Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 その7

 

 ブレーキを踏んだ。体が前に飛び出し、頭をハンドルにぶつけそうになる。ゆっくりと顔をあげると、そこには猫が一匹いて、悠々と目の前を横切っている。車に轢かれそうになったことなど気にも留めていないといった態度で、悠葦の正面まで来ると、こちらを見てにやりと笑う。小馬鹿にされた気がして、ほとんどハンドルを叩くようにしてクラクションを鳴らす。猫はその不快な音に耳をピンと立てて反応しただけで、あとは滑稽と言っても良いような仕草で体をくねらせ、ぴょんと飛んで道の反対側へと駆けて行ってしまった。馬鹿みたいだ、と悠葦は吐き捨てる。猫が、自分を嘲っていたとしか思えない。そうとしか思えない自分の馬鹿馬鹿しさも感じている。少女と再会してからというもの、悠葦は徐々に自分の中で膨らんでいく、全く理由の分からない苛立ちにさいなまれている。再会して、自分の過去を露わにした瞬間にはどこか幸福な部分を感じていた、それなのに、幸福は一瞬で消え、腹の中をカマキリのような虫が締め付けかきむしっているような不快感ばかりが居座っている。彼にはその理由が全く分析できない。それが余計に、苛立ちを膨れ上がらせる。

 その日から、よく夢を見るようになった。夢はいつも、父親に殴られているところから始まる。子供の頃と同じように、押さえつけられ、いいように殴られ続ける。体は大人になっているはずなのに、全く抵抗できない。父親は巨大で、圧倒的な力で、もがく悠葦をねじ伏せてくる。ぼろぼろになって床に転がると、そこで映像は歪み、出来の悪い編集がされたように場面が少しだけ飛んで、次の瞬間には這いつくばる自分の目の前で、幼い姉が父親から引きずりまわされている。

 「やめて!」

 彼は叫ぶが、誰にも聞こえていない。

 「助けて、助けて」

 父親に髪の毛を鷲掴みにされてもがきながら姉は繰り返すが、彼女には悠葦が見えていない。それを見ながら、悠葦は苦しみ続ける、姉の痛みは、自分の痛みだった。

 「やめてくれ!」

 再び、彼は叫ぶ。苦痛と悲しみで破裂しそうになりながら、無音の怒りを腹の底から絶叫し続ける。叫べば叫ぶほど彼は静寂に凍りつき、その耳に響くのは、助けを求める姉の声ばかり。

 狂人のような叫び声と共に、彼は目を覚ます。肩を震わせるほど息が上がっていて、しばらくぼうっとして体を起こせない。ふと顔を触ると眠っている間に流した涙で顔が濡れていることに気づいて、ただただ己が情けなく思える。惨めな彼がうずくまる狭い部屋には、金色の朝日が差していて、ベランダに降りてきた鳥が囀っていた。霞にような雲を抱く空は高く青く澄んでいる。たった一枚の部屋の窓を隔てた外の世界は、絶望的に美しく輝いていた。

 夢を見た朝はひどく抑鬱的な気分だったが、それでも真面目に仕事には出る。車を運転している間も悠葦の頭の中を占めているのは、少女や姉ではなく父親になっていた、しばらく意識的も無意識的にも思い出さないようにしていた存在が、癌細胞のように増殖して腫瘍となってせり出してきているような感覚に襲われ、息が上がって苦しくなる。もう忘れかけている父親の顔は靄がかかったようなのに、その頑強な肉体が岩石のように現れ、そこから火傷に覆われた二本の腕が突き出してくる。仕事を始めて姉を探しながら、毎日同じようなことを繰り返しているだけの、はたから見れば退屈で無益な日々は、実を言えば悠葦に妙な気分の安定をもたらしていた。周囲の人間が、自分を何者か知らない生活は、彼にとって心地よかった。それまで被虐待児であり、里子であり、過去にも現在にも未来にも、軽蔑と不幸と、よくて憐れみしかない生活から、初めて外に出られた。世間は自分を何者とも定義できなかったし、定義させずにいられた。けれどもいま、甦る父親の記憶によって、自分は内側から引き摺り込まれるように、被虐待児に逆戻りしている。記憶の奈落から這い出してきた、父親という怪物によって。

 __殺してやる、殺してやる、殺してやる!

 頭の中で、悠葦は何度も叫ぶ。そうすることで、必死で父親の幻をかき消そうともがく。最悪の気分でハンドルを握り、車を直進させる。いつの間にか足先がアクセルを踏み込んでエンジンはうなり声を上げ、赤信号の交差点を突っ切って行く。横からクラクションを鳴らして走ってくる車をすんでのところでかわしたが、勢いで前方の原付を跳ね飛ばしそうになって慌ててブレーキを踏む。全く集中力も冷静さも欠いていた、このままでは本当にまずいと思い、スピードの落ちた車をほとんどガードレールにこすりつけるようにしながら、車を路肩に停める。

 __俺か、父親か、どちらかがこの世から消えるべきなんだ。

 車内でそれを声に出ながら、天を仰ぐようにシートに持たれる。

 

  He walked on down the hall, and
And he came to a door
And he looked inside
“Father?” “Yes, son?” “I want to kill you”
“Mother? I want to…”


Come on baby, take a chance with us
Come on baby, take a chance with us
Come on baby, take a chance with us

 

 車のラジオからは、ドアーズの"The End"が流れている。かくも図式化された葛藤の中でもがいていることについて、彼に自覚はない。彼はその憎悪を、己の内奥から生まれてくる、己に固有の感情だとしか捉えていない。空白の時間の谷間に落ち込んだようになった状態から我に帰り、悠葦は時計を見る。これ以上じっとしているわけにはいかなかった、今すぐにでも走り回らなければ、課せられているノルマをこなすことは到底できない。車を発進させて、次に配達する家のことを考える。最悪だな、と思った、よりにもよって、いつも自分の都合に合わない時間に荷物を持って来られるだけでクレームをつける面倒な客の家に、これから向かわないといけない。

 何度言ったら分かるんだ、というフレーズを、もうさっきから何度言われたのか分からない。案の定、理不尽なクレーマーは目の前で無抵抗に突っ立っている悠葦にくどくどと説教を垂れ、執拗に罵ってくる。その男は、ちょうど悠葦の記憶にある父親と同じくらいの年齢だった、同じくらいの背格好だった、もしかしたら、同じような顔をしているのかもしれない。漠然と、悠葦は男を眺めている、自分の体とは離れた場所から、まるでいま罵倒されているのが自分ではないかのように。男の声が聞こえなくなって、凍りついたように体温が下がっていく。

 __なんだろう、これは。

 突如として、自分がそこに突っ立って、無抵抗に罵られている状況が不気味なほど客観的な視点で捉えられ、なぜそんなことが起きているのか全く理解できなくなる。目の前の自分は、なぜここまで尊厳を踏みにじられながら、何もせずにいるのか。

 __殺してやる、殺してやる、殺してやる!

 体の奥で、誰かが三回叫び声をあげる。かつて中学生の時にジムメイトを蹴り倒して厄介なことになって以来、もうそんなことはしないと心に誓っていたはずだった、怒りに任せ人に暴力をふるって、良いことなど何もない__。しかし悠葦は握りしめた業務用端末で、自分を罵るために開いたり閉じたりを繰り返す男の口を思い切り殴りつける。

 「あっ」

 威勢の良かった男は、急に情けない声を上げてのけぞる。悠葦がもう一度鼻面を殴りつけると、男は土間の上に転げ落ちる。男はそれでも悠葦を睨みつけるが、それによって余計に苛虐性を煽られた悠葦は、玄関先に立てかけてあったバットを握りしめると、再び男の口に向かって振り下ろす。鮮血と一緒になって、ぱらぱらと男の歯が土間に散らばる。男はうずくまって小さくなり、ようやく抵抗する意志を失ったようだった。父親の影に侵された霧は晴れ、人を殴って屈服させる側に立つことの快感に、万能感に、彼は震える。

 __見ろ! 俺はここにいる。消えたのは、父親のほうだ!

 彼は心の中で凱歌を響かせ、顔中が血まみれになった男を見下ろしている。

 

 

最後の物語 その8へ続くーー

最後の物語 その6

 

 「行ってこいよ」

 先輩から言われるままに悠葦はバンの助手席から降り、荷室から手早く目的の物を見つけると、それこそ放たれた矢のように、家の玄関めがけて飛んで行く。

 __すいませんお届け物です。ここにサインを……あ、ハンコですね、じゃあここに。……ありがとうございました。

 お決まりの会話を手早く済ませて、待機するバンまで走って戻る。家の人とほとんど目を合わせる必要すらない。他人と関わる意欲も技術もない悠葦でも、このくらいはすぐにこなせるようになった。

 「お前、なかなか要領良いじゃねえか」

 先輩の言葉に、悠葦は無言のまま、曖昧な角度で頭を下げて応える。相変わらず孤立して一八歳になるまで生きてきた悠葦には、先輩後輩とか友人とか、そういった関係性においての適切な振る舞いがやはり分からない。

 「まだ十八だっけ?」

 先輩は結構なスピードを出して車を運転し、最短コースで住宅街を走り抜けて行く。限られた時間で、ノルマの荷物をさばかなくてはならない。

 「そうです」

 「高校出たばっかりか」

 「……中退なんで」

 「なんだよ中退かよ。もったいねえ」

 「もったいない?」

 「女との出会いに不自由しねえのなんて、高校までだぜ。大学行くような奴らは違うだろうけどよ。俺も高校出てから、ほとんど出会いなんかねえよ」

 悠葦は黙って聞いている。学校の外に出てから出会った大人はなぜかみんな、車と女とギャンブル以外に話題がない。

 「若いんだからこんな仕事やんなくたって良いだろお前。もっとファミレスとか、女がいそうなバイトいくらでもあるじゃねえか」

 「いや、俺はそういうのできないんで」

 「なんだよそういうのって」

 「接客とか、俺には無理なんで」

 「バカ、苦手でもやってみるんだよとりあえず。続かなくても、女と知り合いになるくらいはできるからよ」

 「手っ取り早く、金が欲しいだけなんで。そういうの、別に良いから」

 しつこく女の話題を続ける先輩の言葉を断ち切るように、悠葦は淡々と返す。

 「金なんか貯めてどうすんだよ」

 先輩はそう言って次の配達先で車を止める。もはや答えを期待していない口調だった、悠葦もまたそれに答えずに車を飛び出して荷物を探し、玄関先まで走って行く。金を貯めるのは、姉が見つかったときに生活資金にするためだった。里親のところは出てしまってもう二度と戻るつもりはない。子供の頃から今に至るまで、友達も恋人もいない、だから他人との付き合いもないし、ギャンブルも風俗も行かない、趣味もない、家賃と食費以外に、金を使うことはない。だから少ない収入でも勝手に金は貯まっていく。悠葦は、人生の喜びも目標も知らない。つまり彼には、楽しむべき現在も、選択肢に溢れた未来もない。過去に失った姉を見つけて二人で生活を始めるということだけが、唯一求め得ることだった。この仕事にしたって、選んだ最大の理由はいろんな場所をめぐることができるからだった。姉と暮らしていた生家からそう遠くないエリアをぐるぐると回っていれば、偶然に姉を見かけることもあるかもしれない、あわよくば、たまたま訪問した家のドアから姉が出てくることもあるかもしれない。浅はかだと他人は笑うかもしれないが、たいして賢いわけでもない一八歳の彼に思いつくのは、せいぜいそのくらいの方法だった。

 物覚えが良かったせいか、一緒にいても全く面白くない人間であるせいか、というかどうやらその両方のせいで、先輩は早々に「こいつもう独りでもやれると思いますよ」と会社に推薦し、悠葦の研修期間はすぐに終わった。だから早速次の日から、悠葦は独りで配達に回ることになる。流石に車の運転には不慣れな部分があったが、とりあえず研修で見たままを真似しながら仕事をこなして行く。体力勝負のような仕事で一日の終わりには体がぐったりすることもあったが、それはあまり苦に感じるほどでもない、彼にとって面倒だったのは、他人とわずかでも関わりを持たずにはいられないタイプの人々だ。必要最低限のやり取りだけでは済ませたい悠葦に対して、ひと言ふた言かけてくる。「いつもご苦労さま」と言って缶コーヒーを手渡してくる人の良い老婆などに出会うこともあったが、「遅えよ! 六時半くらいまでには来るのが当然だろうが」と六時から八時の時間指定ぎりぎりに配達したことに対して独りよがりな文句をつける客に出会うこともあり、もっともっと理不尽なクレームをつけられることも日常茶飯事だった。正直腹も立ったが、ずっと他人から見下されながら、あるいは見下されていると思いながら、どうせ虐待を受けた子供がまともに人間扱いされる人生など望むべくもないと思いながら、そうやって生きてきた悠葦には、いちいち怒るよりはできるだけの対策を立てるほうが良いと判断するだけの冷静さもあって、誰が何曜日のどの時間帯に在宅なのかとか、どんな種類のクレームをつけて来るのかとかを素早く頭に叩き込むと、それを元に最適な配達ルートを構成していく。半年もすれば、完璧にとまではいかなくとも大抵の面倒は避けられるようになった。存外に自分の記憶力は良いのだなと悠葦は思った、常連の顔なども早々に覚えてしまっている。

 その中でも、真っ先に覚えたのが、とある家の少女の顔だった。軽くて振るとかさかさと音のする封筒を持って、市営住宅マンションの階段を三階まで駆け上がりインターホンで呼び出した時、無機質なネイビーカラーのドアを開けて、その少女は出てきた。

 「……はい」

 消え入るような声で、うつむき加減のまま答える。灰白色のコンクリート床のひび割れに視線を添わせながら。学校から帰ったばかりなのか制服を着たままで、デザインからすぐに近くの高校の生徒だと分かる。

 「荷物のお届けにあがりました、ここにサインを」

 自動機械のような喋りをしながら、悠葦はボールペンを差し出す。少女もまた、自動機械のような動きで指定の場所に名字を書く。なんでもないやり取りだった、そのまま悠葦は階段を駆け下り、少女は家のドアを閉ざすはずだった。離れぎわのほんの一瞬、少女は悠葦の顔を見上げ、悠葦は少女の顔を見下ろす。二人の目が合う。色素の薄い茶色い虹彩が光を透いて、浮かび上がるような黒い瞳孔が悠葦の姿を捉えてぎゅっと縮む。何か怯えたようでいて、何かを訴えているようでもある。動作のせいか風のせいか、細い髪の毛の先が白い肌を撫でるように揺れる。まるでマネキンのような少女だった、かすかに動く瞳だけが、そこに生命のあることを告げている。

 「何歳?」

 いきなり、少女は年齢を訪ねる。まるで口の利き方など知らないという様子で。

 「18歳」

 悠葦は答える。ただ一言、必要最低限に、まるで口の利き方など知らないという様子で。

 「私、 16歳」

 悠葦は黙って少女を見る。少女はずっと遠くを見るような目をしていて、互いに見つめ合うような格好なのに、二人の目線は合わない。彼女はまるで遠くへ紙飛行機でも飛ばすように言葉を投げかけている。

 「また、来る?」

 「届けるものが、あれば」

 少女は頷く。満足しているともしていないとも取れる表情で。悠葦はその場にとどまっているわけにはいかなかった、二人の会話はごく短い瞬間で、彼はすぐに車まで駆け戻って行く。互いに、何か感じるものがそこにあったのは間違いない。少女は何も自覚していなかったが、悠葦はそれが何なのか勘付いていた。同じ経験を持つもの同士だけが通じ合う、直感と言っても良いもの。

 __あの少女は、たぶん虐待されている。

 少女の仕草が、目つきが、そう語りかけていた、そしてそのメッセージを、悠葦だけが理解できる。ここにいるけど、ここにはいない、そういう得意な存在感、それはたぶん、あの少女と、かつての自分と、そして姉が持っていたものだ。悠葦は車で、自分の足で、走りながら考えている。なぜあの少女が自分に話しかけてきたのか、自分が少女と共通体験を持っているからといってそれが何だというのか。心の中に眠らせていたものが這い出して来るような不快なざわめきを感じ、ひたすら荷物を運ぶ。やがて体が全てのエネルギーを失い、疲れ切って倒れこむ瞬間をひたすらに待ちながら。

 

 それから一週間ほど、悠葦は配達先によって微妙に変わるコースをぐるぐると回っていた。あれ以来、少女とは一度も会っていない。けれども、その姿はずっと彼の頭の中に留まり続け、無視できない存在になってしまっている。まるで、配達コースの中心を、虚のような彼女の存在が占めており、ただただ自分はその周りをぐるぐると走り回っているのではないかという気がして来る。あるいは電子のように、あるいは惑星のように。市営住宅の横を通り過ぎる際には、自然と少女の姿がないか確認する視線が向いて、時には車のスピードを緩めることさえする。

 車は信号まで、配達先まで、進んでは止まり、進んでは止まりを繰り返す。停車する時、発進するとき、ふとバックミラーを見るたびに、そこにぶら下がったぬいぐるみと目が合う。幼い頃に姉から預かったそのぬいぐるみを、今でもずっと大切に持ったままでいる。姉の姿は、この街のどこにも見つけられずにいる。少女について考えることは、姉のことを思い出させるし、姉について考えることは、少女のことを思い出させる。姉もまた、どこかで誰かにひどい目に合わされているのかもしれない。いつもそんな気がしている。姉はきっとどこかで、自分に救い出されるのを待っているのだ。姉を救い出さなくてはならない、姉を見つけ出さなくてはならない。彼は休むことなく車を走らせ続ける。はたから見れば、とにかく真面目に働く少年だった、本人からすればただ単に、わずかな時間でも長く外を走り回って、姉を見かける可能性を上げようとしているだけでしかなかったのだが。

 

 「てめえ何で勝手に不在票なんか入れてんだよ」

 「いえ……指定の時間帯に二回ほど配達に来たんですが、いなかったみたいなんで」

 「配達できるまで何回でも来い!」

 その日出会い頭にクレームをつけてきた客に慣れない敬語で応対するが、結局30分ほどくどくど怒鳴られてしまう。腹立ち紛れに拳が出そうになるが、中学生の時ボクシングジムでジムメイトを蹴り倒して厄介なことになったのを想い出して感情を抑える。不運が続く日で、そんな出来事から始まって、その後も二つ三つのトラブルとクレームに見舞われた。何か諦念に似た感覚を持っているとはいえ、ここまで理不尽が続くとと世間ずれしきれていない18歳の不安定さが出てしまい、仕事が終わってからもささくれ立った気持ちのまま帰途についた。立ち寄ったコンビニで、せめてもの気休めにと甘ったるい缶コーヒーを手に取りレジに向かったとき、棚に並んだケーキが目につく。しばらくそれを見つめてから、衝動的に手にとって、缶コーヒーと一緒にレジに持っていく。

 ケーキを買って帰ったのは、たぶん、今日が姉の誕生日だったからだ。古アパートの6畳の部屋に入り、床に散らばった漫画と雑誌の上にぽつんと浮かぶ島のような小さなテーブルのガラス板にケーキを乗せて、そばに腰をおろしたまま、じっと動かずにそれを見つめる。ケーキは一つだけだった、テレビドラマのクリシェのように、不在の誰かの為に二つのケーキを用意して一緒に祝う雰囲気を作ろうとしたわけではない。正直、そのケーキが姉のためのものなのか、自分のためのものなのかすら分からない。殺風景で、静かな部屋だった、テレビもない、アパートのそばを通る電車の音がクリアに響いて、冷たい孤独と静寂が、異様に鮮やかな色彩のように浮かび上がる。姉の顔を頭に想い描こうとするが、ささくれ立った心に聞こえてくるのは、今日出会った人間たちが自分をなじる屈辱的な言葉で、それが姉の優しく柔らかいイメージを塗りつぶしてしまう。悠葦はケーキをほとんど握りつぶすかのように持ち上げると、侮辱の言葉ごと飲み込もうとするかのように、自分の喉を塞いで窒息させようとするかのように、それをいきなり口の中にねじ込む。そのまま口を大きく動かして、口の周りを汚しながら、あっという間に買ってきたケーキを食い尽くしてしまった。食べてすぐに、込み上げるような吐き気が襲ってきて、彼は床に寝そべりうずくまる。吐き気は不快でしかたないが、同時に、僥倖と言ってもよかった。不幸で孤独であるほどに、自分を襲う痛みは、救済になってくれる。

 __お姉ちゃん。

 まるで5歳の子供であるかのように、彼は呟いた。その言葉は、鮮やかな静寂の壁にぶつかって、床に転がり崩れて消えてしまう。

 __お姉ちゃん。

 もう一度呟き、消えていく言葉を見つめながら、姉のイメージと痛みを抱え込むようにうずくまったまま、悠葦は眠りに落ちていく。

 

 再び少女の所へ配達に行くことになったのは、それからちょうどまた一週間経ってからだった。通販サイトから送られた小さなダンボールを抱え、階段を駆け上がる。玄関までたどり着いて、まるで見比べるように、部屋番号と宛名と交互に視線を遣る。「真莉亜」と書かれた宛名を見て、母親の名前にしては字面が現代風なので、たぶんあの少女の名前だろうと思う。

 「 あ、また来たね、ホントに」

 ドアを開けて、少女は悠葦を見上げる。

 「自分で注文したんだろ」

 「そうだけど、違う人が来るかも知れないでしょ」

 「今は俺が担当してるから」

 「この前と同じ、私だけが家にいる時間帯」

 「普通に配達してたら、このくらいの時間になる」

 悠葦はそう言ったが、実際には、彼女に会えるよう上手く時間と配達コースをを調節していた。

 「背、高いね。何センチくらい?」

 相変わらずどこか焦点の定まらない目をこちらに向けている。いやに存在感の希薄な少女だった、目を閉じて、開けたら、次の瞬間には消えてしまっている、そんなことがあっても不思議ではない気がする。

 「177センチ」

 質問に答えながら、そういえば、父親も全く同じ身長だったとなぜか急に思い出す。

 「へえ」

 少女は筋肉の生理反射のような笑みを一瞬だけ浮かべて、悠葦の頭に手を伸ばす。玄関に近いキッチンの奥から、かすかに生ゴミのような匂いがした。あまり良い生活環境とは言えないのだろう。それもまた、自分の幼いときの記憶と重なる。

 「どこ住んでるの?」

 再び、少女が質問してくる。けれども、仕事のことを考えれば、これ以上ここにとどまっている暇などない。

 「俺、もう行かないと」

 「そっか」

 残念そうに、少女は目を伏せる。ロボットのような少女だが、その仕草にはとても情感がこもっていた。

 「ねえ」

 離れようとする悠葦を、少女は呼び止める。

 「何?」

 急いた気持ちから少し苛立つような声で、悠葦は応える。

 「名前は?」

 悠葦はなぜなのか自覚のないまま、答えるのに躊躇する。

 「……どうして、俺と話したがるんだ?」

 答える代わりに、質問を返す。

 「どうしてって、分かんない……」

 彼女は照れているのではなく、本当に分からないという顔をする。

 「……悠葦」

 彼は唐突に名前を言う。彼女は顔を上げる。

 「私、真莉亜」

 初めて、少女は彼の目を見つめた。二人の目が合う。その瞬間、悠葦は、何か取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。

 「また、来てよ」

 少女は手を振る。幸福な恋の始まりのような瞬間だった、けれども、悠葦を捉えているのは、どこか苛立ちに近い感情だった。悠葦はいきなり、手を振る少女のその腕を掴む。思いもよらない行動に驚き、すくんで身を固くする彼女の腕を引っ張ると、着ているシャツの袖を乱暴に引っ張り上げる。

 「誰にやられた?」

 悠葦は、少女をにらみつけていた。むき出しになった細くて白い少女の腕には、強い力で握られたような紫色のアザと、誰かに殴られたような青色のアザが並んでいる。

 「……離して」

 弱々しい声を出して、彼女は腕を振りほどこうとするが、向こう見ずな少年の乱暴さで、悠葦はますます力を込めてその腕を握る。そのせいで、血管が透けて見えそうなくらいの肌には、もう一つ、新しいアザが浮かび始めていた。

 「父親か?」

 少女は何も答えない。うつむいて、唇を噛んでいる。はっきりとは見えないが、たぶん目には涙を浮かべていた。

 「離してよお」

 今にも泣き出しそうな声だった。とたんに、悠葦は少女がひどく愛おしいような気がした。

 「俺も、子供の頃、さんざんやられたから」

 おもむろに、悠葦は自分のシャツをまくり上げて、腹を見せる。褐色の肌には、幼い頃にタバコの火を押し付けられてできた、いくつもの白い火傷跡が並んでいる。少女は何も言わずに、腕を掴まれたまま、それを見ている。まるで、時が止まってしまったかのような瞬間だった。けれども、悠葦はこれ以上そこにいるわけにはいかない。

 「また、配達に来るから」

 約束とは言えない約束を残して、彼は少女の手を離し、走り出す。全身が疼いている。彼を支配する感情は、後悔にも似て、喜悦にも似て、熱を放って膨らんでいく。肉体が、眩暈を感じている。彼はその歪みの中を、ただひたすらにまっすぐ走る。

 

 

最後の物語 その7へ続くーー

最後の物語 その5

 子に座りながら、悠葦は時計の秒針を目で追う。周囲の何事にも無関係に、時計は自らのペースで進み、それによって周囲を動かしていく。それとは全く反対に、周囲の誰もが自分の意思とは無関係に、彼らのペースで話を進め、それによって自分を動かしていく。世の中で自分と似ている存在があるとすれば、それはきっと犯罪者くらいのものだろう、と悠葦は思う。自分の処遇を、これから自分が生きていく場所もあり方もその全てを、寄ってたかって他人が決定していく。学校の同級生たちが思い思いの絵の具を使って、人や風景に彩られた未来図を描いている横で、自分のそれを、他人が単色の絵の具でグロテスクな抽象画として仕上げていく。

 「正直に申し上げて、難しい子であるとは思います」

 そんな言葉が、文字通り自分の頭上を通り抜けていく。隣に座った職員が事務的に淡々と説明する言葉を、その正面に座っている中年の夫婦が丁寧に頷きながら聞いている。柔和な表情をして、時々二人とも、こちらを安心させる気遣いを見せるかのように悠葦を見て微笑む。こちらを取り残すまいとしてくれているのは分かったが、他人からの優しさに全く不慣れな彼にとっては、それは奇妙なものに映っていた。暴力を受けている時は、他人から拒絶されているために自分の殻の中にこもっていることができたが、優しさを向ける人間は、その殻の中に入りこんで、自分とつながりを持とうとしてくる。それが彼に、なんとも言えないような居心地の悪さをもたらす。

 「私どもは、何も心配してございません。いかなる困難も受け入れ、手を取り合って、歩んでいく所存です」

 夫婦の夫の方、白髪混じりの気品をたたえた男性が静かな口調で答えている。随分落ち着いていて、児童養護施設の担当職員の方が緊張しているようにすら見える。

 「それと、あなた方のその、宗教についてなのですが……」

 「それも大丈夫です。私どもは、この子に何ら宗教的なことを強制するつもりはありません。本人が望みもしないのに教会に連れて行ったり、そんなことも一切いたしません」

 今度は妻の方、夫より一回りほど若く見えるが、やはり落ち着いた態度で、両手をきれいに膝の上にそろえ、背筋をすっと伸ばして受け答えをする。どんな悪意も、この夫婦から感じ取ることはできない。品行方正という言葉そのままと言っても良い立ち振る舞いには、出会ってすぐの他人であっても、自分たちを信頼させるのに充分な説得力が備わっている。担当職員も、この夫婦が悠葦の里親にふさわしいかどうかをいちいち審査するのが申し訳ないとばかりに、時々気恥ずかしげな笑顔を作りながら応対しているほどだった。

 「私たちにとって、この子との巡り合わせは、神様のお導きなのです。神様、などと言うと、宗教に馴染みのない方には奇妙に聞こえるかもしれません。けれども、私たちにとって、この子をきちんと立派に育て上げることが、そのご意志に沿うことなのだと信じておりますゆえ。どうか、ご安心なさっていただきたい」

 悠葦は顔を上げて、その夫の方を見つめる。神様、とその男は確かに言った。ある日姉が呟いて、父親が否定していたその存在を、確信している人間がいる。彼らが向けてくる優しさも、彼らが抱いている信仰も、今までの悠葦が生きていた世界の、全く外側のもので、ただただその幼い目には不可思議なものに映る。だから彼は、じっとその夫婦を観察していた、判断を下そうとはせず、ただ見ることを目的として見る。それが新しい世界へのいざないなのだとだけ、彼は理解する。そこに何かを期待する訳でもなく、ただ彼はそれを直観した。とはいえ、それは福音であったかもしれない、今まで自分が生きてきた場所だけが、この世界の全てでない、それを知ったことは、悠葦にとってこの上なく大きな価値を持つことだった。たとえ、今の彼がそれに全く気づいていなかったとしても。

 

 

  *

 

 

 テーブルの上に両手を置き、悠葦は目の前で祈りを捧げる夫婦を見ていた。何度見ても、不思議な光景だと思う。自分には決して見えない神というものをこの夫婦は信じて、食事のたび、律儀に繰り返し繰り返して”それ”に対する感謝を呟く。悠葦は祈りを強制されたことはない。もう少し幼い頃は、夫婦の真似事をしてみたこともある。もちろん神の存在に対する実感など皆無なので、思い浮かべるのは恋しい姉の姿ばかりだった。中学生になった今では、ただ単に、じっとしているだけの時間になっている。

 「アーメン」

 夫婦は声をそろえて、祈りを終える。決してそう言われたわけではないのに、行儀よくそれを待ってから、悠葦も食事を始める。顔をあげるたび、食卓の向こう、壁に据えられた神棚に鎮座する、磔のキリスト像が見えていた。この夫婦の信仰スタイルがキリスト教の”正統”から見てどうなのか、あるいはどういう宗派のものなのか、大人になった後で回想しても、決してキリスト教に帰依しなかった悠葦には全く分からない。哀しみに溢れた目でうなだれるその男は、どこまでも不可解だった。あらゆる彫像が力や知性や善を象徴する中で、ただ単に底なしの無力を象徴するこの男の像が、一体なんのために存在するのか、悠葦には全く理解できない。いくら目を見つめても、その男の眼差しは逃げ去ってしまって、その心意はつかみようがない。

 日曜日に教会に行く以外は、夫婦の生活は極めて一般的、並びに品行方正で単純だった。夫は仕事に行き、寄り道もせずに帰ってくる。その間妻は家事をやり、必要に応じて悠葦の世話をする。必要に応じて地域の活動にも参加し、選挙があれば必ず投票にも行く。模範的な小市民以上でも以下でもない。それは、父は何の仕事をしているのか分からず、暴力以外の手段で物事を解決しようとしかしない、母は無気力で料理も掃除もまともにできない、悠葦の生みの親たちとはまるで正反対だった。悠葦に暴力を振るうこともなかったし、余計な干渉をしてくることすらない。極めて良き里親だった、そのほとんど不気味なくらいの正しさが、打ち解けることを阻むくらいに。悠葦は夫婦のことを親のように感じたことはない、強いて言うなら、ずっと友達の親に預けられているかのような感覚に近い。

 「どうだい、学校は?」

 定期的に、ストレスを感じないくらいの頻度で、夫婦は質問してくる。

 「うん、まあ普通だよ」

 悠葦の答えは毎回同じだったし、夫婦は無理やり詮索しなかった。ただ、何もかもを受け入れるような笑みを浮かべて彼を見ている。誰もが安らぎを与えられそうな笑みだったが、悠葦は、むしろそれに不安と警戒を抱いた。悠葦の心の奥底には、幼い時から変わらず、暴力の写像が蠢いていて、それが張り詰めた緊張をもたらしていた。優しさに心を許してその緊張を解いた時、自分がバラバラになってしまうような気がした。その張り詰めた心が、父の暴力と姉の優しさを結び、つなぎとめている。それだけが、自分の存在の根拠のような気がした。

 「何か困ってることはないかい?」

 「何か欲しいものはないかい?」

 やはり定期的に、夫婦は尋ねる。

 「大丈夫だよ」

 悠葦は毎回そう答える。

 小学校六年生のとき、別に欲しくもないお菓子を万引きして補導されたことがある。店主から侮蔑を受け、警察から注意を受け、教師から叱責を受けたが、迎えに来た夫婦はいっさい悠葦を怒ることなく、ただ肩を抱いて、「誰にでも過ちを犯すことはあるからね」と慈愛に満ちた口調で語りかけた。全く夫婦は理想的な親で、その正しさは残酷な大鎌のように、思春期の少年の反抗の芽を刈り落そうとする。この夫婦の正しさに対し、悠葦はありがたみと同時に、しかし嫌悪感も抱いた。愛されるということを、訳もわからず拒否するような心性が、悠葦の中に存在した。耐え難い虐待から逃れて得た生活は、彼にとって耐え難い幸福であり、耐え難い抑圧だった。

 

 打撃音が聞こえている、リズミカルに、荒い息と混ざって。悠葦は打撃音の中へ埋没するように体を動かし続ける。週に一度通わせてもらっているキックボクシングのジムで、悠葦は一心不乱にサンドバッグを殴った。この世の全てがノイズにしか感じられなくなった少年にとっては、限界まで何かに集中することだけが逃げ道だった。夫婦にジムに通いたいと告げたときは、二人ともいくらか当惑したような顔をした。特に妻の方は自分たちからは縁遠い暴力の臭いのするものを忌避したそうな様子だったが、夫の方は少しだけ考えてから「まあ、年頃の男の子がそういうものに興味を持つのは当然かもしれない」と言って許可してくれた。

 「その代わり、そこで学んだことを喧嘩に使わないで欲しい」

 そう言って、一つだけ夫は悠葦に条件を付けた。父の暴力の影を、その血の継承を、いくらかは心配したのかもしれない。悠葦はその条件を呑んだ、建前ではなく、本心からそれを約束した。

 実を言えば、夫の心配は当たっていると言っても良かった。悠葦がジム通いを望んだ理由の一つが、日増しに増幅する暴力衝動をなんとか発散させたいということだった。少年の心には手当たり次第に人を殴りたいという気持ちが湧き上がってきて、いまにも飲み込まれそうになる。とりわけ、その衝動が夫婦へ向かうことを恐れた。意識上は最も殴りたくない相手なのにも関わらず、暗い奥底からざわめくように、夫婦を破壊したいという不気味な欲動が眼を光らせてこちらを見ているような感じがしていた。だから悠葦は、外と内の両側から押し寄せるノイズから身を守るために、ひたすらサンドバッグを殴り続ける。

 「おい。悠葦」

 声をかけられて、顔を上げる。上げなくても誰だか分かっていたが、上げなければどのみちそうするまで名前を耳元に来てでも呼び続けられる。そこにいたのは、タカシという一つ年上の少年で、ジムでの先輩格だった。にやにやしながら、馬鹿にしたような態度でこちらを見ている。いつものことだった、周囲と打ち解けようとしない無愛想な悠葦に、何が気に食わないのかちょっかいを出してくる。独りでいたいと思う人間を、世間は放っておいてはくれないものなのだということを、彼は学ばざるを得なかった。

 「スパーリングやろうぜ」

 そうやって、タカシがいるときはいつもリングに上げられてしまう。ヘッドギアとグローブを着けて、悠葦はしぶしぶとファイティングポーズをとって打ち合う。一発二発とジャブを入れられ、打ち返したパンチは軽々とかわされる。年齢も経験も体格も、さらには運動神経もタカシの方が上だった。終始にやけ顔のまま、タカシは悠葦をなぶってくる。ジャブ、ローキック、ボディ、ストレート、すぐには倒れない程度に加減して、ふらつく悠葦を笑う。ダメージに体力を削られ、悠葦の動きが止まると、タカシはガードを下げ、あまつさえこちらに顔を突き出して挑発してくる。悠葦は決してそれには乗らなかった、タカシは手を出してこないことに調子付いて、到底パンチをかわしきれないくらい近くまで寄ってくるが、それでも悠葦は挑発を無視する。意気地のない後輩を嘲笑いながら、タカシはいよいよ悠葦をダウンさせにかかる。執拗にボディを打って、悠葦がたまらずガードを下げると、そこに下から角度の鋭いフックを顔面に打ち込んだ。そこでとうとう、悠葦は耐えきれずに尻もちをついてダウンする。しかしタカシは、ダウンに気づいてないふりをして、倒れ込んだ悠葦の頭をわざと一発殴る。

 「悪い。つい夢中でよお」

 笑いながら、タカシはこちらを見下ろしている。腹立ちを抑えながら、できるだけ相手の顔を見ないようにして、悠葦はいつもリングを降りた。揉め事を起こすわけにはいかない。そうなれば、少なくともこのジムにはもう通えないし、夫婦が他のジムに通わせてくれるとは思えない。タカシの嫌がらせもこの程度のものでエスカレートはしなかったので、まだまだ耐えることはできる。それに実を言えば、自分でも妙なことだと思ったが、悠葦は人から殴られることに、不思議な安堵感を覚えていた。肉体さえ傷つかなければ、もっともっとひどい痛みを受けても良い、そう思っていた。痛みを受ける罰と引き換えに、この世界から、自分という存在が許されているような気がしていた。

 「そんな弱い相手じゃもの足りねえだろ」

 ジムの大人たちから笑顔で声をかけられて、タカシは彼らと談笑する。その行いを周りの大人が注意しても良さそうなものだったが、世渡り上手なタカシは年上から可愛がられているので、対照的に可愛げのない悠葦をかばう者などいない。鬱陶しい儀式のような時間を終え、悠葦は黙ってサンドバッグの前に戻り、再びそれを殴り始める。全力で、リズミカルに、埋没するために、自分の感情を追い出そうとするかのように。

 

 学校に居場所がある、と思ったことはない。そして求めたこともない。単純に場違いなのだと思っている。ここは生みの両親とその家で暮らす、普通の子供たちが集い学ぶ場所であり、自分のような施設から里親に拾われ、居候で暮らすような人間のいる場所ではない。生みの親から暴力でいびつな形に変えられ欠陥品であることを運命付けられた自分が、彼らと一緒にいるのはおかしいのだ。一緒にいる必然性のない人間同士が、偶然に同じ空間に放り込まれている。そうすることで平等な社会が実現されているのだという大人の自己満足に付き合わされて、ひどく居心地の悪い思いをしている。その方が良いという人間もいるだろうが、自分は違う。学校にいると、自分の存在が消えてしまうことを願わずにはいられない。悠葦は周囲の生徒たちを風景のようにしか見なかったし、周囲もまた自分をそう見ていると思っている。当然のように、休み時間には独り自席でじっとしている。教室ではまるで電車の中から窓を隔てた風景のようで、空間ではなく時間の向こうへ、次々と流れ去って行く。

 「わりいわりい」

 悠葦の足元に何かが転がってきて、顔を上げると、クラスメイトのユウイチが立っていた。ユウイチは笑顔を浮かべているが、悠葦は無表情で動こうとしない。一瞬の間があってから、何もしない悠葦にユウイチは首を傾げ、机の下から野球のボールがわりにしている丸めたプリントを拾い上げ、クラスメイトたちのところへ戻って行った。「何なのアイツ、全然拾わん」ユウイチがかろうじてこちらに聞こえるくらいの声で言った。それでもやはり、悠葦は無反応でいる。自分と関係のない人間に何を言われても、どうでも良い。彼らも風景で、自分も風景だ。悠葦は机に伏せて寝たふりでもしようとしたが、その瞬間に背後からユウイチがプリントの球を打ち返す小気味良い音がする。球は教室の後ろから放物線を描いて悠葦の頭上を飛んで行き、黒板に当たって教壇に落ちた。教室の中、ぽつんとした悠葦を残してどっと笑いが起きる。その中でひときわ明るく大きな笑い声が聞こえ、悠葦の視線はそちらへ向く。そこにはクラスメイトのアヤカがいた。黒い瞳がこっちを見ていて目が合い笑いかけられたような気がして、悠葦はとっさに視線を外す。アヤカは男子生徒の人気を集める明るい性格の美少女で、そのアヤカと目が合えば、いくら悠葦でも多少の気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。

 「本気でやりすぎなんだよ」

 アヤカは球を拾いあげ、ユウイチに投げつけて笑う。

 「いちおう手加減してんだよ」

 ユウイチはアヤカに構ってもらった嬉しさを隠すように、ぶつけられた球を拾い握りしめる。アヤカは彼女一流の愛嬌のある仕草で男子達と距離感の近いコミュニケーションをとり、彼らを手玉にとっていた。アヤカのやり取りは、いつも彼らの注目を集める。悠葦ですら例外ではない。それを敏感に察知したかのようにアヤカの視線がこちらを向き、悠葦は今度こそ確実に目が合ってしまう。再び、悠葦は逃げるように顔を伏せる。彼女には、抗えない魅力があった、そしてそのことに、悠葦は警戒心を抱く。他の男子たちがいとも簡単に彼女に明け渡してしまうものを、悠葦は守ろうとしていた、ただしそれは、彼自身全く自覚していない警戒心で、それゆえに脆いものだった。

 

 ボクシングジムに通い始めて三ヶ月くらい経った頃、いつものようにタカシに理不尽に蹴られ殴られコケにされ、無心でサンドバッグを叩いた後でジムを出たところで、背後から自分を呼び止める声がした。

 「悠葦くん?」

 友達も知り合いもいない悠葦は、まさか道端で自分に声をかけてくる人間がいるとは想像もしていなくて、一度ではその声に反応できず、声の主は二度三度と名前を読んだらしかった。悠葦が振り向くと、そこにいたのはアヤカだった。とっさに、悠葦は顔を背けて足早に逃げるように、そのまま歩いて行こうとする。気恥ずかしさと、それ以上に、タカシを始めとするジムメイトにアヤカと一緒にいるところなど絶対に見られたくない気持ちがあった。

 「ちょっと待ちなよ」

 小走りに、アヤカが追いかけて来る。

 「……何か、用?」

 無愛想にぽつりと、観念したように悠葦が答える。決して止まらず、追いかけて来るアヤカと並走しながら会話する。

 「今、ボクシングのジムから出てきたよね」

 愛らしい仕草で、アヤカは顔を覗き込んでくる。それで余計に、悠葦の気恥ずかしさが増す。

 「そうだけど」

 「ボクシングやってんの?」

 「……ごめん、急ぐから」

 そう言って、悠葦は急に走り出す。悠葦はそのとき始めて、自分が他人と何らかの関係を構築することを不必要だと思っている以上に、実際にはそれがひどく不安を呼び起こし自分を恐れさせるものなのかもしれないと思った。同時に、アヤカにもう一度呼び止めて欲しいという気持ちもあって、一瞬速度を緩めて歩いて見るが、追って来る気配はない。振り返ってその姿を確認したい誘惑にかられながらも、結局そうはせず、そのまま狼狽するような弱々しい足取りで、その道を歩いて行く。

 

 次の日の学校では、随分冷淡な態度をとってしまったことで、悠葦はアヤカの方をまともに見れなかったが、当のアヤカは特に何も気に留めていない風で、クラスの男子たちと戯れて笑い声をあげていた。昼休みになると自分だけが気にしているようでばかばかしくなりあまり教室にいたくなくて、独りになれそうな所を探して校舎内をうろつく。普段でも時々、悠葦はそんな風にしていた。他の生徒たちの気配のするところを避けて避けて、廊下を抜け、階段を昇ったり降りたりする。霧のような静寂が濃くなるところへ自分の身を投げ込むほどに、存在が純化され透明になっていく。まるで幽霊みたいだ__一番静かな場所、校舎裏の非常階段の陰までたどり着いて地べたに座ったとき、悠葦は自分をそんな風に感じる。

 「何してんの?」

 驚いて顔を上げると、こちらを覗き込むようなおどけた仕草で、アヤカが立っていた。どうやらこっそり、後をつけて来たらしい。

 「……別に、何でもいいだろ」

 無愛想に答える。というか、本当はもっと気の利いた言葉でも返したかったが、人付き合いの不得手な悠葦は無愛想にしか答えられない。

 「一匹オオカミ気取ってカッコつけてんの?」

 「そんなんじゃない」__あるいはそうかもしれないが。「そっちこそ、何やってんの」

 「跡をつけてたんだよ、君の」

 「俺の?」

 「だって、逃げたでしょ、昨日」

 なんと返して良いのか分からず、アヤカを見上げる。怒っている様子もなく、余裕のある笑みを浮かべる姿に、「いや逃げたっていうか……」と口ごもる。

 「それで? ボクシングやってんの?」

 アヤカはまるで、昨日の会話を中断したところから再スタートするかのように自然に言う。

 「うん、まあ」

 「すごいじゃん! プロとか目指してんの?」

 悠葦の表情は、なぜかこわばる。喜びより緊張が勝った。思えば、里親の夫婦を除けば誰かに褒められたことなどない。

 「違う。なんていうか……」

 「ていうか?」

 実際、何と言うべきか。暴風にざわめく木々のように腹の底で蠢く暴力衝動を抑えるため、とはまさか言えない。

 「強くなろうと思って」

 「へえ」

 アヤカは空から降りてくる羽のように、ふわりとした動作で悠葦の横に座る。

 「私ね、前から思ってたんだけど」

 耳のそばで喋るアヤカは、甘くて清潔な匂いがする。

 「悠葦くんって、かっこいいよね」

 驚いて顔を向けた悠葦と、アヤカの目が合う。幼子のように澄んだ瞳をしているが、口元にはからかうような笑いが浮かんでいる。戸惑って硬直している悠葦にきらきらした瞳が近づいてきて、そのまま頰にキスをする。

 「強くなって、私のこと守ってね」

 アヤカは立ち上がり、小さく手を振ってから、一人で教室へ帰って行く。もうすぐ昼休みが終わる。しばらく顔を紅潮させたまま呆然としていた悠葦は、ようやくそのことに気づいて、ふらふらと力なく体を持ち上げる。

 

 それ以来、ジムの帰りにときどきアヤカが現れるようになった。何が面白いのか、アヤカは悠葦と並んで帰り道を歩く。初めのうちこそ自分の不器用さが招く沈黙の気まずさに正直困っていたが、次第にぽつりぽつりと言葉を返せるようになり、ひと月もすればいくらか間を持たせられるくらいには進歩した。まるで恋人同士みたいだと思った、アヤカに好意を抱いているのも確かだった、けれども、恋愛経験どころか友達もいない悠葦には、それ以上アヤカに対してどんなふうにすれば良いのか分からない。自分でドラマを動かす勇気も力もなく、ただ月日が流れて行く。それでも、悠葦は心をくすぐる淡い恋の喜びに、控えめながら有頂天になっていた。しかしそんな風に二人で歩いていれば、学校の誰かが見かけるのは必然で、少しずつ噂にもなっているみたいだった。今まで何の注目も集めなかった悠葦が、日増しにクラスの男子たちの羨望の眼差しを受けるようになり、特にアヤカに気に入られようと奮闘していたユウイチなどは、露骨に忌々しそうな目つきをしている。

 「なあ」

 ある日の休み時間に、とうとうユウイチが話しかけてくる。悠葦は何も言わず、無機物のような目をそちらへ向ける。ユウイチの口元は意地の悪そうな笑みが浮かんでいるが、目は嫉妬でぎらぎらとしている。

 「お前さ、アヤカと一緒にボクシングジムから帰ってるらしいな」

 「……たまに」

 相手にするのも嫌だったが、無視し続けることもできなそうだった。

 「付き合ってんの?」

 ほとんど唾でも吐きかけるような態度で、ユウイチはその言葉を放つ。

 「そんなんじゃないけど」

 「へえ、そうなんや」

 ユウイチは喜びを隠しきれず、声が大きくなる。「だよな」と付け加えつつ、ユウイチは窓際に立つ。

 「見てみろよ」

 笑いながら、ユウイチが手招きをしている。ためらいつつ、誘われるままに悠葦は窓から校庭を覗く。

 「あそこ、アヤカいるだろ」

 ユウイチが指差したところには、確かにアヤカがいた。男にじゃれるようにしながら、肩をくっつけてしゃべっているのが、遠くからでも分かった。男はバスケ部の三年生で、校内の女子から人気のある先輩だった。二人は周囲の視線を避けるように木陰に座っていたが、この教室からは丸見えに近い。そのほとんど隠そうとしていない姿が、かえって自分のみじめさを際立たせる。

 「まあ、アヤカは誰とでも気さくに接するからな」

 悠葦は黙って校庭の二人を見ている。

 「同情だよ」

 「何?」

 「同情。だってお前、施設の出身で、一緒に住んでるの本当の親じゃないんだろ? かわいそうだから、アヤカが優しくしてくれただけなんだよ」

 それを聞いた瞬間、反射的に悠葦はユウイチの胸ぐらをつかむ。「なんだよ」ユウイチは興奮と怯えでかすかに震えながらも蔑んだ目でこちらを見る。ユウイチの言葉は差別というより、アヤカを巡る競争に勝てない敗者が、他の誰もを同様に敗者の立場に突き落とそうとするだけの子供の癇癪めいた愚かな態度にすぎない。それを感じ取り、悠葦はどうにか殴り飛ばしたい衝動を抑えて、胸ぐらをつかんだ手を緩めていく。耐えられたとはいえ、大きなショックを受けたことは事実だった。指先が開いていくのと同時に、自分を守るために身体を覆っていた殻が崩れ、その中を漂っていた軽くて柔らかいものが剥がれて飛んで行ってしまうような感覚があった。

 

 拳を固め、標的を射抜く。リズミカルに、軽く重く、感情的に冷静に。ジムでサンドバッグを殴りながら、はじめはアヤカのことを考えていた。あの男は、アヤカの彼氏だろうか。彼氏がいるなら、一体どうして自分に近づいてみせたのか。アヤカは自分にキスをしてきた、それはつまり、好意があるということじゃないのか。それとも、手玉に取れそうな未熟な男子をからかって女としての自尊心を愛撫しているだけなのか。たぶん、ユウイチは嫉妬から、敵わない先輩より見下している同級生から煽られる嫉妬心の方が耐え難いから、そうであることを望んだだけじゃないのか。どうしてユウイチを殴らなかったのか、殴ってもよかったのに、殴らなければならなかったのに。暴力によらなければ守れないプライドがあるんじゃないのか。暴力によらなければプライドを守ることなどできないんじゃないのか。あの男の像は、里親の家の神棚に飾られたイエスの像は、なぜ哀しみに溢れた目でうなだれたまま、沈黙しているのか。もしかしたら、知らず知らずのうちに、俺はあの男に洗脳されていたのじゃないだろうか。思えば、あの男の沈黙は、言葉よりもはるかに強大な圧力で、自分に語りかけていたのかもしれない。俺が暴力を抑えている理由など、どこにあるのか。俺が屈辱を忍受する理由など、どこにあるのか。里親の宗教に洗脳され、アヤカにからかわれ、ユウイチに尊厳を汚され、そして世間に対し己を恥じて、それでも透明な影のような存在として教室の隅で身を固くしていなければならない理由など、どこにあるのか。

 「おい。悠葦」

 お決まりのパターン。タカシがいつものようにいやらしい笑いを浮かべながら、こちらを見ている。どうやってというアイデアもなく、全くいつもと同じやり方で芸もなく、今からこの弱虫を痛ぶってやろうという態度でいる。そして悠葦もまた諦めたように無抵抗にそれに従い、リングに上がってスパーリングを始める。運動神経と悠葦をいくらか上回る経験値を使った器用な足さばきでこちらを翻弄し、小馬鹿にしたようなパンチとキックで痛めつけてくる。タカシはボディを打ってガードと頭を下げさせ、屈辱感を煽ろうと悠葦の頭頂部をしつこく殴ってくる。悠葦が投げやりな態度で打ち返すパンチをひょいひょいとかわしながら、タカシは頭頂部を何度も小突いて、合間につま先をわざと太ももに当てて、何箇所も擦り傷を作る。悠葦はじっと耐えていた、耐えながら考えていた、いったいこいつは、何のためにこんなことをしているのか、いったい自分は、何のためにこんなことをしているのか。

 「何してんだよ、来いや」

 動きが完全に止まった悠葦を見て、タカシが挑発を始める。ガードを下げ、顔を突き出し、舌を出して、悠葦を見下し、自尊心を壊しにかかる。そのタカシの顔の向こうに、ユウイチの顔が浮かんだ、アヤカの顔が浮かんだ、里親の夫婦の顔が浮かんだ。そしてその全てがバラバラに砕け散るイメージが、弾丸のように脳内を突き抜けて行った__。それはまさに一瞬の出来事だった。突然身体を起こした悠葦は、筋肉が爆ぜたようなスピードで、タカシの首筋からアゴを刈り取る大鎌のような蹴りを浴びせる。完全に油断していたタカシは、予想もしなかった反撃をもろにくらい、ジムにいた全員がぞっとするような音を立ててリングに崩れ落ちる。居場所などない、居場所など必要ない。悠葦はそう思った。唖然として誰も動かない中で、グローブとヘッドギアを投げ捨てると、そのまま走るようにしてジムの外へと出ていてしまう。

 

 「おーい」

 背後から、自分を呼ぶアヤカの声がする。今日もまた、彼女は帰り道に現れた。悠葦は振り返らずに歩いていくが、とっくにその存在には気づいている。すぐに応えてもよかったが、彼女を突き放したい気持ちが湧き上がって、それを邪魔していた。

 「おいってば」

 駆け寄ってきたアヤカが、悠葦の肩を叩く。正直会いたくないタイミングだったが、無視するわけにもいかず、ゆっくりとした動きで振り返る。相変わらずの屈託無い笑顔を見せて、アヤカがそこに立っている。その姿を見たとき、悠葦は自分の中に奇妙な自信が湧いていることに気づく。タカシを蹴り倒したおかげなのだろうか、その鬱勃する自信が、今まで女子、特にアヤカに対して感じていた怖気みたいなものを霧消させている。

 「無視すんなよ」

 一瞬沈黙した後で、悠葦が口を開く。

 「考え事、してたんだ」

 「何考えてたの?」

 「アヤカのことさ」

 躊躇なく、悠葦はそれを口に出す。今までの悠葦では考えられないような態度に、さすがのアヤカも怪訝な表情になる。

 「急にどうしたん」

 戸惑った笑いを浮かべるアヤカの手首を、悠葦が突然つかむ。

 「こっち、ちょっと来いよ」

 そしてそのまま、人目を避けるように河川敷の橋の下まで連れて行く。

 「どういうつもり?」

 アヤカは強い警戒心を抱いている様子だった。橋桁から落ちる影のせいでここは薄暗く、ひざ下くらいまで伸びた雑草が風にざわめく音が胸騒ぎを誘う。アヤカは少し後ずさりして距離を取ろうとするが、悠葦は手首を掴んだままでそれを許さない。そしていきなり、悠葦はその手首をぐいっと引き寄せて、アヤカにキスをしようとする。しかしアヤカはとっさに顔を背けてそれをかわす。

 「やめてよ!」

 アヤカの愛らしい目が、悠葦をにらみつけている。

 「……あいつと、付き合ってるのか?」

 「は?」

 本当に何を聞かれているのか分からない様子で、アヤカは聞き返す。

 「あいつだよ、三年生の。この前、学校で二人きりでいるの見たんだ」

 「……え、だから何? それがどうかしたの」

 「だから、付き合ってるのかって聞いてるんだ」

 「別に付き合ってない。ていうか、なんであんたがそんなこと聞くの?」

 その言葉に、悠葦は驚いてしまう。アヤカが自分のことを恋人かあるいはそれに近い存在だと思っていないなどとは、つゆほども考えていなかった。

 「だって、俺にキスしただろ」

 「まさか……、それであんた私の彼氏にでもなったつもりだったの?」

 「彼氏っていうか……」

 悠葦の口調は徐々に弱くなり、最後にはとうとう口ごもってしまう。ついさっき手に入れた自信が、嘘のようにあっさりと奪われていく。そして突然、悠葦は腹の底から、うめき声をあげる怪物のような恐怖を感じた。その恐怖は、かつての、自分を最も戦慄させる喪失体験の記憶を呼び起こしてまう。あの時、姉は、何の予告もなく、目の前から消えてしまった。目の前でアヤカに拒絶されることが、喪失の恐怖とリンクして、パニックのような発作の引き金を引いてしまう。悠葦はいきなりアヤカを突き飛ばして、その細い身体を草むらに押し倒したかと思うと、彼女にのしかかり、両手首をつかんで自由を奪う。そのまま二人はにらみ合うように見つめ合っている。恐怖で荒くなった呼吸が、アヤカの胸を上下させている。悠葦は全くとっさに押し倒しただけで、強姦しようとか暴行しようとか、そんな考えを抱いてはいない。ただ、アヤカにどこにも行って欲しくないだけだった。だから、懸命にその腕を振りほどこうとしたアヤカの顔を、悠葦は無言で殴りつける。これ以外の方法は、知らなかった、暴力を使って他人を支配する以外の方法で、アヤカを自分から離れないようにすることなど、彼にはできなかった。アヤカの唇が裂けて、ゆっくりと、血液があふれてくる。

 「やめろ!」アヤカは男勝りな声で叫ぶ。「一回キスしたからって何だって言うんだよ! 私は別に、お前の所有物になったわけじゃない。私が誰と何をしようと勝手だろ? 私の心と体は私のもの、お前の好きにさせるわけないだろ!」

 アヤカの言葉が、悠葦の心をずたずたに切り裂いていく。この女もまた、姉と同じように、自分の目の前から消えようとしている。その恐怖に、体が硬直し、力を失っていく。その隙に、アヤカは今度こそ両腕を振り解くと、叫び声をあげながら闇雲にそれを振り回す。肘が悠葦の顔に当たり、たまらず仰け反って後ろに倒れると、アヤカは素早く起き上がってその支配からすり抜ける。悠葦は慌てたように、アヤカに向かって手を伸ばし一歩を踏み出す。自分でもどうしようとしたのかは分からない、もう一度捕まえようとしたのかもしれない、謝ろうとしたのかもしれない。

 「近寄るな!」

 アヤカはそう叫んで走り出す、もはや一度も、悠葦を振り返ろうともせず、ただただ彼女は遠ざかって行ってしまった。悠葦は呆然とその姿を見ていた、追いかけることもせず、痛みに疼く鼻を手のひらで押さえながら。__いったい、俺は何をやっているんだ? ようやく、手のひらを鼻血が濡らしていることに気づいた時、自分の情けなさにその場に崩れ落ちそうになる。姉がいなくなった日、後ろから追いかけてきた父親に押さえつけられながら泣き喚いていた自分の姿を思い出してしまうくらい、情けない気分だった。

 

 家に帰ってきた悠葦を、迎える者は誰もいなかった。里親の夫婦は出かけていて、唯一、あの男の像が神棚の上から彼を見下ろしている。悲しみと、無力と、絶望の中で、見捨てられ、ただ黙ってそれらを受け入れているだけの男。おもむろに、悠葦はその神棚の前でひざまづいてみる。何の試みか、何の気まぐれか、彼は、自らを低くしたその場所から、男の姿を見上げる。そのまま、彼は動かなかった、何か遥かに高く大きなものが、自分に手を差し伸べるのを待ってみた。もちろん、それに応えるものなど何もない。イエス像も悠葦も静止している。漂うほこりの粒だけが、ここに未だ時間と空間が存在していることを告げている。悠葦は祈りなど知らなかったし、知っていたとしても祈りなどしなかっただろう。エリ・エリ・レマ・サバクタニ、とその男は今際のきわに叫んだという。見捨てられていることの残酷さもあるだろうが、里親がいる自分は完全には見捨てられていない、そのことの、耐え難い惨めさを思った。なぜだか、彼は完全に見捨てられることを望んだ。惨めさよりも、残酷さを渇望した__。

 気付いた時、すでにその手にはバットが握りしめられていた。頭上にそれを掲げ、躊躇なく振り下ろす。神棚は砕け、イエスの像は首と体が折れて真っ二つになって床に転がった。罪悪感と後悔の帳を引き裂くようにして解放感が溢れ出し、それがタカシとユウイチとアヤカのイメージを押し流していった。その心の中に残ったのは、結局姉の記憶だけだった、子供の頃の記憶が呼び起こされ、ぼやけそうになっていた姉の顔と優しさを繋ぎ止める。足元に転がった無力な男の首と目が合い、その悠葦の目にゆっくりと涙がにじんでいった。夕方の陽光が窓から差して、遠くの炎のようにちらちらと輝く。

 姉を、探しに行こう。

 見捨てられて、震えながら、悠葦は独りで誓う。

 

 

最後の物語 その6へ続くーー

最後の物語 その4

 

 「遊ばないのか?」

 ヨシオ、とみんなから呼ばれている男の子が、悠葦に話しかける。壁を背に体育座りをしている悠葦は、ふっと顔を上げてそちらを見る。一瞬ヨシオについて行くようなそぶりで立ち上がって歩いて行くが、急に気が変わったかのようにヨシオから顔を背けてその横を通り過ぎ、独りでどこかへ走り出してしまう。

 「ははは、お前、何逃げられてんの」

 ヨシオの背後から、それを見ていた他の男の子たちがからかい半分に声をかける。

 「うっさい。知らんわ」

 苦々しそうに舌打ちをして、ヨシオは悠葦の背中を目で追う。施設に来たばかりの子供には、様々な態度が見られるのは承知の上だが、周りと全く馴染まず孤立すれば、いじめのターゲットになる可能性も高い。声をかけたのは、少しばかり心配をかけてやったという意味合いがある。全身にアザを作って入所して来た悠葦を見れば、ここにいる多くの子供たち同様、虐待を受けていたのは一目瞭然だった。肉親から心身ともに傷つけられた者同士、痛みを分かち合えるようになれるのも道理のはずだが、どこの世界でもそうであるように、虐げられた者はむしろ、虐げる相手を求める。傷を癒す術など知らない者たちは、他人を傷つける側にまわることで、束の間、その痛みを忘れようとする。

 悠葦は、施設のグラウンドを囲繞するフェンスに顔を押し付けるようにしながら、外を眺めていた。往来する人々に、日がな一日姉の面影を探す。姉と同じくらいの年頃の女の子を見かけるたびに心を躍らすが、それが姉であるはずもなく、ただじっと、姉のような姿をした”何か”を見送る。ここに来て、自由時間が与えられるのだと知ってから、彼は毎日それを繰り返した。フェンスの前に立ち、往来する人々を眺め、姉を探し、姉を見つけられず。まるで初めて外界が存在することに気づいた赤ん坊のように、彼は外を見つめる。その赤ん坊の視線で、姉のいない世界を見つめる。ポケットの中のぬいぐるみを頼りに、姉の存在を感じながら。やがて彼は、姉を探しながら同時に、往来する人々を分類し始める。最初は、姉かそれ以外か、そして次は、彼に気づくか否か、気づいた後で彼をどんな風に見るか。訝しんだり、無視したり、睨んだり、後ろめたそうにしたり、憐れんだり。翌日は歩き方で分類する、体を揺すったり、上下させたり、背中を丸めたり、両手を降ったり、かかとを浮かせたり。次は髪型とか、体型とか、鼻の形とか。悠葦はまるで、世界に対して失ったコントロールをささやかながら取り戻そうとするかのように、自分なりのやり方で、人々を分類していく。それは同時に、自分もまた分類されているという事実に気づいたことに端を発している。このフェンスの内側と外側で、人間は分類されている。分類の仕方は、世界の形だった。自分が今いる世界の形を探ろうとするかのように、悠葦は人間を分類し続ける。自分はいったい、何によって分類されているのか。その正体を、彼は求めながら、フェンスを握りしめる。

 コツン、と頭に何かが当たった。悠葦が振り向くと、数人の男の子たちがケタケタと笑ってこっちを見ている。足元に転がったそれに気づいて、頭に小石を投げられたのだと分かる。痛くはなかったが、男の子たちが自分を馬鹿にする悪意を持ってそれを投げたのは明らかで、不快な気分になる。けれども、その不快な気分を、どうしたらいいのかが分からない。男の子たちはこちらの反応を窺っているようだったが、他人からの攻撃に晒された時、じっと動かずにそれをやり過ごすことに慣れきってしまって、頭も体も固まったまま無反応でいる。フェンスを握って、そこに立ったままの悠葦をさらに挑発するかのように、男の子の一人がまた小石を投げつけてくる。今度は頭ではなくて頰に当たった、痛かった、でも、彼は何もせずにそこにいる。男の子たちは、無抵抗の悠葦を見て、馬鹿にしきったようにニヤニヤとしていたが、不意に施設から現れた職員の姿を目にとめると、蜘蛛の子を散らすように走って逃げてしまう。ポツンと取り残された悠葦は、外を見続けるでもなく、逃げて行く男の子たちを睨むでもなく、動かずにいる。単純に、何が正しい反応なのか、それがどうしても分からない。

 それらは、彼の日課になった。朝起きて、朝食を摂り、学校に行き、施設に帰って来て、フェンス越しに外を眺め、分類し、嫌がらせをしてくる男の子たちを不快に思いながら、何もできずに棒立ちでどこかへ去るのを待つ。来る日も来る日も、同じことを繰り返す、同じことが繰り返される。

 「なんで、何もしないんだお前」

 ヨシオ、とみんなから呼ばれている男の子が悠葦に尋ねる。悠葦は一応ヨシオの顔をみるが、さりとて何を答えるでもなくそこにいる。ヨシオが何をしに来たのか分からない。石を投げるならさっさと投げればいい、そしてどこかへ消えたらいい、そう思いながら、悠葦はそこでじっとしている。

 「逃げるとか、やり返すとか、何かあるだろ。黙って石投げられたり、砂かけられたり、馬鹿にされたり。なんでぼうっとして突っ立ってんだよ」

 悠葦はしばらくヨシオの顔を見ながら、じっと考える。どうやら、何が正しい反応なのかを、教えてくれているらしい。

 「ああいうことをされたら、逃げたり、やり返したり、したらいいの?」

 「普通そうするだろ」

 困惑して、眉をひそめながらヨシオは言う。悠葦は噛みしめるように二、三度頷いたが、結局またフェンスの向こうを見てしまう。

 「そうなんだね」

 独り言のようにそう漏らして、悠葦はそれ以上、ヨシオの方を見なくなる。

 「なんなんだよ、お前」

 呆れて吐き捨てるように言って、ヨシオは踵を返し、悠葦のもとを去ってしまう。ヨシオには、自分のことが理解できないのだろう。この施設に来た子供が受けた暴力は、種類や程度が様々で、自分はかなりひどいケースに当たるらしい。悠葦は何となくそういうことに気づいた。

 彼の日課は変わらなかった、フェンス越しに外を眺め、男の子たちから嫌がらせをされる。彼は変わらなかったが、ヨシオが諦めたのを見て取ったせいで勢い付いたのか嫌がらせはエスカレートし始めていた。石ではなく拳で頭を小突かれたり、背中ではなく顔に砂をかけられたり。それでも悠葦はじっとしている。不快だったが、父親からの情け容赦ない暴力に比べればなんでもない。ヨシオは”正しい反応”を教えてくれたが、悠葦の体は全くそういう風には反応しない。生まれてこのかた、彼は自尊心を手にしたことがなかった、だから、ひどい仕打ちをいくら受けたところで、怒りも悲しみも湧いてこない。自分の心身が破壊されて行くのを、まるで他人事のように遠巻きに見つめたまま動かない。

 「そこに何入れてんだよ」

 それはある日、唐突に起こった。ポケットの中をしきりに探るようにしている悠葦に、男の子たちの一人が気づく。悠葦は”それ”を見られたくはなかった。見られればどういう反応を男の子たちの間に巻き起こすか、容易に想像できる。

 「見せろよ」

 男の子が近づいて来て、ポケットの中に手を突っ込もうとする。悠葦は抵抗したが、無駄だった、すぐに二人三人と加勢がやって来て、あっという間に手足を押さえつけられる。うめき声を上げて身をよじらせる悠葦をあざ笑いながら、男の子たちはポケットからぬいぐるみを取り上げる。

 「何これ! お前オンナかよ」

 男の子たちが一斉にわっと笑い声を響かせる。

 「返して」

 悠葦は手を伸ばして姉のぬいぐるみを取り返そうとするが、年長で背の高い男の子は届かない高さにそれを掲げて、悠葦をからかう。周囲の他の男の子たちが囃し立て、手を叩いてあざけりの言葉を浴びせてくる。

 「返してよ!」

 もう一度言うが、相手が応じるわけもなく、ますます面白がってぬいぐるみを高く掲げ、手を伸ばしてくる悠葦の体を突き飛ばす。悠葦はパニック寸前だった、自分が馬鹿にされているということは大事ではなかったが、ぬいぐるみが、唯一の姉とのつながりが、もしかすると彼にとってはこの世界とのつながりの感覚を与えてくれる唯一の温もりが、奪われてしまう、その底知れない恐怖が、彼の心臓を冷たい刃のように貫く。年長の男の子たちに囲まれ、彼自身には、どうすることもできない。その時、彼の脳裏をよぎったのは、他でもない、父親の姿だった。他人を自分の意志に従わせる、たったひとつの、彼が知っているやり方__彼はいきなり足元の石を拾い上げると、何のためらいもなく、目の前でぬいぐるみを掲げて笑っている男の子の顔面を殴りつけた。硬いものがぶつかる音が響いて、同時に、男の子の潰れた鼻から鮮血が散る。間髪入れずに、もう一度、今度は頭頂部に石を振り下ろす。たまらずその場にうずくまり、男の子は泣き声を上げ始める。皮膚の切れた頭から、血がポタポタと流れ落ちて、地面の砂の上でビーズのように連なっていく。状況は一瞬で変わってしまった、さっきまで囃し立てていた周囲の男の子たちも唖然として怯えた顔になり、せめて次の標的になるまいと後ずさりするばかりになる。悠葦は、地面に突っ伏したようにして泣いている男の子を見下ろす。全能感が体にみなぎっていた、それは言い知れぬ快感となって、下腹部と背すじと脳髄を震わせる。この瞬間、彼は彼ではなくなっていた。彼は、父親に同一化していた。彼は、父親を理解した。言葉によってではなく、暴力で他人を支配する快感によって。この男の子は、かつて父親が見ていた自分であり、自分は今、かつて自分を見ていた父親と同じ存在なのだ。姉が消えたあの日、心の奥底から憎悪したはずの父親になった。ほとんど無意識からの呼び声に応えるようにして、彼は何のためらいも持つことなく、サナギから成虫になるかのように、そのメタモルフォーシスを受け入れる。

 この日、彼は世界とつながるもう一つの回路を手に入れた。二つの回路とはつまり__姉の温もりと、父親の暴力と。

 

 

最後の物語 その5へ続くーー

最後の物語 その3

 を覚ましたとき、周りには誰もいなかった。天井はのっぺりとして真っ白で、それが限られた視界の全てだったから、茫漠として空のように見えていた。それはもしかすると彼が母親から産まれた瞬間に見た光の洪水に似た光景で、だから自分が今までとは違う世界へ、もう一度産まれ直したのだと思ったかもしれない。僕はお父さんに逆らった、だからもう、同じ場所へ帰ることはできない__彼がそう予感していたのは事実だった、その予感は、自分が別世界へやって来たのだと信じさせるのに十分だった。やって来たというよりも、父親に危害を加えないように放り捨てられたのだ、誰もいない世界へ運ばれ、放置されているのだ。二度目に目を覚ましたときには、誰かがそばに立っていて、声を上げて彼の目覚めを誰かに報告した。三度目に目を覚ましたときには、絵画の中の羊飼いのような白衣を着た医者がやって来て、彼の体を触診した。科学的な態度で触れられるのは初めての経験で、それはひどく不気味なものに映る。触れられた箇所がパズルのピースになって、崩れていくような気がした。四度目に目を覚ましたとき、そこには姉が座っていた。彼はそこでようやく安堵することができ、忘れかけていた記憶を取り戻そうとするかのように、ぎこちなく微笑んだ。

 「時間がないの」

 姉はそう言った。彼に微笑みを返すが、彼のそれとは違った形で、ぎこちない、哀しげな微笑みだった。姉もまた幼かったはずなのに、どうしてこんな風に微笑むことができたのだろうか、と大人になってから彼は思い返すことになる。そればかりか、姉は毛布の中へそっと手を滑り込ませると、いつも肌身離さず持っていた小さなウサギのぬいぐるみを彼に渡してきた。姉はすでに、彼らに起こることを予感していたとすら思える。少なくとも、たとえあり得ないようなことが起きたとしても、それを受け入れる覚悟を決めて生きていた__それを考える度、彼の胸は引き裂かれ、絶えず新鮮な悲しみの血の滴をこぼして震えた。柔らかくて暖かいぬいぐるみと対照的な、冷たく凍りついたような姉の運命を、どうして悲しまずにいられようか。それが彼が最後に聞いた姉の声であり、最後に見た姉の姿だった。

 

 「お姉ちゃんはどこ?」

 退院して家に帰って来て、最初に彼が発したのは、そのひと言だった。真っ先に出迎えてくれるはずの姉の姿を目にすることができず、家のあちこちを見て回ったあと、洪水のように押し寄せる不安と寂しさに溺れそうになりながら、一条の呼吸を求めるかのように、彼は母親と、そして父親を見上げながら尋ねる。

 「知らねえよ」

 父親が、冷たく言い放つ。知らないとはどういうことか、彼には全く飲み込めなかった。父親も母親も、その所在を知っているはずだったし、知っていなければならないはずだ。だから彼は、食い下がるように何度も同じ質問をする。苛立った父親は彼の髪の毛をつかんで、そのまま床に向かって突き飛ばす。二人の無機質な視線が、姉を失う恐怖と無力感で輪郭を失って崩れそうな彼の体に注がれていた。そこで彼はようやく、父親と母親が、姉の存在が消えてしまったことを無理やりにでも彼に受け入れさせようとしていることに気づいて、パニックになる。

 「お姉ちゃん! お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 彼は外に飛び出して、周囲を走りながら姉を呼び続ける。どこへ行けばその声が姉に届くのか分からずに、当てもなく。だが、人々の好奇の混じった訝しげな視線以外、それに応えるものはない。彼を本気で心配して、手を差し伸べる者など誰一人いない。やがて追いかけて来た父親に首根っこを掴まれて地面に突っ伏された彼は、姉を呼ぶことをとうとうやめて、哀切を極めるような悲痛な声で泣き叫ぶ。まるでなまくらの鉈でぶつ切りにされたかのように、あまりに不条理でぞんざいなやり方で、彼の幼年期は終わらされてしまった。彼と父親がそのまま、こう着状態に入ったかのように動かなくなったその時、不意に地鳴りが訪れる。彼をさらいに来た大蛇のように、ちょうど真下の地面を引き裂いて走り抜けて行く。彼のそばに立っていた父親が、その地面の震えでバランスを崩してよろめいた。地面に突っ伏したままそれを感じた彼は、不思議な同調をその大蛇に感じた。極限の悲しみの膜を破って噴き出した怒りが、大蛇を呼び、地面を震わせたのだと思った。憎悪が、暴力と殺意が、彼の中に、まるで超越的なものを喚び起こす魔術的な力であるかのような何かとして、芽生えた瞬間だった。

 

 

最後の物語 その4へ続くーー

最後の物語 その2

 「悠葦__」

 ガラス戸がゆっくりと、静かに開いた。寒くて震えていた悠葦が顔を上げると、姉が部屋の中から現れて、ベランダへ出てくる、慎重に、音を立てないように。

 「お父さん、もう寝るとこ行っちゃったからね」

 姉は悠葦に微笑みかけ、ウサギのぬいぐるみを手渡す。抱きしめると、ふわふわとしたぬいぐるみに残った姉の体温が伝わる。父親は折檻の後、凍え死ぬ可能性のある冬を除いて、ほとんどいつも悠葦を二階のベランダに閉め出した。だが春や秋であっても、夜間に外に放置されれば体はひどく冷える。だから姉はいつもこんなふうに、父親が寝たのを見計らって、こっそりウサギのぬいぐるみと垢で薄汚れた毛布を持って現れ、弟の横に座ると、冷えた体を毛布で包み込んであげる。悠葦は何もしゃべらずに、じっと何かに耐えるようにその抱擁を受け入れた、あるいは、実際に耐えていた。耐えていないと、涙を流してしまいそうになる。だから悠葦はじっと耐えていた、父親に絶対泣くなと言われていたから、そして、自分の涙を見せてしまうと、姉はうろたえて、一緒に涙を流してくれるから。姉は、唯一悠葦を愛してくれる人間で、そして唯一悠葦が愛する人間だった、だから、悠葦は姉の涙を見たくなかった。父親への恐怖と姉への愛情から、悠葦はほんの五歳になったばかりにもかかわらず、徹底的に自分の感情を殺すことができるようになっていた。溢れ出そうとする本能的な攻撃衝動のエネルギーを折り曲げて自分に向ける方法ではなく、自分を自分から切り離してしまう方法によって、悠葦は感情を殺す。自分から切り離すことには、このまま自分に戻れなくなって消えてしまうような不安と同時に、不思議な気持ち良さがある。すうっと自分の体から脱けて、離れれば離れるほど、あらゆる苦しみが溶けていく。戻りたくないとさえ思う。このままどんどん遠くまで離れていって、空高い所へ消えてしまいたかった。自分がいなくなってしまう方が、世界の全てが上手く回るような気がした。だからいつもベランダに閉め出されると、その安らかな孤絶の中で、悠葦は夜空を見上げる。そこに見える星々は、暗闇によって互いに隔てられ、弱々しく輝く。まるで呼びかける言葉を発するように光を放つけれども、どこへ届くこともなく、意味をなすこともなく、ただ、紙の端切れに書きつけられた宛てのない詩のように響く。自分が自分から切り離されてどこまでも高く昇っていけば、あの星々の声が聞こえるかもしれない、と悠葦は想像する。

 「お姉ちゃん」

 「ん?」

 「お星さまってな、どれくらい高い所にあるん?」

 「うーん、どれくらいかな。そうやな、近くのお風呂屋さんの煙突、あるやろ」

 「うん」

 「きっと、あれが百個くらいの高さ」

 「めちゃくちゃ遠いな」

 「誰も行ったことないような所だよ」

 「そんな所にいて、お星さまは寂しくないんかな。見て、お姉ちゃん、みんな離れ離れになってるやろ」

 「心配せんでも大丈夫」

 「なんで?」

 「お星さまってな、ほんとはもっといっぱいあるから。この前のな、テレビで観た。日本では全然見えないけど、砂漠に行ったらな、すごいたくさんお星さまがあるのが見えるんだよ」

 「砂漠?」

 「そう。人がいなくて光が全然ない暗い暗い所やったら、お星さまの本当の姿が見えるんだって」

 「人のいない所には、星がいっぱいあるんだね」

 「うん。そんで、ものすごく近い所に見えるんだって」

 「どれくらい近いの?」

 「きっと、でっかい大人がジャンプしたら届くくらいじゃないかな」

 「ほんとに? すごい!」

 「ほんとだよ。だって、手を伸ばしたら届きそうって、テレビで大人の女の人が言ってたから」

 「じゃあ、おれ、大人になったら砂漠に行く。それで、お星さまに触って、お星さまの話を聞くんだ。たくさんのお星さまの話しを聞いてたら、ここみたいに、寂しくない。ここは、お姉ちゃんが来てくれるまでは、一人ぼっちだから」

 「お星さまの話を聞くって、なんか神様みたいやな。お星さまの上には、神様がいて、みんなの話を聞いてくれてるって、誰か言ってた」

 「神様なんて、いるの?」

 「さあ。でも、お父さんはそんなものおらんって言ってた」

 「じゃあ、いないよ、そんなの」

 悠葦は、即座に不在の父親の言葉に同意する。その幼心には、父親に疎まれていると思うのは耐え難くて、いつも父親の言うことを素直に受け入れて良い子でいようとする。

 たわいもない話が終わると、悠葦は毛布にくるまれて、姉のぬくもりを感じながら眠りに落ちる。柔らかさと温かさはいつも、家の中ではなくベランダで与えられる。そして朝が来て、父親が仕事へ行った後、再び固く冷たく静かな部屋の中へと帰っていく。

 

 

  *

 

 

 小学校からの帰り道、悠葦は安普請のアパートの前で足を止める。子供の気まぐれな好奇心で、彼はその不吉な居住いを観察する。手入れのされていない敷地にはひび割れたコンクリートのあちこちから雑草が這い出し、鉄製の階段は錆びきって赤茶け、ザラザラとした卵色の壁は黒皮症のように汚れが染み込んでいる。裏側の壁にはとりわけ黒く変色した部分があり、大人たちの語るところによれば、このアパートでは過去に二件ほど殺人事件が発生し、そのうちの一件の犯人が、内縁の妻を殺して屍体をどこかに捨てるために運び出そうとしたが予想外に重くて疲れたので、建物の裏で燃やそうとした跡らしい。当然、犯人はあっさり通報されて捕まった。あまりに短絡的で稚拙な犯行は、この地域の人々からすれば笑い話のようにして語られている。

 折から風が吹いて、生臭い川底の汚泥のにおいがした。悠葦は再び、家に向かって歩き始める。手提げ袋の代わりに渡されたスーパーのレジ袋には、小学校に入学して初めての図工で作った紙粘土の作品が入っている。悠葦が作ったのは、車だった。車好きの父親に見せたら喜ぶのではないか、と子供の想像力で考え、できるだけ父親の大事にしている車に似せて作った。父親にその紙粘土の車をプレゼントするところすら夢想する。いくら殴られても、彼の中に父親を憎むという感情は芽生えて来なかった。父親はあまりに大きく、全能で、憎しみの埒外にある。暴力の雨の中で、寵愛の光を求めている。それがいつか終わるかもしれないという想像すらできない。自分にとっては当たり前の、生きなければならない日常でしかない。だから悠葦にとってそれは、悲劇でも喜劇でもない。

 紙粘土の車を、悠葦はテーブルの上、父親がいつも使う座椅子の正面の位置に置いておく。自分の思いをアピールするために直接渡すのではなく、気付いて手にとって欲しいという、控えめでいじらしい気持ちと、父親への怯えからだった。

 「それ、どしたん?」

 作品に気づいた姉が聞く。

 「学校で作った」

 「お父さんにあげるの?」

 「うん」

 「自分で、ハイって渡したらいいのに」

 悠葦は首を横に振る。このほんのささいな選択が、結末を変えるだけのものだったのかどうかはさておき、計算からではなく直感から、悠葦は姉の勧めとは違うほうを選んだ。通りすがった母親もまた、テーブルの上の作品に気づいたが、特に興味を示さずに、無言のまま台所に入る。冷凍食品の袋をバリバリと破って、スーパーで買ってきた惣菜と一緒にレンジで温め、使い捨ての紙皿の上に並べていく。光の無い目が、時計をちらりと確認する。もうすぐ、父親が帰ってくる時間だ。

 けれども、いつもの時間になっても父親は帰ってこなかった。こういうことはちょくちょくある。時間が遅くなればなるほど、家族の間に緊張が高まっていく。それは父親がどこかで酒を飲んでいる証だった。酔った父親は、いつもよりもさらに暴力性をむき出しにする。それは常に、悪いことが起きる前兆だった。まるで首を絞め上げる圧力をゆっくりかけていくかのように、部屋の中に時計の針の音が規則正しく響く。悠葦は、テーブルの上に置いた作品をそれがお守りであるかのように見つめていた。三人はじっと息をひそめるように身を固めて、父親の帰りを待つ。まるでぼろぼろの小屋に隠れて、嵐が来るのを待つかのように。

 そして父親は帰ってきた、案じたそのままに、彼は酔っている。ただでさえ大人としても大きな図体が、爛れたような赤い顔を乗せて、どたどた重い足音を立てて近寄る姿は、幼い悠葦の眼にはまさしく怪物のように映る。何が面白くないのか不機嫌そうにして、身を投げるようにソファに腰掛けた父親は、すぐに悠葦が置いておいた作品に気づく。間髪入れず、父親はそれを手に取り、有無も言わさず悠葦にそれを投げつける。

 「俺のテーブルに物を置くんじゃねえ!」

 父親に睨みつけられて、悠葦は硬直する。そして我に帰ると同時に、わんわんと泣き始めてしまう。あまりに瞬間的な出来事に、何の防衛機制も働かすことができず、切れて血を流す額の痛みと淡い期待をあまりに簡単に打ち砕かれたショックで、歯止めが聞かないほどに涙を流す。「うるせえ」と言いながら、父親が悠葦を見下ろす。苛立ちに震えて、右腕を弄りながら。父親の右腕には、子供の頃に付けられたらしい、ひどい火傷の跡があった。手首から肩までうねるように伸びるそれは、火の神を象った刺青のようにも見える。誰かにその火傷の跡の中に埋め込まれた怒りの感情をほじくり出すかのように弄るのが、苛立った時の父親の癖だった。

「黙れ!」

 怒鳴りつけられ、髪の毛を引っ張られて命令されるが、感情をやりくりする術を失った悠葦は、ますます泣きわめく。その感情のエスカレートに呼応するように、父親の苛立ちもエスカレートしていく。次の父親の一撃で、自分がばらばらになる予感がした、その恐怖に、悠葦は悲鳴を上げる。

 「やめて!」

 その瞬間、そう叫んで二人の間に飛び込んできたのは、姉だった。それは無謀な行為だった、いくら普段は矛先を向けられていない姉とはいえ、父親に逆らえば容赦ない仕打ちが待っているのは明らかだ。そしてあっけなく、姉は髪の毛をつかまれてその場に押さえつけられる。姉が悲鳴をあげ、同時に、悠葦は姉の声に反応する自動機械のように注意をそらした父親に飛びかかっていく。恐怖が消え、興奮で信じられないくらい体が熱くなっていた、雄叫びを上げ、持てる力を振り絞って、父親の腕に噛み付いた、まるで火傷の跡を喰いちぎろうとするかのように、そこに封ぜられた火を盗もうとするかのように__。そこから先の記憶は無い。後頭部に重く強烈な衝撃が走って、悠葦の意識はぷっつりと途絶えてしまった。次に病院のベッドで目を覚ますまで、彼は暗闇の底へ沈んで動かなくなる。

 

 

 

最後の物語 その3へ続くーー

最後の物語 その1

 じ問いがかけられている。主人公は追放に値するのか? 神話はつねに「そうだ」と答える。聖書の物語は「そうではない」、「そうではない」、「そうではない」という。オイディプスの生涯は追放で終わり、その決定的な性質が彼の罪を確証している。ヨセフの生涯は勝利に終わり、その決定的な性質が彼の無罪を確証している。

 __ルネ・ジラール『サタンが稲妻のように落ちるのが見える』

 

 

 もし原型と呼べる一つの物語があって、そこに物語の体系が織り上げられ張り巡らされ構築され人々を呪縛しているのだとすれば、その体系を終わらせる様な「最後の物語」を書いた人は、物語の「外」へ出ることになるのだろうか。それはもちろん外でもあり内でもあるような「場所」なのだが、そのような特異点に立ったとき、その人の目にはいったいどんな景色が見えるだろうか。その景色を見たとき、その人の胸にはいったいどんな言葉が溢れてくるのだろうか。

 

 

  *

 

 

 地響きが続いていた、断続的に、わずかな時間、それを恐怖する者にとってはひどく長い時間。この地方では、まるで大地の発作のように定期的に小さい地震が起きる。あるいは大地は病んでいるのかもしれない、その上に無数の建築物を突き立て、欲望の赴くままに活動し愚かな行為を繰り返す人々のせいで。まことしやかに、隠された海底火山の蠢きが、遠く離れたこの地方に影響しているのだと言う人もいた、迷信深いむかしむかしの人などは、地の底を、壇ノ浦で取り返した草薙の剣を咥えたヤマタノオロチが這いずり回っているのだなどと言っていた。それほど遠い過去の時代から、この地響きは繰り返し起こってきた、大惨事の前触れのような不穏さで、それは続いている。だから人々はそこに、超越的な、あるいは神話的な意志を感じざるを得なかった。この地方では昔からずっと、たくさんの不幸が起こってきた、貧しい世帯が多く、ちょっとした窃盗などの犯罪や暴力沙汰は珍しくない、エスカレートすれば殺人に至ることもあった。時代が移ろい、人々が流動し、新しい施設ができて街の形が変わろうが、何か神話的な呪縛に捉えられているかのように、それは続いていく。無数の命が生まれ、定められたありふれた生を送って死んでいく。その中のわずかな割合の子どもたちは、神話の終わりを夢見たかもしれない。しかし夢はしょせん夢のままに、泡のように漂い、流され消えていった。夢を見る子どもたちは、生まれ落ちた世界に暴力的に運命付けられた生の中で、命を賭して叫び声を上げたことだろう。けれどもその叫びは、誰にも聞かれることなく、誰にも記述されることなく、その地響きの中へと、かき消されていく__。

 

 

  *

 

 

 その男の子は部屋の隅に立って、もう一人の男の子を見ていた。父親に腹を殴られてうずくまっている。声は出さない、涙も流さない。そうするなと言われているから、泣けば余計に痛めつけられるから。

 「テーブルのそばで遊ぶなって言っただろうが!」

 父親の怒号が響く。テーブルの上には食べかけのコンビニ弁当と、倒れたアルミ缶が一つ。こぼれたビールが、床に広がった漫画雑誌にぽたぽたしたたって、見開きのグラビアの水着姿の女性を濡らす。美しくなめらかな肌がふやけ、魔法をかけられて老いていくかのようにしわが寄る。男の子の姉は、小さなウサギのぬいぐるみを抱いて、心配そうに見つめているけれども、恐怖で身動きが取れない、弟を助けることなどできない。むくんだ顔の母親は視線をそちらに向けているものの、重そうなまぶたが覆いかぶさった目はあまりに無気力でどんよりとして、その光景が見えているのかどうかすら定かでない。

 「なんで言うことが聞けないんだ、お前は?」

 父親は男の子を痛めつける、頭を小突く、頬を張る、傷跡が残らないように、誰かが児童相談所などに通報しないように、巧妙に手加減しながら。男の子はそれでもじっと耐えている、膝の下にはスナック菓子の空袋が落ちていて、身じろぎをするたびにカサカサと音を立て、カーペットに埋もれた食べかすが肌をちくちくと刺す。男の子はまるでゴミ箱のように、父親が投げ捨てる暴力を忍受し続ける。痛みにあえぐ度、隣の台所から、こまめに捨てるのを母親が面倒くさがるせいで放置された生ゴミが臭う。息が詰まるようなその悪臭は、この世に逃げ場などないのだということを、男の子の意識の底に刷り込んでいく。

 「これはしつけや。お前の根性を叩き直してやってるんだ」

 と父親は言う。けれども怒りに歪んだその顔の、口元のかすかな緩みには、快感の影が読み取れる。無力な者を圧し潰して壊してしまうという行為から、彼は自覚しないまま悦楽を貪った。

 

 暴力が過ぎ去った後、男の子に訪れるのは安堵感ではなく虚脱感だった。自分の精神の核のようなものが、父親に根こそぎ奪い取られてしまって、もう何も残っていない。破れてしぼんだ水風船のようにうなだれて、明るい色彩だけが力なくきらめいて、透明になって消えてしまう。そうすると、部屋の隅に立っていた男の子の身体がふっと浮き上がり、殴られていた男の子にゆっくりと近づいていく、いや、帰っていく。そして二人は一つに戻り、どこか壊れた箇所がないか探るかのように、慎重な動作で体を起こすのだ。ただし男の子はその間ずっと無表情でいる、まるで今まで殴られていたのが、誰か全く別の人間だったかのように。それは虐待が日常になった男の子が身につけた、身体から心を分離するという「技術」だった。極度の緊張と興奮で乾いていた口の中に、まるで涙の代わりのような唾液が溢れてくる。さんざん殴られたせいで舌の上に残った苦味とかすかな甘みが溶けていった。

 

 

最後の物語 その2へ続くーー