる一軒家だし、たまには誰かに使ってもらうっていうのも悪くないかもしれない。

 「きっと面白いと思うぞ」

 「面白い?」

 「そう、やっぱりホームパーティーだしさ、飲み会とは違うってことよ」

 「よく分からないな」

 「察しろよ」

 「アップルパイでも用意するのか」

 「ブゥーーー。はずれー」

 吉岡はさっきと同じ調子で繰り返す。

 「もういいって」

 電話の向こうで吉岡が愉快そうに笑っている。

 「ガイジンだよ、ガイジン。やっぱりホームパーティーだしさ、メンバーにガイジンがいないと雰囲気出ないだろ」

 なんだかもうわけが分からなかった。いったいこいつは何を言いだしているんだか。聞けば、居酒屋で知り合った外国人と意気投合して友達になり、なんやらかんやらでホームパーティーをやることになったらしい。英語も話せないくせにいったいどうやったらそんなことになるんだと思ったが、しかし良くも悪くも誰に対しても馴れ馴れしい吉岡ならあり得る話だった。パーティーで本当にDJとかやりださないだろうかと心配しながら半信半疑で聞いていたが、その辺は大丈夫だと吉岡は適当な感じで請け合いながら、あれこれ計画について話していた。

 結局、僕は家を貸してやることにした。十五人くらい来るらしい。僕はリビングを見回しながら、そこに染み付いた静けさのことを思う。両親が死んで以来、僕一人で暮らしてきたせいで、長い間掃除していない部屋に分厚いホコリの層が積もってしまったかのように、厚く張りつめた沈黙が足元を覆っている気がした。たまにはちょっとくらい賑やかにしてもらえば、この部屋もきれいになる。ただ、外国人がどんなものなのか知らない僕にしてみれば、もしかしたら賑やかすぎて問題を起こすんじゃないかという心配があったのも事実だった。

 

 

 

物語のはじまるところ その4へつづくーー