Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

誘惑の炎、存在の淵 その7

 史が死んだ。その死のあっけなさは、それについて充分に考えたり解釈したりする時間を与えてはくれず、ただ単に起こったことを受け入れるしかないというようなものだった。深刻な病を患っていたとはいえ、それは死の近さを連想させるような雰囲気を備えてはいなかった。その死の知らせを受け取った炫士に、悲しみはなかった、その死を意識していなかったとはいえ、まあそういうものだろうと思っただけだった。その喪失の大きさを測ろうとするよりも、その何でもなさをむしろ感じていた、誰が死んでも、世の中というものは昨日も今日も同じように回り続ける、自分自身が死んだとしてもそれは全く同じことで、人の死というのはそういうものだということのほうに、目が向くばかりだった。

 葬式にて、僧侶の読経の声を聞きながら、ならば自分にとっては何が変わるだろう、と炫士は考えてみる。自分を家族に繋ぎとめようとしていた父親が死ぬことで、自分は家族と縁が切れるのだろうかと問うてみて、そうではないだろうと自らに答えを返す。もしかすると、これで自分はもはや那美と速彦からほぼ完全に遠ざかり、もう二度と会わなくなるかも知れない、だからといって、自分がその中で生まれ育ったという痕跡は消えることはないだろう。それは速彦が死んでも、那美が死んでも、同じことでしかない。その繋がりの根深さと不気味さが、よけいに際立っただけだ。

 炫士は、視線の先に那美の姿を見とめる、何を感じ、何を考えているのか全く読み取れない、ある種の能面のような顔をしている、つまり、悲しい気持ちでいる人には那美が悲しんでいるように見えただろうし、無感動な人には那美が無感動でいるように見えただろう。黒い衣装に身を包んで、その対比が肌の白さと玉のような瞳の輝きを際立たせている、夫を失い、喪主を勤める那美には、奥底に――決して表には表れようとしない――妙に威風堂々としたものが宿っているように感じられる。那美は力を失い、何も持たない存在のようでありながら、その場の中心を、動かし難いものとして占めている。この葬式が、まるで岐史の棺と遺影ではなく、那美を中心にした磁場の中で動いているかのようだった。那美は、炫士と、速彦と、岐史の死の、中心を占めている。家族は、少なくとも炫士の目から見れば、四人をそれぞれ柱として成り立っていたのではなかった、那美がブラックホールのような中心として磁場を作り出し、その周囲を、自分と速彦と岐史が、吸い込まれるようにぐるぐると回っているだけのことなのだ。那美が帰って来る前は、自分と速彦と岐史は家族と呼べるものではなかったのではないか、という考えが、炫士の頭の中にあった。同じ家の中に、独立した三体の人間が暮らしている、そういう感覚だった。だが、那美が現れたことで、岐史は那美と結びつき、炫士と速彦はその同じ結びつきから産まれてきたのだということが、意識の奥深くに刻み込まれるような感じがした、あるいは、それまで気づかずにいられたことが、とどめてもとどめてもその隙間からあふれ出て、二度と目を背けられないような事実として浮かび上がってしまったような感じがした。

 那美のそばには、速彦と秋姫が立っていた。速彦は岐史の遺体が入った棺をじっと見つめている、表情にはその場にふさわしい重々しさがあり、今ここで悲しむべき悲しみをちゃんと悲しんでいるように見える。秋姫は相変わらず収まりの悪い存在感を持ってそこにいた、そして秋姫もまた、那美と同じような表情をしている、そこに積極的な感情の表出というものはなかった、悲しいといえば悲しい表情で、無表情といえば無表情だった。炫士はその秋姫を目で追ってみるが、秋姫とは全く視線が合わなかった、たぶん、意識して避けているのだろう、激しく肉体を絡みつかせながら何度も交わったにも関わらず、夜の街から出てここに現れた二人は、よそよそしい空気で互いを隔てたままでいる。ここで二人は、あいも変わらず、弟とその兄の婚約者という以外の何者でもない。

 やがて焼香が始まり、炫士は慣れない手つきでそれをやり過ごし、そして参列者に礼をする那美と速彦から少し離れたところに立つ。速彦の後ろには、ひかえめな様子で、秋姫が立っている。焼香をしていく参列者の流れの中で、その三人が、そして炫士も、浮き上がっていた、その他大勢と、そこから明らかに区別された結びつき、家族、那美と速彦と炫士、そしてこれからその一員になろうとする秋姫――儀式の中で、家族というその塊が、生々しい実体を持って炫士の目の前に表れてくる。今まで蜃気楼のように漂っていたものが、この儀式を通して、もはや否定する隙もないような完全体として組み上がるように思えてきて、炫士はだんだん気分が悪くなる。岐史が死んで、そんなものでは何も変わらないとタカをくくっていたことを後悔しそうになるくらい、自分が何も分かっていなかったような気がしてきた。何となくそこにある不気味なもの、という程度にとらえてきた繋がりが、突然実体化してきて、ほとんど直接的な恐怖感すら覚える。炫士は、その感覚を持て余すしかない、こんな違和感は、那美にも速彦にもないはずだと思う、もしそれがあるのなら、ここでこんなふうに平然としてはいられない。じゃあ、秋姫はどうなのだろうかと思って見てみるが、秋姫は相変わらず、感情の読み取れない表情で、こちらにはいっさい顔を向けずに、速彦に付き従うように参列者を見送っている。耐えられなくなって、炫士は三人から目を背け、岐史の棺と遺影の方を向く。ほとんど暴れだしたいような気分だった、遺影をたたき割り、棺から岐史の遺体を引きずりだして、それが単なるモノでしかないのだと叫びたかった、魂や人格などもはやどこにもない、父親など存在しない、那美と速彦と秋姫とそして自分は全くの他人なのだ、今ここで行われている儀式には何の意味もなく、滑稽の限りでしかないのだと、この場にいる全員に知らしめたかった。炫士は、秋姫の裸の姿を想った、この場の逃れ難さを思えば思うほど、なぜかその裸体は鮮明に浮かび上がる、白い肌、滑らかな線を描く鎖骨、小さな乳房、細い腕、柔らかい陰毛、そういうものが、家族の繋がりの実体感と呼応するように、非常な生々しさを持って、炫士の頭の中を満たしていく。今すぐにでも、秋姫を裸にして交わりたいと炫士は思う、今ここにある関係性など、全部無視してしまいたかった。そういう二つの衝動が湧き上がり、炫士はいてもたってもいられない、自分はこの場にこれ以上ないほどふさわしくない人間なのに、なぜここにいなければならないのだろう、と炫士は無益な問いを発し続けた。

 

 

 火葬場で岐史の遺体が焼かれ肉を失い骨だけになるのを待つ間、四人に会話はなかった、ただ、那美がぽつりと、ああ、いろいろ大変だった、と呟いただけだった。それぞれが自分の思いにふける静かな空間で、その言葉は煙のように漂い、いつまでも消えずに残っていた。那美自身は、岐史が死んでから葬式までのことを言っているだけだったはずだが、炫士にはそれが、那美が今まで岐史と関わってきた全てのことに対して言われているような感じがした、炫士が産まれた直後に自分がどこかへ消えて、五年経って戻ってきて以来、こうやって過ごしてきたことで積み重なってきたものが、この死によって浄化されたのだと那美が言っているように聞こえた。それが自分の一方的な解釈でしかないと分かっていても、炫士は妙に腹が立ち、この死によって浄化されるものなど何もない、岐史の死によってそういうことが起こるように見えるのはまやかしでしかない、むしろそれは、一つの呪いとして、残響のように炫士と那美と速彦の間に居座り続けるのだと思う。岐史が死んだことで、三人が自分にとっての岐史の存在と自分との関係を、それぞれ都合の良いようにとらえ始めるだろう、そのことで、岐史が実在していた時よりも三人の間のずれは広がるだろう、死者は消えない、何度となく、記憶の中に回帰してくるだろう、まるで家族のつながりもまたそうであるように。

 やがて火葬が終わる、肉が燃え落ちた灰の中に、岐史の遺骨が横たわっていた。その骨を、炫士はできるだけ何でもないもののように見なそうとする、不特定多数の死骸の中から、一組の骨を拾い集めてきたのだとでもいうように。もちろん、そんなことは不可能だった、それが岐史の遺骨なのだということは、炫士の頭からは消えようもない、その遺骨を通して、幼い頃に自分の頭を撫でていた手を思い出し、頭蓋骨の形の起伏に、面影を重ねてしまう。記憶が、すでに消え去ったものを追いかけ始めていた、炫士は、これから自分が死者まで相手にしなければならないことを感じていた、死者は距離と無関係に、心の中に浮かび上がるだろう、逃げ場はなくなる、だから、炫士がそこから逃れたいと思うほど、今まで以上にそれは困難なことになるだろう。

 二人一組なって、岐史の遺骨を拾っていく、炫士は那美と一緒に、黙々とその作業を行った。成人男性の大きな骨を、ひとつゆっくりと丁寧に拾って、骨壷に放りこむ、一瞬、炫士と那美の目が合う、その視線の邂逅は、那美がいま何を考えているのかを炫士に想像させずにはおかないが、炫士はかたくなにそれを拒んで、目の前の物質としての骨に意識を集中させる。箸の先を通して、岐史の遺骨の重みが伝わる、そして、一緒にその骨を拾う那美の力の加減が、一緒に伝わる。まるで遺骨と箸の描く三角形が、三人を深く結びつけているかのようだった。ありふれた儀式によって――むしろありふれた儀式だからこそ――その繋がりが自分の奥深いとこまで流れこんで刷り込まれていくような感覚があった。

 那美は淡々として、遺骨を拾い上げている、喪服から現れる白い手、指先で器用に動かされる箸、その先端、白い骨、那美の作法は厳かですらある、何か覚悟めいて、自らの喪の作業に他人を立ち入らせない雰囲気を備えていた。炫士が遺骨を拾い上げる心境と、那美が遺骨を拾い上げる心境は、まるで違っている、それを嫌悪し逃れたがっている炫士と、まるでそれが自分のためにとり行われているかのように遺骨に向かう那美――だが、そんな二人の違いなど全て霧消させるように、岐史の遺骨は二人を結びつけている、まるで他人のような、いや、他人である二人を、岐史が結びつける、他人である速彦と炫士と岐史を、那美が結びつける、他人である那美と岐史を、速彦と炫士が結びつける、他人である速彦と炫士を、那美と岐史が結びつける。黙々として、誰もがそれぞれの孤独と内省の中で作業に集中しているのに、誰もがますます深く互いに結び付けられていく。

 何もかもが、那美に飲み込まれていく、これからどうなるのかと考えたとき、炫士はそんな気がした、岐史が消えて、そういう引力が強まるような気がした、那美は別に自分に何かを強制したりするようなことはない、それをやろうとするのは速彦だろう、速彦は岐史の立場の穴を埋めようとするだろう、だが那美はただそこにいて、死者となった岐史を従えて、その磁場の中に炫士をとどめようとするだろう。しかし、炫士はそのことで、かえってそこから逃れられる可能性が見えるようにも思えた、那美の存在感がはっきりと顕在化することで、自分が囚われているものが何なのか見えれば、自分はそこに対して抵抗を示せばいい。今のようにやみくもにやっている、というよりもわけが分からず何も出来ないという状態から、一歩進めるのではないかという気がする、目の前にそれが浮かんだなら、ありったけの力と冷酷さを持って、それをめちゃくちゃにしてやろうと思う、自分は那美の子ではない、岐史の子ではない、速彦の弟ではない、寄る辺ない、無限の海をさまよう、一人の孤児なのだ。

 炫士は、思わず指に力を込める。箸の先で、もろくなった岐史の遺骨の破片が、ぼろぼろと崩れ落ちた。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その8へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その6

 れからほとんど毎日、炫士はクラブへ通った。安っぽい音が不快で、ウォッカベースの水っぽいカクテルをあおりながら、酔いでその輪郭がぼやけていくのを待って、ふらふらとフロアを歩きまわり、秋姫の姿を探した。たぶん来ないだろうと思いながらも、炫士はどうしてもそれを待たずにはいられない。秋姫は矛盾した存在だった、どこかへ逃れようとしているくせに、そこから出ると怯えたように自分の中へと退避して閉じこもり、嵐が過ぎるのを待つように身を固くしているばかりなのだ。秋姫は逃げ場を失っている、あらゆる逃げ場は逃げ場ではない、だから崩れ落ちてしまうこと以外に、秋姫が逃れる場所はないように見える。もうこういう所へ逃げ場を求めては来ないかもしれない、それでも炫士はずっとここへ来ている、わずかとはいえ可能性はあった、秋姫はあり得ない逃げ場として、自分を求めるかも知れない、炫士はそう思っていた。

 毎夜三十分ほどフロアを歩き回る、秋姫の姿をそこに見つけることはできなかった。感情がざわついていた、何をやろうとも、とうてい治まりそうにはない。無駄と知りつつ、秋姫の代わりというでもなく、ささくれ立ちいきり立つような感情を少しでもなだめようと、炫士はフロアにいる適当な女に声をかけて連れ出すことを繰り返す。美人で自分の値段を高く見積もっているような女ではなく、とにかく手軽に抱けそうな女ばかりを選んでいた、感情の交流も色気もなかった、ただ単にお互いをオナニーの道具にするような、どうでもいいセックスを毎日毎日繰り返す。暴れる虫のように下腹部を引っ掻き回す感情はそれでも炫士をきりきりとさいなんだが、中途半端な人間味を相手に求めるよりも、無機質で機械的なくらいの性器の擦り合いのほうがずっとましだった、寄ると触ると炸裂しそうな感情のうねりは、一人で膝を抱えるようにぐっと耐えているほうが気が紛れる、だからいっさいそこに立ち入らない人間が相手になることで、炫士はより深い孤独へと入っていくことができた。自己肯定感が低く沈んだ顔で男に抱かれる女や、人懐こいがどうしようもないほど頭が悪い女たちとセックスをしながら、炫士は秋姫のことを思い浮かべた、速彦に抱かれている秋姫のことを思い浮かべた、痛みと快感にゆがむ秋姫の顔、絶頂にむせぶような速彦の声、薄闇で体温にいきれ汗に湿りナメクジのように絡みあう二人の肉体、速彦のことも秋姫のこともどうでも良いと思っているはずなのに、炫士は赤く光る溶岩のような感情が隆起するのに突き動かされながら、女たちに暴言を吐き、柔肌に爪をくいこませ、頬を張り、髪をひっぱり、獣のように呻きながら、毎夜毎夜と精を放つ。

 そしてそのまま空が白み始め朝を迎えると、まるで空気や幻を抱いていたような気分で夜の昂りから醒めていく。炫士はベッドで横になりだらだらとする女たちを置き去りにして、人のいない、青みがかった冷気に満たされた夜とも朝ともつかない街へ出て行き、瞑想するかのようにゆっくりと歩いた。街は、あらゆる意味付けを漂白されているかのようだった、炫士の意識もまた漂白され、夜の夢とは違う、夜と朝の境目で自分だけに見ることを許された世界を歩いているのだとばかりに、憑かれたような表情になっていく。周囲から、空から、螺旋を描くようにカラスの声が降りてくる、争いに敗れたのか、一匹のカラスが地ベタに落ちて、血にまみれて命を失い、風が黒い羽根をまき散らしていた。炫士は何者でもなかった、夜と朝の境目で、炫士は孤児たちの中の孤児だった、両手を広げる、そのまま翼で滑空するようにまっすぐ歩いて行く、天と地の境目で、炫士は鳥たちの王だった、ふらふらと、炫士は一台の車も走っていない道路へと踊り出る、炫士は威風堂々と、断続的な白線が無限に連なるかのような道のど真ん中を飛ぶ、右の翼で生を、左の翼で死を統べるのだというように、炫士はそこに君臨していた、まるで神話の王のように。無人の、夜と朝の境目にある街は、国ケ崎の海を思い出させる、時間と空間の純粋な広がりの中で、炫士は、孤児になる夢を見ていた。

 

 

  炫士が秋姫を見つけたのは、とうとうまるまる一ヶ月が経った時だった。以前と同じように、秋姫は身を固くして、カウンターの側でプラスチックのカップに入ったカクテルを飲んでいた。ぎこちなく、伏し目がちに周囲をうかがい、たまに声をかけてくる男たちに心を閉ざす。何度見ても、その場違いな様は際立っている。炫士はすぐには声をかけなかった、原色の光の中に浮かぶ、秋姫という女の得体の知れなさを、遠くから観察してみる。秋姫は、誰かに心を開いたりしない、たとえ自分の話を饒舌にしていても、巧妙に本心を隠してしまう、それは本人すら自覚せずに身についてしまっているもので、まるで言葉と感情が完全に切断されてしまったかのように、秋姫は本心と言えるようなものを表に出さない、というより、本人にすらその本心がどんな姿をしているのかは見えなくなっている。深い霧に覆われ、幽玄の遠火のように、その本心はのぞく。中学時代に一番近くにいた炫士にもその本心を見せることはなかったし、今速彦にそうしているということもまず考えられない、あるいは、人間の本心というのはそもそも虚構でしかないということを、あまりに誇張した形で、秋姫という女は示しているようにも思える。結局、どこにいても、どんなふうにしていても、秋姫は常に場違いな存在だった。

 しばらく見ていると、炫士の視線の向こうに、ホスト風のファッションに身を包んだ男が現れ、秋姫に声をかけた。おとなしい女は強引に攻めれば落とせるということをバカの一つ覚えのように実践している体の男で、露骨に嫌がるそぶりをする秋姫にしつこく話しかけ、秋姫が視線をそらすと、その肩をつかんで無理矢理に自分のほうを向かせたりする。秋姫がどんなに身を固くしようとも、男はそれだけいっそうしつこく、己の男性性を誇示するようにしつこく秋姫に迫っていた。その様子を、炫士は遠くから見ているだけで、別に助けようとはしない、無遠慮に迫ってくる男をどうにか振り払おうとする秋姫の姿を、残酷で無関心な観客の視線で観察する。炫士はその姿に、不思議な魅惑を感じた、可憐な秋姫が、下卑た欲望を丸出しにして触れてくる男に汚されていく様を、もっと見たいような気がしてくる。秋姫には不思議な影があった、それは被害者の影、抵抗する力を持たず、暴力的な何かの侵食を呼び寄せてしまう人間の影だった。だから秋姫が拒んでみせるほど、それは男の嗜虐性をあおってしまう。それを知りながら、炫士は手を差し伸べない、秋姫がこのまま男に強姦されてしまえばいいとすら思う。だが、とうとう耐えかねた秋姫は、カウンターのスタッフに視線で助けを求める、スタッフは面倒を嫌がる雰囲気を隠そうとはしなかったが、やれやれといった態度で男に声をかけ、秋姫から引き離そうとした。しかし男は引き下がらない、スタッフに何か文句をたれ、アルコールの入ったカップをカウンターの上に勢い良く置く、カップは変形し、アルコールが飛び散った。スタッフが二言三言何かを言い返すと、今度は男がスタッフの胸ぐらをつかみだす。

 「マヌケが」

 炫士は独りごちて、つかつかと男の方へ向かう。始めから余裕のない小物だと思っていたが、仲裁に入られたくらいでこんなに取り乱すような人間も珍しかった、男の周囲にいた数人の客が、事態に気づいて注視する。その中のおせっかいな客が一人、男を押さえにかかった、だが、そのことがよけい男を煽り、今にも暴れだしそうな勢いでそれを振りほどく。醜態でしかなかった、収まりどころのない男根を振り回しているかのような幼稚で情けない男に、秋姫から何かを奪うことなどできようはずもなかった。一歩、二歩、炫士は勢いを早めながら近づき、男の間合いに入る、男は炫士に気づかなかった、炫士は取り乱した家畜を罰する主人のように、容赦なくその拳を男の頬に叩きつける、声すら上げずに、男が床へと崩れ落ちる、炫士は間髪入れずに、かかとを尖らせた蹴りを男の口の中へ叩き込む、分厚い皮を貼った打楽器のようなくぐもった音がして、血が飛び散り、前歯が一本転がった。闖入者のもたらした一瞬の出来事にスタッフも客も唖然として動かなかった、それを意にも介さず、炫士は覆いかぶさるような勢いで秋姫の前に立ち、秋姫が何かを言うのも待たずに手を引くと、そのままフロアを立ち去っていく。男は気を失って原色の光の海の底のような闇へ沈んでしまった、周囲の客以外、その出来事に気づいた者はいない、誰も男を助け起こそうとはしなかった、他の大多数の客たちは何事も無かったように――彼らにとっては実際に何事もなかったのだが――音楽に合わせて体を揺さぶり、降りてこない神を待つ信者のように、原色の光を崇める。炫士は秋姫の手を引いて、落ち着いた態度で歩く、だが、たったいま行使した暴力のおかげで神経は昂りきっていた、目を覚ました禍々しさは、絶えない感情の炸裂を待望する。暴発する力が、噴出する孔を求めて皮膚の下を這いずり回る。炫士の感覚は安定を失調する、原色の光は渦を巻いて音を飲み込んでいった、渦は巨大化し、音は光に閉ざされ、この場にはありえない静寂が訪れたようにさえなる。こんなものは、何かを傷つけなければ治まりようがないのだ、炫士は取り返しの付かない形で、秋姫を傷つけようとしていた。

 

 

  「いつから見てたの?」

 落ち着きを取り戻した秋姫が、炫士を見上げて尋ねる。夜も更けて、道には人もまばら、街の喧騒は遠ざかる波のように薄れ、振りまかれた香水の残り香のような静寂が漂う、安い音楽と原色の光との対比が強いせいで、その闇と静寂が豊潤なものにすら感じられる。

 「あいつが、声をかけたあたりから」

 外気に冷やされ、昂った炫士の体温は下がっていった、だが、感情の昂りそのものは、凝縮され、外気から遮断された体内で尖り、まだ煌々と燃えている。

 「もっと早く、助けてくれたらよかったのに」

 「どうするのか、見てようと思った」

 「私が?」

 「君と、あいつが」

 「そんな面白いことに見えた?」

 「そうじゃない。予想通りだったとしても、それを見たかったのさ。何かが起こる瞬間を、見たかった」

 「予想通りだったでしょ」

 「でも、それは起こった」

 「それの何が、面白いのか分からない」

 「それは起こった、男は悔しがり、君は恐怖し、俺は怒りをあらわにした」

 「彼は傷ついて、私は辱められ、あなたは傷つけた」

 「そして、俺たちはここでこうしている」

 「そこで起こったことの結果として?」

 「そこで起こったことを原因として」

 「あなたの意志じゃなくて」

 「君の意志でもない」

 「運命?」

 「そんなたいそうなものじゃない」

 「じゃあ何なの」

 「なりゆき」

 「気に入らない答えね」

 「欲望」

 「もっと嫌な響き」

 「期待」

 「そのほうが良い」

 「予感」

 「そうなのかもしれない」

 「君にとってはそうだろう」

 「どういうこと?」

 「君は一ヶ月もの間、そこに現れなかった。つまり積極的な何かでそうしたのではなくて、あくまで受動的な何かによりそうなってしまった」

 「どちらでもあるっていうほうが、正解ね。私はむしろ、そこにもう一度迷い込んだの。どこかへ行こうとして、でも目指す場所はなくて、さまよった結果、気がついたらそこにいた」

 「そこにたどり着く、そういう感じはしてたってことじゃないのか」

 「そうかもしれない、だから私は、あえて行動しようという考えを持とうとしなかった」

 「俺はそうなるって思ってた」

 「私を待ってたのね」

 「そう、君を待ってた」

 「どうして?」

 「会いたかったから」

 そう言って、炫士は秋姫の髪をなでる。自分が言っていることが本当だとは思わなかったが、嘘をついているという感覚もなかった、だからその言葉は、まるでしらじらしさのないように響いた。

 会話は途絶え、沈黙したまま、二人はタクシーへ乗り込んだ。炫士が行き先を告げ、タクシーは動き出す。それは、二人が後戻りできないものに主導権を明け渡した瞬間だった、分岐する道はなく、結末へ向けて、一直線に進んでいく。秋姫は窓の外を見ていた、だが、その視線はおそらく、外の風景をとらえてはいなかっただろう、秋姫が見つめているのは、そこで何かが、不可逆の方向へ流れているということだけだった。炫士は運転手の肩越しに、正面を向いている。対向車のライトに、自分の意識が飲み込まれていくのを、まるで心地良いことのように目を細めていた。後部座席に座った二人の間には、実質的に距離はなかった、そのことを確認するように、炫士は秋姫の手に触れ、そっと握る。秋姫は抵抗はおろか、身動きすらしない、じっとしたまま、手のひらから伝わる炫士の体温を受け入れていた。夢の中へ落ちて行くような気分で、いったい自分の横にいるのは誰なのだろう、と炫士は考える。秋姫と呼ばれる誰か、横に速彦がいれば、自分の中学時代に戻れば、那美のような他人の視線の中にいれば、それは秋姫と呼ばれる、だが、今ここにいる誰かを、秋姫と呼ぶ必然性はない、これは、秋姫と呼ばれていた誰か、閉ざされた場所から、原色の光の中へ浮かび上がり、静寂を散りばめる夜景を浮遊する、誰でもない誰かなのだ。

 

 

 部屋の中へ入る、炫士は秋姫の髪をゆっくりと撫で、冷たくなった頬に触れる、炫士の体温に導かれるように、その頬の奥から柔らかさと暖かさがほんのり溢れ始める。

 「――」

 名前を呼ぼうかと思った、だが、その瞬間には炫士の頭の中から秋姫という名前が消え去ってしまっていた。もはや、誰でもない、お互いに、誰でもない。何かが完全に抜け落ちてしまった、お互いをしっかりつかんでいないと、どこかへ消えてしまうだろう。炫士は

秋姫の頬に触れていた手を、撫でるように耳から頭の後ろへ回して抱くようにすると、ゆっくりと秋姫にキスをする。今度は奪うようなやり方ではなかった、すでに、お互いがお互いのものになっていた。あとは、お互いをしっかりつかんでいるだけでいい、力も駆け引きも誘惑も必要ない、そこには、ただ奪われ魅了された体があるだけだった。

 下着を取り、秋姫の上半身を裸にすると、炫士は乱暴な手つきで小さな乳房をつかみ上げる、秋姫はか細い悲鳴のような息を漏らした。少年だった自分が見ることのできなかった裸体が、目の前に差し出されている、その興奮に突き動かされ、炫士はむしゃぶりつくようにして秋姫をまさぐり、そのままベッドまで連れて行った。裸で向かい合いながら、炫士も秋姫も、まるで互いを見ていないかのようだった、そこには、他人の影が忍び込んでいる、二人の間で、速彦と呼ばれていた誰かの、影のようなものがベッドの中に忍び込んでいる、それが情欲を湿らせて、くすぶるように明滅し、胸のあたりから伝うように沈み込む。いったい誰の手で、いったい誰の体に触れているのだろうかと思いながら、暗い森をかき分けるように、炫士は秋姫と体をこすり合わせていく。速彦の一番大事なものを本人のプライドごと取り上げて、粉々になるまで踏みにじることの快感が突きあげる、もはや炫士の意識の中に速彦の実体はなかったが、その勝利の昂揚感だけは肉体の奥底に宿り、激しい興奮で炫士は火花に打たれたように震え、視界は真っ赤に染まった。秋姫の柔らかい肌に爪を食い込ませ、尻をわしづかみにして引き寄せ、脈打つ性器で何度も突き上げる、秋姫は悲鳴をあげていた、炫士は獣のように低くうなり、入り込めるだけ奥深くへ入り込み、放てるだけの精液を放とうと、むき出しの性器を膣壁にこすりつける。肉体は、お互いを消滅させようとするかのように侵食し合う、やがて激しい快感が背筋を走り、奥歯を震わせ、頭を突き抜ける、炸裂する絶頂が虚空のようになった体を満たし、外へあふれ出て、消えない余韻として、錯乱した知覚を反響する。後は、ベッドの上で、誰でもない肉体が、溶けて崩れているだけ。

 

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その7へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その5

 士は病室を出て、談話室のソファに腰かける。岐史の命に別状はなかった、だが、結局そのまま入院ということになり、家族で岐史の病室に集まりこれからのことなどを話していたのだった。炫士にも死にゆく人間に対するいくらかの同情心はあって、だから速彦と那美と同じ部屋にいても、つまらないぶつかり合いをして岐史の心労を増やすようなことを避けるために、あえて刺のある言い方をするようなことを控えていたのだが、やはりその二人といると先のいさかいのこともあり、ねばつくような嫌な緊張感と否定しがたい嫌悪感に胸がむかつき、とうとう耐えられなくなって、トイレに行くと嘘をついて病室の外へ出てきてしまったのだった。

 「そんなに一人がいいか」

 しばらく談話室で座っていると、後ろから声がする、振り返ると、いつものように不愉快そうにこちらを見る速彦の姿があった。

 「そうだな。やっぱりお前らと一緒にいると疲れる」

 「こんなときでも憎まれ口か」

 「こんなときだけ仲良くして、それが何になる。少なくとも親父の前では我慢してただろうが。それで充分だ」

 互いに口を開けば、という具合に、言葉の数だけ雰囲気は険悪になる。二人の敵対心は大人になるほど深まってきていた、小さい頃は普通の兄弟に近く一緒に遊ぶこともあるくらいだったが、那美が返ってきてから次第に距離ができはじめ、炫士が中学生になるころには、二人の間の亀裂はもはや決定的なものになっていた。

 「親父と、何話したんだ」

 これ以上やってもいらぬいさかいの繰り返しだというように一度ため息を挟んでから、速彦は質問する。

 「気になるんか」

 炫士にとってはどうでもいい質問だった。だが、速彦は表面上の何気ない様子よりはずっと、その答えを知りたそうに見える。自分の方が岐史と近いと思っているだけに、倒れる寸前の体を押してまで炫士に話したかったことが何なのかが気になるのだ、炫士はそれと知っていたからこそ、わざと必要以上に煽るような言い方をする。

 「何だ偉そうに。もったいぶるな」

 「別にもったいぶってないだろ。そんなに気になるのかどうか聞いてるだけだ」

 「言いたくないなら言わんでもいい。つまらんことで優位に立った気になるな」

 「いちいちイライラするなよ」

 速彦は炫士の言葉をふんと鼻で笑うようにして、自分が兄であるということの優位を示そうとする。

 「まあいい。お前のつまらんもったいぶりには付き合ってられん」

 「最初から俺のことなんかほっときゃいいんだよ」

 炫士の態度にいらつきを隠そうともせず、速彦は音を立てて舌打ちを返す。

 「それはそうとな、お前、母さんにしっかり謝っとけ」

 耐えられなくなったのか、速彦は唐突にそのことを蒸し返して、口調は徐々に荒くなる。

 「何を謝ることがある」

 「言わないと分からんのか」

 「俺はあの時本当のことを言っただけだろ」

 「本当のことだったら何言っても良いんか。もう昔のことだ。もう終わったことだ」

 「お前にとってはそこで終わったことかもしれん、でも、俺にとってはそこから始まったことだ」

 「何を言ってる?」

 「お前や親父にしたら無くなったものを取り返してハッピーエンドってことになるんだろうが、俺にしたら得体の知れない女がいきなり家にあがり込んできただけだ」

 「得体の知れない女だと? 何て言い方をするんだ」

 「事実俺にとってはそうだからな」

 「お前の産みの母親だぞ」

 「だから何だ。どちらにしろ得体が知れない」

 むしろ、だからこそ得体が知れない、と炫士は思う。突きつけられている事実――自分があの女から産まれたという不気味さを、いったいどうやって処理できるというのだろう。

 あきれたような顔をして、速彦は談話室の自販機に手をつきながら、じっと考えるようなそぶりをしている。炫士は不機嫌な態度でソファにふんぞり返っていた。談話室には二人だけで、沈黙の度に自販機の耳ざわりなモーター音が低く重く響く。

 「……しかしお前は何でもかんでも拒んでばかりだな、そういうところが子どもじみてるんだよ。少しは境遇を受け入れてから物を考えろ」

 「俺にとってそれは、受け入れるとか受け入れないとか、そういう問題じゃないんだよ。お前がそれを受け入れるべきものだと考えていることがすでにおかしいんだ」

 二人はにらみ合う、重なりあって増幅しうねる波のように、感情が昂ぶっていく。まごうことなく、二人は兄弟だった、その血縁の肉迫が、ほんのわずかなずれさえも、敵意として炸裂する危うさへと転化させていく。

 「いったい何なんだお前は、家族をめちゃくちゃにしたいのか? 母さんも俺も、そして誰より父さんが十年以上かけて、バラバラになったものを修復しようと努力してきたのに、お前は自分のくだらないふてくされた感情なんかのために、それを台無しにするのか」

 あるいはそうだった、別に三人の努力を踏みにじろうという意図が炫士にあるわけではない、だが、その努力が必然的に自分を巻き込んで、自分の望まない、悪寒のするような、家族というシロップ漬けの沼のようなものへ、そのまま引きずっていこうとしているようで、炫士はその一部になることをかたくなに拒みたかった。そのまま飲み込まれれば、抜け出せなくなり、どろどろと溶けていき、ついには自分と言い得るものが、何もかも消えてしまうように思えるのだ。炫士は速彦をにらむ、何と答えて良いのか分からなかった、勝手にやってくれとも言えない、自分がどんなにそれと関係ないという態度を取ろうとも、あるいは同様に速彦や岐史が炫士を抜きにして三人の家族の絆を作り上げたとしても、何も変わらないのだ、自分はすでにそこに産まれ落ちてしまった、そのことだけで、その繋がりは消しようがないのだ。

 「どうなんだ」

 もう一度、速彦が聞く。炫士は答えない、答えを用意できない、自分の考えを的確に表す言葉を、どうしても見つけることができない。

 「……そうだな」

 「そうだなっていうのは、どういうことだ」

 「そんなもの、めちゃくちゃになればいい」

 思考よりも、感情が先走りして、取り返しの付かない所まで炫士を突き飛ばす。答えだけがはっきりしていた、ただ、理由がまったく自覚できない。炫士は常に炸裂するような正体のない怒りを持っていた、その感情の力は理性などものともしない、そもそも理性にできるのは感情をなだめることであって、コントロールすることではないとばかりに、後先考えないような言い方をする。

 聞き取れないような言葉で先に怒りを発したのは速彦だった、感情の昂りを炫士に向けながら、拳で自販機を叩く。

 「クズだなお前は、何でお前なんかが俺の弟なんだ、何でお前なんかが父さんと母さんの子どもなんだ」

 その言葉に、炫士はほとんど発作的に立ち上がる、そして、速彦の怒りに触発されたように、自らの怒りもたぎらせ、強い憎悪の視線を向けた。速彦の言葉に、自分でも意外なほど頭に血が上っていた、むしろ普段から自分で考えているようなことなのに、いざ他人から言われると、この上なく心外な言葉に聞こえる。

 「お前はお前でベタベタしすぎなんだよ。母さん母さんうるせえな、このマザコン野郎が」

 「俺のどこがマザコンだ」

 「マザコンそのものじゃねえか。お前の頭の中心に母親が居座ってるのが見え見えなんだよ」

 「この野郎!」

 速彦が炫士に跳びかかった、不意を突かれ、炫士はバランスを崩して思い切り壁に背中から叩きつけられる。速彦は炫士の胸ぐらをつかみ、息を荒らげ、歯をむいていた。家族に背を向け、決して兄である自分の思い通りになろうとしない炫士を、やっきになって抑え込もうとしている。幼い頃は、年長の速彦の方が頭も体も優れ、無知薄弱な弟を支配することができていたが、今は炫士の方が体も大きく、何を考えているのかも分からない。そのことが、速彦を必要以上に必死にさせる。

 「放せ」

 炫士は胸ぐらをつかむ速彦の手をつかみ返し、そのままねじり上げようとする、二人の力は拮抗するが、しかし大人になった今、腕っぷしが強いのは炫士の方だった、速彦の指がゆっくりと解け、そのまま持ち上げられていく。一見冷静だが、暴力衝動は炫士の奥底で軋むような音を立てている、炫士の頭の中では、殴り飛ばした速彦の返り血で視界が真っ赤に染まるイメージが猛烈なスピードで点滅を繰り返していた。

 「俺は、お前を許さんぞ。自分を育ててくれた家族にここまで仇をなすお前は、絶対にろくなもんにはならん。地獄というものがあるなら、さぞかしお前にふさわしい行き場だろうよ」

 腕をつかみ上げられ、息を喘がせながら、速彦が呪詛を吐く。炫士は速彦をにらみ返す、その瞬間、まずはこいつだ、という考えが脳裏をよぎった。自分が家族から切り離されるためには、まずはこの歩兵のような、番犬のように吠えている、こいつからだ、そういう直感が、電光のように炫士を撃った。

 「俺は地獄も天国にも行かん、そんなものは俺には無関係だ、けどな、俺はお前を蹴落としてやる、餓鬼のようにまとわりつくお前を、奈落へでもどこでも、蹴落としてやるぞ」

 こいつをめちゃくちゃにしてやる、理不尽なほどの悪意が炫士の中でみるみるうちに膨れ上がった、那美の顔が浮かんだ、そこにたどり着くには、まずこいつからなのだ、こいつが目の前で吠えている限り、自分はそこにはたどり着けない――悪意は、暴力をともなって、皮膚の下を這い回る。

 「何を――」

 速彦の言葉を遮るように、炫士が勢い良く速彦の腕をねじり上げ、体勢を崩したところを突き飛ばした、そして速彦はそのまま自販機へと叩きつけられる。側頭部を打って、速彦はこめかみの少し上を押さえて動きを止める。

 「どうしたって、俺とお前は合わない。お前の求めてるものは、俺の求めてるものを邪魔する」

 「意味が分からん――」

 速彦は独り言のように呟いて、炫士の方へ向き直る。

 「お前の言うことは意味が分からん!」

 怒鳴るように言い直し、速彦は衝動に任せて炫士の顔面に向かって拳を振り回す。それに反応して炫士は身をのけ反らせたものの、突然の攻撃を上手くかわしきれず、速彦の拳が唇をかすめるようにぶつかった。犬歯で唇の端が切れて、炫士の舌先を生臭い血の味が濡らしていく、同じ那美の膣から溢れ出た血の中から産まれた二人に、同じように流れる血の味だった。炫士もまた拳を握る、爪が手のひらを傷つけるほどに固く、炫士は自らに与える痛みを求めた、目の前の、似ても似つかぬ鏡像のような兄を、徹底的に破壊するために、今手のひらを傷つける痛みなど遠く及ばぬ自らの存在感を消すほどに強い痛みを、炫士は欲しいと感じていた。速彦は肩で息をしながら、たった今振り下ろした拳を再び上げようともせず、じっと炫士をにらんでいる。痛みが鼓動していた、炫士はもっともっと深く爪を手のひらへ突き刺す、炫士は待っていた、その痛みが充分な程度に達するのを――その瞬間には、速彦は病院の床に叩きつけられ、眼球を裂傷し、頭蓋を砕かれ、噴出す血にあえいで床を舐めるように舌を突き出していることだろう。

 「ちょっと、君たち!」

 張り詰めた緊張が極限に達して二人を硬直させていたところに、突然横から声が飛んできた。同時に反応して速彦と炫士がそちらを見ると、フロアの入院患者らしき男が立っている。

 「こんなところで止めないか。いったいどうしたんだ」

 入院患者にしては心身ともに健康そうな男は、スリッパの音をぺたぺたとさせながら近寄ってきて仲裁に入ろうとする。おせっかいで人の良さそうな男の登場にすっかり拍子が抜けて、炫士と速彦は互いに緊張を解く。速彦がちょっとしたケンカで騒がせて悪かったと男に軽く頭を下げる、男は笑いながら炫士と速彦の肩を同時にぽんと叩き、腹が立ったときはいったん深呼吸をするんだ、とどうでも良いアドバイスをしながら自販機で缶コーヒーを買い、満足そうな様子で自分の部屋へと戻って行った。

 男が去った後、炫士と速彦は全く目を合わせようとしなかった。速彦は無言で、炫士に声もかけずに岐史の病室へと戻って行く。炫士は唇からにじむ血を舌先で何度も何度も繰り返し味わいながら、秋姫のことを思い出す。速彦を徹底的に破壊してやろうと思った、二度と這い上がれないほど深い奈落へ、その存在が二度と問題にならなくなるくらいに深い奈落へ、蹴り落としてやろうと思った。

 

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その6へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その4

 めた夢に追われているような気分で炫士は帰り道を歩いた、夜は明け、朝はすでに過ぎて、日は一日の高みへ昇ろうとしていた。住んでいるマンションの入り口まで来たとき、壁に寄りかかっていた人影がこちらを目に止めるなり、すっと体を立てて、炫士の方へ手を振る。

 「元気か」

 そこにいたのは岐史だった、炫士はあいまいにうなずいて、何気もなく目をそらす。速彦や那美にくらべれば、岐史のほうがずっと良かったが、いずれにせよ会いたくない人物であることには変りない。

 「何だよ?」

 世話ばなしでもされると面倒で、炫士はにべもなく要件を聞こうとする。速彦とは反目し合い、那美とは他人のような距離があり、岐史が家族の中で一番ましとは言え、炫士はこの父親のことを好いてるわけでもない。尊敬も軽蔑もなく、親近感も嫌悪感もなく、長い時間一緒にいたが仲良くもない知り合いとか同僚とか、そういう感覚に近い。

 「ちょっと、国ケ崎に海でも見に行かないか?」

 「何しに行くんだ」

 奇妙な誘いだった、国ケ崎には岐史の実家があり、盆や正月などの里帰りでたまに連れて行かれた場所だが、数年前に岐史の両親とも死んでしまって、その葬式以来一度も訪れていない。

 「まあ、なんだか急にもう一度だけ行きたいと思ってな。これから病院に入ることになるし、これで最後になるかもしれん」

 そう言って、岐史は寂しそうに笑った。

 「別に、行きたかったら一人で行ったらいいだろ」

 「そう言うな。これからは一緒に出かけることすらかなわん」

 渋りながら、炫士は岐史と車に乗り込んだ。病気の岐史を助手席に座らせ、炫士がハンドルを握る。免許取り立てで不安だがどうせ先の短い命だから、と岐史が冗談を言う、炫士は笑わなかった。

 そのまま一時間、国ケ崎へ向けて炫士は車を走らせた、車内は静かで、ほとんどラジオだけが害のないおしゃべりを続けている。時々、岐史が炫士にあたりさわりのない感じで近況を尋ね、炫士はほとんどあしらうように、別に、とか、上手くやってる、というような答え方をした。昔通った道を走りながら、炫士は国ケ崎の海を思い出す。炫士は懐かしいというような感情を抱く人間ではなかった、言わば故郷というものを心に持っていない、実家のある場所は、自分を受け入れてくれる帰るべき場所というようなものではなく、ただ単に昔住んでいただけの場所にすぎない、自分は断ち切られ、浮遊したまま移動し続けるのだという感覚が、炫士の中にはある。ただ、国ケ崎の海は、唯一回想を誘う風景だった、たまに父親に連れられて行く、その海という場所は、幼い炫士の心をとらえる魅力を抱いていた。

 海の手前に停めた車を降りて潮のにおいを嗅ぎ、炫士は思わず目を細める。ぼんやりとした記憶へ現実の光景が流れこみ、やがて目の前に海が広がる。茫漠として、風はいるべき場所を持たずに漂い、青い色の重なりは無限へと続いて果てない。光を含んで揺れる柔らかい水面は人を優しく迎え入れるようでありながら、沈んでいく闇の暗さは人を冷たく突き放すようでもある。海は中立だった、帰るでも捨て去るでもなく、炫士はただ、そこで漂っていさえすれば良かった。

 砂浜へ降りる、小さな場所なのでめったに人は来ない、炫士と岐史の二人だけがぽつんとして、遠く開けた海に向かい立っている。炫士はじっと海を、空間と時間の純粋な広がりのような青色を、見つめて動かない。はるか昔から、神話の時代から、それよりもっと深い過去から、海は変わらずそうなのだろう、いや、それほど深い過去も現在も、海にとっては同じ瞬間の中にあるのだろう、そういう感覚が、炫士をとらえている。潮風の音が、耳元で爆ぜている。

 「炫士」

 岐史が名を呼ぶ、炫士は応えない。

 「炫士、母さんのことだけどな」

 炫士は黙っている、やっぱりそのことか、と思い、来るべきじゃなかったとばかりに舌打ちをした。

 「何ていうかな、母さんもいろいろあったんだ。子どもからすれば、産まれたとたんに母親が自分を置いてどこかに行くなんて許せないことかもしれない、でも、母さんは母親である前に、どうしても一人の人間でもある。自分自身の考えも悩みもあるだろう、やむにやまれず、子どもより自分を優先することもあるだろう」

 岐史の言葉を聞きながら、炫士は徐々にいら立ちを募らせていく。

 「別に、俺を置いていったことが許せないとか、そんなことじゃねえよ」

 「じゃあ、何で母さんにあんなことを言ったんだ」

 「知らねえよ」

 炫士はほとんどなじるように言い捨てる。うまく言葉が続かない、捨てられた子が母を恨むとか、そういう型にはまった憎悪ではないのだという確信だけはありつつも、じゃあそれがいったい何なのかということが、炫士にはよく分からない。強いて言うなら、那美が母親として君臨しているということが、自分に母親という存在がいることが、扱いきれない違和感として胃をむかつかせる。例えば速彦にとってそれは生まれ持っての当然だったのかもしれないが、自分にとってはそうではない。

 「そんなら聞くけどよ」

 炫士が岐史のほうを見る、岐史は覚悟めいた顔で、それに頷きを返す。

 「親父は知ってんのか? あの女が出て行って、そんでまたのこのこ戻って来やがった理由を」

 「それは……」

 岐史は言葉を濁す、それを見て、炫士はお見通しだとでもいうように鼻で笑う。

 「五年間、何してたか分かんねえぞ、そんなこと確かめもせずに、よく夫婦やってられるよな」

 いら立ちはますます膨らんで、炫士はわざと岐史の人の良さを踏みにじるような言い方をした。

 「それを知った所で、どうだというんだ。母さんは戻って来た、それはよっぽどの覚悟がいることだっただろう、だから父さんは黙って迎え入れることにした。何よりも、戻って来てくれたことが嬉しいじゃないか、父さんにも、速彦にも、そしてきっと炫士にも、必要な人が戻って来てくれたんだ。だったら、それ以外のことなんて、どうでもいいじゃないか」

 これ以上話しても無駄だというような顔で、炫士はため息をついた。結局のところ、母親という得体のしれない怪物に違和感を持っているのは自分だけだった、岐史も速彦も、何かそれが無条件の聖性や善性を備えているかのように扱う、だから、そもそも炫士とは根源的な認識が違う。那美が母親である前に一人の人間だということを本当の意味で理解しているのは、岐史でも速彦でもなく、自分だけだと思った。岐史と速彦は、那美をその聖なるベールで覆う、そして那美は、確信犯的にそのベールに身を隠し、その奥から勝ち誇った微笑を投げかけるのだ、と炫士は思った。

 「うんざりなんだよ、正直もう近づきたくない」

 「いったい何が不満なんだ。悪態をつくだけじゃなくて、自分の考えをもっとはっきり言ってみたら良い」

 それができれば世話はなかった、自分の状態を語るには、一般に家族について語られているどんな言葉も当てはまらない気がした。自分にとって母親は異次元からきた存在で、その母親を核としている家族に対して、自分は異物なのだという気がした。だから普通の家族を語るためのあらゆる言葉は、炫士の違和を語ることができない。

 「不満とかじゃない、ただ単に、居心地が悪いのさ」

 特に何も求めてはいないはずだった、だから不満ということすらありえない。

 「ただ、お前がどう考えていようと、お前は父さんと母さんの子どもで、速彦の弟だ」

 噛み締めるように、岐史が言う、だがその意図とは裏腹に、それがますます炫士の神経を逆なでする。炫士にとっては、岐史と速彦と那美と自分が、何か消し去ることのできない結びつきに取り込まれていることが、不気味でしかない。

 炫士は岐史と目が合う、俺はたぶんお前の子どもじゃないぞ、という言葉が寸前まで出かかる、なぜその可能性を二十年も突きつけられていながら、この男は那美と自分のそばにいられるのだろうか、炫士にしてみれば滑稽で情けないだけの岐史に対し、怒りと憐れみが腹の底でせめぎ合う。

 「もう帰ろう」

 その場にいることにそれ以上耐えられず、炫士は岐史を誘導するような仕草で車の停めてある方向に顔を向けた。

 「まだ良いだろう」

 そう言って、岐史は炫士の肩に手を置いて引き止める。

 「これ以上何の話もないだろう」

 「待つんだ」

 岐史がいつになく思いつめたような表情になり始め、炫士の肩に置いた手に力を込める。岐史は何か、近づく死を前にして、可能な限りのことを言い残そうとしているかのように見えた。その感情の圧力を炫士は不快に感じ、思わず強引に岐史の手を振り払ってしまう。炫士はそのままさっと背を向けて、その場を去ろうと歩き始めた。岐史がどんな顔をしているのかは見ようとしなかった、それを見ることを、炫士は嫌がった、だから振り向く素振りもなく、できるだけ早く車まで戻ろうと浜辺の砂を蹴るように進む。海は静かだった、波は沈黙したまま、優しい手つきで砂浜を撫でている、漂う風以外に、音を立てるものはない、寄る辺ない風の、孤独と自由が、耳元で爆ぜている。

 炫士は立ち止まらずにしばらく歩く、背後に気配はなかった、まるでその場から、岐史がいなくなってしまったかのように。一瞬、炫士は本当にそんなふうに感じて、思わず振り返り、驚く。岐史がいなかった、こつ然と、砂浜から姿を消している。影がにじんだ金色の砂浜が視界の手前で途切れ、あとは延々として広がる空と海が彼方で霞んでいる。何かに太陽の光が反射しているのか、綿のような粒が輝いて、炫士の目の前をゆっくり上りながら遠くへ流れていく。夢を見ているのかと思えて、炫士はぼうっとする、だが、同時に奇妙な重力が這い上がってきて、炫士はじわじわと視線を落としていく。

 ああ、と炫士は思わず声を上げた。岐史は消えたのではなかった、そうではなく、病のために突然倒れたのだった、炫士が視線を止めた先で、すでに意識を失い、砂浜に崩れ落ちて突っ伏していた。その存在が、ゆっくりと砂浜に飲まれていこうとするかのように、体は暗い重さに満ちて、身動きひとつしない。

 炫士は砂浜を走って戻った。自分が岐史を救いたがっているのかどうかは分からなかった、だが、失われていく人間の生命を前にする焦りの中に、来るべき一つの終わりに、静かな安堵を見出していたことだけは間違いなかった。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その5へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その3

 日の間、炫士は街に立った、だが、道行く女たちを見ながら、誰一人に対しても声をかけられず、更けていく夜を見送るばかりになってしまっている。怖気付いたのではない、母と兄ともめたことで内省的になりすぎていた、意識が自分に向きすぎて、他人との間の壁となっている。街を行く女たちが皆、街の風景に溶けこんでしまう。そんな状態でいくらそこへ手を伸ばそうとしても、男も女もビルも車も光も影も、見えているのは何もかも、炫士の意識を鏡に写した幻のようなもので、実体を失いぼやけてしまっているのだ。

 このままではだめだ、と炫士は確信して、とうとう普段は足を踏み入れることのないクラブへ行くことにする。それが解決策になるとは思えないが、このまま路上に立っていても埒が明く見通しはゼロで、せめて何かの気分転換になるかもしれなかった。

 入り口で金を払い、地下へ続く階段を抜けて、開けた空間へ出た、低音が床を鳴らし、原色の光が入り乱れる、フロアの客が、祈りを忘れた信者のようにステージを向いて、体を揺らしていた。特に長居するつもりもない炫士は、上着も脱がずにポケットに手を突っ込んだまま、クラブの中をゆっくり歩きながらそこにいる人々を観察し、やはり無意味だったとため息をつく。炫士はクラブが嫌いだった、似たような種類の人間が、似たような種類の欲望を抱えて集っている様が、どうしようもなく味気ない、居心地が悪い。それに比べると、路上での出会いの方がはるかに色気があった。クラブには孤独がない。安っぽい音と光と人々のいきれが、懶惰な一体感を与え、孤独を覆い隠してしまう。路上でのほうがずっと孤独になれる、孤独は鋭ければ鋭いほど街の風景を深く切り裂いて、その裂け目から甘い果汁のような他人の存在感がどろりとあふれ出る、その液を、闇夜を飛ぶ蟲のように、炫士はすすりたがっていた。体を揺らし浅い陶酔に身をゆだねる人々の間を抜けながら、無駄だと知りつつ、炫士は孤独を求める。思いつきに、隣にいた女に声などかけてみる、女は炫士の容姿に一瞬笑顔を見せたものの、しょせんは気のない態度で話しかけられているにすぎないことを感じ取ると、徐々に不機嫌そうな様子になり、そのうちぷいと顔をそむけてどこかへ行ってしまう。

 また気分は内省的になってきて、ふと、なぜ自分は母と兄をこれほど嫌うのだろうかと考える。一般的に見れば、産まれてすぐ自分を放ってどこかへ行った那美を恨み、そしてその母とより強く根源的な絆で結ばれている速彦に嫉妬しているのだとように解釈するのが収まりがよいと思えるのだが、少なくとも炫士自身は、それは自分に当てはまらないし、自分の感情を説明できるものではない、と考えている。それよりも、自分は那美とは無関係の存在だと思いたいのに、何かどうしても抗えない繋がりがある、さらに速彦がいることで、その繋がりがあることの実体感を無理矢理鼻先につきつけられている、それが、どうしようもない嫌悪感を呼び起こし、自分はそのいら立ちを抑えられないのだ、という説明のほうが炫士にはしっくりきた。両方とも当てはまるのか、両方ともそうではないのか、いずれにせよ、炫士は自分を充分に納得させることはできていなかった。あるいは、自分を納得させられないことにいら立っているのだろうか。

 炫士は踊る人々を眺めていた、所在なく、水っぽい酒をすすりながら、酔うこともできず、空間を満たす音と光によって我を忘れることも叶わない。もはや完全にほうけてしまいそうだったが、炫士は、さっきからある一人の女に目を止めていた。バーカウンターの前に遠慮がちに立って、こちらに背を向けている、着ている服装はどこか場違いで、まるで初めてこういう所へ来たかのように緊張し、身を縮こまらせて、こもった巣穴からのぞくように、恐る恐る人々の様子を観察している。その慣れない様子を見た男達が二、三人、こいつはカモれると思ったみたいで揚々として声をかけたが、女は必死で目をそらし、男達を無視することで身を守っていた。女は、明らかに場違いだった、抱えているのは欲望というより、戸惑いと、そして孤独の影だった、それが女の羽織った地味なコートのすそから尻尾のようにはみだして、原色の光線を受けてちらちらと現れては隠れてを繰り返している。炫士はさっきからずっと、その女に違和感を持っていた。俺は、この女を知っている、そういう直感が、炫士の目を女に釘付けにしていた。何時かどこか街の中で、声をかけた女の一人だろうかと思ったが、そうではなかった、もっと深く、炫士はこの女のことを知っていた。まさか、いや、間違いない、そう考えて意を決し、炫士はゆっくりと、背後から、その女に近づく。

 「奇遇なもんだな」

 横から女の視界に入りざま、炫士は声をかける、相手をおどかさないように、おびえさせないように、柔らかく、落ち着いた口調で。それでも、女はずいぶん驚いた顔をして、びくっと体を反応させ、カウンターに置いたコップを倒しそうになる。ただ、逃げようとはしなかった、その表情は驚きに満ちてはいるものの、次第にいくらかの安堵を含んでゆっくりとゆるみはじめる。

 「誰? 何か用?」

 炫士は顔をしかめる、どうやら、目の前の女――秋姫であるはずのその女は、よく知っているはずの炫士を見止めても、知らんぷりを決め込んだようだ。だが、顔だけでなく、背格好も仕草も秋姫のもので、どうしたって間違えようがない。

 「何って、秋姫じゃないのか」

 「……私、秋姫なんていう名前じゃない」

 ヘタな演技だったが、どうやら本当にごまかすつもりらしい。秋姫はうつむいて視線を外しながらも、半身になって炫士の言葉に耳をかたむけている。後ろめたさを感じると同時に、むしろこの遭遇を期待していたかのようにも見える。炫士は首をかしげながら、しかたなく、秋姫の茶番に付き合うことにする。

 「ごめん、知ってるコに、めちゃくちゃ似てたから」

 「そうなの? でも、違うから」

 薄暗い空間の陰がベールのように顔を覆って、秋姫の細かな表情は読み取れない。

 「でも、そのコ俺が知ってる中で一番かわいいんだけど」

 炫士がわざと軽薄なことを言ってみせると、秋姫は媚態を込めて、ふふ、と笑う。どこか空っぽな笑みだった、秋姫はときどき、そういう笑い方をする、心を失って、声だけが笑っているのだ。

 「ねえ」

 わざと、甘い声で、もったいぶった話しかけ方をする、鷹揚な笑みを浮かべ、自然な動作で、いつのまにか炫士は秋姫の手に触れていた。一瞬、秋姫は身をすくませるが、炫士はまるでそうするのが自然なことだとでもいうように、柔らかく、秋姫の手を包み込むようにして、その動きを制止する。そして、いつも女を口説くときにそうするように、相手の緊張を解きながら気分を盛り上げていくような会話を始めていた、もはや目の前にいるのが秋姫だということは頭の外へ放り出し、合目的性によって設計された機械のように、炫士は女の心をゆっくりと確実に侵食していく。秋姫の真意は分からなかった、いったいなぜこんな所に来ているのか分からない、だが、ゆっくりと紐解かれる織物のように、炫士の誘惑とたわむれている。

 「踊らないの?」

 炫士に聞かれ、秋姫がはぐらかすように首をかしげた。秋姫はすでに戸惑いを忘れつつあり、状況を受け入れている様子だった、炫士のほうを向いて、顔を上げる、その瞬間に、二人の目が始めて合った。炫士はじっと秋姫の目を見つめる、秋姫は目をそらそうとはしていなかった。その目には、意思のようなものは感じられない、むしろそれが抜け落ちている、そうであるがゆえに、よどみがなく、真っ直ぐで、炫士の直視にもひるむことがない。そそのかされるように、炫士の腹に邪悪な思いが湧いてくる、当人が何を考えていようと、秋姫を、兄の腕の中にいるこの女を奪い取り、原色の空間にポッカリと空いた穴の底へ、突き落としてしまいたい、残酷になることの快感を予期して、炫士の指先が、かすかなしびれとともに震えた。

 「おいで」

 炫士は秋姫の手を取り、バーカウンターからフロアのほうへ誘い出す、秋姫はよろめくようなステップで、ふらふらと原色の中の穴へと引きずられて行く。秋姫は炫士を見上げ、ただなすがままだった。秋姫の体は妙に軽い、その場から浮き上がって遊離してしまいそうなくらいに。どこにいても場違いに見える女だった、いつもいつも、どこか別の場所へといざなわれている。炫士は秋姫のことをよく知っている、いつも強い感受性でそれを求めていた、遠い目で、はるか天高い所を見つめている、そして、足元はいつも落下の衝動でぐらついている、目の前の現実を現実だと信じていないかのように、現実の何もかもが砕け散った、その破片とともに奈落へ崩れ落ちていきたがっているかのように。秋姫は、そういう女だった。中学時代の炫士はそれゆえに秋姫に惹かれていたし、おそらく、秋姫もそれゆえに炫士に惹かれていた。

 炫士は安い音楽にあえて降伏するように、自我を放り投げ、周囲の人間と同じような浅い陶酔へ自らの身体をうずめていく。再会した二人は、五年ぶりに手を取り合っていた、浅い陶酔に満たされ、景色がぐるぐると回る、炫士の邪悪と、秋姫の空虚が、原色の光の中で陰陽のように混ざり合っていく。炫士が秋姫に笑いかけると、秋姫は笑みを返した、その、空っぽな笑み、炫士自身はっきりと気づいていなかったが、那美もまた同じように笑うことがあった、こちらを抱き寄せるようでいて、しかし同時に突き放してしまうような、そういう母親と同じ空っぽな笑みに、炫士は途方にくれるような気分にさせられる、その孤絶の中で、あるいは速彦は必死にそれをたぐりよせ、自分は嫌悪してそれを突き放すのだろうか、と炫士は思ってみる。

 「出ようか」

 炫士が尋ねると、それまで浮かれていたようですらあった秋姫の表情が急に曇った。自分はただ期待の中でだけ遊んでいたかったのだというように、現実にそれが迫ると、秋姫はとたんにいまにも逃げ出しそうな雰囲気になったのだった。炫士は少し強めに力を込めて秋姫の手を引こうとするが、秋姫はぐっと身を固くして、それを拒むようにそこから動こうとはしない。秋姫が何を考えているのか分からなかったが、炫士はそこに秋姫の貞操観念を読み取った、速彦のことが頭にあるのだろうか、と思う、すると、たちまちに腹が立ってくる。

 「行こうよ」

 さっきより強い力で、炫士はぐいと秋姫の手を引いた、秋姫はバランスを崩し、炫士の体にもたれかかるような格好になる。はっきりとした拒否ではなかった、秋姫は、ただただその両方の感情に挟まれて、硬直状態になったままだった。炫士は秋姫の二の腕の辺りをわしづかみにして、そのまま秋姫をクラブの外へと引っ張っていく。秋姫はどちらとも決められないまま、ただ体だけがそうなっているのだというように、感情も意思も抜け落ちたような状態で、炫士のなすがままになっていた。

 

 

 半ば強引に秋姫を連れて帰ると、そのまま部屋に入るなり、炫士はキスで秋姫の唇を覆った、中学時代に恐る恐る触れるようにしていたのとは違う、奪うようなやり方だった、冷えた空気で白い肌がこわばっていたが、鎖骨の下の辺りに熱い唇を押し当てると、ゆっくりと溶けていくように柔らかくなる。炫士が服を脱がそうと胸元に手をあてる、だがその瞬間、秋姫はその手をつかんで抵抗する。

 「どうした?」

 炫士が尋ねると、秋姫は黙ったまま首を横に振った。

 「何だよ」

 秋姫は何も答えない、そしてそのまま、炫士の手をゆっくり胸元から押し離す。

 「嫌なのか?」

 秋姫は首を横にも縦にも振らない、じっと、うつむいて、床の一点を見つめたまま動かない。 

 「何でついて来た?」

 まるで自問するかのような口調で、炫士は秋姫に問いを投げかける。秋姫はそんなことを聞かれたくないと示すかのように、いっさい視線を上げようとしない。

 「秋姫」

 名前を呼ぶ、反応はない。薄明かりに、秋姫の長いまつげが揺れていた。一度、唇を噛む、そしてしばらくすると、その唇がほどけ、ゆっくりと、ほんの舌先がのぞいた、ようやく、秋姫は喋りだそうとしていた。

 「……私は、秋姫じゃない」

 「そうか」

 炫士はため息をつく。もう名前を呼ぶのは止めておこうと思った、自分が秋姫だと認めさせたところで、何になるというのか。

 「彼氏は?」

 今度は、会ったばかりの女に対するような態度で聞いてみる。その態度の違いを感じ取ったようで、秋姫は一息つくような動きで、視線を少し上げる、それは炫士の首もとまで来ていた。

 「いるよ。もうすぐ結婚するの」

 「結婚する前に、他の男と遊んでおきたかったのか」

 その質問をしながら、秋姫は自分を求めていたのだろうか、それとも誰でも良かったのだろうか、と炫士は考えていた。秋姫は出てくる見込みのない答えを探そうとするかのように、炫士の首もとを見つめている。

 「……私ね、この前、その人のお母さんに会ったの」

 期待した答えとは違っていたが、ようやく自分の意志で喋ろうとする秋姫をうながそうと、炫士は相手を安心させるようなゆっくりとした相槌を打ってやる。

 「それでね」

 「うん」

 「何か、恐くなっちゃった」

 「どうして」

 「何だか、その人の感情が見えなくて」

 「感情?」

 「何ていうか、自分が今ここでこうしているってことについて、どう感じているのかっていうことが、見えなかったの」

 「感情が見えなくて、恐ろしかったってことか」

 「そうじゃなくて、何だかその人を見てると、自分がこれから私っていうものを失って、透明な記号になっていくような気がしたの。この住所に住んでいる、こういう名前の、奥さん。旦那の職業はこれで稼ぎはこれくらい、子供はこの学校に通ってて成績はこれくらい、私はこれから、そういうものの寄せ集めでできた存在になる。その人は、自分がそういうものの寄せ集めだってことにまるで何も感じなくなったかのように、感情が見えてこない」

 「自分も、その母親のようになると思った?」

 「それは分からない、その人が、本当にそういう人なのかどうかも分からない。感情が見えないっていうのも、私の思い込みが強いせいかもしれないし、それに、その人がどういう気持でいるかっていうのは、結局表面的なことだけじゃ理解できないだろうし」

 「さっきから結局何が言いたいのか、よく分からないな」

 炫士が分からないのは、秋姫が言っていることの内容そのものではなかった、秋姫の言葉のひとつひとつには、どこか感情が抜け落ちたような空疎な響きがある。だから、秋姫の話している内容を、本当に秋姫がそう思って言っているという感覚が、まるでないのだ。秋姫が本当は何を思っていて、何を言いたがっているのか、それが分からない。秋姫の言葉は、秋姫の感情や思考からはどこか遠いところにあって、まるで水面の朧月のようにつかみようがない。今話していることも、録音された一般的な女性の悩みを口から再生しているだけで、本人の悩みは全く別の所にあるような気がしてくる。あるいは、自分自身のことを、那美に投影しているようにも聞こえるが、秋姫にはそういう分かりやすさを拒絶するようなあいまいさがあった。

 「私は、自分が分からないことを、いつも分からないまま放っておくの」

 「とんだ迷子だな。答えが欲しいと思わないのか」

 「答えなんて、持ちたくもない、持ってしまえば、どこにも逃げられなくなる」

 「逃げ出したいのか」

 「でもきっと、逃げ場なんてない」

 「逃げるなんて、簡単だろ」

 「逃げてしまえば、逃げ場を失うだけ、逃げ場がなかったってことに気付くだけ」

 「話を聞いてると混乱しそうだ」

 「混乱? そうね、私はきっと、混乱したいの。もっともっと、どんなふうにすれば私が私を失うのか、分からなくなるくらいに、混乱したい」

 「それで、あんな所へでかけたのか」

 「でも、こうなったのは成り行き。何もかも、始めから意図したわけじゃない」

 「それで済むのか?」

 「何度も言うけど、私はあなたの知ってる誰かじゃない」

 秋姫は、その場に立ったまま、抜け殻のように喋っている。恐れのあまり起こってしまったことを否認する態度にも見えたし、異常な鈍感さで起こったことを理解してない様にも見えた。まるで他の誰かになってしまったかのようだった、自分が邪心から突き落としたはずの秋姫が、その穴の底から自分を引きずり込もうとしている感じがして、炫士はその女に触れることの怖さを思った。だが、そこには何か抗えない魅惑が存在し、炫士はもっと深いところまで秋姫を突き落とし、引きずり込まれたい欲動にかられる。そうなれば、二人の間にいる速彦もまた、その穴の中に引きずり込まれるだろう。

 「また、会える?」

 このまま強引にベッドに組み伏せてしまおうかとも思ったが、炫士は踏みとどまった、秋姫だけではなく、炫士もまた、何もかもをめちゃくちゃにすることには及び腰になる。

 「さあ、成り行き次第ね」

 「もう一度、俺はあのクラブに行くつもりだ」

 「そう」

 約束は交わされなかった、炫士の目の前には秋姫の姿がある、秋姫はゆっくりと炫士から顔を背け、部屋の奥のガラス窓の方を向いた。炫士はもう一度キスをしようかとためらう、この女は、速彦ではなく、自分のものなのだという意識が湧いてくる、自分のほうがこの女のことを先に知っていたし、本当ならこの女の貞操は、自分のものになるはずだったのだ。たぶん、自分はこの女のことなど愛してはいない、だが、この女を好きなようにするのは、速彦であってはならない、自分でなければならないのだ。炫士はそう考えながら、視線をガラス窓へと移していく、そこに映った秋姫の顔、暗い陰に隠れて、どんな目をしているのか分からない、薄明かりに浮かぶのは、口元だけだった。どういう感情なのか、秋姫は笑みを浮かべていた、背中からは怯えや戸惑いがうかがえるのに、その口元に浮かぶのは、空っぽなほほ笑みなのだ、唇がすうっと裂けて、奥から口腔が現れる、窓ガラスの向こうのそれは、深い闇でしかない。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その4へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その2

 士は茶碗の中の白米の柔らかい粒を黒塗りの箸の先でつつきながら、正面に座った父親を見ていた。病のせいでやつれ、小さくなったように見える。白髪の、特筆すべきことは何もない、どこにでもいる中年の男、それが炫士の父親、岐史だった。本当に幼い頃には威厳を感じ、恐れていたこともあり得たのかもしれないが、少なくとも記憶にある限り、この男に父親らしさを感じたことはない。炫士より背が低く、おとなしい性格で、容姿が良いわけでも頭が良いわけでもない。映画俳優のような容姿を持ち奥底に凶暴さを秘めた炫士と、いったいどんな血のつながりがあるというのだろうか、親子という強制的な縁がなければ、きっとまともに話すこともないような種類の人間だった。炫士は無言のまま、再び茶碗へと視線を落とす。

 炫士の両脇に座った兄と母が、何かを喋っている。炫士と、そしておそらく岐史も、それを聞いてはいない。岐史の病の状態が悪く、もうすぐ入院することになるので、その前に全員で食事を、というのが、こうやって家族で集まって食卓を囲んでいる理由だった。普段は家族と距離を置いてめったに実家に寄り付かない炫士も、気が進まないとはいえこういう機会に顔を出さないわけにもいかなかった。だが、こんな家族的で陳腐すぎる有様は、普段夜の街を歩いて女を引っ掛けてばかりいる生活とはあまりにかけ離れていて、かえって現実感がない。

 ――炫士。

 自分の名を呼ぶ声に気づいて炫士が顔を上げると、自分のほうを見ていた那美と目が合った。

 「最近ふらふらとしてるみたいやけど、ちゃんと生活できてるの?」

 特にたいした答えを期待するふうでもなく、与えられた母親という役割を淡々とこなすような質問だった。ああ、と炫士は生返事をする。ありふれた中年の典型のような岐史とは違い、那美――この母親は一種独特な魅力を備えている。どちらかといえば美人の顔立ちで、いくらか古風な雰囲気もあり、疎外と孤独に諦念を抱きながら、しかし代償的な家庭の支配権を握って離さない、はた目には主婦の典型と見えるような存在だった。しかし、通常の母親のようにそういうあきらめを引きずって生きるのでなく、むしろ全身を、そのあきらめに委ねている。那美は、透明な抜け殻で、歪んで崩れている存在だった、破綻が、色気のようなものとして表れている。

 「でも、大丈夫なの? ……ほら、ねえ?」

 そう言って、那美はちらりと岐史を見やる。岐史は一瞬胃の痛そうな顔をして、炫士のほうを向く。

 「まあ、そうだな、なんていうか、大学、ちゃんと通ってるのか? 生活費とか、どうしてるんだ」

 遠慮がちに、岐史が聞いてくる。炫士はその言葉にいら立った様子を隠そうともせず、ああ、とまた生返事をした。那美は、大事なことや深刻なことは、自分の口で言おうとはしない、自分は身を安全な所へ隠し、肘で背中をつつくようなやり方で、厄介ごとは夫に預けるのが常だった。

 「炫士、もう少しちゃんと答えろよ」

 今度は逆の側から、速彦にそう言われる。だが、炫士は露骨に嫌な顔を見せるだけで、目線をあげようとすらしない。炫士は、特にこの兄と折り合いが悪い。真面目で物事を枠にはめたがる速彦は、規範や常識といったものから自由に振舞おうとする炫士に対抗心を持っていて、何かにつけて弟に対する優位を示そうと、常に親に同一化するような立場からものを言うのだった。

 「ちょっと勉強すれば単位なんか取れるし、金はバイトでなんとかしてる。俺は俺で勝手に何とかするし、心配いらん」

 速彦を突っぱねるような口調で、炫士が答える。

 「嘘ついてないやろうな? ふらふらして父さんと母さんに心配かけとったらいかんぞ」

 まともに大学に行かないことが人非人であるかのような物言いは、いかにも道を外れることを極端に嫌い、二十二歳で大学を出て市役所に勤めた速彦らしい。速彦は自分の考えに確信を持っているようで持っていない、速彦の意見の参照点は、兄であるとか年長者であるとか規範的であるとかそういうことで、そういったものに寄りかかって喋っている。一方で炫士はそういう根拠を持っていない、いわば孤児のような存在で、そんな二人が互いのことを理解できるはずもない。

 「親に心配って、お前が言う事やないやろ。いっぱしの大人みたいに偉そうに言うくせに、その実お前は親離れできてないな」

 「なんだと」

 睨みつけてくる速彦を、炫士が睨み返す、だが、その時にふと、二人の様子を不安そうな顔で見ている秋姫と炫士の目が合う。二人の間に、二人にしか分からない、微妙な気まずさを含んだ共犯的な雰囲気が漂う。速彦の隣に座っている秋姫は、速彦の婚約者だったが、炫士が昔付き合っていた元彼女でもある。そのことを知っているのは炫士と秋姫だけだった、中学時代にお互い初めて付き合った相手で、期間も三ヶ月程と短く、互いに別の高校に入ってから徐々に疎遠になり、そのまま別れた程度の関係だが、再会した時の驚きと当惑は並々ならないもので、この奇妙な関係性をどうしていいのか分からず、ただ単に二人とも全くの他人であるかのように振舞うだけだった。ゆっくりと、よそよそしく互いに視線を外す。秋姫の目の動きは落ち着かない、中学時代もそうだったが、どこにいても収まりの悪そうにしている女だった、いつも、どこか別の場所へ逃げ出したい、そういう願望を、心のどこかに抱えているように見えた。秋姫が炫士を見る視線には、気まずさの中に、閉じ込められた人間が救いを求めるような哀訴が浮かんでいる。

 食卓を囲む五人の関係は、いびつで、団らんとは程遠い。親兄弟婚約者という、それぞれに貼り付けられたラベルによって、成り立っているにすぎない。炫士の中には、嫌悪感ばかりが沸き立ってくる、どうということもない陳腐な光景、その陳腐さの裏に潜んだ、説明可能なようで不可能な家族の呪縛のようなものが、炫士に耐え難い不快感を与えている。どれほどこの父と母と兄から離れようとも、自分はこの父と母の子で、この兄とともに育ち、それが自分という人間の根底を形成しているのだという事実が、桎梏のようにまとわりつく様に、いらだちを覚える。

 「まあ、やめないか。二人ともいい歳になって、そんなにいがみ合うこともないだろう」

 遠慮がちに、岐史が兄弟を制止しようとする。

 「そうよ、今日はお父さんのために集まったんだから、たまには仲良くしなさいよ」

 那美が岐史の後に続いた、その顔には、他人を懐柔する力を持った笑みを浮かべている。それを見た速彦は、しぶしぶといった様子で居直り、姿勢を正す。那美の顔には、自分こそがこの家の支配者なのだという隠れた確信が潜んでいた、父も兄も、そして弟も、どんなことを考えていようと荒々しい態度を見せて争おうと、結局は自分の手のひらの上で踊るのだというような、そういう笑みを、那美は浮かべている。決して表に立たず、常に岐史の後ろに隠れるようにしながらも、実際には那美こそが、母であり、この家庭という奇妙な磁場の中心にいる。

 「しかけてきたのは兄貴だ、俺からは何もしてない」

 炫士は吐き捨てて、今度は岐史を睨む。そのいら立ちの矛先をいったい誰に向けるのが適当なのか、炫士には自覚がなかった。

 「子供みたいな態度取るんもいいかげんにしろよ」

 速彦が抑えられたものを吐き出すように再び食って掛かるが、炫士はそれを鼻で笑って取り合わない。速彦はまだ何か言おうとするが、自分を見ている那美の視線にたしなめられ、同じように炫士を鼻で笑って溜飲を下げる。

 「まあ、昔からケンカの多い兄弟だったしなあ。何にも喋らんよりは活気があっていいじゃないか」

 不恰好な形であれ、岐史はどうにかその場を治めるようなことを言い、力なく笑い声を上げてみせた。居心地の悪さを飲み込むように、炫士は黙々と飯を食う。いっそバラバラになればいいものを、と思うが、それは奇妙な調和を成している。誰かがそれを統べる複雑な技術を教えているわけではないのに、それは壊れることなく、あるいは、壊れているかどうかという基準の埒外にあって、消え去ることなく存在し続ける。まるで幻のようで、実体を持たないがゆえに、力づくで消滅させることも叶わない。そのことに薄ら寒いものすら感じるが、炫士は、いったい家族というものから、どんなふうにして自由になればいいのか分からない、というより、どんなふうに自分が自由でないのかも分からない。それは、たとえ無視したとしても、むしろ無視すればするほど、まるで無意識のように根を張り、自分をとらえてしまう。

 「炫士もずいぶん、無愛想になったものねえ。昔はお父さんにもお母さんにも、もっとなついてたのに」

 那美の表情には、相変わらず炫士に対する優位、自分が母であるという地位を暗に誇る笑みが浮かんでいる、その笑みは、何よりも炫士に虫唾を走らせるものだった。だから、炫士はつい感情的になる。

 「昔っていうのは、いつのことだ?」

 一瞬、那美の表情が曇る、しかしそれでもなお、炫士に対する優位を崩そうとはしない。

 「炫士が小学生くらいのときは、特になついてたでしょう」

 「それよりもっと前のことは、知らんくせに」

 全員の動きが止まる、そしてそれぞれが緊張に満ちたぎこちない動きで、炫士のほうを見た。

 「お前は俺が産まれてすぐどっかに消えて、そんで五年経って、のこのこ戻ってきた人間だろうが」

 那美は炫士を産んだ直後、家族の前から姿を消していたのだった、その間何をしていたのかということは、実際には炫士も速彦も、岐史も聞かされていない。だが、せいぜい、誰か他の男の所へ走り、その生活が年月を経て頓挫したため、恥も知らぬ態度で出戻って、元の家庭に収まったと考えるのが自然な筋だった。少なくとも産まれてからの数年を那美と過ごした速彦とは違い、炫士には那美が母親だという感覚はまるでない。そして、炫士の本当の父親が岐史かどうかも分からない。身を寄せるような男が出産後間もない那美にできるはずもなく、その前から関係があったと考えるのが自然で、だから、炫士がずっと父親として一緒にいた岐史は他人である可能性が高く、突然現れた他人のような那美のほうが、母親として、確実な血のつながりを持っている。そのことが、炫士の家族に対する感情を複雑極まりないものにしていた。

 「何を言ってるんだお前は!」

 速彦がテーブルに箸を叩きつけると同時に立ち上がり、炫士の胸ぐらをつかむ。速彦は母親に忠実だった、幼い頃に失われたそれを、懸命にたぐりよせようとするかのように。そして、炫士は母親のことなど意にも介していないように振舞う。母親の存在とは、速彦にとっては刷り込まれたものだが、炫士にとっては上書きされたものでしかないのだ。

 「何って、本当のことだろうが」

 胸ぐらをつかむ速彦の手に、炫士が自分の手をかぶせて押さえこむ。

 「今さら、何でそんなこと蒸し返すんだ」

 「今だからだよ。俺も十九歳で、もうすぐ二十歳だ、だから、今までお前らが覆い隠して、俺もガキの頃から見ないふりにしておいたことの全てを、何もかもぶちまけてやりたくなっただけだ」

 「ぶちまけてどうする」

 「さあね」

 「父さんの具合が良くないときだぞ、それでせっかく、みんな集まってるんやろうが、それを、お前は自分のふてくされた感情だけで台無しにするんか」

 「台無しにでもなったら良い。どうせこんなもの、全部嘘みたいなもんだろうが」

 その言葉が我慢の限界だった速彦は、問答無用で拳を振り上げる。

 「やめなさい!」

 岐史が叫んだ、それに反応した速彦は、その動きを止める。たぶん、速彦は本気で炫士を殴るまでの度胸はなかったのだろう、炫士の胸ぐらをつかんだまま、じっとしている。炫士はその速彦を、ただただ、冷ややかな目で見下している。

 その時、速彦の背後から、静かな動きで那美が現れる、唇を噛み、目の奥で怒りが凍りついていた。そのまま、炫士の前まで迫り、次の瞬間、落ち着いた、しかし鋭い動作で、那美が炫士の頬を張った、肌が弾かれる音が、ぴしゃりと空間を裂く。

 「出て行きなさい」

 憤るその声には、まだかなりの冷静さが残っていた、腹の底に隠したものをほとんど下卑たやり方でえぐられてもなお、那美は母親なのだ。この家に後から来て居座ったお前が、産まれてからの十八年間ここにいた俺に出て行けと言うのか――その言葉を飲み込んで、炫士はしばらく、那美を睨みつけていた、那美の目の奥で凍りついた怒りがゆっくりと溶けて、その本性が姿を現すのを待ち構えるかのように。だが、黒々とした那美の瞳の奥は、何か霧のようなものに覆われているか、あるいは、それは実体のない闇の深淵のようなものでしかなく、いくら目を凝らしても、全くの無であるとしか感じられない。

 やがて、半ば諦めたように、炫士はふんと鼻で笑い、家族に背を向け、部屋を出て行こうとする。敵意に満ちた炫士を注視する三人の後ろから、秋姫がこちらを見ていた、何か、怯えるような目で。だがその怯えは、荒ぶる炫士に対してではなく、炫士が突き放したその家庭に取り残されることへの怯えであり、秋姫はその外側にいる炫士に救いを求めるようにしていた。少なくとも、炫士にはそんなふうに感じられた。

 「炫士」

 岐史が、その名を呼んだ。速彦や那美とは違い、いくらかの理解と同情を、炫士に向けるような声だった。だが、炫士は振り返ろうともせず、確固たる足取りで、玄関のドアを、夜に覆われた外の世界へ向けて開け放つ。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その3へつづくーー

誘惑の炎、存在の淵 その1

 士は孤児のように、夜の街を歩いた。孤独で、寄る辺なく、何者でもない。あるいは孤児になるために、炫士は夜の街を歩いた。街の中を歩いているのに、突き放されて、その視線はまるで外からもたらされたのように、人々を観察している。十一月の終わり、肌に触れる空気は冷たく、夜の八時、閉まりかけている店々からの明かりの中を歩く人々は、ややうつむいて、何か後ろめたいような顔つきで、道に落ちた自らの影を見つめている。

 炫士は女を探していた。風景の一部のような人々の中から、同じ孤児のように歩いている女、あるいは孤児になるために歩いている女、ひと晩だけの相手になる女を。炫士は舞い降りた一羽の鷹のように胸を張り、うつむく人々の間を歩く、まるで己が、その場を支配する者であるかのように。

 「こんばんは」

 どこか街の雰囲気から遊離したような、所在なさ気な女を見つけて、炫士は声をかける、鷹揚な笑みを浮かべ、まるで古い友だちであるかのような口調で。背の高い炫士は、女の進路にかぶさるように立ち、見下ろすような格好になる。炫士は何か、女性を魅了する天性のものを持ち合わせている、美しい容貌、高雅な立ち振る舞い、そして奥底に秘めた、炸裂する炎のような暴力。包みこむような優しさと懐の深さの奥で、今にも女の首を絞め殺しそうな凶暴の怪しさがちらちらと踊っている。平々凡々とした装いの女は、突然声をかけてきた相手を警戒しているのにどこか魅入られたような表情で、落ち着いた口調でぽつりぽつりと語られる炫士の話にうなずいている。

 「寒いね」

 いくらか会話をした後で思い出したように言って、炫士は女に同意を求めて微笑みかける。女の優柔不断な性格を表すような、どこか焦点の定まらない視線が揺れ、その珊瑚色の唇が、夜の街の、闇と光の移り変わりの中で、力なく開いて、ゆっくりと閉じる。炫士は微笑んだまま、落ち着いた態度で女の反応を待っている。トラックが一台、車体を軋ませながら通り過ぎる、女が何か言ったが、その声はかき消されてしまった。

 「ちょっと飲みに行かない? ここにいても寒いし」

 炫士の誘いに、女は黙ったまま、控えめなトーンに染められた髪に指先を触れさせていた。

 「行こうよ」

 全く反応できないような、柔らかく素早く抜け目ない猫のような動きで、炫士が女の手をとる。強引とは呼べないようなかすかな力で、その手は女をどこかへ連れていこうとしていた。誘惑の底へ崩れ落ちるように、女は抵抗するそぶりを見せることすらできず、その手に引かれるまま、おぼつかない足取りで、炫士の後について夜の街を歩くのだった、孤児のように、あるいは孤児になるために。

 

 

 「あれは何の音?」

 女が聞く、炫士が答える。

 「あれはアブラドリの鳴き声だ」

 部屋のガラス越しに聞こえる、鳥の鳴き声を模した信号の誘導音に、二人は耳を傾ける。

 「アブラドリ?」

 「都会の夜の空を飛んでる鳥さ。カラスにそっくりだけど、頭とクチバシがやけにでかい。闇の中をぐるぐると旋回して、はぐれた子供とか、こっそり捨てられた赤ん坊とかが泣いているのを見つけると、ガタガタと空気を震わせながら降りてくる、そして、そのクチバシで、子供の頭をすっぽりと飲み込んで、そのまま首から食いちぎって持って行ってしまうのさ」

 「やだ、怖い」

 あきらかに作り話なのに、低く落ち着いた炫士の口調には妙な説得力があり、女が震える。

 「大丈夫さ、はぐれさえしなければ」

 そう言って、炫士は女を抱きしめる。

 「あなたがちゃんと守ってくれるのね」

 「そうじゃない、自分からさ。自分からはぐれさえしなければ、アブラドリに頭を持って行かれることはない」

 女はよく分からないという顔をしている。炫士は女の耳を塞ぐようにその顔に両の手のひらを添えてキスをすると、少しずつ乱暴になっていく手つきで服をはぎとるようにして裸にさせる。

 炫士は女をベットに押さえこむようにして、性行為を始める。炫士の奥底に潜んでいた暴力が、膜を破ってせり出してくる、目つきは鋭くなり、ほとんど女を睨みつけるように見下ろしていた。怯えたような女のあえぎ声が部屋に響く、アブラドリの鳴き声はもう聞こえない。仰向けになった女に挿入したまま、炫士は女の体を持ち上げ、座位になり、のけぞった女の首を、炫士は大きな羽根のような両手で支えるようにかばう。女の首は細い、炫士は頚椎の感触を確かめるかのように、首の後側に指先を這わせる、このまま骨をへし折りたいという衝動が、激しい濁流のように下腹部から指先の方へと沸き上がってくる。いつもこんなふうに女に声をかけてホテルに連れ込んでいるのは、いったい何のためだろう、と炫士は思う。炫士は単なる女好きではなかった、というより、女性を嫌悪している。炫士を勃起させているのは、愛情ではなく、むしろ怒りや憎しみだった。上品さや優しさよりも、性欲を剥き出しにして転げまわっている女を見たかったし、そういう女にかきたてられる憎悪や攻撃性が、炫士を興奮させるのだった。

 殺してやる、という声が、嘔吐のように口元まであふれてくる。部屋は真っ暗で、カーテンは開けっ放しだった、青や白や黄色の人工的な光が、外から入ってきて、影のような肉体をぼんやりと浮かび上がらせている。太い親指が、小さな喉仏にかかっていた。徐々に力がこもって、白い爪の先がゆっくりと肉に埋まっていく。頭を下げ、息を吐く、抑えつけられた破壊衝動で痙攣しているかのように、炫士は果ててしまうまで体を動かし続けるのだった。

 

 「あれは何の音?」

 女が聞く、行為の後でもはや興味を失ったように天井を見上げている炫士が、しばらく黙ってから答える。

 「あれは、アブラドリだな」

 「さっきと全然違う音じゃない」

 それは、ガラスの割れるような音だった、だから、女はそう言った。

 「鳴き声じゃない」

 「じゃあ、何の音?」

 「アブラドリが、鏡に突っ込んだ音さ。アブラドリは自分の姿を見ると、ひどく怯えると同時に、その姿を強烈に憎むんだ。だから、自分の鏡像に敵意を剥き出しにして、その巨大なクチバシを構えると、とんでもないスピードで突っ込んでいく、そして鏡に激突すると、その勢いで自らの首をへし折り、地面に落下して、馬鹿みたいに死んでしまう」

 それから炫士は目を閉じて黙ってしまう、女が何か二つ三つ質問したが、炫士は何も答えない。耳をすます、窓の外は嘘のように静かで、何も聞こえてこない。深夜、音を失った世界で、信号の光だけが点滅を繰り返している。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その2へつづくーー